夜の蝶となった私
人はその時、その時最善の選択を行うと言います。
それが、正しかったかどうかは分かりませんが、私にとって、その時の最善だったことは確かです
毎日少し会うよりは、週末だけ会うほうが、ドラゴンにも良いと思ったのです。
規則正しい生活をさせたかったのです。
専業母だった私の母が、自分の子育てを終え、孫の子育てをすることは容易ではなかったと思います
が、おかげでドラゴンはとても落ち着いていました。
まだ小さすぎるドラゴンは、私のことをいつも楽しみに待っていてくれました。そして、帰るときは「またねぇまた来てねぇ」なんて・・
ママのことは大好きだけど、こけたり。困ったり、何かある時は・・
「ちゃーちゃん」という始末。
当然だと思いました。だから、寂しいと思ったこともありませんが、逆に。
私は、母親を放棄しているのではないか。。と思い悩むことは度々ありました。
別居を始めたのは、仕事だけが理由ではありませんでした
ドラゴンを通わせていた保育園の分園が、半年後大阪にできるということもあったからです。
私は、子供の環境作りが親のしてやれることだと思います。
当然ながら、大阪の家探しも比較的住環境の整ったエリアを選びました小学校の評判も色々調べて、校区にこだわりました。
保育園の時もそうでした
あちこち見学に行って、園長先生と面談して決めた保育園でした。
どうしても、その分園に通わせたかったのです
色々言い訳をつけるのは、「母子別居」が推奨できるものではないからです。
私には、母が居ました。全力で孫の子育てに時間を注いでくれる熟練ママの母です。
人生で初めての一人暮らしを始めた私はそもそも、サービス精神旺盛です
私のお給与が上がるのに、さほど時間はかかりませんでした。
が、目的は花屋としてこの町でやって行く事ができるのか
そして、できるならあらかじめ顧客をつけることでした
半年務める間もなく、私は決断しました
私はこの町で花屋はしないと。。
私が求める理念が、そこでは通用しない。花は道具でしかなかったからです
夜を働きながらも、ちゃんと昼間のお仕事はしていました
ドラゴンに報えるとしたら、必死に働くしかありませんでした。
今でも、同僚の数人は、仲良しですですが、昼間のお仕事中に、私が夜働いていたことは言えませんでした。
今だから。言えることです。。
そして、半年が経ち、ドラゴンを迎える準備が整い
私が初めて親元離れて、ドラゴンと二人生活が始まると言う時でした
私がウェディングプランナーの養成スクールの講師をしているというのを聞きつけて、とある企業様から、ウェディングプロデューサーとして、ウェディング事業を立ち上げるお手伝いをしないかという話を頂きました
花屋をみながら。自分のお客様の婚礼も請負いながら。講師もしながらですから、条件付きですが、期限付きのOL生活が始まったのです。これが、今後自分のリソースを切り売りするという初めての試みでした
そして、本当の「働くママ」のスタートです