
ぶらりと弘前の町を歩きました。
前回の岩手(盛岡編)の続き。盛岡を19時40分頃のはやぶさ号で出発し新青森へ。人生初の本州最北県へ到着したのは20時過ぎでした。そして、在来線で弘前へ向かい、到着したのは21時半頃でした。

弘前のホテルは駅から近くを確保。翌朝は8時頃起きて、ホテルで朝食を頂きました(今回の朝食はバイキングではなく、定食形式でした)。

弘前城へは10分間隔で走っている循環100円バスで向かう事にしました。このバスは10時が始発でしたので、バスターミナルには9時半頃向かいました。

バスは市役所前で降車して、追手門に向かいました。この門は築城時の姿で現存し、国の重要文化財に指定されているそうですが、重厚な門に狭間(鉄砲狭間、矢狭間)も見られ、テンションアップです(弘前城にはこの三の丸追手門の他、三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門等、多くの門が残されています)。

お城に入り、休園中の植物園の横をすり抜けていくと、杉の大橋がありました。この橋は昔は名前の通り木で作られていましたが、今は欄干付きのコンクリート製です。



二の丸南内門(上画像)を入ると未申櫓(中画像)と辰巳櫓(下画像)が見られました。弘前城にはこの他、丑寅櫓の三つの櫓が残されていますが、これも門と同様に築城時の姿で現存し、国の重要文化財です。また、これらの櫓はすべて三層の建物ですが、すべて立ち入り禁止でした。

そして、二の丸を進むと下乗橋と天守が見えてきました。

この天守ですが、幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたそうですが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍等の多くで天守として扱われています。また、この天守は、江戸時代に再建された天守としては関東以北で唯一のもので、12ある現存天守の中でも最北のものです(先の大戦の中も消失する事がなかった松前城の天守は1950年(昭和25年)の火事で喪失したそうです。非常に残念です)。

この天守ですが、他のお城の天守と同様に資料館となっていますが、11月後半~3月前半は休館となり、中に入ることはできませんでした。

弘前城には多くの桜が植えられており、5月のゴールデンウィーク頃には見ごろだそうです。しかし、冬は葉もなにもありません。また、雪に覆われ、見られなかった史跡・碑も少なくなかったです(本丸御殿御玄関礎石など)。

天守内には入れませんでしたので、その眺めは分かりませんが、本丸内にある四阿からの眺めは良かったです。


この後、本丸を出て北の郭に向かいました。この中で、武徳殿休憩所という所を見つけましたが、こちらも冬季休館中でした。

北の郭を出て、再び三の丸へ。ここでは、丑寅櫓も見られました。この3つの櫓は似ていますが、細部が微妙に違うそうです。


この後、三の丸東内門(上画像)、三の丸東門(下画像)を通り、一旦城を出ました。

東門から城を出てすぐのところに弘前文化センターがあり、その前には弘前藩初代藩主・津軽為信の像がありました。この像は大戦中に撤収されたものではなく、戦後作られた二代目だそうです。
(津軽為信は元は南部家の家臣だったそうですが、独立し、南部家の血縁者を何人も討ったそうで、南部藩(盛岡)とは犬猿の仲だったそうです)

外堀の横を進み北門へ。さすが本州最北県で、外堀の水は凍っていました(盛岡城跡の、外堀の水も凍っていましたが)。

北門(亀甲門)を見て、弘前城観光は終わりました。

弘前城観光の後、北門から東門に戻る途中、お昼を頂く事にしました。この日も先日と同様にラーメンでしたが、今回はつがるらぁめんのチャーシューメンでした(盛岡・弘前ともに、ラーメンに麩が入っていました)。スープはやや塩味が濃かったのですが、あっさりとしており、これで750円はおいしいですね。
お昼の後は東門近くの、NHK文化センター前から循環バスに乗り弘前駅に戻りました。そして、弘前駅から在来線で新青森駅に向かいました。新青森駅ではお土産や駅弁などを購入して、新幹線はやぶさ号に乗りました。


今回購入した駅弁は「南部わっぱめし」で、具だくさんでした。

また、酒のアテで「ほたて十万石」を購入したのですが、これは帆立型のかまぼこの中にチーズを入れたもので、青森のメーカー製でした。

はやぶさ号は19時過ぎに到着。そして、東京メトロ東西線に乗りました。
※今回もいろいろな思い出が出来ました。また、盛岡城跡と弘前城の違いには、考えさせられるものがあります。
(弘前城には、暖かい時期にもう一度行ってみたいです。しかし、盛岡城跡は、、、)