いつの頃からか、このブログは1回の記事の文章量がかなり多くなってしまい、それが習慣化した。そのため、1回の分量に満たない、ちょっとしたテーマについて書くことができなくなってしまった感があるのであるが、そういった小ネタも当然ある。

今回は神社・神道系の小ネタを寄せ集めた記事である。当ブログらしく、世間一般には全く知られていないようなディープなネタも含めて披露していきたい。

■別雷(わけいかづち)とは何か

京都にある通称「上賀茂神社」の正式名称は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。これは神社好きならほとんどの人が知っているであろう。

ところが、この別雷(わけいかづち)が何を意味するかとなると、途端に難問になる。それもそのはず、上賀茂神社の中の人でも判っていない人が大勢いるのである(判っている人もいるのであるが、神社のしきたりなのか、あまり強く主張できないようである)。

昔、初めて上賀茂神社に参拝に訪れた時、特別参拝というのをやっていた。500円支払って、普段は入れない社殿の中で神職の説明を受けられるというもの。随分昔の話なので、ほとんどの話は忘れたが、賀茂別雷神社と言われるゆえんの神話と流造(ながれづくり、社殿の建築様式)を説明されたことは今でも覚えている。

神話は長いので、興味ある方は上賀茂神社のサイトをご覧いただくとして、要約すると、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の御子が成人した時の祝宴で、「おまえの父に盃をささげよ」と言ったところ、「我が父は天津神なり」と言って雷鳴とともに天に昇って行ったという話である。それで、御子が天津神ということが判り、加茂別雷大神として祀っている。

別雷を雷の神様と思っている人が多いのだが、違う。正解が判っただろうか。

正解は、別雷とは天孫ニニギである。前述の神話では天に昇って行ったところの話であるが、雷を別けるようにして天から地上に降臨したという意味である。

よく、大きな神社の境内社に雷神社(いかづちじんじゃ)というのがある。これもべつに雷様を祀っているのではなく、上賀茂神社からの勧請である。本当は別雷神社(わけいかづちじんじゃ)とすれば判りやすいのであるが。

関東一円に分布する雷電神社(らいでんじんじゃ)も同じ。御祭神が火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)などの場合も同じ。全て天孫ニニギを指している。

 

神社関係で「雷」が付くのは、だいたい天孫ニニギを意味していると思ってよい。

■筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原

お祓いの祝詞である祓詞(はらえのことば)に出てくる。

(現代語訳)
イザナギの大神が筑紫(ちくし/つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊(みそぎ)をした時に生まれた、祓戸(はらえど)の大神等(おおかみたち)・・・。

まあ、判るとは思うが、地名である。禊をした場所の住所である。筑紫は現在の九州全体を指す。日向は宮崎県のあたり。以下、だんだん細かい住所になっていく。

だから、たとえて言うと、九州の宮崎の橘(郡)の小戸(村)の阿波岐原(字)というような感じである。

さて、これはどの辺りを指すのだろうか。

私はこんなことまで、ペンデュラムで調べてしまうのである。べつに、今回のネタのために新たに調べた訳ではない。前から知っている。

実は行こうと思えば、困難なく行くことができる場所である。正解は日向国の一宮である都農神社(つのじんじゃ)の近く、最寄駅の都農駅近くの福浦湾の真ん中の辺りである。

ただし、行ってみたところで記念碑の1つも建っていないので、「ああ、あの有名な阿波岐原って、ここなんだ」と感慨に浸る程度であるとのこと。

行くほどの価値はないけど、都農駅から歩いて数分だから・・・次回、都農神社に行く機会があったら行ってしまうかもしれない。

■かむろぎ・かむろみ

今度は同じくお祓いの祝詞である大祓詞(おおはらえのことば)に出てくる、「かむろぎ・かむろみ」のミコトの話。

まず、大祓詞にどのように出てくるのかを確認しておこう。

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高天原(たかまのはら)に 神留(かむづ)まります
皇吾親(すめらがむつ) 神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(も)ちて
八百万(やおよろず)の神等(かみたち)を 神集(かむつど)へに集へ給ひ
神議(かむはか)りに議(はか)り給ひて
我皇御孫(あがすめみま)の命は 豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みづほ)の国を
安国(やすくに)と 平らけく 知ろし召せと 言依(ことよさし)奉(まつ)りき。
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一般的な解釈では、こんな感じになる。

「高天原で神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命が神様の会議を招集し、議論した結果、我皇御孫(あがすめみま)の命が日本(豊葦原の瑞穂の国)を統治して平和な国とするように命じられた」

これも天孫降臨についての話であり、降臨して統治する「我皇御孫(あがすめみま)」が天孫ニニギを指すことは世間的にも議論の余地がなく、また、この解釈で合っている。

しかし、神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)が誰を指すのかは諸説あり、実はたぶん、これまでに正解はこの世に出ていない。

なんとなく、男女ペアの神様であることは判るし、語感からしてイザナギ・イザナミと解釈されることが多いと思うのだが、残念ながら間違いである。

意味から考えると、高天原の会議を招集したわけだから、高天原の最高実力者だろうという予想もある。今日見たあるサイトでの解釈では、「タカミムスビ」「カミムスビ」(どちらも造化の三神、アメノミナカヌシに次ぐ実力者)となっていた。大変面白い推測だと思ったのだが、これも間違いである。日本神話ではどちらも性別なしの単独神とされているのだが、私は実情を知っているから言うと、どちらも男性神であるから間違いである。

こういった類の問題は、学術的に考えても結論は出ないのである。誰にも判らないのだから。

唯一、この問題に決着を付ける方法は「神様に直接、質問する」である。では、正解を書こう。

答えは、神漏岐(かむろぎ)=天孫ニニギ、神漏美(かむろみ)=ニニギの妻さくや姫である。

地上に降臨して日本を治めることになっていた2人が自分たちで会議を招集したのである。こうなると、「あれ、会議を招集した本人たちが、降臨する役を自分たちに決めて、自分たちに命じたみたいな話になって、おかしいんじゃないの?」って思うだろう。私もそう思った。

全体の意味を正確に把握するのは、残念ながら私の得意とするペンデュラムの限界を超えている。ここは女神様たちからのインスピレーションを待って、それが合っているかをペンデュラムで質問する方法しかない。だから、大祓詞の全文解釈などは大変過ぎてやる気もないのだが、冒頭部分の大意はなんとか掴むことができた。

 

※ この記事を書くまで、「かむろぎ・かむろみ」が誰を指すのかだけは知っていて、その他のことは今回記事を書くにあたって調べた。

まず、この会議は降臨して統治するのが誰かを決める会議ではなかった。既にニニギとさくや姫が地上に降りることは決まっていた。その状況で当人たちが会議を招集した。

よくアシュタールが言っているように、高次元ではピラミッド状の組織はないのである。高次元は横のつながり。最高実力者(最も古い魂)でなくても会議は招集できる。

皇吾親(すめらがむつ)は一般的に「地位が高い親神様」という意味に言われているがそうではない。「スメラ」とは天皇である。天皇のことを「スメラミコト」と呼ぶのをご存じだろうか。例えば、初代神武天皇は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)、15代天皇であり八幡神社の御祭神である応神天皇は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)などのようにも呼ばれる。日本書紀には各天皇ごとにこのような名前が書いてある。また、葦原瑞穂著「黎明」には「スメラの魂」の解説がある。

この大祓詞は天皇またはその代理人が奏上する祝詞だったのだろう。皇吾親(すめらがむつ)とは、「私たち天皇、皇室の祖先である」という意味。皇室の祖先である天孫ニニギとさくや姫の2人が神様の会議を招集したということになる。

我皇御孫(あがすめみま)の命は世間一般の解釈通り、ニニギで合っている。「孫」の字が入っているように、「天孫」の意味。

「言依(ことよさし)奉(まつ)りき」。これが解釈が難しい原因となっているのではないかと思う。これは「命じた」ではないのである。「言葉による神事・儀式を行った」である。まあ、たぶん、フトダマの出番である。

以上を総合して大意を要約する。

地上に降臨して統治することが決まっていた天孫ニニギと妻さくや姫は、高天原の神様の会議を招集した。そして、降臨や統治についてさまざまな議論をした後、ニニギが日本を統治して平和な国となるよう、神事・儀式を執り行った。

いかがだっただろうか。

ここに書いてあることは、情報の真偽を確認できる手段を持っている人のみが納得できることなのかもしれないが、本当のことである。

逆に、その手段を持たない一般の人は受け入れられないかもしれない。でも、べつに良いのである。論争をしたいわけではない。判る人だけ判ればよいというお話。

先にも書いたけど、こういうのは、自分の解釈が正しいんだと根拠を示して論争して決着が付くようなものではない。神様に教えてもらうしか方法はないのである。だから、神様とお話ができる人たち、あるいは私を信用してくれている人たちだけの間でだけ理解されるお話である。