坂出富美子と豊海のブログ
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megumi herbaru(カリスのハーブスクール)

 ハーブショップを始めて一番に思ったことは、その使い方を広める事でした。私自身もその努力を第一に考えて、テイーを始めとして、栽培、料理、クラフト、染色等皆様に楽しんでいただけるよう、2時間で完成品を持ち帰れるよう、また試食・試飲できるよう工夫努力をいたしました。

 

 自治体の公民館活動で、新企画としてハーブを取りあげて下さる所から、多くの問い合わせを頂きました。そこから派生して長い年月継続したところも多くありました。小田原ハーブの会、世田谷区太子堂ハーブの会も数回のハーブの企画ではもの足らず、自主企画で延長講座となり、太子堂ハーブの会は50回以上、小田原は26年の歳月をご一緒に学び過ごしました。86歳になりそろそろ終わりにしようかと最後の食事会を計画していたところ、コロナが流行りだし中止になりました。千代田区、蕨市、大和市、相模原市等忙しく通いました。

 

 朝日カルチャー名古屋からの申し出は最初3名でした。カルチャーからは”東京から来て頂くのにどうしましょうか”という問い合わせがありましたが、お断りすればその3名の方はハーブから離れてしまう気がして引き受けました。始めから赤字覚悟の出発でした。回を重ねるごとに受講生が増え、30名の部屋が満室となりました。その上待ちの方が、25名居るということで”それならば一講座開けるじゃない”という事で名古屋講座は一泊二日となり、初級、中級と2コースとなりました。27~8年続きましたが、昨年朝日カルチャー自身が閉鎖となりました。JHS(ジャパンハーブソサエテイー)の支部設立は名古屋の講座で学んだ人達の発意で第一号として発足しました。今は各都道府県に広がり34支部があります。

 

 自社の講座はスタートから開催され、スタッフが担当しましたが、著名なハーブの先生方をお招きして学ぶことも多くありました。JHSで資格認定制度が発足しカリス成城は上級校として活動し、多くの人材を育ててきました。

 

 終了した方は、スクールを立ち上げハーブ愛好家を育てている方、地道に数人の生徒さんを教えている方、ガーデンや公園のハーブ園を担当している方、今の仕事に生かしている方、道は様々ですが活躍の場を広げています。特に当校の上級コースは、ハーブ界のレジェンドと言われる先生方(北村光世先生、草香もえ先生、西井香春先生等)を講師にお願いして先生方の今日に至るご苦労やご努力をうかがう事ができましてとても有意義な講座を展開しています。

 

 私は昨年91歳となり体力的にも限界と思い、又坂出も95歳となり大腿骨骨折等もありその面倒を見ることもあって、アシスタントを3年担当して頂いた田原千奈さんにバトンタッチして総ての面から引退しました。

 

 スクールのPRも講座案内も含め、内容の濃い、今風の良いスクール展開ができます事を願っています。

連休を迎えて

 桜の便りが北海道に届いた今は、ゴールデンウイーク真っ只中、諸物価値上がりの折から近いところの公園や催事の情報で、上手な過ごし方を紹介しています。

 

 新入社員が辞めるのもこの時期だそうで退職願代行が繁盛しているようです。”嫌なことは人にやってもらう”そんな時代なのでしょうか?叱られたり、恥をかいたり、嫌なことを頑張ってやり遂げたり、そんなことは要らないのです。自分の好きなように月日が過ぎて行ってくれればいい訳ですから。でもよい人間はそだちません。

 

 草花の美しい季節です。芝桜、ツツジ、バラ、ネモフィラ等自然のかもしだす風景は壮大で素晴らしいものです。カリスの前庭にはラベンダー、バラ、黄花ジャスミン、ウエストリンギア等が花盛りです。間もなく豪華な白い花を咲かせるテイーツリーも見事です。

 

      【年年歳歳花あい似たり 年年歳歳人同じからず】

 

 TV番組で大食いの映像や、大食い競争、面白くする為にケーキやパイを投げたっりしている画面をよく見ます。戦後食糧難を経験した私達には、食べ物を遊びごとに使うなんて許されることではありません。世界中には飢えた人がたくさんいます。人が生きる糧は大切なものです。日本の食料自給率は30~40%といわれています。平和が失われた時、国産品を奪い合う人々の姿が目に浮かびます。食べ物は感謝をして大切にいたしましょう。

 

 今日は5月5日「こどもの日」柏餅を食べ、しょうぶ湯(ハーブ湯)にはいります。

92歳の誕生日を迎えて(4)

 原稿を書こうと思っている間に心不全となり、2週間ほど入院しました。体内に貯まった余分な水分が抜けて体調は良いようですが、今は弱ってしまった足を使うよう心掛けています。

劣化は早く、復活は遅々として進まず、情けない限りです。

 

 昭和30年代の共働きは、今のように保育園もなく、殆どの人は親に見てもらうのが普通でした。私達は自転車で子供を預け、勤務先に行き、仕事が終わったら連れて帰るの繰り返しでした。勿論紙おむつも無く、布オムツを毎日洗濯して、畳んで使います。一番困るのは梅雨時や長雨の続いた時です。母が浴衣を工面してくれたことを思い出します。

 

 長男は母親の元で4歳になり、あちこち連れて歩けるようになり、楽しみに出かけるようになりました。次男を身ごもった時、62歳の母はまた一からの子育ては出来ない。”自分で育てなさい”という事で、30歳で専業主婦となりました。

 

 年子で三男が生まれ、育児に忙しい毎日が始まりました。段々育児馴れと言うのでしょうか、子供同士のなれ合いもあり下の子ほど手がかからないで成長してくれたように思います。

 

 小学生時代は厳しくと言う豊海の方針で、少々の熱でも学校に行って帰ってくると平熱に戻っていました。長男が幼稚園ではしかや百日咳を貰ってくると3人揃って寝込むので下の二人は、幼稚園、小学校で皆勤賞を取ったりしました。

 

 高知で一人暮らしをしていた父も高齢になり、同居をするようになりました。植物が好きで、坂田種苗やタキイ種苗に通って、余り人が育てないような種を蒔いて花を咲かせ、喜んでいました。子供がボール投げをして植木にあたると遠慮なく殴られていました。マイペースで車道の真ん中を歩いていたりするので、車の友人から「また坂出さんのおじいさんだ」と苦情が来たりしました。なんだかんだと男5人の世話に明け暮れた頃でした。

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