スピリチュアルの世界においても、世間一般においても、「愛」というテーマについて語られることは多い。

 

しかし、ほとんど全ての人が本当の愛について理解していないと言っても過言ではない。

 

これについては、意識レベルが高い人も例外ではなく、思い違いをしている人がとても多い。

 

今回は、本当の愛とは何かについて語りたい。そして、それとの関連において、本当の勇気とは何かについて語りたい。

 

世間的に本当の愛を理解している人がほとんどいないというのはどういうことかと言うと、人が愛というテーマで語る時、あまりにも多くの人が机上の空論に過ぎない理想論を振りかざしているだけだということを意味している。

 

「どんな人とも仲良く、友好的でなければならない。どんな嫌な人間がいたとしても話せばわかり合える。」

 

こういうものである。

 

残念ながら、実際の人生においては、これで全てがうまくいくようにはできていない。宇宙はそのようにはできていないのだ。

 

もちろん、基本的な方向性としては、愛というのは統合に向かう力であり、宇宙の全てを1つとして認識する性質のことではある。

 

だから、ワンネスが愛であるというのは正しいのである。

 

しかし、この宇宙は分離の宇宙でもあるということを認識しておく必要がある。我々は全体意識そのものでもあると同時に、個人意識を生きる存在でもあるのだ。

 

スピリチュアルを少し齧ると、全てにおいて「ワンネス万歳」のように単純化して考えがちであるが、それで全てがうまくいくほど宇宙は単純ではないのである。

 

反論したい人もたくさんいると思うので、ここで問題を出しておこう。

 

1) 身近にとてつもなく嫌な人間がいるとする。職場の上司でも同僚でもよいし、家族でも、親戚でも、隣人でもよい。とにかく、それなりの頻度で顔を合わせる人を想定する。そして、その人が何度も何度も悪質な嫌がらせをしてくる。やめてくれと何度言っても同じことを繰り返す。この場合の対処法を「愛」という観点から考え、説明してほしい。この場合の正解とは何だろうか。

 

話せば必ずわかり合えるのだろうか。相手がわかるまで説得するのが愛だろうか。その間、自分が我慢したり、自己犠牲を強いられるが、それに耐えることが愛だろうか。相手が一生説得に応じない場合はどうなるのか。

 

2) ナイフを持って自分に襲いかかってこようとしている人間がいるとする。この場合の対処法を「愛」という観点から考え、説明してほしい。この場合の正解とは何だろうか。

 

説得すれば必ずわかり合えるものだろうか。また、説得を全く聞き入れず、構わずナイフを振り回して襲ってきた場合にはどうすればよいだろうか。無抵抗主義で、やられたら諦めるのが愛なのだろうか。

 

3) 「アルクトゥルスより地球人へ」という書籍において、高次元のアルクトゥルスの宇宙船すら防御用に武装されているという話が書いてある。地球に害を及ぼそうとしているフィーダー(人間の中にある否定的感情を食い物にする)と呼ばれる存在たちの宇宙船を五次元空間に発見した時、向こうから先制攻撃を仕掛けてきた。アルクトゥルスの宇宙船は反撃し、フィーダーたちが生き残って地球に悪影響を及ぼさないよう、彼らの宇宙船を素粒子レベルまで粉砕したそうである。

 

この本において、9次元における分身としてのサナート・クマラ(アシュタール)も宇宙船を武装しないことは考えられないという趣旨の話をしている(ハトホルの宇宙船が武装されていないことについて驚いており、アルクトゥルスの宇宙船による護衛が必要だとしている)。

 

この話を「愛」という観点から考え、説明してほしい。

 

以上の3問について、真剣に考えてみていただきたい。

 

「愛」とは何だろうか。それぞれの状況での正解は存在するのだろうか。

 

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それでは、順に見ていこう。

 

まず、1)について。

 

これの本当の正解については後述するが、一般論として言えば、自分だけが我慢や自己犠牲を強いられるような選択肢を選ぶことは愛ではない。

 

本当に多くの人が間違っている。人間関係に波風を立てないことを愛だと考えている。

 

はっきり言っておこう。偽善である。あるいは、勇気がないとも言える。勇気については、この記事の最後に書く。

 

そして、このような選択をすると、またその選択を迫られるような出来事が起こる。繰り返し、繰り返し、似たような出来事が起こる。それが宇宙からの回答である。

 

どういう意味かわかるだろうか。

 

「愛」という観点から見て、間違っているからである。何が間違っているのか。

 

それは、「愛」の対象として一番大事であり肝心要である「自分自身」が含まれていないという点が間違っているのである。

 

私は若い頃から、一番大事なのは間違いなく自分であると思っていた。自己犠牲はおかしいと思っていた。今考えると、絶対的に正解である。

 

自分自身を蔑ろにする愛のようなもの、愛もどきは全て偽善である。思い違いである。

 

そうではない。意識レベルが高くなるにつれ、「自分」という言葉・概念が指すものが拡大していき、その究極として宇宙全体と自分が一体化するのである。

 

そして、宇宙全体、ワンネスが愛だというのも究極視点での話であって、分離の世界に存在している個人意識としての私達には100%は絶対に達成できないものである。

 

それが達成できるのは11次元から最後のアセンションを果たして、真の意味で全体意識に帰還する時であり、その時に限られる。

 

それまでの間は、あくまでも自分のパラレルワールドのみが個人の責任の範囲である。自分の幸せと自分のパラレルワールドのみに責任を負っている存在が我々個人意識なのである。

 

本気で言っているのか、善人ぶっているのか、自分が我慢すれば丸く収まるから・・・、自分が犠牲になってでも・・・という人がたくさんいるのだが、こういう偽善は宇宙から手酷いしっぺ返しを食らうので、現状と同じく、今後もひどい目に会うだけである。

 

一番大事な愛とは、自分に対する愛である。

 

そして、意識レベルの向上に伴って自分という言葉・概念が指すものが拡大して行き、究極的に宇宙全体に対する愛になるのである。

 

問題の状況の場合、やめてくれと言っても繰り返し悪質な嫌がらせをしてくるということであった。

 

この場合の対処法としては、逃げられるなら、逃げてしまうのも1つの方法である。絶縁できるなら、絶縁してしまって構わない。

 

もう1つは、はっきり意思表示をすること。「やめてくれ」程度で相手がわからないなら、はっきりわからせてあげることがこの場合の愛である。相手に怒りの感情を表明すべき時には、そうするのである。

 

どんな場合でもどんな相手でも話し合いをすればわかり合えると思っている人は、この宇宙について全く理解していない。

 

意識レベルが何倍も違うのなら、説得も話し合いもほとんど無駄である。

 

それは、意識レベル300くらいの人に悟りを説くようなものである。

 

根気よく丁寧に教えれば、どんな人でも悟りを理解するであろうか。そして、実際に悟るであろうか。

 

これは全く無理なのである。この問題の場合のシチュエーションもこれと全く同じである。

 

では、次の2)について。

 

ここまで解説したのだから、ほとんど1)と同じ問題であることはわかるだろう。

 

稀に説得に応じて犯人が犯行を思いとどまったというニュースも目にするが、それは稀な事例だからニュースになっているのである。

 

「どんな相手でも話せばわかる」など机上の空論。愛でも何でもない。

 

その前に、最も大切な愛の対象者が「自分」である。

 

では、正解は何かという話になる。

 

1)の正解は後述すると書いていたので、ここでまとめて1)2)の正解を発表する。

 

本当の正解は「ハートの声に従う」である。

 

そして、これが本当の愛である。

 

なお、「ハートの声に従う」とは、マインド、エゴが機能していない状態で全体意識の声を聴くことである。だから、覚者でなければ難しいという面はある。感情にまかせて行動することではないので、注意していただきたい。

 

「ハートの声に従う」のだから、シチュエーションによって、人によって、正解は異なる。だから、稀には「相手を説得する」が正解になる場合もあるだろう。無抵抗が正解になる場合もあるかもしれない。

 

しかし、それはその時ハートの声が何を叫んだかによるのである。

 

ハートの声が「相手に怒りの感情を表現しなさい」と叫んだ場合、そうするのが正解である。

 

ハートの声が「相手と絶縁しなさい」と叫んだ場合、そうするのが正解である。

 

ハートの声が「相手を殴りなさい」と叫んだ場合、そうするのが正解である。

 

ハートの声が「相手を殺しなさい」と叫んだ場合、そうするのが正解である。

 

わかるだろうか。

 

どんな場合でも暴力をふるってはいけないとか、どんな場合でも人を殺してはいけないというのは、世の中の人々が信じる一見正しそうに思える意見なのだが、実は正しくない。この相対性の世界において、どんな事柄でも明確な線引きというは存在しない。そういうものではないのである。

 

なお、「ハートの声に従う」のが正解なので、一見他人から見れば自己犠牲にしか思えないような対処法であっても、本人が心の底からそうしたいと思ってやったことは、偽善ではなく本当の愛である。

 

最後に3)について。

 

これもここまで解説したので、2)の状況と同じようなことであることがわかる。

 

この問題のシチュエーションは、地球上の問題に置き換えると、戦争である。戦地に赴いて、生きるか死ぬかという状況である。究極の選択をしなければならない。

 

ここでも正解は「ハートの声に従う」であり、もしハートの声が相手を殺せと言っているのなら、それが正解なのである。

 

この状況は、ヒンズー教の聖典である「バガヴァッド・ギーター」にまさに記述されている状況である。戦地において、クリシュナはアルジュナに戦うことを促す。興味があれば、読んでいただきたい。

 

この分離の世界では、我々は個人意識というものを体験しているのであり、そこには争いも葛藤もある。元々はワンネスだから、全ては1つだからというのは正しいけれども、それを短絡的に「どんな人とも友好的にあれ、どんな人とも話せばわかり合える」と考えて全てが丸く収まるほど宇宙は単純にはできていないのだ。

 

だから、話してもわかり合えないような相手には、いったんは突き放したり、絶縁したり、怒りを表明したり、戦ったり、場合によっては相手を殺すことだってあり得るし、それが愛である場合もあるのである。

 

そうでもしなければ、相手が理解しないから。

 

そして、何よりも自分が大切だから。一番大切な自分を守ることが愛だから。

 

ハートの声に従って相手を殺した場合でも大丈夫である。輪廻転生があるから。

 

表面上の世界において1回の人生で死んでも、魂は終わりではない。むしろ、人生が終わって、守護霊とともに人生を振り返る機会があるので、それを通じて魂が成長するのである。全体意識の視点からはそこまで全てが見えるので、相手を殺すことが愛になる場合もあるということなのである。

 

相手を殺すことは現代の日本では非常に稀なシチュエーションであり、おそらく今後の人生でも起こらないことではあろうが、そこまでではないとしても、人生では言いたくないようなことを相手にはっきりと言わなければならない時がある。それは宇宙から与えられた試練である。

 

相手との関係に波風が立つようなこと、摩擦が生じるようなこと、人間関係にヒビが入るようなことについて、毎回言うべき言葉を飲み込んで表面的にニコニコしていると、世間的な良い人ではいられるかもしれない。

 

しかし、毎回なあなあで済ましていると、相手はそれでよいと思い込み、現状が延々と続くことになる。

 

それは、自分に対する愛の欠如である。


ここで述べたことは、個人と個人の関係において当てはまるだけでなく、国家と国家の間の関係でも基本的に同じことである。

 

国家と国家の間の関係において、どんな場合でも話し合いで全てが解決するなど、少なくとも当面の間はあり得ない。地球全体がアセンションでもすれば別だが、現状では地球の意識レベルはとても低いのである。

 

地球上において、日本という国家は意識レベルの最上位層に入るが、相手の国家も同じとは限らない。

 

話し合いで全てが解決するどころか、絶対に戦争が起こらないとも断言できない。相手の国家は日本ほど意識レベルが高くないのである。

 

だから、ここでも正解は「ハートの声に従う」「全体意識に従う」であるが、それは相手を突き放したり、相手に怒りを表明したり、相手にわからせることであったり、場合によっては戦争を受けて立つことであることもあり得ることである。

 

国家の場合には個人の集合体であるから、明確な単一の意思というものは存在しないという点は特殊だが、国民が国家間の関係を考えるうえではこのように考えればよく、基本は個人でも国家でも同じことである。

 

さて、本当の愛とは「ハートの声に従う」ことであった。

 

それでは、本当の勇気とは何だろうか。

 

愛と勇気はほとんど同じなのであるが、言葉のニュアンスが少し異なるだけである。

 

自分の中にある世間的な観念、世間体、常識、同調圧力、善人として見られたいこと、面倒な出来事や状況を避けたいことなどなど。これらを全て跳ね除けて、それでも自分のハートの声に従うこと。これが本当の勇気である。

 

世間的な観念等に縛られていると、自分のハートの声に従うのは非常に勇気がいる。

 

自分のハートの声に従うことは「愛」であり、「勇気」なのである。

 

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