2004年12月4日ー6日 麻雀事始(雀ピューターとの出会い)画像有り
12月8日ー12日 〃 (脱衣麻雀)画像有り
12月14日 麻雀開始(フリー雀荘から京王閣競輪そして雀ピューターへ)画像有り
12月16日ー20日 雀ピューター序盤戦(主にルール解説)
12月22日ー28日 雀花戦(仕事帰りの夜戦)画像有り(22日の記事)
12月30日ー1月5日 ポーカーと8ライン等
2005年1月7日ー9日 番外編(池袋西口ロマンス通りのヌードスタジオ店)
1月10日ー17日 パチンコ店実戦記画像有り
1月19日 地下鉄サリン事件と拾い屋の話
1月21日 雀ピューター再開まで
1月23日ー31日 近代麻雀戦
2月2日 一息つく間もなく
2月4日ー8日 貴賓室戦
2月10日ー14日 カクヘン物語戦
2月16日ー24日 雀歩戦
2月26日ー28日 番外編(製パンと御中元のバイト)
3月2日ー4日 刻を戦
3月7日ー8日 競輪の話(地獄と素人脚自慢競争)画像有り
3月11日ー16日 一休戦までの道のり
3月18日 一休戦(雀ピューターとの最後の戦い)画像有り
今回はこんな感じで目次を一応作ってみました。又ブックマークは実用的というか楽しめる物を載せてみましたので、是非とも挑戦してみて下さい。
何故この様なブログを書いたかと言えば、ずっと以前に読んだ別冊宝島の「当世ぎゃんぶる読本」と「麻雀いっぱつ読本」の雀ピューターの記事では弱い!と思っていたためです。1日おきとはいえ書くのには結構苦労しましたので、これから一息つけるかと思うとほっとしています。このブログには下らない話が多いのですが、色々と楽しんで貰えれば書いた甲斐があったというものです。ご愛読有難う御座いました。
記事のタイトルは3種類あり、文字通りの雀ピューターとの対決と雀ピューター以外(パチンコ、パチスロその他諸々)との戦い及び場繋ぎかつ場面転換の意味を持たせた番外編に分かれます。
一番最初の方の記事の麻雀事始では、雀ピューターとの出会い(この時は対戦していない)と、MAMEを使うきっかけとなった「フェアリーランドストーリー」の事を記事にしました。雀ピューターはMAMEの「ROYAL MAHJONG」で設定変更等を含めたプレイが楽しめます。そして脱衣麻雀は一部の機種について取上げましたが、こちらについてもかなり多くの機種がMAMEにて再現されています。(ROMの事については書けませんのでご了承を)
さて最初に就職したのは金融機関だったのですが、残業が恒常的なことになっており、そのことが後の雀ピューター戦の下地になってしまったのはある意味皮肉な事でした。そしてフリー雀荘に行っているだけでは留まらず、競輪に行く事をきっかけにギャンブラー化するという突然変異を遂げてしまいます。この様な状況の下で雀ピューターとの戦いが開始される訳です。そして雀花戦を一応中断した後は、他の裏ギャンブル(ポーカーと8ライン)に走り痛い目を見ることになります。8ラインの終わりの方の記事では変な事を書いてしまい、そこから馬鹿げた番外編とパチンコ編に話しが逸れてしまいます。そこで当時の雰囲気に戻す為にオウム真理教絡みの番外編を無理やり書きました。そして話しを雀ピューター店での数店舗にわたった激戦に戻した訳です。
そしてついには私自身が落ちぶれてしまい、そうしたなかで歌舞伎町「一休」にて雀ピューターと最後の戦いをするということで話を終わりにしました。一休戦開始の前に競輪の話を持ち出したのは、いちおう雀ピューターのきっかけとなった物であるという事だけの為です。今回はこれで終わりですが、次回は全記事の索引的な物を書いてそれで完全に終わりにしようと思います。
2000年8月7日の事であるが、1ヶ月程前の下北沢戦で雀力の衰えを痛感した筈なのに、飛んで火に入る夏の虫の如く雀花へ行き、やはり手も足も出ず10Kのマイナスとなった。この頃になるとかつての様に初回5Kだけで済ます訳にはいかなくなっていた。そして雀花はこれでもう行かない事に決めたのであるが、そこから帰る途中に「一休」を見かけてしまい、この店は確か昨年発見した「一番」だったよな?と思いながらふらりと入ってしまった。もうこの時にはかつての観察力も失ってしまったらしく、店のルールもろくに把握しないまま10Kの負けとなった。取りあえずはルーキーカード(5回分の新規優待有りで、会員証の役割も兼ねる)を貰ったので、惰性で行くことになるのは目に見えていた。そして翌日も行き今度は7Kの負けとなった。この日は初回2Kで7K分のメダルをよこすサービスデーらしく、こういう半端な数字になったのであった。この時点でかなり弱気になってしまい、時間稼ぎというか悪足掻きかもしれないが、次回は3BETでスタートすることにした。だがこれが上手く転機になるとは予想もつかなかった。
さて少し日にちをおいた8月14日の事だが、予定通りに3BETでチンタラPLAYしていると、面清一盃口含みの手が出来たので即リーチといった。自分の手牌は一一四四五五六六七八八八八でドラは無し、そしてCPUの手中に四と六が共に対子で入っており、一発で六を切ってきた。リーチ一発清一一盃口の赤倍満の300点の和了を決めて、まずは30K獲得となった。これでいっぺんに気が楽になり、BET数を5に戻してPLAY再開すると、今度はドラ七索待ちの純全三色を聴牌した。まあドラ待ちだし出る訳ないよなと思いながらリーチをかけてみた。するとCPUの手中に七索が浮いており、又しても一発で切ってきたのだった。リーチ一発純全三色ドラ1のきっちり倍満で250点の和了及び御祝儀が50点の合わせて30Kをもう一発獲得した。結局この日は調子に乗って15K投資したため45Kの浮きで終了した。そして又しても日にちをおいた8月22日の事だが、この日はひたすらカード終了狙いに精を出し、満貫跳満カード終了により15K及びポイントカードにより10Kを獲得した。例の如く10K投資の為この日の浮きは15Kであった。
そして月明けの9月4日、今回で新規優待終了の日の事である。最後だからという訳ではないが、赤狙いに徹するも全て失敗した。赤2翻LAST20Kを狙い裏ドラ期待でリーチと行くも裏が乗らずにリーチのみとなったり、赤1翻10K狙いでリーのみ和了を狙うも今度は逆に裏ドラが乗ってしまったりした。そしてこの店には「和了ってイージャン」というイベントもあったらしいのだが、それが何だか分からないまま、新規優待の終了を潮にこの店での戦いを終了したのだった。と同時にこれにて長期間に亙った「雀ピューターとの死闘」に漸く幕が下ろされたのであった。
2001年9月1日、歌舞伎町ビル火災事件が「一休」を火元にして発生し、ここに至って裏ギャンブルとしての雀ピューターの命脈は尽きる事になるのである。「雀ピューターとの死闘」を終えて、私の手元に残ったその戦いの証としては「麻雀道場雀花」の小冊子「読めばわかるジャンピューターのコツ」と「一休」のルーキーカード(店名の記載は無い)の二つだけしかない。結局新宿方面に限定すれば、雀ピューターとの死闘は4勝2敗となる。但し雀花は痛み分け(大部分の収支が不明な為)とした。だが川崎「麻雀道場」等の事も考慮に入れれば必ずしもこれは勝利と言えず、ただ悪足掻きしてきたに過ぎないとも言えるだろう。そしてこれからは別の何物か?を相手に悪足掻きし続けなければならない。次回は全体(昨年12月から本日迄)を通じての総括編を予定。以下は歌舞伎町「一休」店のルーキーカードです。
それから1月も経たない7月3日の事であるが、この日まず府中方面にてパチンコで大負けし、それからヤケクソで前出の下北沢雀ピューター店(店名は不詳)に乗り込むもこれまでとは勝手が違って、清一を狙わなくて店主に怒られたりしながら11Kの負けとなってしまった。タイムイベント等は無く客も全くいないのでもうここでは打たないことにした。
この時期は競輪地獄の真っ只中であり、帰りにパチ屋へ寄る余裕すらないほどの負けを喫しており、そこからの立ち直りには後1年以上かかることになる。そしてパチンコについてはこの後も劣勢が続く。但しスロットに関しては前にも少しだけ触れたが、スーパーリノから始まったストック機の出現がきっかけとなり、2002年初頭位からは競輪やパチンコの負け分を僅かながらカバー出来る程度にはなっていった。前世紀にニューパルサーを打って2000枚出すのがやっとであった私がストック機ならば、2時間程度で2000枚いや波に乗れれば4000枚位出してしまう。しかしその半面で天井迄打ったら絶対に勝てない、だが4、5回適当に投資して当たりを引けないくらいなら、その分を天井迄打つのに回した方が良いのでは?という変な考えが身についてしまった事も確かである。幸いにもカンフー烈伝では天井狙いはせず、人気薄となった頃にモーニング狙いで結構成果があがった。だがシェイクや巨人の星といったところでは、かなりこっぴどい目に遭う事になった。そしてつい最近では主役は銭形の565p以降の台を天井迄打つ様にしていたが、何かイマイチな感じがするのでそれについては一旦休止中である。さて雀ピューターとは関係無い話を長くしてしまったが、次回は雀ピューターとの最後の戦いについて書く予定である。果たして雀ピューターを初めて見た時から20年目にしてどの様な結末が待っているのであろうか。
ここで国会図書館での話しに移るが、当初はパチンコ雑誌のバックナンバーだけを閲覧するつもりであった。だが館内ではやたらと漫画雑誌を閲覧している人が多い事に気付く。そこで雑誌目録の少年漫画の項目を見てみると、週刊少年マガジンや週刊少年サンデー等があったので、両誌とも昭和34年の創刊号を興味本位に閲覧してしまった。だが残念なことに週刊少年ジャンプの名はそこには無かった。御目当ての本が準備されるまでには結構時間があるので、4Fの新聞閲覧室で新聞の縮刷版を見たりスポーツ新聞の綴じ込みを見たりして時間潰しをした。そしてこの時はパチンコの麗ギャルズ及びギャルズ13AAの記事の複写をしたのでもあるが、気のせいか複写係りの女性に睨み付けられた様な感じがしたのだった。
さてこうした事をしている内に、以前にも書いたが睡眠不足気味な変な生活パターンからはある程度抜け出せた。そして極僅かな期間ではあったが高尾の「ミルキーウェイ」という機種が気に入り、収支的にもまずまずの結果となった。その機種の絵柄は非常に古臭く、大当たり中の音楽も荒井由美の「やさしさにつつまれたなら」の一部を繰り返しているに過ぎない。だが時短がかなり強力であり、うまく恵まれてしまったので良い印象が残ったのであろう。こうして新たな楽しみを見つけたのだったが、様々なところに出掛けていれば当然過去の因縁が蒸し返されることもありうる。やはり忘れた様でいても残念ながらそうではなかった。そのきっかけはまさかこんなところに!ということで今回はおしまい。
そして短期アルバイトもいなくなり、嘘の様に暇となってしまった12月31日には一応2000年問題対策が立てられたが、所詮は肉体労働者の集まりの為、1月1日の0:00前の5分間はエレベーターを使用しないということが決められたのみで、さしたる問題もなく20世紀最後の年を迎えたのだった。そして年明けすぐの事であるが、バイト先の若い奴にP-WORLD及びTABOさんのホームページの紹介記事(パチ勝)のコピーを渡して、10数種の気になるパチンコ機種の設置店の調査を頼んだ。そしてそいつがすぐに調べてくれたので、謝礼を渡しその資料を元にパチンコ店巡りを始めたのだった。しかし皮肉なことにその若い奴はその後すぐに辞めてしまったのだが。
ここで私のパチンコ初打ちについてであるが、子供の時に親父に連れられ手打ちの台とかアレンジボールを打った事は覚えている。そしてそれから長い歳月を経て、やはり雀ピューターの打ち始め(川崎競輪の帰り)と同じ様に、競輪(京王閣)の帰りに「フィーバーパワフルⅢ」を何も分からないまま打ったのが一番最初である。この時は3000円位で大当たりしたのだが下皿の玉を抜かなかった為、中年の店員に「何やってんの!」と怒鳴られながらドル箱に玉を落した。そして大当たり終了後も続けて打っていると、またその店員に「交換しなきゃ駄目だよ。」と言われ、何故だか聞いてはみたが結局要領を得ず交換したのだった。(L.N制だったと思われる。)そしてこれと同様にスロットも京王閣の帰りが打ち始めとなり、訳も分からないまま1000円で7が揃いBIG消化のやりかたも知らずにとまどっていると、隣のおばさんが教えてくれ何とか消化したのだった。この時にパチ屋の店員は親切じゃないなと思ったのだが、数年後にはもっと変な目にあわされることになった。その時は日比谷で初めて「黄門ちゃま」を打ったのであるが、5000円で八兵衛ジャンプリーチからお姫様で当たり確変スタートとなった。しかし次に1で大当たりした後、店員がいきなりやってきて「交換しろ!」と言うので何か変だなと思いながらその台を離れてしまった。まあこんな感じの打ち始めなので、CR機には競輪程熱くなることはなかった。
そして20000発以上出したのがたったの2回で、その機種はと言えばパープルアイス5(12連チャンしたが5時間かかった。)とふぃーばーちゃん松(10R3回16R10回で3時間半)だけである。結局CR機の出るパターンというかリズムは掴めないままなので、当時からパチンコは打てば負けという諦念の元に御布施感覚で打つ様になってしまった。但し前出の設置店情報を元に、普通なら一生行かないまま終わってしまうであろう場所に行ってみて、これは面白い!と感じ徐々にそれが楽しみになってしまうのであった。
2002年3月4日西武園へ赴き、素人脚自慢競争の整理券配布場所にて1時間以上前から陣取るも、全く人気が無く定員の6名に満たないまま無抽選にて出走が確定した。すると遅れて来た60代半ば位の人がその状況を知り係員に掛け合い、この人も参戦が急遽認められこれにて漸く定員の6名が集まったことになった。これがもし立川や京王閣ならこんな飛び入り参加はまずありえず、恐らく高倍率の抽選により決定されたかと思うと、やる気が有るということだけでも何とかなってしまうなあと感心してしまった。
出走は5R終了後の予定であったが大体1時間前位に控え室に参加者一同が集められ、簡単な自己紹介をしあってから勝負服(上衣及びヘルメット)とクリップバンドと手袋が手渡された。1、2番車は知り合い同志らしいが年齢は40代前半であった。そして4番車であるが、このメンバーの中で一番若い21歳でなおかつ熱烈な競輪ファンらしく、長塚智広に貰ったというジャージを着用してきての参戦であり、このレースの鍵を握ると思われた。そして件の自称60代の人は5番車でヤル気満々であった。残る6番車は京都出身の30代前半で言葉遣いと立ち居振舞いにその片鱗が伺えた。私自身は3番車であった。それから一応選手インタビューをするということで、「誰か応援している選手はいますか?」と問われ、他の人が関根幸夫などと答えている中で、私は実際のところがそうなのだから仕方無いが「特には...」と答えてしまい、改めて今迄の足跡ゆえにやはりそうならざるを得なかったのかと思ってしまった。しかし曲者の4番車にマイクを向けたのは失敗であり、埼玉の相原邦雄の事から始まって現在の競輪開催の問題点等をとうとうと話し始めてしまったので、インタビュアーも半ば呆れていたのであった。そしていよいよ出走の時間となってしまった。
競争車は当然のことながらブレーキ付きのママチャリであり、バンク1周400メートルのレースである。そしてスタート地点に6車横並びし(最内は1番車)係員が各自転車の後ろを押さえ、号砲と共に手を離し競争が開始された。しかし私はスタートダッシュで出遅れてしまい(というか無理しなかっただけかも?)、結局4番が先行する形となりその後ろがインに5番車、アウトに6番車の併走状態でその後ろが2番車そして私は更に離れてその後ろ5番手の状態であった。ちなみに1番車の姿は認められなかったので、最後方だと思われた。そして残り半周のところでジャンが鳴り、一応ダッシュをかけたのだがコーナーを回るのが結構怖く車は出なかった。そして直線で4番車がタレてしまい、6番、5番、2番、4番、3番、1番の順にゴールしたのだった。しかし5番車の奮闘は相当なもので本人も非常に悔しかったらしく、6番車にマークすればよかったなどとレース後に言っていた。1着の賞品は地元特産の雛人形であり、6番車にはとても似つかわしいものと思われた。そして参加者6人全員に当日のゲストの高橋光宏のサイン色紙が配られたので、その後の写真撮影会にも参加し西武園を後にしたのだった。これがきっかけとなり、以後立川競輪(晴山裕之と小野竜一郎、岡田征陽と原野隆)や花月園(関根幸夫と成田健児と伊藤克信と伊藤繁)の写真撮影会等のイベントに参加したりするようになった。
そして最後になってしまったが、競輪地獄からどう抜け出したかについてである。以前には自己流で「出場停止処分」などと言い、何ヶ月か競輪場に行かないことを決め、何回かは無事にそれを守れたこともあった。しかし競輪場に行く暇自体を無くしてしまえばもっと効果があるだろうということで、芸術センスのかけらもないのに、無料コンサートや各種展覧会に行き始めたり大学の公開講座に行ってみたりした。まあ学問や芸術をダシにして強制的に競輪から離れてしまおうという浅はかな考えであった。確かにこういった事もかなり効果があったと思う。しかし実際の所は麗ギャルズから始まったパチンコの珍古台巡りやマイナー機探訪に取って替わったと言えない事もないのだが。こうして今では私自身の中での競輪は優先順位で言えば一番後で、予定が何も無い時に行く物に成り下がった。又3連単の導入は車単勝負の時代の終焉を意味し、その事も私自身の競輪離れを加速する一因となったのであった。 以下は南関地区他のカードです。
さてこのブログを立ち上げてから3ヶ月たった。一応1日おきに記事を書いてきたのだが、昨日は朝一から本厚木経由で平塚競輪に行くことにしていたのでサボってしまった。今後どういう展開で話しを時系列に沿って進めていくか悩んでいたせいもあるが。前回の刻を戦終了により、とうとう雀ピューターとの死闘もあと1店舗での戦いを残すのみとなってしまった。但しその最後の戦いは幾分先の話になってしまう。そこで今回は雀ピューターだけでなくパチンコやスロットのきっかけとなってしまった競輪の話しをすることにした。
競輪を始めてから10年以上になるが、すぐ深みにはまりこみ勝負するようになってしまい、まさに地獄の状態が2001年末位迄続いた。まあ悪い事ばかりではなく競輪をきっかけとした様々なギャンブルをしに、色々な場所に行けて面白かったという事もあったとは思う。競輪場では色々と変な出来事に出くわしたのだが、今となっては笑い話位にはなると思うので以下幾つか書いてみたいと思う。まずは京王閣であった2つの出来事だが、選手紹介で当時逃げ屋であった神奈川の福嶋満に同県の自力型佐藤定良がマークせず、他地域の奴がマーク争いをしており後ろを振り返った福嶋が舌打ちをしたのが金網越しに聞こえた。そして実際のレースでも福嶋の後ろを取り切ったマーク屋が差して終わり、佐藤定良は何もしなかったのであった。すると一部の客が「佐藤を出せ!」等騒ぎ始め、これが噂に聞いていた暴動かと期待してしまったが結局は何も無くがっくりした。後もう一つについてだが、埼玉の丸山敏浩の逃げをオッズ200円の本命である福島コンビの鈴木健一と畠野実が捲るというレースを金網越しに見ていると、隣の人が「この本命は絶対ですよね」などと言ってくるので適当に聞き流していたら、丸山のホームカマシを見事に福島コンビが捲り切ってゴールした。するとその人がいきなり「100万円とったー」と叫んで飛び上がって駆け出していってしまったので、当方としては唖然とするしかなかったのを憶えている。又これとは逆に西武園で100万円の裏をくった人を見たこともある。それは開催初日のA級選抜戦で、当時西武園競輪9連勝で3連覇していた静岡の望月永悟が本命となっていた。レースは埼玉の関靖夫がカマシの奇襲を放ち、泡を食った望月が単騎でカマシ返すもゴール前で力尽き3着となった。そして配当は車番で2万位だったのだが、「100万の裏くっちゃたよー」と言っている人がいるので、見に行くと裏目を5000円買っていた。最もそんなに悔しそうでなかったのが意外に思えたが。その時からかなりの歳月が経った2002年3月4日にこの西武園において素人脚自慢競争が行われる事を知り、当日のレース度外視でその為だけにやる気満々で乗り込んで行った。その日は太田真一のトークショー及びサイン会と記念撮影会が行われる予定であったが病気の為、代役として高橋光宏がそれを務めることになっていた。さて夜中の仕事で体力減退した私の脚力には不安があるが続きは次回の後編にて。以下は京王閣競輪及び立川競輪のカードです。
ここ迄の戦いで何とかカード終了(15K獲得)へ後6個の捺印となった。しかし今回18日分をもって新規優待が終了となる、そこで今回で決着を付けてしまおうと初回5K+追加10Kまでしてしまうが、全く和了れず金をドブに捨てたも同然となってしまった。そして更に19、20日と今度は初回5K分だけ打ち、やっとのことでカードを終了させてこの店での戦いに終止符を打ち、結局14日の倍満逃がし分程度の負けが確定した。ここで夜中の仕事があるのに、何故毎日の様に新宿迄打ちに来る時間があったのか不思議に思われる方がいるかもしれない。その疑問に対しては、まず朝7:00前に帰宅し朝飯も食わずに昼過ぎ迄寝て、それから昼(遅い朝食として)を食ってから出掛けるといった変なパターンを当時作ってしまったからというのが答えである。しかしラッキーなことにこのパターンは最初の半年位しか続かなかったのであり、朝飯を食ってからすぐ寝て昼抜きのまま夕方頃に起きるという規則正しい現在のパターンに移行することになったのであった。
さて入店してはみたものの客が全くいないではないか。この様子はかつての「雀歩」の状況を思い起こさせ、今更ながら嫌な感じがした。この店の一番の売りと思えるのは5BET以上のリーチ一発和了で5Kの御祝儀位だろう。余りにも他の客がいなさ過ぎるので、例え赤バトルイベントがあったにしても、始めから終わり迄全て個人プレーで達成しなければならないといった状況に陥りかねない。又他店の様な強力タイムイベントも無さそうだった。赤満貫和了で5K及びマンスリーカード終了で15Kの獲得ということであり、とりあえずはこれらを狙っていくしかなさそうだった。そしてこの日は何も出来ずに5Kのマイナスで終了した。新規優待サービスが後4回使えるのでその間は行くだろうが、やはり実戦から遠ざかると厳しいなあと痛感させられた1日であった。















