忘れられない馬 | 花鳥風月文々草紙

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独身女と愛しの文鳥との平和でのほほんとした日々と、料理や好きな手芸や音楽と言った趣味のブログです。


サンエムキング、この馬の名前を知ってる人は少ないと思う。

中央でデビューしたが成績が伸びず、北関東の高崎競馬へ移籍した馬である。


14歳まで現役を続け、156戦19勝というおそらく日本で、いや世界でもまれな馬であると思う。

中央でも14歳まで現役を続けたミスタートウジンという馬がいたが、

トウジンは年に一回とか二回しか走らなかった。


サンエムキングは若い馬とそう変わらないローテーションで走り、しっかりオープンを張り、

掲示板でさえはずす事はほとんど無かった。

こんな馬、世界中を探したってそういるものではない。


私が高崎競馬へ通うようになったのは、2003年の冬だったと思う。

年末の一番の大レース 「高崎大賞典」 の出走馬の名前が発表になっていたが、

初めて彼の名前を見たのがこの時だった。

その時、サンエムキングは100戦を超えていた。


それを見た若いお兄さんの二人連れが、普段は中央の競馬をしてるらしいのだが、

「何だこれ、ありえない~」

と指差して笑っていたのを憶えている。


どんな馬なんだろう、こんなにも走れる馬はどんなだろう、

そう思いながら見たパドックだった。

彼は意外なほど華奢で小柄な馬で、だが首を鶴首にして闘志満々歩いていた。

足元は綺麗だった。

これが100戦以上走った馬の足なのだ、そう思いながら見たのだった。


高崎競馬が廃止と決まって、サンエムキングの行く末がとても気になったが、

どうなるのか知る術は無かった。


あの日、昼前から雪が散らつき始め、次第に激しくなっていった。

降り続く雪の中、私は競馬場の終焉の時を迎えようとしていたが、

最後のレース、最後の 「高崎大賞典」 は降雪のため中止となってしまった。


こうして高崎競馬80年の歴史が幕を閉じた。


サンエムキングがどうなったのかずっと気になっていた。


知り合いがJRAの手帳をもらって来てくれて、その中の種牡馬名簿の中に彼の名を見つけた時、

私は涙がこみ上げて、神様に感謝した。

良くぞ生きていてくれた・・


その後調べてみると、高崎が廃止になった後岩手の水沢競馬に移籍して現役を続け、

14歳を迎えた一月に登録を抹消したのだそうだ。

そしてサンエムキングは青森で種牡馬になった。


初年度は数頭の種付けをしたのだそうだが、結局不受胎で、

翌年は種付け相手がいなかった。

このまま続けるのは厳しいだろうと、種牡馬の登録を抹消して乗馬になるため群馬馬事公苑へ。

けれど突然の病気で倒れ、彼は虹の橋を渡って行った。


私は決して彼の事を忘れない。

こんな馬が確かにいた、この事実を決して忘れない。

彼こそ、高崎の英雄であったのだから・・


サンエムキング   父ナグルスキー  母サンエムスピード  母の父スティールハート


156戦19勝  中央獲得賞金 2億6715万円  地方獲得賞金 5,287万円


毛皮不買運動に参加しています。

可愛い絵本です、読んでみて下さい。
http://moru.art-studio.cc/kegawa/omote.html



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ここで 捜索願 ですビックリマーク

タマモドン というサラブレッドを知りませんかはてなマーク

  父 ジェイドロバリー

  母 ダイナマイトマミー   母の父 リアルシャダイ

1997年4月7日 生まれ  栗毛  生産者 社台ファーム  調教師 五十嵐忠男 (栗東)

今では違う呼び名になっている可能性があります。
大変馬主孝行な馬だったそうで、どこかで乗馬になってるのではないでしょうか。
その後、愛知県で乗馬になったという情報が入りました。
お心当たりのある方、どうか情報を下さい、お願いします。

彼を探している人がいます。

どこかで噂を聞いた、それらしい馬を見た、何でも結構です。
何か情報をお持ちの方、連絡を下さい。
どうかよろしくお願いしますm(u_u)m