※少しづつ思い出しながら更新しています。
最終更新2023年、12/1
7月21日、健康診断で見つかった大腸癌の摘出手術を受けました。
術前の説明の時に母は
『開けてみないとどれくらい進んでいるかはわかりません。酷いようであれば開けて何も出来ないまま閉じることもあります。』
と説明を受けたそうです。
手術前のCT画像の説明では
10cm強の範囲に及ぶ不整な璧肥厚性病変を認める→大腸癌
病変ほぼ中央の頭側に壁の破錠を思われる箇所があり、その直上に不整形の軟部陰影がひろがっている。→穿孔(腸が破れている)
腹腔内には大小多数の不整形結節影が多発している。→播種性病変(腸の中に広がっている)
リンパ節転移は下腸間膜静脈に沿って複数認められる他、大動脈分岐前面にも疑われる。→リンパ節転移有り。
この時点で、ステージ4末期だと確信していました。
手術をしなければあと生きれて半年、手術をしてからは2~3年は持つと思います。と言われたそうです。
唯一、よかったのは他臓器への転移は認められない。ということでしたので、ホントに腸だけが侵されている状態でした。
手術すると決めてから2週間、糖尿病だった父は血糖値を下げるため食事制限がかかりました。ようやく手術を受けることになった次の日は1番下の妹の誕生日でした。
この時、もし何かあった時の為に。。。と写真を撮ったそうです。
この時の父の顔は強ばり、この先どうなるんだろうという不安が読み取れる写真でした。
開腹後、S状結腸にあった10cmの癌は取り除くことができました。
このとき人工肛門をつくり、ストーマを付けることになりました。
手術が終わってから約1年前から視点が合わなかった左目が元に戻り始めました。
視点が合わない症状が出始めた頃にもっと早く精密検査をしていれば違ったのかな。。。と思ってしまいます。
1週間後、術後の治りが悪く抗がん剤治療をはじめられないということで手術から2週間後ポートを埋め込む手術を受けました。
その後、体調もさほど悪くなくお盆休みだということもあったので退院することになりました。
この頃はまだ治る。まだこれから頑張る。という意思があった様に思います。
9月から抗がん剤治療を始めるため8月末にポートを埋めたところの検査と、血液検査を受けました。
治りもあまり良くなく、血液の値も良くなかったので予定日からは始められないということで1週間期間が延期となりました。
その後ようやく抗がん剤治療を受けることになり、病室で1泊2日で治療をすることになりました。
副作用でだるい感じと吐き気があったみたいですがいたって元気だよ。と連絡がありました。
副作用は約10日程続きました。つらかった時期は2日目~4日目まででした。毛が抜けたのも1週間を過ぎてから少しですがありました。
抗がん剤をしてからは自宅でゴロゴロと気怠さと闘いながら日々過ごしていました。結構体格の大きい人でしたが、10キロほど痩せて小さくなったな。。。という感じでした。
ご飯も食べる量はかなり減りましたが、何を食べてもいいですよ。と言われたこともあり、普段と変わらないものを食べていました。
早く良くなって美味しいご飯みんなで食べに行こうねって話してたのを覚えています。
10月にはいり、もう1度抗がん剤治療をする時期になりました。
初めての抗がん剤の時と比べ気怠い感じや吐き気がひどく、身体に合わない様な状態になっていました。
2回目の1泊2日の抗がん剤後1週間はほとんど動くことなく寝ていることが多かったです。
2回目はホントに辛かったんだと思います。ほとんどご飯を食べなくなりました。
いらない。食べたくない。食べても戻してしまう。。。そんな状態だったそうです。
2週間後。
10月21日お腹が痛い、吐き気がすると言い22日病院へ行きもう1度CTをとり検査をしました。
23日~25日に天神祭があったので本人は
最期になるかもしれないから行きたい。とずっと言っていました。
たぶん、この時の痛みは23日まで我慢していようと思っていたのだと思います。相当痛かったはずです。
CTの結果は腸閉塞ができています。ということでした。鼻からチューブを入れて吸引してもらいました。
27日の17時すぎ。母から
『何時頃なら電話してもいいですか?』
と連絡がありました。
この時、私は22日から入院しているのを知らされていませんでした。
18時前に電話をかけました。
母はえらく落胆していて元気がない声をしていました。
私『何?どうしたん?パパなんかあった?』
母『21日にお腹痛いって言い出して、CTの結果が出てパパと一緒に話し聞いたんやけど。。。
腸閉塞ができてて22日からまた入院することになったわ。』
私『手術できやんの?』
母『感染症になる確率も高くなるし、そんな何箇所も人工肛門つけれやんって。』
私『そうなんや。。。。』
母『あとな、パパと一緒に聞いてからちょっと呼ばれて言ったんやけどさ』
私『うん』
母『パパもって半年やって。。』
私『。。。
。。。え。』
母『年内は大丈夫やと思うけど、年越してからはどうやろ。。。』
私『。。。。。手術したら2~3年っていうてへんだ??』
母『癌の進行が若いから早くて、抗がん剤も効果なかったみたいで。腸閉塞も切ったりしたくても、癌が邪魔でなんにも出来やんのって。』
私『大学病院とか転院できやんの?』
母『たぶん無理やと思うよ。ここで手術してるし。。。』
母『。。。パパには言ってないんやけど、、、言った方がいいと思う?』
私『。。。今はまだ言わんほうがいいんじゃない。でも、いうべきやとは思う。』
母『私受け止められると思ったけど、話し聞いた時自然と涙流れたわ。。。ドラマみたいに。
。。。ちょっと考えるわ』
私『わかった。ありがとう。週末帰るわ。』
母『わかった。気をつけてね。じゃぁね。』
この電話のあと、私にしかまだ話してないから妹や弟にも言わないで。と忠告がありました。
その後、抗がん剤の点滴もゆるいものに変えてもらうことにしました。
父には『今までの抗がん剤が合わなかったから、違うものに変えます』と伝えてもらいました。
どんな抗がん剤か伝えていなくても、ステージ4の大腸癌末期だということは知っていたのできっと携帯で調べていたんだと思います。
この頃から
『俺もうそんなに持たないから。。。』
というようになりました。
自分で調べて、事実を受け止めていたんだと思います。
10月末、検査でCTを撮りました。結果は少しですが腸がゆっくり動いていたので、母は退院できるなら11月2週目頃かな?と言っていました。
11月に入ってお風呂も入りたいだろうからと、一時退院して家にお風呂へ入りに帰れるようになりました。
この頃はまだ自分で歩く力があったので、自力でお風呂にはいっていました。
11月9日検査を受けた結果は、腸閉塞が3ヶ所できていて腹水も出てきているのでご飯も水分も禁止ということになりました。
看護師の友達に相談したところ、抜いてもすぐ腹水が溜まり始めると思うと言われたので親孝行するならこの時期しかない。と思いアクアイグニスへの1泊旅行をプレゼントしました。
ご飯も噛むことはできても飲み込むことができず、口に入れて出す。という傍から見れば無作法でしか食べることができないので、父も周りのことを気にすると思いアクアイグニスのお部屋に露天風呂がある特別棟を選びました。
事情を説明して、無理をお願いしてお部屋で食事を取れるようにしていただきました。
父に
私『何が食べたい?』
と聞くと
父『松阪牛が食べたいかな。』
とリクエストしてくれたので松阪牛のメニューも追加しました。
私達兄弟が産まれてから出掛けても日帰り、もしくは1番下の妹を連れて3人で出かける
ことしかしていなかったので2人で泊まりで旅行なんてホントにしたことがなかったそうです。
11月28日
お昼すぎ~夕方頃チェックインでした。
お部屋近くまで車で行くことのできるところで説明をうけ、2人で写真を撮ってもらったそうです。
私が写真撮ってきてねと母に伝えていたのですが、珍しく父から写真を撮ってほしいと頼んだそうです。
その後お部屋でゆっくり過ごし、お互いに食べさせている写真や2人で撮った写真が送られてきました。
デジカメで撮った露天風呂に浸かって笑顔でピースしている父の写真や、疲れたとソファで寝転んでいる父の写真を見るとホントにプレゼントしてよかったと思いました。
その日の夜、ありがとうとたくさんの絵文字付きで父からメールが届きました。
次の日、母から
『1泊2日ありがとう楽しく行ってきました。パパとの思い出が増えました』
と連絡がありました。
12月1日
日に日に弱ってきている。と連絡がありました。
だいぶしんどいみたいで30日からする予定だった抗がん剤治療も辞めました。
体重は7月から比べて20キロ以上痩せていました。
4日
病院へ様子を見に行きました。
少しまた痩せたかな。。。?と言う感じでした。
30m歩くだけでしんどい状態になっていました。
ほとんど寝ていることが多く、言葉を交わすのはホントに帰る時だけでした。
ただ、私が行くと笑ってくれて
帰るね。って声をかけると
気をつけてねって手を振ってくれました。
11日
久しぶりに兄弟みんな顔を合わせました。この日は体調がよかったみたいで、起きていることが多かったですがあまり言葉は交わさず。。。聞いてるの?と言う感じでした。
この日は帰るね。っていうと手を振ってありがとう。と言ってくれました。
13日
他のことで連絡した母に父の体調を聞くと、『もしかしたら年内無理かも。ホントに弱っててベッドを1人で降りるのも困難。』と言われました。
18日
父はあまり体調がよくなく、ずっと寝ていました。
夜寝れないみたいで、先生に母は泊まって上げてくださいと言われたと言っていました。
次の日から病院で泊まりはじめ、父も夜中トイレへ行く回数が増えました。
1人では起き上がれなくなったので、母を起こして行くのですが出ないことが多かったそうです。
私が帰るね。また来週くるね。というと頷くだけでした。
帰り、母と妹とこの先どうするかという話しをしに近くの喫茶店へ行きました。
25日
この日病院へ行くと紙パンツをはきだした。と母に言われました。
トイレへ行っても出ないですが、下半身。。。足の付け根周りが黒くなってきたみたいで下着が汚れるのが嫌ではくことにしたそうです。
この日もずっとテレビのイヤホンを耳につけたまま、ぼーっとしていました。
そろそろ危ないかな。でも年内は大丈夫そうかな?という所だったので母に何かあった時はすぐに電話するように伝えました。
いつでも出れるようにしておくから!!
この日も
じゃぁね。帰るね。というと
笑顔で手を振ってくれました。
31日
お昼頃に行くと、今ドライブ中!と言われました。
なのでお墓参りと実家へ行き、祖母と1時間ほど話しました。
父の状態を母は話していなかったらしく、どこまで進行しているかを話しました。
もっと母を助けてほしい。もっと家事を手伝って上げてほしい。と頼みました。
病院へついたよ。と母から連絡があったので病院へ向かいました。
この頃から浮腫がひどくなってきていました。
マッサージしてあげるよ。と触るととても痛がりました
それから触るのが恐くなり、父に触れることすらできなくなってしまいました。
さすってあげる程度でも触れてあげればよかったなって今でも後悔しています。
1月2日
親戚みんながあつまるからと、私の旦那さんを連れて母の姉の家へ行きました。
母は父を病院に迎えに行き2人でドライブしながら合流しました。
父は車からおりず、会いにくるみんなに笑顔で挨拶して話していたので元気やん!と思っていましたが身体は相当つらかったそうです。
6日
腹水が溜まりしんどいから鼻からチューブで抜いてもらう。と連絡があり、腹水抜くと弱るっていうけど大丈夫?と聞くとまだ大丈夫。と返信がきました。
会いに行こうと思うけど、今日はどう?と聞くと、管いれてしんどいので後日会いに来てください。と言われました。
9日
仕事が半日だったので病院まで行ってきました。
身体は起こしているが、ほとんどぼーーーっとしていて会話も聞いてるか聞いてないかわからない状態でした。
だんだんと小さくなっていく父がとても切なく、別れが近づいてるのが実感できてこの日は帰りに泣いてしまいました。
14日
鈴鹿は雪が降りました。
危ないから家に居てと母から連絡があり、病院に泊まる予定を延期することにしました。
16日
16時母から、父が弱ってきた。と連絡が入りました。
この日も雪が降っており明日は仕事も休み。
いつもはそんなに夜更かししないのに、なぜか私は夜中3時過ぎまでゲームをしていました。
17日
夜中3時半過ぎ
母から連絡があり、瞬時に。。。。来た!!!と思い、母の今から来れる?と少し震えた声でもうすでに泣きそうになりながら旦那さんを起こし声をかけ、1人で車に乗り病院へ向かいました。
鈴鹿は生憎の大雪、私はノーマルタイヤ。
関インターまではついたのに大雪で通行止め。
刻々と時間はすぎていく。。。。。
不安になりながらも、開通を待ってたら間に合わない!
起きているであろう友人に電話をかけ、車のナビは名阪に誘導するから地図で案内してほしい!と頼んで山道へ迂回しました。
妹からも、『お姉ちゃんまだ!?』
と震えた声で電話が何回もきました。
パパに声聞かせるから!と言われ
『パパ、もう少し待って!今向かってるから!頑張って!』
私の声を聞くと脈が下がってしまって妹はパニック。
『お姉ちゃん早く!!!』
トラックの後ろを風避けに走っていましたが、ノーマルタイヤに気づいて避けられてしまいました。
雪の積もっている橋を2度渡って、後輪タイヤすべってました。。。(笑)
良く事故らんかったほんとに。。。
電話している友人にも泣きながら弱音を吐きながら、知っている道に出てそこからスムーズに柘植のインターから名阪に乗ることができました。
その知っている道は、小さい時に何度も父の運転で通ったことのある道で何度も行ったことのある公園の前で前が見えなくなるくらい涙が溢れました。
インターに乗った時点でもうすぐ着く!と早く行かなきゃ!と焦りが出てアクセルを強く踏む。。。
この時点で朝6時前
病院について、病室までダッシュ。
祖母、叔母、母、妹、弟が居て、着いた瞬間にまた涙が溢れ手は冷たくなりつつある。
でも、声は聞こえているみたいで少し反応がある。
表情も少し微笑んでくれた。
私は泣き崩れながら言いたいこと、伝えたいこと
ごめんなさいとありがとう、大好きと全部伝えて
父は息を引き取りました。
叔母が祖母を連れて帰り、病室で父が乗る車を待っているとき雪が降り始めました。
私『パパ、違うねん。鈴鹿が雪じゃない日ってことやねん。』
母『そんなん鈴鹿の天気なんてわからんから、こっちが降ってなかったらいいと思ってたんやできっと。』
妹『パパ寒いの嫌いやったもんなー。』
亡くなってしまえば、悲しんでるところよりも冗談いって笑ってる声を聞かせたいと自然に全員が思っていたのであろう会話でした。
父を連れて帰る準備をしてもらってる間、母と話していました。
『旦那さんと一緒に来ると思ったけど1人で来たん?!
しかもノーマルタイヤで?!』
と言われてしまい
『たぶん、2人やとたどり着いてない。
1人やったから、来れたと思う。タイヤ滑ってたし』
『インター止まってたから下から来たら、ちっちゃいときによく行った公園とか知ってる道にでてここ知ってる!ってなった』
と母に話すと
『あんたの声聞いたらパパ安心したんやろな。けど心配やったからあんたのこと迎えに行ったんやできっと。お爺ちゃんもきっとあんたのこと守ってくれたんやで』
と言われ
また母と2人で待合いで泣き崩れました。(笑)
そこからはみんなで家へ帰り、準備をしました。
妹は何も気にせず父のことを触りまくるのでビックリ。
亡くなった後は耳だけは聞こえると聞いたことがあり、ホントに耳だけが温かみが残っていたので聞こえているんだろうなぁ。と感じました。
その後、湯灌があり打ち合わせがあり。。。。
私も旦那さんに報告の電話して、1度家に帰ることにしました。
1日でも長く一緒にいる時間を作りたくて、式の日までずっと父と母と妹と一緒に寝ていました。
成人してから1番長く一緒に過ごした時間でした。
過去の話しに笑って、思い出してみんなで泣いて(笑)
式までの日には父は現れてくれませんでしたが、式のあと49日までの間たくさんのビックリする体験をさせてくれました(笑)
ただ、祖母は相変わらずでホントに母が何かしてしまわないかしばらくは心配でした
22日
旦那さんもお休みで私もお休みだったため、気分転換にパチンコやさんに連れていかれました。(謎)
生前、余命宣告されてからもパチンコ行きたい。と言った父。なんで余命宣告されて1番したいことがパチンコやねん。(笑)
そんな父が好きだったルパンを打つことに。
。。。。
。。。。
。。。。
なんで私じゃなくて旦那が出すの?
と怒りながら母に報告(笑)
『あんたのことよろしくって言ってるんやで。』
そんな言葉に縛られて、どんなにムカつくことがあっても旦那さんと一緒にいてしまう現在2023年。(笑)
お通夜のときも、寄せ書きのところに旦那さんが書いてくれた幸せにします。が忘れられない私。
そしてこの日、母から
『ヒルクライムの春夏秋冬を聞いて泣きました』
と連絡がきました。
『パパにな、最後に愛してるって言いなよ!って言ったら、愛してるよって言ってくれたよ』
と半分泣きながら教えてくれました。
昔は仲良すぎて大嫌いだった両親ですが、今では私の理想の自慢の両親です。