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61歳!フリーエージェントとして起業した男のブログ

61歳で突然職を失った男が、組織に縛られない自由なお金持ちである21世紀の潮流 ”フリーエージェント”を目指しているブログです

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 7-Nov-2011 Momoさん
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本日の内容は
 ● 北海道観光の穴場 -道南・函館編その1-
 ● 編集後記
     ― ジェームズ・スキナーという人 ―
                         以上です



● 北海道観光の穴場 -道南・函館編 その1-


今日から函館をご紹介しよう。


函館は私のホームタウンだからと言うのではないが、


本当に紹介したいことや場所がたくさんある。


従って、1日や2日では紹介し切れない。


折角の機会なので、じっくりとご案内してみたい。


先ず函館の歴史について少しご紹介しよう。


函館の歴史を見るときに何と言っても“戊辰戦争”


を語らずにはいられない。


“戊辰戦争”と言うのは、


鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、


箱館戦争などを総称して言い、


慶應4年(明治元年・1868年)に勃発し、その年が干支


の“戊辰”であったため“戊辰戦争”と呼ばれている。


これは慶應4年(1868年)1月3日から明治2年(1869年)


5月18日まで続くが、薩摩・長州・土佐・他連合軍と


幕府軍との間での戦いで、史上国内最大規模の内戦


となった。


ことの始まりは、慶応3年(1867年)12月25日、


幕府軍が西郷隆盛率いる益満一派の度重なる挑発に


報復し、江戸の薩摩藩邸を焼打ちにしたことに発する。


このことは益満一派にとって戦略的行動であり、


倒幕の大義名分を作ろうとした画策であった。


この事件が伝わると、大阪城内の幕府兵と各諸藩兵は


薩摩藩を討伐すべく、京都へ進軍し鳥羽・伏見の戦いへと


推移するのである。



◆鳥羽伏見の戦い


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大政奉還後、王政復興の大号令である小御所会議


(慶応3年12月9日)で決定された徳川慶喜の辞官や


領地返納に反発する大阪在城の幕府軍と会津・桑名


の藩兵約15,000名が、辞官した徳川慶喜を二条城から


大阪城へと移し擁していた薩摩藩を討伐すべく京都へ


進軍、それを阻止しようと薩摩藩・長州藩を主力とする


西軍約4,500名が鳥羽、伏見にて交戦、これが


鳥羽伏見の戦いである。


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徳川慶喜        慶喜騎乗



◆箱館戦争(1868年10月20日~1869年5月18日)


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西軍の幕府に対する措置を不満として、榎本武揚を


中心とした幕府軍約2,000名が“開陽丸”を旗艦とし


幕府艦隊8隻にて江戸から脱出する。


江戸脱出を決めたもう一つの理由に、当時の状況から


榎本武揚は幕臣達の救済のためにも蝦夷地開拓に


向かうというものでもあった。


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10月20日に北海道森町鷲の木村に上陸し、26日には


函館五稜郭を占拠。


函館府知事を追放、松前城を奪取して蝦夷地を


手中とし、共和国を建国して西軍に抵抗した戦い。


西軍は、幕府がアメリカへ発注していた鉄鋼艦を加えて、


翌年5月11日に榎本軍に総攻撃をかけ箱館周辺を


制圧する。


この戦いで、土方歳三を始め多くの戦死者が出た。


この間、上野戦争、北越戦争、会津戦争が次々に


開戦されるが、西軍により幕府軍がことごとく制圧


されたことは史実により明白である。


5月17日、榎本武揚は黒田清隆からの降伏勧告を


受け入れ、翌18日に五稜郭を明け渡し、箱館戦争を


最後に戊辰戦争が終結したのである。


                 <参照:伏水物語より>




ここで箱館戦争に関わる歴史上、有名な人物について


若干ご紹介しておく。




◆榎本武揚 (1836~1908)


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天保7年(1836年)8月25目、江戸下谷御徒町


(現・東京都台東区御徒町)の旗本榎本武規の


次男として生まれる。


12歳で昌平坂学問所に入学し、ジョン万次郎の私塾


で英語を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として


箱館に赴き、樺太探検に参加。


慶応3年、徳川慶喜が大政奉還を行い、徳川幕府に


対する政府の処置を不満として抗戦派の旧幕府軍と


共に開陽丸他旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ脱出。


五稜郭を占拠し共和国を築いたものの、


明治2年(1869年)5月17日討幕軍(西軍)黒田清隆から


の降伏勧告を受入れ、夢半ばにして戊辰戦争の


終焉を迎える。


その後、特赦を受けて出獄し才能を買われて新政府


に登用され、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等


出仕として士官、北海道鉱山検査巡回を命じられる。


後に、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を


締結。


内閣制度の成立後は6度の内閣で連続して、逓信大臣、


文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任する。


明治41年7月13日、病に倒れ、10月26日に逝去。


享年73歳。



◆土方歳三 (1835~1869) 


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新選組局長・近藤勇の右腕として"鬼の歳三"と呼ばれ、


箱館戦争で若くして散った、新選組副長。


天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田


(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に農家の


土方隼人(義諄)と恵津の間に10人兄弟の末っ子として


生まれる。


日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流4代目


の近藤勇と出会う。


文久3年2月、幕府の征夷大将軍徳川家茂警備のための


浪士組に応募し、近藤道場(試衛館)の仲間と共に京都


へ赴き、新選組の結成に伴い副長として活躍。


戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤に


代わり新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に


敗北する。


島田魁ら数名の隊士を連れて大鳥圭介らが率いる


旧幕府脱走軍と合流。


4月11日に江戸城無血開城が成立すると江戸を脱出し、


下館、下妻、宇都宮、会津を経て仙台に至り、榎本武揚


率いる旧幕府軍と合流する。


1868年10月20日、蝦夷地に上陸し、榎本武揚らとともに


箱館戦争に参画。


その後、榎本を総裁とする独立政権が成立、歳三は


幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍


裁判局頭取も兼ねた。


しかし西軍の攻撃が激化し乱戦の中、銃弾を腹部に受け


落馬し、そのまま落命。


享年35歳であった。


歳三は、榎本軍指揮官で唯一の戦死者となった。


戦死者の中から遺体は発見されなかったという。


 ◆大鳥圭介 (1832~1911)

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蝦夷地政権では陸軍奉行となるが、五稜郭開城後


投獄となり、特赦により出獄。のちに明治初期の産業


近代化の指導者として活躍。


天保3年(1832年)2月28日、播磨国赤穂郡赤松村


(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師


大農直輔の長男として生まれる。


閑谷(しずだに)学校で、5年間儒学、漢学、東洋医学


を学ぶ。


蘭学修行のため大坂(現・大阪)に上り、緒方浜庵の


適塾で蘭学と西洋医学を学ぶ。


安政元年、適塾時代の仲間と江戸に出る。


坪井塾で塾頭となり、この間西洋式兵学や写真術を学ぶ。


同時に勝海舟の知遇を得る。


慶応4年、鳥羽・伏見の戦い後、江戸開城に反対し


伝習隊(※伝習隊=徳川幕府が作った近代軍隊。)


を率いて江戸を脱走。


土方歳三率いる新撰組と合流し、北関東から会津を


転戦する。


明治元年、仙台にて榎本武揚らの海軍と合流。


開陽丸(旗艦)に乗り込み、森町・鷲ノ木に上陸する。


榎本を総裁とする独立政権が成立、大鳥圭介は


陸軍奉行となる。


しかし明治2年5月18日五稜郭で降伏。


大島圭介は囚われの身となり、東京へ護送され、軍務局


糺問所へ投獄されるが、明治5年1月8日、特赦により出獄。


新政府に勤め、左院少議官、北海道開拓使五等出仕を


経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を歴訪。


明治7年、帰国後は北海道開拓使に戻り、後に陸軍大佐


拝命を経て工部省四等出仕となる。


明治10年、工部大学校(現東京大学工学部の前身)が


発足され、校長に任命される。


明治44年6月16日、食道癌のため死去。


享年78歳だった。




 ◆高松凌雲 (1836~1916)  


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箱館戦争で赤十字活動に先鞭をつけ、明治維新の大業


に寄与し、博愛精神と鮮烈な人道主義を貫いた。


天保7年12月25日、筑後国御原郡古飯村


(ふるえむら・堀小郡市古飯)庄屋、高松与吉の12人の


兄弟姉妹の三男として生まれる。


安政3年20歳の時、久留米藩家老有馬飛弾の家臣


川原弥兵衛の養子となる。


凌雲は武術を学び、漢書を勉強して、飛弾の小姓を


勤めた。


ところが、武士の生活に見切りをつけ、医者を志し脱藩


するのであった。


しかし努力の甲斐もあり、脱藩して僅か7年目の30歳で、


将軍の侍医という医師として最高の栄誉を授かった。


慶応3年、第5回パリ万国大博覧会に徳川昭武が幕府


使節として洋行する際、凌雲は語学の才能を認められて


付添いを命じられた。


フランス、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、


イギリスなど、欧州各国を視察して、世界的な見聞を


広めた。


慶応4年正月元日、洋行中に日本から電報が届き


鳥羽伏見の戦いの開戦を知らされ5月に帰国する。


帰国後8月に混乱の江戸で榎本武揚と会い開陽丸にて


蝦夷地へ向かう。


榎本武揚総裁から箱館病院頭取(院長)を委嘱された


凌雲は、官軍の負傷者6名を治療し1名は死亡したが


5名を本州に送り帰した。


これは日本最初の赤十字活動であった。


箱館戦争終結後、凌雲は赦されて東京に帰り、


開業のかたわら同志と同愛社を興して貧民の施療事業


を起こし、救護事業で先駆者となった。


大正5年10月12日、高松凌雲は80年にわたる波乱に


満ちた数奇な生涯を閉じた。

       <はこだて人物史より>


まだまだ続きはありますが、今日はこの辺にしておきます。
この続きは、また次回以降にご紹介致します。


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● 編集後記
ジェームズ・スキナー(James Skinner)という名をご存知だろうか?
大変有名なので、ご存知の方も多かろうと思うが、ちょっと触れてみたい。
彼もご多分に漏れず大変貧しいどん底の生活から起死回生し、現在は
大富豪となって、世界中を回り彼の実践した“”成功の9ステップを説いて
いる。
成功の9ステップ
1.決断 2.目的 3.学習 4.計画 5.健康 6.感情 7.行動
8.改善 9.リーダーシップ
詳しくは、彼をアクセスして覗いて見て下さい。                              
                          大桃泰行