前回の続き。

 

武蔵国の式内論社のうち未参拝のまま残っていた神社に参拝して巡拝を完了しようと思い立ち、まずは日帰りで3回式内論社に参拝に行った。

 

そして、最後に残った埼玉県北部の熊谷周辺、神保原周辺の式内論社に全て参拝すべく、1泊2日の旅行に出かけたのだった。

 

初日は熊谷周辺の神社へ。このあたりは武蔵国の播羅郡(はらぐん)という地域である。

 

最初は奈良神社(ならのじんじゃ)。この旅行で訪れる式内社としては珍しく、ほかに論社がない式内社である。つまり、延喜式神名帳に記載されている奈良神社とは当社であることがほぼ確定している神社なのである。

 

 

周辺には田んぼが多く見られるような土地である。ただ、ここはまだバス停から数分の場所なので、訪れるのに苦労するというほどのこともない。

 

 

 

 

来て良かったと思った。爽やかで清々しい気分である。ちょうど桜の季節ということも良かった。多くの神社で美しい桜を見ることができ、この武蔵国延喜式内社巡りに文字通り華を添えてくれた。

 

当社の近代社格は村社であり、まさに、村社にふさわしい雰囲気の神社である。

 

もの凄い名社というわけでもない。しかし、神社らしい清浄な場の気に見た目の美しさも相俟って、幸先良いスタートである。

 

5点満点の評価はちょっと良い村社という感じの2.5+。

 

次に、さきほど乗ってきたバスをさらに終点方向に乗って妻沼(めぬま)という地域へ。

 

ここにあるのが、白髪神社の2つの論社である。当時の読みは「シラカミノ(じんじゃ)」。

 

まずは有力な方の論社である大我井神社(おおがいじんじゃ)へ。

 

 

境内地は結構広く、やや長い参道がある。

 

 

ここでも桜。そして、神門があった。

 

 

神門から中に入って社殿。これが結構存在感のある社殿である。

 

 

拝殿の左手に富士塚があり、これはその富士塚の頂上から見た本殿。この構図がなかなかであった。

 

 

こちらはその富士塚。もちろん、富士山の神であるコノハナサクヤヒメを祀る。

 

社殿とその周辺の雰囲気が評価できる神社で、私の評価は3.0。

 

もう1つの論社は利根川のすぐ近くにある白髪神社(しらひげじんじゃ)。とても小さな神社であり、これが式内論社なの?と思われるようであり、ネット上の情報では不評であった。

 

 

少し離れたところからの当社。

 

 

鳥居前からの当社がこれ。

 

不評なのは理解できるのだが、そういう情報を事前に入手していたせいか、思ったよりも悪くなかった。神社としての気は感じられたからである。小さかろうが、寂れていようが、人が訪れない神社であろうが、神社としての気を感じる神社というのはある。

 

そういう最低ラインはクリアしていたので、評価は2.0+。しかし、まあ普通の無格社レベルの神社といえば、そうである。

 

さて、当社は白髪神社と書いて「しらひげじんじゃ」と読むそうである。しかし、「髪」は本当は「ひげ」とは読まない。

 

神社の世界には「白髭神社」「白鬚神社」などと書いて「しらひげじんじゃ」と読む神社は存在しており、これは一般的にサルタヒコを祀る神社である。

 

一方で、「白髪神社」という場合には「しらかみじんじゃ」「しらがじんじゃ」などと読み、白髪の天皇として知られた第22代清寧天皇(せいねいてんのう)を祀る神社であるというのが本来であると思われる。

 

「白髪神社」と書いて「しらひげじんじゃ」というのは、この2つを混同したり、文字を書き間違えたりしたことが原因と思われ、本来はおかしい。おかしいのだが、実際にはこういう神社はほかにも存在している。

 

当社の御祭神はというと、清寧天皇に加えてサルタヒコやその妻のアメノウズメも祀られているとのことで、「しらが」「しらひげ」を混同して本当のことがわからないから両方を祀っておこうという意味合いにも受け取れる。

 

さて、次は播羅郡田中神社の3つの論社に参拝する。

 

駅で言うと熊谷から1つ先の籠原(かごはら)に移動。そこから徒歩で三ヶ尻八幡神社(みかじりはちまんじんじゃ)に向かう。

 

参道の途中から境内に入ってしまい、境内入口の鳥居・社号標までわざわざ戻ってから、あらためて鳥居をくぐることになってしまった。

 

このようなことは時々あるのであるが、これはこの旅行の直前にグーグルマップに異変が起きたことと関係している。グーグルが地図の会社であるゼンリンとの提携を打ち切ったため、グーグルマップからバス停や神社参道などの細かな情報が消えてしまったのである。これが私のように公共の交通機関と徒歩で神社巡りをしている人間にとっては極めて不便なのである。

 

 

 

わざわざ戻るほどの長い参道があるという神社であり、それなりに立派な神社の雰囲気である。

 

 

 

到着してみると、特別な気を放つ、静謐な場の素晴らしい神社だった。この旅行中に訪れた中で一番の神社である。

 

式内論社であるから、関東の神社趣味人には多少知られているだろうが、一般的には無名の神社であるわけで、知られざる名社と言って良い。

 

このような神社に出会った時には本当に嬉しくなる。来て良かったと思う。「知られざる名社」が私に発見されるのを待っていたかのようである。

 

評価は3.5+。境内地も広く、かなり立派な神社なので当社の近代社格は郷社くらいに思えるのだが、実際には村社だそうである。それを考えると3.5+というのは平均的な県社よりも上の評価であるので、ほとんど最上級の褒め言葉ということになる。

 

当社が八幡宮でなかったとしたら、ここが本当の式内社であって欲しいと思う。ただし、個人的には八幡宮は式内社である可能性は低いと考えている。八幡宮の御祭神は第15代応神天皇であり、3~4世紀に実在している。従って、応神天皇を祀った神社というのは紀元前の創建などあるはずがないので、式内社の基準から考えればそれほど古い神社というのは存在し得ない。

 

相模国の記事で、五所八幡宮という神社が5番目の八幡宮であると伝えられているという話を書いた。しかし、五所八幡宮の創建は西暦1157年とされており、既に延喜式成立よりも後の時代になってしまっているのである。五所八幡宮の由緒書による3番目の八幡宮である鶴岡八幡宮ですら1063年の創建で延喜式以降。2番目の八幡宮である石清水八幡宮は延喜式以前の創建だが、式内社とはなっていない(国史見在社)。唯一、総本社である宇佐神宮のみが式内名神大社となっている。

 

もちろん、五所八幡宮の由緒書に書かれていることが全て本当かはわからない。しかし、一般的に八幡宮は「新しい」のである。だから、可能性は低いと言える。

 

そういうことなので、前回の記事で薭田神社の論社として挙げた御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)と鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)も同様に式内社としての可能性は低いと思う。

 

あるとすれば、後から御祭神が変更になったとか、あるいは式内社自体が廃絶になって式内論社とされる当該社に合祀になったなどで、いずれにしても特殊なケースであると思われる。

 

 

 

 

こちらは延喜式神名帳に記載の名称そのままの田中神社。当社が本命のようである。

 

単なる小さな神社にも見えるが、実際には式内社かもしれないと思わせる不思議な雰囲気があった。神域感があったのである。あいにく、強い日差しの逆光だったため、画像では全く伝わらないのが残念。評価は2.5+。

 

また、単なる小さな神社に見えるのには少し事情があり、いったんは三ヶ尻地域内の八幡宮に合祀になってしまい、それを式内社だからということで氏子たちの申し立てによって再度創られた神社とのことである。

 

この「三ヶ尻地域内の八幡宮に合祀」というのも、さきほどの三ケ尻八幡を指しているのかは不明で、新堀新田という場所にある八幡宮(ここにも参拝したが省略)を指している可能性もあるという。

 

まあ、色々な説があるのだが、もうはっきりとはわからないのである。それが延喜式内社巡りの世界。ああでもない、こうでもないと考えを巡らすところも含めての趣味の世界である。

 

ただ、私自身はさまざまな文献を調べたりして可能性を考えるという部分にはそれほど興味はないので、世間で言われている論社を素直にまわってみるという感じである。参拝した実感として、可能性が高い低いということを感じてみるのである。

 

この後、田中神社の最後の論社である知形神社(ちかたじんじゃ)にも参拝したのだが、これは省略させていただく。評価は2.5-。ここは式内論社ということを考えれば、特別なものは感じなかった。

 

今回は武蔵国の中でも播羅郡(はらぐん)という地域の式内社巡りを紹介した。次回は武蔵国の式内社巡りでの最難関、賀美郡(かみぐん)の式内社巡りを紹介したい。

 

-----

過去記事はこちらからどうぞ。

記事目次 [スピ・悟り系]

記事目次 [神社巡り]