「伊勢へ七度熊野へ三度、愛宕さまへは月参(いせへななたびくまのへさんど、あたごさまへはつきまいり)」

これは十返舎一九の東海道中膝栗毛に出てくる言葉で、信心深い人を表現している。語呂が良いだけではなく、かなり良いところを突いている。私は今回で神宮参拝は3回目だが、生涯であと4回くらいは参拝に来るような気がする。前回は3年前、初回は6年前だから3年ごとに参拝に来ていることになる。

初回の参拝時には伊勢神宮や神社全般の知識はたいしてなかったので、ただ参拝しただけだった。2回目の参拝時には立派な神社趣味人になっていたので、テーマを設定していた。1つは「別宮を含む神宮125社の参拝」。伊雑宮、瀧原宮にも行っているし、内宮・外宮周辺や五十鈴川・二見の神宮125社にもかなり行った。もう1つは「周辺神社の参拝」。椿大神社、猿田彦神社、二見興玉神社、伊射波神社(伊雑宮と並んでもう1つの志摩国一宮)、伊勢の産土神社など。

そういうことなので、第3回となる今回もテーマを設定していた。優先順位が高い順に以下のようになる。

1)早朝参拝
2)内宮・外宮の境内にある神宮125社を再確認して、完全に全て漏れなく認識・参拝する(写真にも収める)
3)内宮摂社第1位の朝熊神社参拝
4)6年ぶりとなる倭姫宮参拝

これらには文中で触れていく(朝熊神社と倭姫宮は次回以降)。

まず早朝参拝について。伊勢神宮は当然ながら参拝者が多い。特に内宮の日中の人口密度はすごいものがある。そして、私は人が多い空間が好きではない。従って、これは早朝参拝しかないなと思っていた。ただし、今回は伊勢市のホテルの予約が取れずに松阪に宿泊。始発電車に乗って移動して可能な範囲内の早朝参拝である。今回の記事では内宮の早朝参拝の状況について書いていく。

松阪を朝5時16分の始発電車に乗る。伊勢市や宇治山田で降りてもバスがない時間帯なので、これらの駅で降りるならタクシー利用しかない。しかし、タクシーがいなかったらオシマイである。当然ながら早朝参拝という需要があることはタクシー会社もわかっているので、伊勢市駅のタクシー乗り場にはタクシーがいるらしい。ただ100%確実かはわからないので、早朝参拝に初めてチャレンジする今回は五十鈴川駅で降りることにした。

 

ここから内宮は徒歩30分。万が一ラッキーで駅にタクシーが待っていれば、それに乗るという二段構え。ただし、実際にはタクシーはなく、歩いて内宮に向かった。歩いている途中でタクシー1台に抜かれたので、ラッキーな場合もあるのかもしれないが。ちなみに、私のほかにもう一人五十鈴川駅から内宮に向かって歩いていた人がいたのだが、途中で猿田彦神社に行ってしまった。私は一刻も早く内宮に着きたかったので、一目散に内宮へと向かう。

 


内宮到着は6時20分少し前。そしてわかったことは、「内宮の6時20分は特に早くはない」。人がいっぱいいて驚いた。はっきり言って、日中ピーク時の普通の一宮よりも朝6時20分の内宮の方が人が多い。そうは言っても、内宮は境内が広いから人が密集しなくてすむし、日中ピーク時と比較すれば遙かに人が少ないから、早朝参拝の意味はある。もちろん、早朝だから気持ちがよいとかいうことのほかに、写真を撮りたい場合などには早朝参拝がお奨めである。

1)宇治橋手前の鳥居、宇治橋、正宮石段下などでは「タイミングを待てば、人が少ない写真が撮れる」

 

2)境内社等では「タイミングを待てば、人が写らない写真が撮れる可能性は高い」

 

3)境内社はもちろん、正宮でも列に並ばずに参拝が可能。もちろん、横に広がっての参拝が前提。

 

4)拝殿前の参拝(祈念)時に、中央を避けて端の方に寄って立てば、長めの祈念をしても大丈夫。

 

 

もっと人が少ない想定だったので残念だが、なるべく人が写らない写真を撮っていくしかない。

 

今回のテーマに「内宮の中にある神宮125社を再確認」というのがあった。何を言っているかわからないかもしれないので、これを説明しよう。

 

まず、伊勢神宮の正式名称は「神宮」である。単に「神宮」と言えば、伊勢神宮である。そして、「伊勢神宮には内宮(ないくう)と外宮(げくう)がある」とよく言われるが、本当は神宮は125社から構成されている。内宮と外宮だけではないのである。

 

例えば、内宮の近くには月讀宮(つきよみのみや)、外宮の近くには月夜見宮(つきよみのみや)という別宮 (べつぐう) がある。そのほかにも、もっと規模が小さく、あまり知られていない神社もある。これらは、格式の順に、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)と呼ばれる。例えば、内宮から道を挟んだ反対側の駐車場の奥に、ほとんど誰も来ない摂社・末社・所管社がある。

 

正宮(しょうぐう=内宮・外宮)、別宮、摂社、末社、所管社を合わせて125社あり、これら全ての総称が神宮というわけなのである。

 

そして、ここからが複雑なのだが、125社は物理的に125の場所に散らばっているわけではない。内宮の境内にも125社に数えられる神社がたくさん存在するのである。これらをすべて再確認のうえ、全てに参拝して、なおかつ写真に収めようということなのである。

 

内宮の境内には正宮を含めて13社の神宮125社がある(前述の駐車場の奥の領域は含まず)。だから、1回の内宮参拝で125社のうち13社に参拝することが可能なのだが、あらかじめ知ったうえで意識して13社を巡らないとそうはならない。一般の参拝者はまず間違いなく13社全てには参拝していない。これを1社たりとも見逃すことなく、全てに参拝しましょうというのが趣旨である。

 

どういう順に巡ってもよいのだが、内宮には自然な順路のようなものがある。まずは、一直線に正宮に向かうのでよい。では出発。

 

 

 

 

 

最後の画像は五十鈴川の御手洗場(みたらし)。神宮公式サイトに「ここでは手水舎と同じようにお清めができます」とある。

 

 

 

いよいよ、正宮の前の石段下へ。この石段から先は撮影禁止であるため、写真は石段下から撮らなければならない。

 

 

 

 

神宮のように人が多い神社では、後ろに人が並んでいるから参拝(祈念)に時間をかけることができないことが多い。今回初めて通常通りの時間をかけて参拝することができた。といっても、拝殿の端の方に寄って1~2分程度だが。

 

たまに、人の多い神社でも拝殿の中央を独占して長時間祝詞をあげている(しかも声に出して)人がいるが、絶対に真似しないように。他人に配慮ができない時点で、神社に来るよりも先にやることがある。

 

また、横に広がって参拝するのが当然のマナーなので、むやみに列をつくって並ばないようにしたい(いったん列ができると、どんどん列が長くなって参拝したい人が参拝できなくなってしまう。1組の参拝者で拝殿を独占しようなどと思わないこと。また、万が一列ができていても横に広がって参拝していないようであれば、勇気を出して最前列に進み、端の方で参拝しよう)。

 

さて、写真撮影不可の拝殿の奥の領域には、これぞ伊勢神宮という光景が広がっている。これこそが神宮なのに、写真は撮れない。しばらく眺めて正宮の参拝は終了。

 

 

 

次は自然な順路として、表示にあるとおりに別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)に向かうのだが、内宮境内の神宮125社全てに参拝する場合には、ここから注意が必要になる。

 

 

 

荒祭宮に向かう途中にあり、ほとんどの人がなにげなく通り過ぎてしまう、この高床式倉庫のような建物は、 神明造の神社であり内宮の所管社である御稲御倉(みしねのみくら)になる。つまり神宮125社の1社である。だから、ここで参拝する。今まで、私以外にここで参拝している人を見たことがない。それくらい、神社に見えない。

 

 

そのすぐ先にある外幣殿(げへいでん)は似たような建物だが、こちらは神宝類を納めているらしく、神宮125社ではない。というよりも、たぶん、神社でもない。この辺りは一般人からすれば謎である。

 

 

この外幣殿の角を曲がった辺りの内宮の御垣内に神宮125社のうち3社がある。興玉神(おきたまのかみ)、宮比神(みやびのかみ)、屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)で、いずれも内宮所管社。

 

一般人は立ち入り禁止である。なんと神宮125社の中には立ち入りできない神社も含まれているのである。このような場合は遥拝(ようはい)という形式の参拝になる。遥拝とは、離れた場所に祀られている神様に対して、その方向を向いて参拝すること。もっとも、正確な位置すらわからないので、おおよそで良いと思うし、3社を念頭に置いて鳥居か御垣に向かって参拝すればよいと思う。

 

 

 

ようやく、別宮の荒祭宮。ちなみに内宮第1位の別宮である。神宮125社には序列があり、別宮の中での序列(内宮・外宮それぞれ別個に)、摂社の中での序列、末社の中での序列、所管社の中での序列が決まっている。

 

このまま書き続けると、とんでもなく長くなりそうなので、いったん終わりにして次回に続く。

 

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