悟りへの道、アセンションへの道は意識の変容のプロセスであるが、その中でとりわけ重要なのが、アイデンティティーの変化である。
アイデンティティーを辞書などで調べると難しいことが書いてあるが、それは忘れて構わない。ここでは「自分とは何か」、あるいは「自分とは何か」についての自己認識であると考えていただきたい。
本当に不思議な事に、人間は「自分とは何か」という問いになかなか答えを見出すことができない。そして、悟りへの道、アセンションへの道を歩み、意識レベルが上昇してくると、それに伴って「自分とは何か」という問いに対する答えが変わってくるというお話である。
なお、アイデンティティーに関連して「セルフイメージ」という概念もある。自分のことを「仕事ができるビジネスマン」であるとか、「料理上手な優しいママ」であるとかと思っている場合の、その自己像のことである。
これは個人意識しか認識できない段階における、より具体的な自己の見方であり、アイデンティティーの一部であるが、ここではもっと抽象度が高い部分、アイデンティティーの骨格の部分についてのみ述べる。つまり、特定の人のアイデンティティーについて語るわけではなく、多くの人に共通する部分について語るということである。
まず最初に、意識レベル200台くらいまでの人が持っているアイデンティティーから見てみよう。
※ 意識レベルとその段階での典型的な人生の状況については過去記事「意識レベル」を参照していただきたい。
この段階では物理世界のみに生きているため、自分というものを物理的に見る。肉体としての確固たる自分像がある。皮膚や頭髪などの内側が自分、外側がそれ以外という境界線になる。これは意識レベル500の壁を超越するまで続く見方である。
図の太線は物理的に確固たる自己が存在するというこの見方を表している。
そして、この段階では自己はとても小さい。自己重要感が低いのである。あまり自分が好きではない。外側の世界で起こる出来事に為す術なく翻弄され続ける小さな自分というイメージである。
次は意識レベル300台くらいの状況。
ここでの典型的な状況は中等教育を受け、技術士、職人、教育者などとして働いているという感じである。知識や技術を身に付けて、それを活かして社会で働いている。
※ 当然ではあるが、あくまでも「典型的な状況」なのであって、例外は無数にある。意識レベルが高い人でもこういう職業、業界で働いているケースはもちろん多数あって、例えばシリウス人は飲食業界に多く入り込んでおり、業界を変革しようと頑張っている(昔ながらの理不尽な上下関係に基づいた修行の廃絶などに向けて)。
さきほどの意識レベル200台と比較して自己像が大きくなる。世間並みに働いてお金を得て、限られた範囲内ではあるが自由を享受することもできる。労働で得たお金を使って好きなものを買ったり、余暇に好きなことをすることができる。
社会の荒波の中で翻弄されるだけで何もできなかった段階を脱しており、「己の力」で人生を切り開けるという感覚が生じる。
次の意識レベル400台での典型的な人生の状況は、高度な教育を受け、職業としては知的職業階級、管理職、科学者などである。
ここでは他人よりも努力をすることによって、自由の範囲を広げようとする。そして、実際にある程度の社会的な成功を手にする。
その成功体験によって、さらに自己像が大きくなっている。
次の段階は意識レベル500台、あるいは500台の前半くらいの状況。
ここで目に見えない世界への探求が始まっており、スピリチュアル的な何か不思議な力によって、さらに成功を拡大しようとする。いわゆる「現世ご利益系スピリチュアル」に夢中になっている。引き寄せの法則、パワーストーン、パワースポット、吉方位旅行、神社巡りと神頼みなどなど。
これは人によってうまくいったり、いかなかったり、あるいは成功の度合いが異なるが、多少の成功体験によってさらに自己像が拡大したりすることが多い。
しかし、この段階まではずっと自己の拡大を目指すという方針には変化がない。だから、覚者的な考え方とは全く真逆のことを考えていることになる。どこまでも、どこまでも成功を追い求め、それによって自己を拡大させようとする。
それは必ずしも悪いことではないが、このまま方針を変えないのであれば、覚者になることは難しい。なぜなら、覚者はこんなアイデンティティーを持っていないからである。
次の段階に進むには、どこかで悟りに目を向けることになる。
意識レベル600台くらいの状況は上のような図になる。
ひたすら自己の拡大を目指すのをやめて、自己を宇宙と一体化させる、あるいは自己を消滅させる方針に切り替える。今まで自分と思っていた小さな自己(個人意識)は、宇宙・ワンネス・全体意識と呼ばれる大きな自己と実は同一なのではないかと考え始める。少なくとも、書籍等で学んで知的に理解し、それを確信している状態。
ここで初めて、自己というものが個人意識と全体意識の二重構造になる。そして、二重構造ではあるが実は同一だという結論をなんとか人生の中で体感しようと、瞑想を始めとしたさまざまな霊的修行をしたりする。
だが、まだ覚醒していないので、個人意識の殻は存在している。
意識レベル700に到達して「覚醒」すると、個人意識の殻が破れる。個人意識と全体意識の境界線が曖昧になるのである。
もう「小さな自己」というものが確固たるものとして存在しているのかが、よく分からなくなってしまったりする。
ただし、実は個人意識は残っている。通常の覚醒では、まだ宇宙との分離感は残存している。
なお、上記の図で実線と点線の割合は図を書くのに使用したツールが自動的に決めたものであるので、特に意味はない。
意識レベル970に達すると、個人意識の分離感が消える。
自分が宇宙に溶け込んでいる感じがする。あるいは、宇宙全体が全体意識という1つの生き物のように感じられる。
こういったものの感じ方は、ある程度は共通しているとも言えるが、個人差はある。私がほかの覚者やアセンション達成者の話を聞いていても、自分の感覚とは異なるなと思うことはあるのである。
だから、個人意識が完全消滅した(あるいは最初から個人意識など存在しない)と思っている覚者もいる。
しかし、実はやはり個人意識は残っている。創造主の究極視点から「個人意識など存在しない」というのは一面では正しいのだが、それを言っている本人は絶対に創造主の究極視点を持つことはできない。ある意味ではあまり意味がないことなのである。
だから、ここでは個人意識は存在するという立場をとる。
目に見えるものも、目に見えないものも、全ては全体意識である。あるいは全体意識が姿を変えたものと考えることができる。テーブルや椅子といった物体も、山や川も、宇宙の星も、あるいは思考や概念なども全体意識であり、全体意識が姿を変えたものである。
同様に、個人意識というのは全体意識が姿を変えたものである。全体意識が姿を変えたものを個人意識と呼んでいるのである。だから、個人意識があるとかないとかは、どちら側から見ているかの問題でもあり、どちらも正しいのである。
そして、全体意識から個人意識へのその変換を「聖なる催眠」と呼ぶのである。
宇宙の全ては波動であり、全体意識という波動にはさまざまな情報(例えば、色や音など)を乗せることができると考えるとよいかもしれない。波動にさまざまな情報が乗ると、それが物体として認識されたり、思考や概念として認識されたりするのだと。
そして、我々はアイデンティティーというものを確固たるものと認識しがちなのであるが、アイデンティティーですら波動に乗った情報にすぎないとも言える。
「シリウスという星に約13億年前に生まれた魂であり、カノドメという名前で呼ばれる存在」「そのカノドメさんが自分の分身をつくってこの時期の地球に送り込んだFさんという名前のスターシード」などというアイデンティティーらしきものは、単なる情報であるとも言える。全体意識がその部分集合としての波動に乗せた単なる情報。
そして、我々の個人意識というのは、このようにして全体意識がその部分集合に自ら聖なる催眠をかけ、個人意識と思い込ませたものである。
「個人意識は存在しない派」の覚者はそれを全体意識と呼び、「個人意識は存在する派」の覚者はそれを個人意識と呼ぶ。それだけの違いである。
ただし・・・。
我々よりも意識レベルが高い高次元存在たちは、ほとんど全員が「個人意識は存在する派」であると言っておこう。さらに言えば、9次元以上の存在であれば、全員が個人意識は存在していると考えているそうである。そして、個人意識と全体意識の二重構造をそのまま両方体感しながら生きている。
なぜなら、明らかに「全体意識が個人意識としての体験をする場」が人生であり、宇宙であるからである。そうでなければ、全体意識はなぜ表面上の個人や宇宙などというものを生み出したのかという話になってしまうのである。
だから、禅の世界における十牛図というものでも、全てが空の状態、小さな自己も大きな自己も空の状態というのは、全部で10ある段階のうち第8段階となっている。そして、それは正しいと思う。
その後、結局は個人意識から逃れることはできないと悟るのである。個人意識の完全消滅というのは、この宇宙の全てを体験し尽くして、もう全体意識に戻ろうと決意し、11次元から最後のアセンションを果たして全体意識に溶けていくその時までお預けなのである。
個人意識から逃れることができないのであるから、表面上の世界、色の世界からも逃れることはできない。
そういうことで、最後には「空の世界を体感しながらも色の世界も同時に生きる」ということになるのである。
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