最近はアクティブさに磨きがかかり、「糸の切れた凧」と呼ばれるようになったトキコ・デラックスです
さて、今回は以前のブログで内容を少しふれていましたが、会社の生い立ちについて少しずつブログにてご紹介していきたいと思います。
先日、社長に時間を頂きインタビューを開始
私が思っていたよりも深い内容でした。
あまりの濃い内容にタイトルを「波乱万丈」にさせて頂こうかと思った位です
そして編集を経て、第一話が完成しました
長文になってしまい申し訳ありませんが、ご紹介させて頂きます。
現在の浦田社長の祖父母の実家は三重県の伊勢宮川上流にあり、当時流域では数艘しかなかった2トン~2.5トン積みの大きな船を持ち、山から切り出した薪や炭を船に積み込み、下流の人出で賑わう伊勢市の燃料商に収める事を生業にしていました。
浦田社長のお父様は三男でしたが、家業を手伝わされることが多く、幼い頃より朝早くから夜遅くまで働いておられました。
しかしながら、お父様は養子に出されてしまいます。養子に行った先が浦田家でした。
様々なご苦労を乗り越えられ奥様とご結婚。
長男として浦田幸一社長が誕生します。
世の中は薪、炭の家庭燃料からプロパンガス、石油に変わろうとしている時でした。
家業も年を追う毎に思わしくなく、家庭の柱となるべくお父様は単身で伊勢の二見にて運転手として働き始めます。後に、お母様は旅館の女中として働き家庭を支えておられました。
しかし、生活の安定のために何か商いを始めたいと考え、運転手として花市場へも荷物を納品しておられたお父様は生花店を生業にすることを決意。
お母様が務めておられた旅館のご主人から保証をしてもらい融資を得て、伊勢郊外の小俣町のユニチカ紡績工場近くに生花店を構えました。浦田幸一社長が当時小学6年生の事でした。
当時は生け花がメインで、生け花の先生を呼んでユニチカ紡績工場の女工の皆さんを生徒に教室を開き、多いときには一週間に1000杯の注文を受けるほどまでの順調な経営になりました。
順調な暮らしの中、大阪芸術大学を卒業後は三重県ローカル新聞の記者となり活躍するも、オイルショックの影響もあり、家業の経営状況は悪化していきました。
考えた末に家業を継ぐことを決意。
昭和55年屋号を「伊勢花園」とし、代表取締役になりました。
記者時代の経験から新しい事に目先を向け、今では当たり前になった大手スーパーに切り花を置く先駆けとなりました。持ち前の営業力でスーパーを一から開拓していき、数年後には鳥羽から伊勢、松坂、津に至るまでのスーパー約60店舗との契約を結び、パートさんを12~13人雇うまでに売り上げを伸ばしました。
平成3年には伊勢志摩生花商組合の会長となり、翌年には伊勢中央ロータリークラブの会員になりました。安定した商いの中、平成6年に大阪鶴見市場が合併するにあたり買参権を得て、地元市場とは違った商品の入荷量、品質の良さから、大阪鶴見市場の荷物を三重県の花屋さんに届ける事が出来れば喜ばれるに違いないと考えるようになりました。
そしてインターネットがまだ普及していなかった時代に、市場の市況データを分析してパソコンにて各花屋さんに配信するシステムを考えました。データの送受信をして買い付けを行い、三重県からトラックを走らせ大阪鶴見市場の荷物を各花屋さんに届ける、花き情報通信ネットワーク(F.CON)を設立。
自らの区分をつけるべく、伊勢花園と契約していた全てのスーパーの契約も解除しました。
同年、三重県花商組合連合会副会長となり、また会長代理として日本生花商協会理事を務めていた浦田社長は津市の平安閣にて上記システムの説明会を行い、約80件近くの花屋さんが集まる中、当初は賛同を頂いた30件の花屋さんが加盟。
大阪鶴見市場での買い付けを統括するため仲卸であるA社を起用。A社の売上が急激に伸びたことから、F.CONシステムを市場で採用出来ないかと場内仲卸10件各社が資本金を出資。
大阪鶴見花き市場仲卸情報センター(OJC)を設立。
大阪鶴見市場に招かれ、大阪鶴見花き市場仲卸情報センターの代表取締役に就任。
大阪鶴見市場に招かれるに当たって伊勢花園の代表取締役を退きました。最新のネットシステムを確立し、全国的に多様なニーズに応える事で花き流通に新しい風を吹かせました。
皆様、いかがでしたでしょうか?
最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。
これからの続きはまた次回にご紹介させて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。
F・CON㈱大阪鶴見花き取引機構
Naoe Tokinaga
F・CONホームページアドレス