「国姓爺(こくせんや)合戦」は、近松門左衛門の人形浄瑠璃の代表作。歌舞伎でも演じられる。数ある近松の作品の中で最も好評で、初演当時も今も人気があるのは、国境を越えた壮大な歴史ドラマだからだろう。主人公の和藤内(わとうない)は、国姓爺こと鄭成功(てい・せいこう)なる実在の人物をモデルとする。和(日本)でも藤(トウで唐をかける)でも「ない」、日中混血児が文楽のヒーローなのだ。



Chopinの散歩道-国姓爺合戦
写真:国立劇場による歌舞伎「国性爺合戦」のポスター

左:甘輝(中村梅玉)・中:和藤内(市川團十郎)

右:錦祥女(坂田藤十郎) 出典:城西大学HP



鄭成功は寛永元年(1624年)、肥前国(現在の長崎県)平戸で生まれた。父は福建省出身の漢人貿易商人、鄭芝龍(てい・しりゅう)、母は平戸藩士田川七左衛門の娘まつである。父は船団を率いる海賊だったが、マカオで学んだカトリック信徒。母国語のほか、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話す国際人だった。母は武士の娘だが、平戸の華僑の家に養女に出され、鄭芝龍と知り合った。


幼名を福松ともいう鄭成功は、7歳で両親と共に父芝龍の故郷アモイに移る。福建の対岸に浮かぶ台湾は、その当時オランダ・東インド会社が植民を進めていた。父はオランダとの貿易の傍ら、漢民族の台湾移住を先導する。やがて中国では漢民族の明王朝が倒れ、満州族の清が代わる。父子は力を合わせ、華南にあった明の亡命政権を支えて、明の復興を図る「反清復明」の運動に身を投じていく。


近松の「国姓爺合戦」では、父が大陸に残した先妻の娘、錦祥女が清の将軍甘輝に嫁いでいる。父子揃って甘輝の帰順を求めに彼の居城獅子ヶ城に赴く。留守番の異母姉は父と夫のいずれにつくべきか迷い、進退窮まって自害という悲劇の展開となる。史実によれば、福州城を清に攻められ自害するのは、一人籠城していた母まつである。清は大陸を平定し、鄭成功は台湾に移って抵抗を続ける。


鄭成功はじりじりと台湾のオランダ勢力を追い詰め、やがてその根拠地(現在の台南)を攻略する。日本で鄭成功と言っても知らない人が多いが、台湾や中国では民族の英雄だ。その最大の功績は、台湾が列強の植民地となることを防ぎ、漢民族の版図に台湾を加えたことである。もし鄭成功の勝利がなければ、台湾はインドネシア(元はオランダ領東インド)と同じ運命をたどった可能性が高いのだ。


Chopinの散歩道-日月譚
写真:文武廟から眺める台湾中部の日月潭(筆者撮影)

日本統治時代に作られたこの人造湖は景勝地として有名


しかし歴史は鄭成功に味方しなかった。台湾に政権を樹立した翌年、彼は37歳で病に斃れる。その志は息子の鄭経が引き継いだが、清朝の攻撃の前に遂に屈し、台湾は1683年清の統治下に入る。ハッピーエンドの「国姓爺合戦」では、鄭成功の軍勢は明の旧都南京を陥れ、反清復明が果たされる筋書きになっているが、これは歴史では許されない「たら・れば」であり、明朝が復興されることはなかった。


鄭成功は劣勢を立て直すため、母の国に援軍を求めた。明と勘合貿易を行っていた日本だが、既に鎖国が完成していた徳川四代将軍家綱の時代である。幕府が鄭成功を助けることはなかった。鄭成功が台湾で死んだのは近松が十歳の時であり、国姓爺合戦は近松が幼時の伝聞を元に書き下ろした歴史劇なのだ。平和な元禄時代の日本人は、日中のハーフの国際的活躍に喝采を浴びせたのだろう。


Chopinの散歩道-鄭成功母子像

写真:台湾・台南市の鄭成功祖廟にある母子彫像

生母田川まつに寄り添う幼い福松(後の鄭成功)


時代は下り、清は衰えて台湾支配は名目化していた。日清戦争後に日本領となって後、台湾の経済開発が進んだ。日本政府は台南の鄭成功の遺跡を復元し、台湾人とともに彼を開発始祖として祀った。昨年末家族旅行で台南を訪ねた。鄭成功は台湾のどこへ行っても英雄だ。鄭成功は海軍艦艇の名前。鄭成功大学なる国立大もある。鄭成功の志は、今も台湾人の親日姿勢に貢献しているようだ。


Chopinの散歩道-赤かん楼
写真:台南のオランダ要塞跡「赤嵌(せきかん)楼」

銅像は鄭成功に降伏するオランダの要塞守備隊長


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補遺:台湾は地震国である。台湾中部は1999年M7.6の九二一大地震に襲われ、死者2400人の大被害が出た。写真は震源地集集に残る半壊の武昌宮(筆者撮影)。台湾は日本と国交がないが、東日本大震災では逸速く救援の手を差し延べ、人口2300万の小国ながら、官民合わせ157億円の義援金を贈ってくれた。この金額は一か国としてはアメリカを上回り、海外からの義援金として最高額だった。

Chopinの散歩道-集集大地震