こんばんは。

 

 

白目でベビーカーを押している人がいたらそれは私です。
この息苦しさは恋かなと。(暑さ)

 

 

オリンピックと甲子園でおかあさんといっしょやってねーよ( ゚д゚)
なんだかすっかり夏休みなのに通常営業している私という感じで、切なくなりました。
関係ないですが、おかあさんといっしょの歌の、「しらないともだち」というフレーズになんとも言えない気持ちになるのは私だけでしょうか。
ともだちの定義よ。
よく聞く「大きいおともだち」という言葉も胸騒ぎがします。

 

 

 

 

 

娘のひとり遊び事情と、それにまつわるなんやかんやを書きたいと思います。

 

前に友人のうちから帰って来た後、私が貸したマンガを読んでて気がついたらこんな感じ、と座布団で寝ている息子くんの写メが送られてきたことがありました。
その子は人見知りもひどくてお母さん子で、とても手がかかると言われつつも、こういう感じのことは昔から普通にあるみたいで、「手がかかる」の定義ってなんだろうって思うよね( ゚д゚)
娘が起きているときにマンガなんて読めないし、気がついたら娘が寝ちゃってた!なんてことはありえません。

 

 

 

私が家事をしている間は、どうにかひとりで遊んでくれることも増えてきましたが(キッチンの柵にへばりついていることもあります)、いざ家事が終わると結構付きっきりです。
それがしんどいときは、何か用事を探して逃げます。
娘はテレビもじっと見たりしないので、これさえ渡しておけば時間が稼げるというものがいまだにありません。

 

私が台所仕事をしているときのひとり遊びは、オモチャカゴをキッチン柵前に引きずって持ってきて、そこで遊んだりすることもあります。柵を開けようとするとオモチャ(携帯用歯ブラシのケースとか)がつっかえる罠。

 


娘が起きている間は、テレビもほとんど見られないし、ケータイもメルカリもほぼ無理で、手帳に何かメモをするのも怒ります。たまに隙はあるけど。

 

 

なので、子どもが起きている時間に何かしら休めるというのは、すごく羨ましいけど、それよりもイメージができません。想像すると罪悪感でいっぱいになります。

でも、結局はこういうのも習慣なんだろうなと思います。
ネントレがそうであるように。

 


こうあるべきという育児の理想の姿としては、親と子どもがじっくり向かい合って、笑顔でコミュニケーションをとってできる限りいっしょに遊ぶ。
親の都合のいい理想形としては、親も子も基本はお互いが思い思いの時間を過ごして、たまに子どもが絵本を持ってきて、そのときはいっしょに読むみたいな感じ。
そして現実は、子どもの度重なる要求に疲労でアップアップしながらどうにか乗り切る。

 

 

育児は「手を抜いていい」とよく言われるけども、抜き方がわからないことが多いです。手を抜いた理想形も、手を抜いた罪悪感をどう埋め合わせするのかもわからないことが多い。

 

 

ネントレは、きちんと定着した身から言うとと、てもいいです。
そして、決してうちの娘が特別なわけではなく、おそらくほとんどの子ができることだと思います。
でも、スタートの状態からして難がありすぎるのが目に見える、ということだけではなく、ネントレの最終形態が「親の都合のいい理想形」すぎるから、抵抗があるんだろうなと思います。そこまでは望んでないみたいな。

 

 

そういう感じ、多いよなーと思います。

ネントレ導入前はそう感じていたし、ネントレ以外の場面で、育児で楽を求めようとすると必ず自分の中の抵抗感とぶつかります。
育児は知らぬ間に自分にいろいろ課してしまって、首を締めてしまうことの連続なんだろうなと。
わかっているのに全然その呪縛から抜けられない( ゚д゚)

 

二人目はきっといい具合に雑なんだろうなと思うと、なんとなくその雑具合がイメージができるけど、一人目では全然できません。

 

 

 

 

 

 

暑くて散々煮詰まったけど、明日からちょっこし帰省します。やっと。
きっと実家もそんなに楽じゃないと思うけど(自分の部屋ないし)、おいしいもの食べて、残暑見舞いでも書きます。(暑中見舞いは間に合わず)

こっちに帰って来てから、入れ替わりでセンターが5連休に入るんですが5連休て!!!

やばいですどうしよう。