またまた!シャトレーゼの低糖質おやつ、頂いてますラブ
さっぱりとした甘さだけど、ちゃんとクリーミーで、私のプリン熱を満たしてくれました。

ありがとう✨シャトレーゼ❤
ごちそうさま!


ということで。Maybe発達障害(お仕事編)①
からの続きを書いていきます。



20歳の春。
めでたく就職浪人を卒業した私は、長らく続く社会人生活の入口に立っていました。

私を採用してくれた会社は、多分、みんなが聞けば知っている大手の事務機の卸の会社でした。

未だに、ナゼ採用されたのか良くわからない💦
この職歴が履歴書にあるお陰で、
「何かわからないけど、優秀な人材なのかな?」
と誤解される部分がある気がする…

ともあれ、不安を抱えながらも私の社会人生活はスタートした。
私と一緒に採用されたもう一人は、なんと、
短大時代に友人を介して、一度だけだけど、
一緒に遊んだ事のある女の子でしたびっくりびっくりびっくりびっくり 
こんな偶然ある!?
びっくりと嬉しさで意気投合しました✨
ちなみにあれから20年以上経ちますが、
今でもお友達でいてくれています。

そして。私達は厳しい社会人生活の洗礼を受ける事になります。ガーン

コンプライアンスが厳しくなった昨今。

20年以上前、

今では考えられないようなパワハラ、セクハラが普通だったりしました。男尊女卑もひどかった💦
そもそも、女性社員は若い内に結婚して寿退社が花道という雰囲気だったので、我先に!といった感じで、素敵な殿方をGETするべく、彼氏のいない子は合コンに明け暮れていました。
(私は当時、彼がいたので誘われませんでしたが)
30歳手前の最年長の先輩は「行き送れ」「お局様」と陰口の対象になっていました。今じゃ考えられないですよね。

肝心のお仕事の方は…
私は、初っ端から、直属の元ヤン風の先輩に嫌われてしまい、結果、退職するまで業務上どうしてもしなければいけない会話のやり取り以外は、ずっと無視されるという冷遇に遭いました😭

私、何故かヤンキーと相性悪いんですけど💦

当時は「だから、ヤンキーは嫌いなんだよ!」と思っていたけど、今となれば、私が余りにトロく、ミスが多かったせいなんだろう。と思っています。
他の先輩や同僚は優しかったので。
その元ヤンパイセンは、私がミスをしたら同チームのリーダーだから、怒られてしまう立場だったから。(けど、飲み過ぎで無断欠勤したり人としてどうなん?ってとこのある方でした)
当時の私は自分に障害があるなんて思っていないし、そもそも大人のADHDという概念がまだ全然世の中に認知されていなかった様に思います。
発達障害と言えば授業中に座っていられない子。というイメージしか無かった。

入社した初期は、ビジュアル的にも浮いていたと思います。
美術科卒だったので、どちらかというと「個性は強いほうが良い」という価値観で2年間過ごしちゃったので、コンサバティブに馴染むのに時間がかかりました💦
ダメージジーンズで出勤してしまったり(汗)
髪に一部青いメッシュが入っていた事もガーン
遠回しに注意されて矯正されていきましたが。

色々と軋轢がありつつも、仕事はゆっくりながら覚えていって1年を過ぎる頃にはだいたいこなせるようになっていました。

じゃあ何が一体辛かったのか。

やっぱり人間関係だったように思います。
まず、お昼休みに女子休憩室でテーブルを囲んでお弁当を食べる時間は、特に居心地の悪いものでした。
シーンとしたなか、「みんな何を思ってるんだろう」と色々な事が気になってしまう。
ひとりひとりはいい人でも、女性が集まると怖く感じてしまう。
テレビで笑っていいとも!がかかっていて、タモさんが面白い事を言っても、笑っていいの?いいとも?と、いたたまれない。

そして、中途採用の私達2人と、在学中に採用されて4月入社だった子たちとは同期扱いで、
男子4人女子4人で、とっても仲が良くなり、毎週のように飲みに行ったりキャンプに行ったりと、サークルの様に遊んでいました。
とても楽しい思い出でもあるけど、飲み会の時のみんなの会社の愚痴と噂話には辟易していました。

社会に出たら気持ちがないのに付き合わなくてはいけない事って沢山ありますよね。
冠婚葬祭や、会社内の飲み会など。女性社員が男性社員にお酌して回る時代でした。

普通の子なら、多少のセクハラも、まあまあ、と上手くかわせるところを、私はいちいちダメージを食らって日に日に消耗していきました。

今よりも、とってもピュアだった私には、実社会は毒が多すぎた。

そして、入社2年目を過ぎる頃、私の体調に異変が出始めたのです…

続く!