※完全なる愚痴のつづきです。



この友人は、一発妊娠×2なんですが、自分の母親が流産を何回も経験していたこと、自分自身も、もうちょっと痩せないと子どもは難しいかもしれないと医者から言われていたこと、専業主婦だったので「子どもは?」にも「二人目は?」にも非常に悩まされたことから、人に子どもをすすめるようなことは一切しません。


でも、昔から家族の話(自慢含む)をよくする子で、家族と友人を同席させたりするのもそれほどためらいがないタイプ。それは子どもができてからも変わらず、人が自分の子どもに興味がないことを承知で育児日記メールをガンガン送ってくるし、友人の集まりには事情がない限り子連れで来ます。デフォルト。
昨年の長男の保育園入園から、もうネタがありすぎるらしく、メルマガかブログかってくらいクソ長い育児日記メールが送られてくるようになりました。長男誕生のとき以上の白熱。それまでは私も思うところがあれば返信するし、ふーん、くらいならスルーして自分の話を気にせず送れる感じだったんですが、さすがにモヤモヤしだしました。
日に日に膨らむ、送る相手が違うんじゃないの?という違和感。


このモヤモヤをうまく処理できないまま、なんとなく彼女にメールを送ることが少なくなりました。


私は自分が子どもが欲しくいけどなかなか授からないから、子どもの話を聞くのがつらくなったのかなと思ったんですが、分析の結果、もはやそういう次元の話ではない、という結論に達しました。

探しだして一番しっくりきた言葉が「共感できなくなってきた」ということ。


友人に子どもができたとき、違うステージに行ってしまう気がしたけど、実際会って話して思ったのは、母になっても意外と人は変わらないんだなということでした。
でも、子どもがどんどん大きくなって母親歴が長くなってくると、やっぱり自分のいる世界とは違う世界にいることに気づきます。もうホント単なる「親」です。

相手の話に共感できないことが多くなってきたし、同じように自分の話すことが相手に共感されないだろうという思いも強くなりました。


休みの日の散歩して、モスに入ってひとりでコーヒー飲んでほっこりしたとか、友人とオンラインでモンハンしたとか、ひとり旅に行ったとか、なんかこういう私が感じた喜びを共感してもらえる次元にはもういない気がしました。


たぶん、「夫婦で出かける」とか、「美容院に行く」「ゆっくりする」「服を買う」「時間がない」「疲れた」「ひとり旅に出たくなる」「働く」「親に会う」とかとか、そういった行動の意味も内容も、全て私と彼女では微妙に異なっているんですよね。


そんなこんなで、メールのやりとりに関して、私は距離をおくことに決めました。
根本的に縁を切りたいとかではなく、今は道が別れたんだなという感じ。でも、もし私が親になったからといって、また頻繁にメールのやり取りをするかどうかはわかりません。

ひとつ心配だったのは、「もしかして不妊だから子どもの話つらいんじゃ…?」とかありがちな推測をされたら嫌だなとということ。
それもゼロではないけど、そんなことよりも自分のメールの内容と送る相手をよく考えなさいよって話ですよ。
でも、昨日の深読み具合からすると、やっぱりそう思われていたんだろうなって。


なんか、不妊って大変でしょう、わかるよ、みたいな、世間のイメージ通りに受け取って同情されるのがすっごい嫌なんです。
想像するよりいろんな側面の問題があるし、想像するよりもつらいし、想像するよりもオモシロイこともいっぱいあるし。
適当な枠にはめないでよって思う。
(こりゃー、こじらせてますな!)






だから私は人に妊活のことは一切話せないんだなぁ…。
まあ、本当に語り尽くせないもの。


最近、32歳の女の友情の難しさを痛感します。
つい数年前まではそうでもなかったのになぁ。




5歳からの付き合いの幼なじみが、なぜ私にそんだけメールを送ってきたかというと、きっと私のことがとても好きだからでしょうね。
今も昔も困った幼なじみだよ。





以上、後厄突入の単なるこじらせ愚痴話でした。