お久しぶりのFです。昨年の今頃、朝のミーティングの時にボート部に渡したものを見つけたので添付します。今はテスト前で各自のトレーニングです。
曽野綾子著
- 私たちはすべてのことから学べる。悪からも善からも、実からも虚からもおそらく学べる。狭い見方が敵なのであろう。
- すべてのものはそれ相応の代償を払わねば、手に入らない。
- させられると思うから辛かったり惨めになる。してみようと思うと何でも楽しくなる。
- 人は誰でも自分に与えられた重荷を、自分で背負って歩かなければならない。その中からしか、救いも喜びもない。
- 人は自分の誕生にも死亡にも主導権を持っていない。そこに謙虚さが生まれる。
- 幸せと不幸せ。それはいつも半分半分なのです。どんなに裕福な人にも、不幸せは半分ある。貧困に喘いでいる人でも、人生の半分は幸せだと感じることがある。それが人間というもの。そして、少しだけでも幸せの割合を多くしたい。そのために努力をすることが人生なのではないでしょうか。
・常に幸福な人生などあり得るはずはない。不幸が未来永劫に続くことも決してない。それはいつも半分ずつなのです。だから不幸せから目を背けてはなりません。幸せが当たり前だと錯覚してもいけません。もし今が不幸せならば、それをしっかり見つめてみる。そこにはきっと、もう半分の幸せが隠れているはずです。
- 人生において何が正しいかなんて誰にもわからないのだから、自分の思うとおりに進んで、その結果を他人の責任にしないことが大切ではないかと思う。
多くのことが、その人にしか分からない価値を持つ場合が多いのだから、私たちは喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くのがいいのである。
- 本当の貧困とは、今日食べるものがないということなのです。そういう状況で、彼らができることは三つしかありません。一つは膝を抱えてひたすら飢えと戦うこと。一つは物乞いをすること。そして最後の手段は盗むことです。おそらく日本にこういう貧困は皆無でしょう。つまり本当の貧困を誰も知らないということです。
- 自分の人権を主張することは教えるが、人のために権利を放棄することの尊厳を教えていない。
教育は本来、父母、当人、社会が共同して行うものであり、そのすべてが効果に責任を有する。親だけが悪いとか、社会が自分を裏切ったから自分はだめになった、などと言うのは口実に過ぎない。責任はまず自分であり、最終的に自分である。
- どんな悲惨な恐怖も、テレビの画面からはこちらに入ってきません。飢えも戦いも文字通り絵空事です。ヴァーチャルリアリティーは多くの場合有害です。
ヴァーチャルリアリティーは他者の存在も希薄にしました。現実に存在するのは自分一人なのですから、自分だけが良ければいいのです。
ペットを飼うことに意味があるのは、ペットは餌を食べ排泄をするからです。こちらが関わらねばならない義務が発生します。
しかしロボットのペットは餌もいらず、排泄もせず、電池を切れば忘れていられます。そのような関係が、どれほど身勝手で安易な考えを子供の心に植えつけるものか、私たちは考えなければなりません。
日本の若者たちは架空世界を信じ、現実の世界では身勝手に生きるようになりました。
2008.2/27