坂出富美子と豊海のブログ
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行きつけのセブンイレブン閉店

 いつも利用している家の近所のセブンイレブンが昨日閉店しました。とても便利に使っていたので、残念でなりません。思えば15年の歳月が過ぎていました。

 

 2011年の6月1日から8日まで私はソサエテイーの仲間とローズの原産地ブルガリアの旅に出掛けていました。豊海は足が弱くなってしまい、留守番することになりました。

 

 新しくできたセブンイレブンに日暮れになると、卵サンドを買いに来るおじいさんが居ました。10日ほど続いたので店のスタッフも関心を持ったようです。”かわいそうなおじいさん”と

 

 やがて夏休みが近くなって、いつも何か孫達にしてあげたいと、その年はTBSでやっている「コーラスライン」を見に行こうとチケットを購入、受け取りをセブンイレブンにしました。12000円のチケット代5枚分、6万円を支払いました。やっと”かわいそうなおじいさん”からぬけだすことができたようです。年末にはスタッフの仕事納めに晦日そばを40人分注文し、カリスのオーナーだと認知して頂きました。

 

 それからは節分の恵方巻、土用の丑の日のウナギ、お正月のおせち料理等々お付き合いを深めていきました。孫も大学生時代バイトをさせて頂きました。

振り込みやチャージ等これからどこのコンビニにしようか、迷い中???

92歳の誕生日を迎えて ⑶

 高校を卒業する頃、地元の小学校に勤務する従妹から、勤めてみないかという誘いがあり、父親もなく、大学は諦めていたのでその道を選びました。

 

 ベビーブームの子供たちが小学1年生になるので、学校は2部授業、午前組と午後組となり、教師も足りなくなったわけで、高卒で採用されたわけです。(その後は大卒が条件となったが)

間もなく小学校が新設され2部授業は解消されましたが、私の資格は助教諭、夏休みや冬休みに教育委員会が主催する講習会がありそれを受けると単位がもらえるが、かなりの単位数があるので、何年もかかりそう、これを何とか早くクリアーする方法がないか模索しました。

 

 兄が法政大学に勤務していたので相談したところ、通信教育で教職課程があり、それを終了すると東京都の教諭資格が取れると知り早速入学しました。大学基本の教養科目もあり夏休みに授業に出てみると矢張り教授の話をきけたり、友人もできて夜学に通う方向にシフトしていきました。そこで坂出との出会いもあったのです。 

92歳の誕生日を迎えて ⑵

 当時の食糧は配給制でした。食べ盛りの青少年には多い点数が与えられていたようですが、食料がありません。働き手の男性は戦争に取られ老人や女子供では農作業もはかどらず、戦災で焼けの野原、ほとんど配給は大きく作られたサツマイモでした。色も薄く甘みの無いまずい芋でした。それしかないので蒸かして食べました。母は病弱の父のために買い出しに行って米を農家に頼んで分けて貰い、毎晩おかゆを作って父の体力に気を配っていました。その父も中学1年の時に亡くなりました。

 

 終戦後はラジオで配給の放送がありましたが「東京地区、ホッケ、スケソウダラ」毎日まずい芋と腐ったような魚ばかりでした。闇市が立ち、そこではお金さえ出せば色々な物を求めることができるようにはなりましたが・・・

戦争中に配給された粉がありました。捏ねて蒸かすと黒いお餅のようになり食べました。戦後押入れの片づけ物のをして奥から出てきた缶の中のその粉は、藁になっていました。母と2人で”私達は藁を食べさせられていたんだね”と笑いました。

 

 子供が小学生になって、街中を焼き芋屋が売り歩くようになりました。せがまれて買ったサツマイモのなんと美味しかったこと、ハーブの仕事を始めてラベンダーツアーを企画しその下見に富良野に行きました。飲みに入った「ろばた」のママが”ご注文は”と言うと豊海は”ママのお勧めで”と言いました。出てきたのはコンガリ焼けた「ホッケ」でした。レモンを絞り大根おろしで頂いた「ホッケ」のなんと美味しかったこと、それ以降我が家の食卓に「ホッケ」が登場するようになりました。30年振りのことです。

 

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