三年生になるまでは上級生のカツアゲが一番怖かった。
金を持ってないと殴られる可能性があったので、当時はまだ存在した五百円札を生徒手帳に挟んでいる一、二年生も多かった。
自分も挟んでいたが、カツアゲ対策と当時はガソリンも安かったので、五百円あればタンクを満タンにできたので、二つの意味での非常用だった。
帰り道で、あまり人目のつかないところで、三年生に呼び止められて、「ジュース飲みたいけぇ、奢ってくれかのぉ」と声をかけられる。その時に、素直に五百円札を渡せばセーフ。お金が無いなどと言うと「役に立たん奴じゃのう」と腹を殴られて痛い目をみることに。
殴る方も慣れていて傷が残るようなところは殴らない。
しかし三年生になると天国。怖い上級生もいないし、教師もあまりうるさく言わなくなる。
諦めの境地か、三年生を使って一、二年をコントロールするためか、はたまたお礼参りを恐れてか知らないが、教師たちが三年生を締めることが極端に減る。
問題のあるヤンキー生徒は既に退学して激減していたのもあるかもしれない。
それもあって三年のときは居心地は良かった。
授業も簡単だったのでバイク雑誌や小説を読みながらでも理解できた。
なにしろ簡単な基本しかやらず、例えば国語は教科書を音読して原稿用紙に書き写すだけ。英語は教科書の英文を読んで訳を書き写すだけ。
宿題は出してもほとんどしてこないので、滅多に出なかった。
試験の前には成績が最悪な同級生から頼られたり、バイクの乗り方を教えたりしていたので、色々と奢ってもらったりしていた。
そして土日、あるいは土日月で相変わらず、バイクに乗ってブラブラとあちこちに。
そんなことが夏休みまで続いたが、そのバイク旅で島根の石見銀山の近くの城福寺というユースホステルに泊まった時が人生の転換期になった。
当時のユースホステルは単なる安宿ではなく、青少年の健全な出会いの場のような存在で、夕食後は宿泊者全員がミーティングなるものに参加し、自己紹介やらゲームやらをして楽しく過ごす時間があった。
普段はムサ苦しい男子校でモンモンとしていた自分には同年代の女子たちと一緒にゲームとかできるのはまさに夢のようで、今思うとこれが楽しくてバイク旅をしていたような気もする😂
その時、東京から来ていた二人組の大学生が女の子たちから異様にもてていた。
「うわ、東京の大学生ってモテるちゃねえ〜。自分も東京の大学に行きたいなぁ」と、不純な動機と
そろそろバイクの旅も、高校生ごときが行けるところは行き尽くしていたので少し飽きてきたというのと、
このまま高卒で働くというのも楽しくなさそうだし(底辺高校なので、ろくな就職口もない)という思いで、
旅から戻ると東京の大学目指して猛勉強開始。
と言っても時間的に科目の多い国立は無理なので私立に絞って。
国立を諦めた理由は、高校で転校させた失敗を学んだ親が一個下の弟には福岡の某私立大学の付属高校にコネで入学させ、祖母の家から通学していて、(奴も転校した中学で色々あって、公立には進学できないとその中学の先生に宣言されていた)
そこで真面目に学んでいたらしく、自分が数学の問題に行き詰まっていたとき、電話で「こんな問題があるけど、どうやって解くかわかるや?」って聞いたら、簡単に即答してしまった。
で、「うわっ、ちゃんと高校で勉強している奴らに5ヶ月では追いつかんばい」と云うことで3教科の私立文系に志望を変更。
科目は英語と国語は必須なので後は社会。
日本史、世界史、日本地理、世界地理、政治経済のうち教科書が一番薄い「政治経済」を選択。
ろくに授業も聞いていなかったので、どの教科も
頭に入っておらず、そういう物理的な理由での選択。
しかし大学受験の勉強方法が分からなかったので、とりあえず通信添削なるものを発注。
というか、これしか思いつかなかった。予備校も塾も家庭教師も、どうして良いか解らず、しかも底辺高校の生徒が予備校の高い授業料を出してくれとも言い出せなかった。
当時は家もあまり裕福ではなかった。
どのくらいの経済レベルだったかといえば、当時は連絡網というクラス全員の電話番号の一覧表が配られていたが、約40名ほどの名前の中で自宅に電話が無かったのは2名のみ。
そのうちの1名は母子家庭で、もう1名がうちだったといえば理解してもらえるだろうか。
住んでいた家も4軒並んだ陽当りの悪い狭いアパートでみすぼらしかった。二番目の高校の教師たちに軽んぜられたのもそんなところが原因だったのではないかと思う。なんといっても炭鉱離職者だったので。
ともあれ、
仕方なしに、高校受験の時と同じように、ひたすら問題集を解くという勉強を始めた。
大変だったのは受験勉強そのものよりも、勉強していると、「なんでそんなに勉強するん、馬鹿やないとや」と遊びに誘いに来る友人を振り切ること。
それに難解な入試問題を底辺私立高校の教師に質問しても難関大学出身というわけではないないのでシドロモドロで頼りにならなかった。
今にして思えば本当に孤立無援の受験勉強だった。
しかも周りも自分も大学受験の知識が無く、東京にどんな大学があるかさえよく知らなかった。
大学野球の六大学ぐらいしか知らなかったので、その半分の早稲田と明治と法政を受けることに。
東大は論外として、慶應や立教は裕福な家庭の子弟の大学というイメージがあったし、受験料も馬鹿にならなかったので。
今にして思えば無謀な選択だったとは思うが、無知ゆえの大胆さだった。
ともあれ、必死豆たん練炭(当時一部で流行った言い回し)で勉強。
そして東京での受験。
幸い東京には叔母が住んでいたので、上京している10日程の間、色々と面倒を見てもらい大学まで案内してもらったり、美味しいものを食べさせてもらったり、あまりストレスなく不案内な東京で受験できたのは本当にありがたかった。
そして大学入試の結果は
続く