開運!なんでも鑑定団 梅田雲浜の掛け軸 | まつげブロ

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開運!なんでも鑑定団に維新志士の魁、梅田雲浜の掛け軸が出ました


依頼人は小浜市の地元の偉人ということで友人から約10万円で購入した。
梅田源次郎と書かれているので普通通称では偽物はないのではと…
普通、本人は通称で書かないと思うし花押があるのはどうなのかな?


梅田雲浜(うんぴん)は激動の幕末にいち早く尊王攘夷を提唱し
明治維新の先駆けになった儒学者。
しかし、その功績などはあまり知られていない。


1815年若狭国小浜藩士の子として生まれる。
幼年から向学心旺盛だったようで、


16歳のときに江戸に出て儒学者山口菅山に師事。


すぐさま頭角を現し29歳の若さで儒学の本山、望楠軒の講主となった。



1852年小浜藩主・酒井忠義が京都所司代に就任すると、
藩の財政再建を優先すべしと反対し、
外国からの侵略に備えた海防策を建言した。


しかし、身分不相応の無礼なふるまいが藩主の逆鱗に触れ、
藩籍を剝脱され一介の浪人となった。


1853年ペリーが浦賀沖に来航し開港を迫った時には、
弱腰で対応する幕府を厳しく批判した。



尊王攘夷派の先鋒となったがその際はっきりと倒幕を念頭に置いていた。


その拠点として、水戸・福井・長州の雄藩連合を画策し


要になる長州藩で松下村塾で塾生に志を説いた。


さらに長州藩の産物御用掛となり、他藩との交易を推進



長州特産の紙や塩を近畿に送り、小間物や呉服などを仕入れ、
取引する豪商の紹介も行った。


これにより、膨大な借金を抱えていた長州藩の財政は改善され、
のちに倒幕に向けての薩長同盟の締結することができた。



自ら国を守るべく奈良の十津川村に郷士や農民で構成された民兵を養成した。
高杉晋作の奇兵隊よりもおよそ8年も早かった。


1854年4月ロシア軍艦が突如大阪湾に侵入した際は、
民兵を率いて決起し朝廷の厚い信頼を得ることができた。



1858年に幕府が日米修好通商条約締結の勅諚を得るため、
孝明天皇に願い出た際に
孝明天皇の最高顧問、青蓮院宮親王に助言を求められ、


『この条約はアメリカの一方的な推しつけであり皇国の対面を汚す』
との意見書を提出した。


これを受け孝明天皇は水戸藩に対し条約締結の反対と、
攘夷による幕府改革遂行を命じる戊午(ぼご)の密勅を下した。



これを知った大老・井伊直弼は大いなる危機感を抱き、
攘夷派を一掃するため、世に言う安政の大獄を断行した。


その際に真っ先にとらえられた中に梅田雲浜がいた。
激しい拷問を受けたが黙秘し獄中で病死してしまう。


功績が後世に伝わらなかったのは、自著を残さなかったこと、
志を継ぐ弟子の多くが池田屋事件で新撰組に斬られて、
明治維新前に亡くなったからである。

なんか新撰組が悪い感じの印象受けますが…
京都大火を起こしその隙にいろいろ悪いことしようとしたのは維新志士ですから


依頼品には
『洞庭湖に秋風が吹き、楓が赤く色づく、家のともしびがぽつんと見え、
空には半月が出ている、今宵は寒い』
と書かれている

読めないところがあるのはかなり怪しい。

鑑定結果は何と5千円で偽物でした。
もし本物なら300~500万円するらしいです。