(前回の続き)

 

今回は私自身の体験を書いていく。スピリチュアルの世界に入ったころからの個人的な悟りのストーリーはまた別の機会に譲るとして、ここでは主にこの2年間にやってきたことを述べる。初めて非二元の本を読んだのが2015年6月頃で、そこからの2年間が真剣な求道者であった期間として考えているためである。なお、本格的にスピリチュアルの世界に入ったと自覚しているのが2010年の秋ごろであり、ここから悟り・非二元への探求が始まるまでの期間の前半は現世ご利益系スピリチュアル、後半は悟り系スピリチュアルである。また、2010年以前もバシャール、セス、引き寄せ(エイブラハム)などの本は読んでいる。一番最初に読んだのがバシャールで、いつの頃かははっきりしないが、15年くらい前だろうか。この時は、自己啓発の延長線上でバシャールを読み始めた。自己啓発 → スピリチュアル → 悟り・非二元と進んできたと自分では思っている。

 

まず、全般的に言えるのは、あまり修行らしい修行はしていないということ。後で述べるように瞑想や座禅もしたりしたのであるが、瞑想家や禅僧のようにはできなかった。現代ではどうなのかわからないが、少し前の時代までだと瞑想に人生のうちの30年を捧げて、それでもなお悟れなかったという事例が無数にあるわけである。というよりも、30年瞑想をしても悟れないのが普通であり、悟りにいたるのが稀なことだった。現代はアセンションの時代であるから、そういう30年の修行みたいなアプローチはないだろうなとは思った。私自身がそれに耐えられるはずもない。また、耐えなければならないような苦行はムダであると結論が出ているのだから。

 

そして、悟りの定義にもよるが、「悟りとはエゴ(個人意識)が消失して全体性のみが残ること」という方向性があるから、探求らしい探求はそれ自体が悟りから遠ざかる行為であると言われている。わかりやすく言えば、張り切って「さあ、修行やるぞ!」というのは方向性としておかしいから、修行らしい修行をしなかったのもこういう背景があるのである。エゴの死が悟りであるが、エゴは決して自殺しないとも言われる。ただ、最終的にエゴは自殺しないとしても、エゴが弱まって、弱まって、最終的に完全に諦めるところまでは持って行かないといけない。そうしたら、最後に全体性からの恩寵が起こるかもしれない。

 

悟りを目指して何かをするということは、分離した個人が存在するという夢の中のストーリーであるかもしれないが、ともかく夢の中の主人公はストーリーに沿って演技をしなければならない。まるで自由意志があるかのように。見かけ上の自由意志によってあなたがやりたいと思うことは、神があなたにやってほしいことであり、全体性が仕組んだストーリーの中で起こることになっていること。

 

悟りを目指してやったことのうち、主なものを列挙する。

 

・さまざまな書籍を通じた悟り・非二元の知的理解。
・自分の思考・感情の観察。
・数十秒程度の短時間の無思考状態を生活の中で意識的にたくさんつくる。
・ラメッシの唯一のサーダナ。
・空性やワンネスを感じながら生活する。
・自分・個人・行為者はいないことを感じながら生活する。
・その他、書籍で学んだことを実感しながら生活する。

 

次に、補助的にやったもの。

 

・瞑想・座禅
・マントラ・お経
・「ありがとう」行
・サットサン
・神社巡り

 

大雑把に言うと、1)書籍から悟り・非二元に関する知的理解を得て 2)それを単なる知的理解に終わらせないために学んだことを生活の中で体感して深い理解に昇華させていくというのが骨子である。

 

やらなかったことは、もちろん無数にあるが、前回の記事までに出てきたもので言うとカルマ・ヨガはやらなかった。というよりも自分には瞑想よりも難しいと感じた。瞑想とカルマ・ヨガはどちらの方がやりやすいかは人によるので、向き不向きがある。

 

さて、とりあえずやったことを列挙したので、それぞれの項目についての補足説明を次回以降にしていく。

 

(次回に続く)

 

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