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Math Geek:数学オタクの今日の出動命令!!

数学オタク士官候補生の、自分に対する
出動命令を書き綴りますっ!!

あぁ、そんな人って色々見てるかなぁ・・・


自分が何者であるか?それがわからないと

誰も不安になるものだ

それはその人がそれだけ”アンバランス”であることの

裏返しだと言える。


自分の「アイデンティティ」が決った時は

逆に安堵感と開放感を得られると思う

それがどんなものであれ

その”キャラ”で遊ぶべきだと思う。


また自分の”自己”にちなんだアイテムを

身につけるのもまた自己で遊ぶことだろう

世間体に合わせるよりも

ずっと個性を放つと思うのだが・・・。




(オリエントスターのギターモデル、小物で遊びたいのものだ)


結局自分を「何色で染めるか?」は

自分次第であり

誰が自分をその色で染めるのか?は

結局自分である。


だからこそ個性が必要であり

”個”の強さが必要である

”個”の強さがイノベーションを生み、また

”個”の強さが幸せを引き寄せるのだと思う。


世間はみんなに見てもらいたい欲求がある

しかし、みんなに見てもらえばそれだけ

納得いかない意見も受ける

果たして、万人受けとはいいことなのだろうか?

個人的にかなり疑問である。

あぁ、「愛」って残酷だなぁ・・・


俺は”数学オタク”として生きるわけだが

やはり、そんな自分でも「愛してくれる人がいる」

という安心感が俺の”幸運度”を保証している。


やはり人間は「愛されたい」生き物である

例外はない、誰だって愛されたい

だからつまらない人間にはなりたくない

これがスポーツや華やかな世界で

活躍することを熱望するのだろう。


「愛」を求めるがあまり、自らを

過酷な世界へと放り込んでいく

なんとも皮肉な生き物で

愛とはなんとも残酷な”物質”である。



(人を惹きつける方法はある程度決っている意外と簡単だが・・・)


やはり芸能人やミュージシャンを目指す人達とは

それなりに「愛」に飢えているひとだと言える

アメリカやイギリスのショービズを見てると

その”反動”の度合いがよく分かる。


そんな中でもただ単に「ギターを弾くのが好き」

だとか愛を求めるより内向的に愛を求める人は

息が長いように思える

それは”軽度”のナルシズムとも言えるが。


自分は随分前に愛されることを要求しなくなったが

そんな時に自分を愛してくれる人が現れた

俄かに信じがたいが・・・いや

やはり実感が無い。





あぁ、これもまた”反日”なのかなぁ・・・


昨今、反日だとか反韓だとか

ネトウヨだとか売国奴だとか

いろいろ政治的な思想が

常習化してきたが、個人的には

国内世論に終始してるように思える。


ぜひ、”世界の中の日本”を考えて欲しいと思う

アメリカ―日本、中国―日本、韓国―日本だけでなく

もっと地球全体に目を配って

日本はどうあるべきかを考えて欲しい。


自分はそういう視点で日本のあるべき姿を

考えているし、もう”内向”してばかりでは

日本は国際社会に置いていかれる

それはもう遠くない未来の話だ。



(「ワンピース」の登場人物・ウソップ、非力だが誰も真似できない能力がある)


はっきり言えば、日本は”非力”だ

肉体では白人・黒人には敵わない

頭脳労働でも白人を超えることはできない

日本人はとても”非力”な民族だ。


しかし、白人・黒人が苦手で日本人が得意なことはある

計算であったり繊細な技能であったり・・・

日本人は独特の能力があり

それは隣の中国・韓国にも無いものだと思う。


日本人はもっと「得意分野」を伸ばすべきだ

そして日本人の得意な「汎用性」を高める

日本の「得意分野」は世界的にニーズがあると思う

これが俺の”右翼”思想だ。


あぁ、自信がないんだけど・・・


これからの余生・・・Math Geek”数学オタク”として

生きていくわけだが、ただの”数学オタク”ではない

”クール”な数学オタクだ・・・

果たして俺はそんな奴になれるのか?


ぜんぜん、イケメンという意識がないんだが

どうしたらいいのだろう?

30過ぎてハゲて今更イケメンとして生きるなんて

果たしてできるのか?


でも俺は”数学オタク”を楽しみたい

やっと自分が何者であるか?が

わかってとても嬉しい

今までどっちつかずだった、はっきりしなかったから

とても安心する。




(ジェームズ・イハ、外国人のイケメン基準だと俺はそうなのかもしれない)


”数学オタク”は楽しめるが

”イケメン”となると難しい、なぜか難しい

やはり30年間のブランクはそうは埋らないだろう。


正直、イケメンとなったとしても

いざ、”イケメン扱い”されると

どう振舞って良いのか分からない

一体俺はどうしたらいいのだろう?


でも面白い、外国人基準のイケメンは

日本人のイケメン基準は違う、だから結局勘違いする結果となる

本当におれはややこしい人間だ。



あぁ、自分らしさが一週間続かない・・・


本当に真の意味で「自分らしさ」に徹底すれば

本当に関心があることはそんなに無い

それは誰でもそうだと思う。


車、バイク、カラオケ・・・実際やってもやらなくても

特に自分の人生には大きく影響しないが

世間はそうは問屋が卸さない

人間は退屈を嫌う、自分もそうだ

しかし、「自分らしさ」とは本質的に無関係だ。


いかんせん、現実主義者的性格が強い人間だから

実際にやってみないとわからない

しかし、「自分らしさ」に徹底すれば

やる前に「やらなくていいかどうか」は結構分かる。



(必ずしも「自分らしさ」は自分を活き活きさせるものとは限らない)


もし一週間の7日を自由に埋められるなら?どうするか

自分は金曜日×1日・日曜日×2日・金曜日×1日・日曜日×3日にする

こんな人間だ、ちょっとがんばってグデェーっとくつろいで

またちょっとがんばってグデェーっとくつろぎたい人間だ。


「自分らしさ」なんて人の数だけあっていい

わざわざ誰かのマネをしなくとも

「自分らしさ」に従ってればみんな幸せになれる。


「変人」と「自然体」とは紙一重のような気がする

究極の幸せとは「自分らしさ」を貫き

尚且つ、人の役に立つこと

これに尽きるだろう。




あぁ、なんて厄介な性格なんだ・・・


いかんせん、俺は現実主義者的性格が強い

とにかく、見てるより自分でやらないと

楽しめないという奴だ。


バイクもその一つだ、確かにBMWなどは

見ていて楽しい、かっこいいから

しかし、やっぱり実際に乗ってみないと

冷めた気持ちは温まらない。


数学もそうだ、いまいち”数学オタク”としての自覚がないのは

今現在まったく数学ができないからだ

バイクも実際に免許を取って乗ってみないと

正直楽しめない。




(正直バイク乗りに魅力を感じたことも憧れたことも無い)


厄介な性格だ、暇さえあれば妄想をする人間なのに

やってみないと楽しめないという現実主義者というのは

俺の人生の厄介さに反映されてる

また、実際にやれば一気に熱が上がるというもバカらしい。


俺のファクターは”数学オタク”そして・・・

ギター・バイク・野球・・・なんかギター以外は押し付けられて

チャレンジするものだが今度はちゃんと”メンター”がいるから

何とかなるだろう。


とりあえず自分は”数学オタク”だということは

外さないでおこう、世間はそういう目で見る

でも、嫌ではないむしろ”楽しむ”

これが世間に対する”お返し”だろう。


あぁ、俺のお役目って・・・


ギーク・・・嫌いじゃない、むしろ好きだ

でも、厄介なのは楽しまなくともできるということ

寝る、食う、クソするの延長線上でできる感じだ

だから楽しむというのは逆に難しい。


はっきり言って、俺の業績はさっぱり分からない

何をしたのか?具体的に自分でも分からない

でも、おれは「Math Geek:マス・ギーク」だ

世間ではなぜかMath Geek:数学オタクとして

通っている、とても不思議だ。


まだMath Geekに相応しい知識なんて持って無いんだけど

なぜかMath Geekで通っている

俺の人生がこんな映画のような不思議なものだとは

ついこないだまではまったく気付かなかった。



(E・クラプトンと言えばギターだ。ギターの”化身”とも言える人だ)

古森慶=数学・・・この図式は一生付きまとうものだが

嫌ではない、むしろ歓迎したい

しかしまだ「学士」も取って無いのに

古森=Math Geekという図式が成立してるのは

とても受け入れ難い事実だ。


2012年、「俺のお役目ってなんだろうなぁ」と思っていたが

まさかの「数学者」とは思わなかった

全然数学なんて専門的に学んでも無いのに

お役目が「数学者」というのはやっぱり信じられない。


あっという間に全世界的に「Math Geek」として有名になったわけだが

ふと”楽しめそうだ”と思えてきた

残りの余生を”数学オタク”として生きる・・・

うん、悪くない。

あぁ、誰だこんな世の中にしたのは・・・


確かに中途半端だったかもしれない

「ギターで飯を食ってく」という覚悟は

少し弱かったかもしれない。


みんなはいいよ、会社員になれるなら

俺は絶対になれなかった

俺が自立するだけの職を手に入れるには

ギターしかなかった、本当だ。


なぜ俺が自立できるだけの金が欲しかったかって?

それは”恋愛をするため”だ

恋愛をしたかったから、自立したかった

ただそれだけだ。



(2012年、俺は「ギターしか生きる道が無い馬鹿な男」を気取っていた)


恋愛には金が掛かる、金の無い奴は恋愛する資格なし

これは今でもそうだろう、だから俺はナンパをしない

これはいわゆる金が無い奴は恋愛するなと言い張った

女達への復讐だ。


言っとくが俺にはまだ数学の才能はない

定理(アイデア)を発見しただけで、自分で編み出したわけじゃない

言っとくが俺はまだ、金の無い「ギターしか生きる道がない馬鹿な男」

なのだ、みんなは色々知ってるかもしれんが

俺は何も知らない、当然の態度だと思う。


ギターは趣味として取っておきたいな

俺を覚醒させてくれたものだから

趣味がない?それはつまりこの世には

”デスクワークしか無い”ってことか?

そうじゃないだろう、探して無いだけだ。


それに趣味なんて無くてもいい、無いなら無いでいい

仕事があるじゃないか、仕事で成果を上げる事に集中する

良いと思う。


大事なのは、日々の生活をより良くしたい

という意思、これがあれば趣味なんて見つかる

人に言える趣味がいいなんて趣味として邪道だ

共有できないこと趣味にして何が悪い。


探そう、探そう、いろんな物を探そう

インターネットに頼らず五感で探そう

そうすれば色んなものが見つかるはずだ。


あぁ、点と点が線になるとゾッとするなぁ・・・


プログラミングは嫌いではない

むしろ、好きだ

おそらく、大学時代にやったVisual Basicの

ソースコードを森先生が取っておいたのか?

それが事態をややこしくしたと言えないでもない。


正直、何を書いたかなんて覚えてない

たしか「ビートルズ・クイズ」「おみくじ」「テレビ」なんかを

課題として提出したのを覚えてる

本来はデスクトップの大きなパソコンでやるはずだったのだが

授業で使われてしまっていて、別の教室のラップトップで

ビル・ゲイツを気取りながら書いたのを覚えている。


この騒動に巻き込まれるまで、その時その時を生きてた

自分にとって、過去の出来事や行いが

ゾンビのように復活して襲い掛かってくるのは

不思議でしょうがない。




(プログラミングもレゴを組む感覚でやっていた、結構楽しかった)


スティーブ・ジョブスも確か

点と点が線になる時が来るだろう・・・みたいなことを言っていて

自分も「そうなるといいなぁ」なんて思っていたが

実際線で繋がると結構厄介だと知った。


自分はこの先どうなるのか?

ここまで来るともう人生に山は来ないだろうと思うのだが

そうも行かないような気がしてきた

なにせ白人に牛耳られたわけだから

そうは問屋が卸さないというわけである。


今この瞬間もまた、一瞬一瞬を生きてるわけだが

またいつか線で繋がる時が来るのであろう

その時は自分が楽しめる結果を期待するのである。

あぁ、一皮剥けちまった・・・


激動の20代、駆け抜けた20代

そして、転換の20代・・・

あまり未練は無い、なにせまだ2年前は29歳だったのだから

無理もない。


特に後半の3年間は”激しい”成長を遂げた期間となった

人よりも10年遅れて人格形成が終了し

「アイデンティティ」が確立された

しかし、昨今の日本ではこの「アイデンティティ」が

必ずしも”必須”のステータスだとは言えないようだ。


確かに日本人は”汎用性”の人種だといえるかもしれない

応用は効かないが特定の分野では強力なアメリカ人

機能性は高いがパワーが弱いヨーロッパ人という大きな括りの中で

日本人は昔から”汎用性”を重視する風土があった。




(ウォークマン、LED・・・身近な物でイノベーションを起こしてきた日本人)


この日本人の汎用性の高さが

いつの時代からから”足かせ”となってしまったのも事実

汎用性の高さがいつしか”没個性”に摩り替わってしまったのは

恐らく、俺が暗黒時代を過ごしていた大学時代くらいからだろう。


この騒動に巻き込まれて、社会に引っ張りだされて

初めて日本の現状が分かった

それまでは日本に住んでいながら全く関心の無かった日本の

変わり果てた姿を”感じ取って”しまった

社会の外側をフラフラ一人で彷徨った10年間の間に

日本と日本人は随分と衰弱していたのだと痛感した。


しかしながら、-というのは-自分はもともと

日本の社会には必要の無かった人間であって

それは幼少の頃からずっと続いていたことだった

それは薄々感じ取っていたもので

今のこの状況はとても不思議である。


あの激動の20代の間にやはり日本も激動の2000年代だったわけで

大きな転換期に社会に参加してなかったおかげで

俺は没個性の時代の難を逃れ、汎用性を求め続けられたのは

ある意味幸運だったのかもしれない。


自分はつくづく、数奇な人生を生きてる人間だと

思うわけである。