アメリカでは煙草は異常に高い。


今年の2月の後半。

太平洋を初めて渡って

海ってでっけーなぁ

曇ってでっけーなぁ

日没なのか日の出なのかわからない太陽の明りって広いなぁ

と、海の上のほうで、あたしは物思いにふけりながら

思ったことをメモメモして

乗り継ぎ2回って平気かなぁと現実的な不安要素も忘れずに

あたしは海上のはるか上にいた。

日本はもう朝を迎えようとしていた。


とりあえずムンパレに最初に着いたときに

日本で処方箋のつもりで携帯していたそれと、

それを体内へ流しいれるための最初の切り札であるライターは

全部おうちにおいてったために

手元になくて


まず近くのデリに行ったら

見たことない箱がいっぱいあってわくわく。


でもとりあえずそこで知っている銘柄を

なんとかおぼつかない英語で3箱買っていたんだけど

なんか知らんうちに、その濃さを示すタールとやらは結構高くなってたみたいで

しかも平気になってた。

そんな生活に慣れていたし

それこそよりどころだった

濃くなればなるほど、救われると思ってた。

だって、基本、あねごだからさ。かっけーじゃん。


もっともっと、自分を濁してしまえ!

墨にたわむれるあたしのように、中も真っ黒になればいい。

そしたら強くなった気がする。

何にも染まんないと主張できるような気がしてた。



すげーやつが空の彼方に消えたとき

本当はちょっと冷静になれそうだった自分は正直いたけれど

何を思ったか、冷静になりきれなかった。


それって多分、所詮さみしがり屋なあたしが

どっかでただ一つの居場所がほしくてみじめになっていただけだ。

ないような気がしてたから。


あーもー世の中なんでうまくいかねーんだろって思って


あれもこれも話したかったし

あれもこれも聞きたかったし

あれもこれも見せたかったし

あれもこれも見せてもらいたかった


そんなことが頭の中をループする。

出来事は一瞬でしかないから、見えず消えていくものはたくさんあるはずなのに。

どうしてこういう出来事でしか、重んじられんのかと思うとばからしくなる。

地球にあるものはなにもかもミクロな集まりなんやな。


某国語教師が、つまらん高校時代に

おもしれー話をたくさんしてくれたおかげで

おもしろい思考や言葉にはまった

大学に入ると、まさにそんなやつがいてはまった。

あたしはそういうのが好きらしい。


そんなわけで言葉や思考は、昔から重んじて生きていたつもりだったけど

あたしのレベルはまだまだ低くて

でもそれはそれで、周りから得るもののレベルをより高く感じられるから、そのギャップに満足できた。

それが楽しい。

ギャップは埋められるようでうめられない。

それが楽しい。



あきらめてやると思っていた、へそまがりな自分と並行して


やっぱり、あたしは信じていました。

ほんとうは濁す必要なんてないし

心から笑っていたいし

ただ、幸せだと、人間ながらも思えることを。

信じることは、いつも立ち止まるときには必ず力となってくれました。


また、

あれもこれも話せたし

あれもこれも聞けたし

あれもこれも見せてもらったし

あれもこれも見せることができた


と、今度はたくさん残したいと思った。

目に見えないものも

これまで以上にたくさん心にとどめられるように

見えないことをすくいあげられる、さりげない身体感覚をきたえたつもり。


そして、そう思えるような、新しい一歩が来ることを信じた。

今度は、一方的じゃないかたちとして。


信じることは、あたしを幸せにしてくれた。

だから今まで生きた。


そして、最近みつけたものは、そっくりだった。

それがわかった。ただただ嬉しかった。

そしてあたしも昨日、より信じるということを身に付けた。

信じていたい。


信じようと決意をするまで、

信じることを決意できる日がくるまで

NYで買ったそのマルメラの最後の1本を吸わないようにしていました。

なぜだかはなんだかあいまいだけど。

なんとなくな決めごと。きっかけって、大切にしたくなるもので。

実際さまざまな事象なんて、あとから意味付けされた世界なのだ。

そんなんでいいじゃない。


そうして数か月。

最近は軽い煙でよかった日々。


NY当時は重かったみたいで

久々のそれはすっごく体を重くしたけど


とにかく今日、最後の1本は、とうとう煙に化けて

体と一緒になった。


あたしも信じたいと思ったから。