佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)に続いては、日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)に向かう。最寄駅は蹴上(けあげ)で、山科から地下鉄で移動できる。
駅を出て1~2分のところに社号標と鳥居。左にお寺の社号標が並んでいるのが珍しい。そして、それから判るように、まだ境内ではなく、ここから徒歩10分くらいかかる。
社号標の参道を歩き始めてすぐのところに蹴上インクラインというものがある。インクラインというのは傾斜鉄道のことで、琵琶湖疏水を通る船を、標高差が大きなこの区間だけ台車に乗せて移動させていたということである。
実は、この蹴上インクラインも30年ぶりの訪問である。日向大神宮には初参拝になるのだが、この場所には見覚えがあるのだ。
参道の橋に戻る。右手にはかつて船が運行されていた水路が美しい。
参道。ここは京都一周トレイルというもののコースになっているようで、ハイキングの人が多い。
ところどころに誇らしげな「式内」の表示が見られる。当社は延喜式内の古社であり、近代社格は府社。
到着。境内入口を示す鳥居・社号標はここにはない。境外参道を歩いてきたら、突然、広場と手水舎があったのだ。
蹴上駅からわずか徒歩10分程度の場所だが、ハイキングコースだけあって、緑豊かで新緑が美しい。
石段を上ったところに鳥居。
当社の名称には「大神宮」が付く。「大神宮」を名乗っているほぼ全ての神社は各地域におけるお伊勢様とも言うべき存在である。
ところが、由緒書を読むと、当社は伊勢神宮と直接関係がないようである。女神様たちによれば、伊勢神宮と無関係な唯一の「大神宮」のようである。
当社は天孫ニニギの時代の高千穂の宮が長い時を経て廃墟になった(日本の中心が関西に移ったから)後に、それを当地に移して創建されたということである。
由緒書の文言をそのまま載せると、「当神宮は第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられています」。
筑紫(ちくし/つくし)の日向(ひむか)の高千穂から当地に遷座したことにより、当社名称は日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)と言うのである。
※ 筑紫=九州、日向≒宮崎県
非常に興味深い話であり、ありきたりではない希少価値が当社にはあるのである。
話のついでに女神様たちから聞いた興味深い話を書いておく。天孫ニニギが降臨したのは高千穂。そして、ニニギとその次の代の彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)までが高千穂の宮を使用。次の代のウガヤフキアエズになって宮崎県日南市の鵜戸神宮に移動。そして、初代の神武天皇が関西に拠点を移したのである。神代までは宮崎県が日本の中心、それ以降は関西が日本の中心ということである。
各地の大神宮や神明社には、「内宮」と「外宮」が存在する場合がある。大江の元伊勢内宮・外宮(京都府福知山市)、山口大神宮(山口県山口市)、伊勢原大神宮(神奈川県伊勢原市)、伊勢両宮(山形県鶴岡市)など。
そして、当社にも内宮と外宮があるのである。
右手手前に外宮。御祭神は天孫ニニギと天之御中主神(アメノミナカヌシ)である。
そう、通常の大神宮、神明社とは御祭神が異なり、非常に違和感があるのである。この御祭神の並びは斬新ですらある。普通は外宮には豊受大神(トヨウケ)が祀られる。
ここでは外宮に天孫ニニギ。まあ、これは高千穂から遷座という経緯を考えれば納得できる。ただし、内宮ではなく外宮にニニギを祀っているというのは、やはり後の時代に伊勢と融合したのだろう。
天之御中主神(アメノミナカヌシ)を祀っている理由はよく判らないが、高天原の天津神の代表ということだろう。
ちなみに、天之御中主神を祀っている神社をたまに見掛けるが、神社で天之御中主神に祈念してもムダというのが本日の豆知識である。なんと、天之御中主神は神社で参拝者の話を全く聞いていないのである。聞いていないというか、神社での参拝者の動向など見ていないのである。それは天之御中主神の果たすべき役割ではないのである。
これは古事記等の日本神話に出てくる神様の中で唯一の存在である。そのほかの神様は、高皇産霊尊(タカミムスビ)、神皇産霊尊(カミムスビ)以下、どんな天津神も国津神も神社での参拝者の話(祈念内容)は聞いている。
唯一、天之御中主神に話を聞いてもらう方法があって、それは「アメノミナカヌシ様」と名前で呼びかけること。地球と交流がある星の高次元存在であれば、名前で呼びかければ必ず認識可能なのだそうである。
ただ、どちらにしても、神社では御祭神に名前で呼びかけて祈念しても、祈念内容は叶わない。「○○になりますように」という祈念は、単に祈念しただけでは神様は実現してくれない。だから、やっぱり、名前で呼びかけて願望を祈念するのではなく、神社というのは感謝を捧げる場であるということになる。
外宮の左手の道を奥に進むと内宮がある。
内宮の御祭神は天照大神と宗像三女神。天照大神は伊勢の影響で内宮に祀るようになったのは言うまでもない。
問題はうちの守護霊様チームの宗像三女神。内宮に宗像三女神とは場違いもいいところである。これは本人たちも認めているので、書いても問題ないのである。この人たちは内宮とか伊勢とかとはトーンが違うのである。もっと、軽い人たちなのである。内宮のような荘厳な雰囲気のところにいてはおかしいのである。
敢えて理由を考えれば、それは宗像三女神の市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)が木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と同一の存在であり、すなわち天孫ニニギの妻だからということになるであろう。しかし、なにも内宮に祀らなくても、摂社にでも祀れば良かったのではないだろうか。
内宮に宗像三女神とは、本人たちも苦笑いなのである。
御祭神の話はともかくとして、外宮も内宮も元伊勢の神社のような雰囲気になっており、その点は素晴らしく、また違和感もないのである。山口大神宮を思い出すような感じである。
もっとも、神様ごとの個別のエネルギーの違いを感じられる人たちにとっては、やっぱり違和感があるそうである。私は幸か不幸か、特殊な霊的能力を持たずに生まれたスターシードなので、そこまでの違いを感じ取ることはできず、私には普通の伊勢系の神社に感じられる。
内宮の先には「お約束」の天岩戸がある。大きな岩をくり抜いて中を通れるようにしたもの。
この時には天岩戸としてしか認識していなかったのだが、今当社サイトで調べてみると、「天岩戸 戸隠神社」となっている。境内社だったようである。戸隠神社の御祭神は天手力男命(アメノタヂカラオ)。岩戸開きで活躍した神様。
戻ってきて、境内社を巡る。
左は「朝日泉 御井神社(みいじんじゃ)」。御祭神は私の守護霊であるミズハノメ。「朝日泉」とあるように中に井戸があり、実際に使用しているようである。伊勢神宮外宮にも上御井神社(かみのみいのじんじゃ)、下御井神社(しものみいのじんじゃ)というのがあり、中に井戸があった。神前に供える水などはここから汲むのだと思う。
右は1つの社殿だが、2つの神社ということのようである。神宮125社にも「同座」という概念があった。恵美須神社と天鈿女神社。前者の御祭神は事代主神(コトシロヌシ)、後者の御祭神は天鈿女(アメノウズメ)となぜか大山祇神(オオヤマツミ)。ここでも既成概念を破壊されるような斬新な組み合わせの御祭神である。天鈿女はだいたい猿田彦(サルタヒコ)とセットになるのが常であるが、どこへ行ってしまったのか。
猿田彦はこっちに祀られていた。これも同座で猿田彦神社と花祭神社(かさいじんじゃ)。同座の花祭神社の御祭神はうちのチームの木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)。これまた斬新な組み合わせと思ったのだが、1つの神社に複数の御祭神を祀る相殿(あいどの)ではなく、単に複数の神社が1つの社殿を共有する同座だから、ペアになっているわけではないという解釈で良いようだ。
花祭神社という名称は初めて見た。「木の花」の女神に対して「花祭神社」とは、なかなか洒落ている。
最初の鳥居近くにあった、この社殿。完全に舞殿と認識していたのだが、公式サイトで確認したところ、なんと外宮の拝殿であった。ここでも「舞殿に見える拝殿」が見られたのである。「舞殿に見える拝殿」については過去記事「神社巡り 吉田神社」を参照していただきたい。
舞殿と認識していたために、拝殿正面から本殿方向を望む写真を撮り忘れてしまった。
この外宮拝殿から鳥居に向かって左手方向に境内社群があり、これらを巡って一周して手水舎のある広場に出る。
多賀神社、春日神社。この左手の道は単なる登山道か何かだと思ってこの先に行かなかったのだが、公式サイトによれば天龍龍神・地龍龍神というのがある。
福土神社(ふくどじんじゃ)。御祭神は大国主命、彦火火出見尊(ヒコホホデミ=山幸彦)、ウガヤフキアエズ、神武天皇。日本という国ができた頃の、国造りや統治をしてきたメンバーという感じだろうか。
朝日天満宮。
伊勢遥拝所方面への道。片道10分ほどかかるので、時間の都合で行かなかった。
この次に厳嶋神社があるのだが、なぜか参拝もせずに写真も撮らなかった。
最後に神田稲荷神社。これで手水舎のある広場まで戻ってきて、一巡りしたことになる。
以上で参拝所要時間は30分ほどだったのだが、天龍・地龍と厳嶋神社は参拝していないため、それらを含めると40分、伊勢遥拝所の往復を含めれば1時間程度の時間を見ておいた方が良いだろう。
当社の基本情報と全ての画像は以下を参照していただきたい。
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