先日紛失してしまった携帯電話ですが、無事何事もなく、手元に戻って来ました。
無くしたその時、何をしていたかと言うと、娘と河原を散歩しながらゴミ拾いをしていました。
…ゴミ拾いをしながら、自分が携帯を無くすなんて。
それって、自分でゴミ増やしているって事じゃん・・・。
ばっかだなぁ・・・。
家に戻って携帯が無い事に気付き、また同じ道をたどってみました。
・・・でも、無い。
相方に話すと、呆れられました。
「ゴミ拾いしたその中に入れちゃったんじゃない?」
それは、ない。
「一度、確認してみたら?」
確認したけれど、やっぱりない。
…私、馬鹿じゃないもん。
「馬鹿じゃないよ、阿呆だね(笑)」
・・・。
「で、何処をどう歩いたの?詳しく話して」
歩いた道を事細かに話すと、相方はそのまま外に行ってしまいました。
暫くして、戻って来た相方がこう言いました。
「夕方の明るさでは見分け付かないな。音で無いんでしょ?夜の方が良いかもしれないね」
で、夜になりました。
懐中電灯を片手に捜索開始。
私は、もう戻って来ないと思っている派。
相方はど根性タイプではないけれど、じっくりタイプ。
私は、自分では見付けられないと思っていました。
だって、今迄もそうだったから。
携帯電話に何かある時には、神様の強制消去が掛かる日だから。
「それでもいいっか~」って呑気に考えていました。
データが無くなっても必要な人は必ず連絡して来るから。
必要な人とは繋がって行くから。
相方も携帯電話が惜しくて探してくれているのではないのです。
きっと、仕事に支障が出て困るんじゃないかなぁって思っているから。
(そろそろスマートフォンかな・・・)
何てよぎったり・・・。
でもね、あったんです。
「ここで大きなゴミを拾ったからしゃがんで・・・」
とか言いながら私の歩いた道をたどって行くと・・・。
草むらに、青い光が点滅していました。
それは、相方が何度も何度も電話を掛けながら探してくれていたから光っていた着歴の光でした。
私が嬉しかったのは、携帯電話が見付かった事ではありません。
携帯電話を探してくれるその気持ちです。
新しく買ってくれるのも、一緒に見に行ってくれる事も、消えたデータを何とかしてくれる事も、きっとどの行動も愛だと思います。
でも、自分の足で、何度も河原に行って私の形跡を辿ってくれたこの行動が愛だと思いました。
考えてみたら、昔から、私が何か落し物をすると探してくれるのは相方でした。
見付けて持って来てくれるのです。
これも不思議です。
そして、何より・・・怒らない事。
私の育った環境も、その後の環境も、こういう時、怒る人多かったんですよね。
でも、彼は、怒らない。
人間は、こういう時に性格が出ると思うのですが、怒る人種とそうではない人種。
自分がそういう人種を引き寄せていた頃にはきっとそういう人種が自分の周りは居て、きっと自分もそうだったのだと思います。
でも、自分が変わりたいと望んだり、そういう事に気付くと、変化は訪れます。
自分が変わると周りも変わって行きます。
自分の周りには今はそういう人居ないなぁって。
人は変われる生き物だし、望めば変化は訪れます。
そういう風に出来ているのです。
でも、相変わらず、こういう時に怒られるのではないかと思ってしまう自分が、「怒らない?」と聞いたりします。
「何で?」
と相方は言います。
怒る意味が分からないと彼は言います。
確かにそうだよね、何で怒るのか、何で怒られるのか、意味分からないよね。
「でも、見付かって良かったよね。絶対にあるって思っていたけれど、でも、光が見える表が上じゃなかったら見付けにくいなぁって思っていた」
と相方は笑いました。
絶対にあるって確信していた・・・きっとこの精神が良いのでしょうね。
動物的感って言うのかな。
でも、ふと思えば、この人、私なんかよりもヒーラーなんですよね。
若い頃に海外に住んでいて、インディアンの儀式とかして来ているし、それで名前も頂いて来ているし、大自然の中で生活して居る時は瞑想もしていたみたいだし・・・。
それは後で知ったのだけれど。
そういう世界を知っているからこそ、地に足を付けて、アヤシイモノは信じない、自分の勘を信じているのでしょうね。
ホント、有難いです。
で、こういう日々の生活から学ぶ事、気付きがあるのです。