自然とはなんだろう。海、森、山、その他、感じる人によってその姿は色鮮やかに変化する。例えば、風にはどのような種類があるだろう。
ビルの隙間風
扇風機により作り出された風
広い範囲で考えれば恋人同士で息を吹きかけているのも一種の風と考えられるかもしれない。もちろん、そのような光景が日常茶飯事だとは思わないけれど。
1杉崎とおる
僕の友達にそのような人間がいた。いや、予め言っておくけれど恋人同士でいつも息を吹きかけ合っているような人間ではない。もし、そのような友達がいたら真っ先に止めさせるだろう。そのような行為を行っている時に偶然目の前を通ったら何とも言えない感情にさせられるのが目に見えているし、なにより気分が悪くなる。そうではなくて、僕の友達は、常に哲学ばかり考えている男だった。自分の存在意義、人間の本当の意味での有り方、そのような事を常に石の断面のような仏教面で考えていて、僕から見た彼は、まるで溶けない氷のような人間だった。元々は、水のように形を環境に合わせて作ることができる自由な存在であるのに自らを理論という氷点下の環境に置き、そのまま動きを止めてしまっているかのように息苦しく、しかし、冷徹に生きている。そのような人間だった。
彼と出会ったのは大学一年次の倫理学の授業だった。その日、僕は寝坊し授業に遅れて参加した。タイミングの悪い事にテストが行われる日だった。ついていないな、教室に入ってからテストの事を思い出した僕は、そう囁いた。教授の視線がこちらに向いている事に気がつき、慌ててテスト用紙を取りに教壇へ向う。教授から用紙を受け取り少し歩くと、残り時間十分と試験官らしき四十代の肌の色の黒いおじさんの声が教室中に響き渡った。それをすぐ近くで聞いていた僕の耳がハウリングを起こしたように悲鳴を上げる。今のは確実に嫌がらせだな、と心の中で不満を呟きながら全体で四百席近くある教室の真ん中あたりに座った。問題を見ると過去に独自の理論を作った有名な学者を答える穴埋め問題のテストだった。理論に興味があって受けただけだったので名前など全く覚えておらず、僕は問題用紙を見てから十秒で諦めて大量生産されているであろう4色ボールペンを机に放り投げた。
名前なんかに興味はないよ。
僕は、物に対して執着心がまるでない。商品のブランド名に対しても、人の名前に対しても。商品の名前や人の名前はあくまで総称であって本当の姿を現しているわけではない。それをわかりやすくする為に付けた記号の羅列に興味を示す他の人の気持ちが僕にはわからなかった。顔を上げ、天井に向かって息を吐く。そのように感慨にふけっている時、隣の彼が答案を教授に見つからないように差し出してくれている事に気がついた。僕は一瞬目を疑った。何が起きたのか全く理解できなかったんだ。しかし、少しすると状況を飲み込むことができ、彼の恩恵を素直に受け取ることとした。彼の答案には美しい文字で有名だと思われる学者の名前が連ねてあった。ここで有名だろうと思ったのは、自分には全く聞き覚えのない名前だったからだ。この人は一体何者なのだろう、そう思いながら教授と試験官に気がつかれないようになんとか試験時間内で書き写した。
試験終了です、後ろから解答用紙を回収してくるように。ざわざわと教室に学生の声が響き、先ほどまでの静寂から解放される。僕は背伸びをし、さきほど答案を見せてくれた彼の方に視線をずらした。彼は、これから授業が始まるかのように綺麗に座っているだけで、開放感を感じていた僕とは真逆の状態のようだった。その状態をみて話しかけるとを少しためらったが何も言わないで帰るのは失礼だと思い、僕に出来る精いっぱいの作り笑顔をして、彼に礼を言った。
「助かったよ。ありがとう」
彼は、少しの間机の方を遠目に眺めていたが、こちらの方を見ると草原に吹く風のような爽やかな表情で微笑みかけてくれた。そこで会話が始まり二人は仲良くなった、という物語が一般的なのだと思うけれど、僕達の場合はそうならなかった。なぜなら、彼は会釈をした後すぐに教室を後にしてしまったからだ。彼についてもっと知りたいと思ったのだけれど、その日は三時にサークルの友人と約束があった為追いかけられず、その場をしぶしぶ離れ、部室に向かった。
それから数日後、偶然僕は大学の食堂で彼を見かけた。僕の通っている大学の食堂は約三百人を収容できる全面ガラス張りの開放感ある建物で、古ぼけたその他の校舎の中で異彩を放つ建物だ。このアンバランス加減は当初、学生、保護者から不満の声が上がっていた。しかし、それも時代の流れでいつの間にか収まり、今となっては学校のシンボルとなりつつある。付けられた通称は『ぼろ小屋の中のオアシス』。誰が付けたのかは知らないが、僕ならもっとセンスの良い呼び名をつけると思う。そんな学生達のオアシスとなっている食堂の一番奥に、彼は一人で座っていた。背伸びをして彼が何を食べているのか一生懸命のぞき見てみると、カレーを食べているのが見えた。僕は、受付でBランチを受け取ると彼の向かい側に座った。僕が席に座ると、彼が驚いた表情でこちらを向いた。
「この間は助かったよ。あれからもう一度御礼を言おうと思っていたんだけど、あれから授業で君を見つけられなくてさ」
僕が話している間は、表情をぴくりとも変えなかったけど、話終わるとようやく僕を思い出したのか表情が柔らかくなり、持っていたスプーンを右端に置く。
「気にしなくていいよ。あの時はそういう気分だっただけだからさ」
彼はそれが当たり前のようにさらっと言った。
「気分?」
私はとても大きく眼を見開き、彼の言葉を繰り返した。
「そう、気分。僕は、誰にでもああやって答案を見せるような偽善じみた事はしないよ。ただ、あの時はそういう気分だった。ただ、それだけ」
そういうと彼はカレーライスの方に視線を戻し、置いていたスプーンをまた持ち直し、カレーを食べ始めた。変わったやつだな、と僕は心の中で呟いた。気分で答案を知らない人に見せる奴がこの世にどれくらいの割合でいるのだろうか。そのように自問自答していると、疑いの目で彼を見ている事に気がつかれたようで彼の視線が僕の目に戻ってきた。しかし、すぐに視線は元に戻った。
「今、変わっている奴だと思っただろ」
嫌悪感を示すわけでもなく当たり前のように彼は呟いた。どうやらカレーを食べ終わったらしく、スプーンを置き、ナプキンで口を拭いた。その動作が終わると、食器を横にどけて僕に視線が集中した。
「別に責めているわけじゃない、実際俺は変わっていると思っているし、気にして何かいない。ただあの時は、偽善を確かめたい気分だったんだ」
そう言うと彼は煙草を吸っていいかと聞き、僕はいいよと答えた。彼は百円ライターで火をつけ安堵感に包まれたような表情を浮かべ天井に向かって煙を吐いた。
「偽善を確かめたいってどういう事?」
そのような言葉を発する人間を僕は初めて目にしている。彼は、もう一度こちらを向いた。わずかな時間沈黙が続く。しかし、そんな短い時間の間にもまるで全てを見透かされているような気分になり、慌てて視線をそらした。すると、彼は淡々と呟くように述べた。
「人ってさ、誰かの為に尽くす事が善で、自己の為だけに動く事を悪ってとらえる風潮があるだろ。特に日本人に多いと思うんだけど。俺は、今まで誰かの為に行動した記憶がなかったし、どんな気持ちになるのか知りたかったからやってみただけさ。誰か知っている人にやると気持ち悪がられるのが目に見えていたし、あの時の君は誰かに縋るわけでもなく現状を受け入れようって感じの雰囲気を出していて、弱い人間じゃないって感じたから助けただけ。後々、やたら感謝されるのもめんどうだったしね。実際に弱い人間じゃない所は当たっていたけれど、予想以上に義理深いタイプだったのは、俺の観察眼がまだまだ未熟な証拠かもな。勘違いさせたかもしれないけど、決して感謝されることが嫌いなわけじゃないよ。ただ、結果として自分の憶測が外れていたんだなっていうだけ」
彼は言い終えるとまた煙を大きく吸い込み、何か目に見えない物を眺めているような表情をしながら天井に向かって煙を吐いた。
こういうやつだったのか、確かに変わっている。しかし、このような考え方をする人間を僕は、心のどこかで待ちわびていた気がする。大学では皆が同じ格好、同じ考え方をしているのが目に見えていてどことなく気持ち悪かったし、小学生の時のように、新しいタイプの友人に会う喜びに飢えていたからだ。それが今、目の前にいる。僕は、今の状況に巡り合わせてくれたどこかの神様の奇跡に感謝した。その興奮を伝えるように声色を少し高くし、さきほどより感情が伝わるように話した。
「面白い考えするやつだね。たまに頭の中でそんな事考えたりもするけど、そんな事を誰かに話す人がいる事には驚いた。確実に変人扱いされるだろうし、何せ同意してくれる人がいるなんて想像した事もないよ」
そう言い終えると相手も何かを感じたらしく不敵な笑みがこぼれ、次の瞬間、お互い自然と笑みがこぼれた。滅多にない共通点を見つけられたことで自然と繋がった気がしたのだ。こうして僕達は、ようやく友人となった。彼の名前はウェハヤというらしい。出身は関西の方らしく、一度話し始めると止まらないのはそのせいかもしれないと本人が言っていた。集団で行動する事にあまり興味を持っていないらしく、ほとんど一人で授業を受けているとのことだった。
「ウェハヤはさ、何か将来の夢とかって決まってんの」
そう何気なく投げかけた僕の質問に、ウェハヤは獲物を狩る獣のように反応した。鋭くこちらを睨みつけ、敵意を前面に押し出している。そのあまりの豹変ぶりに、僕は、ただたじろくしかなかった。。
「・・・・・・・将来なんて、決めるものじゃないよ」
ウェハヤはそう小さな声で呟いた。そう思う理由を深く聞きたいと思ったけれど、ウェハヤの態度を見ると聞く気にもなれず、この話題を続けることは止めておいた。
続く・・・・・。