第1章 幼少期ー乱世に生まれた諸葛一族の少年

諸葛亮が生まれたのは181年。後漢王朝が急速に弱体化し、政治腐敗と地方反乱が同時進行で進む最悪の時代だった。
出生地の徐州琅邪郡陽都は文化が豊かで名士が育ちやすい土地で、諸葛家もまた学問と礼節を重んじる家系として知られていた。

しかし、亮が幼い頃に父・諸葛珪(ショカツケイ)が死去する。
これは家の生活に大きな影響を与えた。
一家を支える人物を失ったことで、兄の諸葛瑾(ショカツキン)、亮、妹たち、そして叔父である諸葛玄(ショカツゲン)が互いに支え合って生きていかなければならなかった。
幼少の亮は、早くも「自分の感情より周囲の状況を見る」という冷静さを身につけていく。

この頃、中国全土では黄巾の乱が発生し、後漢王朝は崩壊へ向けて加速していた。
戦乱の火の手が近づく中、諸葛家は大きな決断を迫られることになる。
叔父の諸葛玄は、戦乱を避けて一族全員で荊州へ移住する道を選んだ。
幼い諸葛亮にとって、これは人生で最初の“大きな移動”であり、乱世を肌で感じる最初の体験でもあった。

荊州は文化と人材が集まる土地で、徐州とは異なる空気が漂っていた。
襄陽や新野近郊には、後に亮の師となる司馬徽(シバキ)、清廉で知られる龐徳公(ホウトクコウ)など、教養と品格を備えた名士が多く生活していた。
彼らが集う荊州は、まさに「乱世における最後の学問の砦」ともいえる環境だった。

亮はこの地で成長し、周囲の名士たちが語る政治論、歴史論、人物評、戦略論などを耳にしながら、
「乱世をどう生きるか」という視点を自然と身につけていく。
この幼少期の環境こそが、後年の“臥龍”を育て上げる養分となる。

亮の日常は決して裕福ではなかった。
しかし彼は農作業を手伝いながら地形を観察し、人々の暮らしを見て、
戦略書だけでは得られない“現実の知”を吸収し続けた。
机上の知識と現場の感覚を同時に育てた幼少期は、孔明の特異な才能の源となっていく。

荊州に移ってからしばらくして、諸葛亮は司馬徽と龐徳公に出会う。
司馬徽は亮の才能を見抜き、「此の子、伏竜なり」と評したと伝わる。
この言葉は後の“臥龍”伝説の原型となる重要な評価である。
龐徳公も亮の思考力と観察力を高く評価していた。

幼少期の諸葛亮は表立って活躍する存在ではなかったが、
乱世の体験、父の死、移住、学問に満ちた環境、名士たちとの接触――
これらすべてが彼の中で積み重なり、
「天下を観る目を持った少年」へと静かに育っていく。

そしてこの幼少期の下地が、次章の青年期で彼を“伏竜”と呼ばれる存在へ押し上げていく。

 

第2章 青年期ー荊州での学問と“伏竜”への道

諸葛亮は青年期をほぼすべて荊州で過ごすことになった。
この地は戦乱の外側に位置していたため比較的安全で、同時に名士が多く集まり、後漢末の学問と議論がもっとも盛んだった地域でもあった。
亮は叔父の諸葛玄の庇護のもと、農耕を手伝いながら日常を送りつつも、夜には読書・研究を欠かさず、静かに学問の深みへと踏み込んでいく。

青年期の亮にはふたつの環境があった。
ひとつは、耕作と暮らしを通して“民の視点”を知る生活。
もうひとつは、名士たちとの交流を通じて“政治と戦略の視点”を養う学問の場。
この両方を同時に経験できた点が、後の諸葛亮を特徴づける大きな要素となる。

荊州の名士として有名だった人物に司馬徽(シバキ)がいる。
彼は心の読み方や政治の本質に通じ、若者に影響力を持つ存在だった。
司馬徽は諸葛亮の聡明さと静かに物事を観察する姿勢を非常に高く評価し、後には「伏竜」という特別な称号で彼を呼ぶようになる。
これは、まだ世に出ていないが、時が来れば天下の流れを左右するほどの力を持つ人物という意味を含んでいた。

また、龐徳公(ホウトクコウ)も亮と深く関わった名士のひとりである。
龐徳公は弟子を取らないことで知られる人物だったが、亮に対しては穏やかに議論を交わし、政治や家の在り方、君主の資質などについて語り合ったとされる。
亮は彼から“軽挙妄動を戒め、情勢を見極める姿勢”を学び、後の慎重な行動原理をここで確固なものとしていく。

青年期の亮は、ただ本を読むだけの学者タイプではなかった。
地形の観察に長け、風や水の流れ、人々の動きまで注意深く見つめ、
「自然と社会の構造を読み取ることこそ戦略である」
という考えに近い視野を持っていた。
後の軍略の多くが、地理・気象・補給・心理を複合的に扱っているのは、この時代の経験が大きく影響している。

周囲の友人たちとの交流も、亮の青年期には不可欠だった。
親友である徐庶(ジョショ)、名士として知られる士元(シゲン)、同郷の孟建(モウケン)、そして後に「鳳雛」と呼ばれる龐統(ホウトウ)など、多くの俊才と議論を交わした。
彼らの多くは後に蜀漢へ参加したり他勢力で重用されたりと、後漢末〜三国期の重要人物へ育っていく。
こうした仲間との議論は、亮にとって“自分の思想を磨く鍛錬場”であり、同時に自分の立ち位置を冷静に理解する鏡でもあった。

青年期の諸葛亮には、一見すると謙遜にも思える有名な言葉がある。

「亮はかつて隆中に在り、躬(みずか)ら襄陽の耕に業す」

つまり、亮は荊州の隆中で農を行いながら、静かに世の中を見つめていたということである。
だが、これはただの農生活の記録ではない。
耕しながら政治を考え、自然を読みながら戦略を練り、名士と語りながら国家の未来を思索するという、
“臥龍が翼を広げる前の準備期間”
そのものを象徴する言葉だった。

また、青年期の亮はすでに“天下三分”の構想を持っていたとされる。
これは後に劉備が訪ねてきた際に語る計略の基盤だが、
荊州・益州・江東の政治状況を観察する中で、
「いずれ天下は三勢力に分かれ、その均衡が時代の行方を決める」
という洞察を持っていた可能性が高い。

荊州に身を置きながらも、亮は決して無関心に暮らしていたわけではない。
曹操の台頭、孫権の躍進、劉表の優柔不断、張繡(チョウシュウ)ら周辺勢力の動き――
これらを冷静に見つめながら、
「乱世の大局をどう切り開くか」
という視点を持ち続けていた。

青年期の諸葛亮は孤高にも見えるが、実際には深く学び、深く観察し、深く考え続ける日々だった。
この静かな時間が、後に劉備が三顧の礼で訪れ、
“臥龍の目覚め”が歴史を動かす瞬間へとつながっていく。

そしてこの青年期の蓄積が、次章の三顧の礼で一気に表舞台へ溢れ出すことになる。

 

第3章 三顧の礼ー劉備の訪問と天下三分の計

諸葛亮が“臥龍”として歴史に姿を現す瞬間、それが三顧の礼である。
この章は彼の生涯の中でも最も劇的で、後の蜀漢建国の起点となる重要な場面になる。

当時、荊州を治めていた劉表のもとに身を寄せていた劉備は、曹操の圧力に対抗するために強力な軍師を必要としていた。
劉備は多くの名士から諸葛亮の評判を聞く。
その中には司馬徽の
「伏竜・鳳雛のいずれかを得れば天下を治められる」
という有名な言葉も含まれていた。
この“伏竜”こそ諸葛亮のことである。

劉備は諸葛亮が隆中に隠棲していると知り、すぐに訪問を決意する。
ここから始まるのが“臥龍を求める三度の訪問”――三顧の礼だった。

一度目の訪問、劉備は関羽・張飛らを連れて隆中を訪れるが、亮は留守だった。
二度目の訪問、再び亮を訪ねるも、また会えなかった。
この時点で側近の張飛は
「若造のところへ将軍自ら三度も行く必要があるのか」
と不満を漏らす。
しかし劉備は「士を求める者はこのくらいの礼を尽くさねばならぬ」と諭す。
ここに劉備の度量と諸葛亮への期待の大きさがはっきり表れている。

そして三度目、劉備は早朝から隆中を訪ね、ついに諸葛亮と対面する。
この瞬間こそ、三国志全編でも象徴的な場面とされる。

諸葛亮はまだ20代の青年。
しかしその物腰は落ち着いており、話す言葉には重みと遠い未来を見通す視点が含まれていた。
劉備は自分の志を語り、諸葛亮に天下の行く末を問う。
ここで亮が語ったのが有名な「天下三分の計」である。

亮の説明は明確だった。

曹操は北方を完全に支配しているため北には勝てない。
孫権は江東を固めており、当面敵対すべきではない。
劉備が取るべき道はただひとつ。

「まず荊州と益州を確保し、二州の力で天下を三分する」

荊州は交通の要衝で兵の補給に向き、益州(四川)は豊かな土地で守りやすい。
この二つを合わせれば、曹操に対抗しつつ、孫権とも均衡を保てる。
そして隙を見て天下統一へ乗り出す。

これは単なる作戦ではなく、
激動の後漢末を“地形・政治・人心”の三側面から分析した戦略構想
であり、20代の青年が語ったとは思えない精度と遠望だった。

劉備はこの計を聞き、深く胸を打たれる。
それまで劉備は“義”を重んじる人物として尊敬されていたが、天下をどう動かすかという視点には乏しかった。
諸葛亮の登場は、劉備にとって
「志を現実に変えるための脳と翼を得た瞬間」
であった。

この三顧の礼は、諸葛亮自身にとっても決定的な分岐点だった。
彼はこれまでの人生を“観察と準備”に費やしていたが、
ここで初めて歴史の表舞台へ自ら足を踏み入れることになる。
劉備の誠意に心を動かされ、“この人なら天下に仁を示すことができる”と亮は判断した。

諸葛亮が劉備の軍師となることを受け入れた理由には、
荊州の名士たち――司馬徽、龐徳公(ホウトクコウ)らの影響もある。
彼らは皆、劉備を
「乱世にあって民を思う稀な君主」
と高く評価しており、亮にとってもその言葉は大きな後押しになっていた。

こうして諸葛亮は劉備に仕え、劉備軍は“臥龍の知”を得ることで一気に動き始める。
乱世を見続けた青年は、ここから歴史の中心へと登りつめていく。

そして次章では、亮が劉備軍に参加してすぐに行った荊州での内政改革、諸勢力との連携、劉備の躍進が描かれていくことになる。

 

第4章 荊州統治ー劉備軍躍進と孔明の施政

諸葛亮が劉備に仕えると、その働きはすぐに荊州全体へ広がっていった。
三顧の礼で軍師に就任した直後、彼が最初に担ったのは軍を導くだけではなく、劉備の勢力基盤を作り上げるための内政と人心の整理だった。
この“荊州時代”は、孔明の政治能力が最初に本格的に現れた重要な期間になる。

最初に取り掛かったのは、荊州牧である劉表の死によって揺れた地域の統治だった。
荊州は大きな土地でありながら、内部には複雑な派閥が存在し、劉備がそのまま中心に収まるには不安定な状況が続いていた。
孔明はここで、荊州南部の零陵・桂陽・長沙など周辺太守との関係調整に乗り出し、政治的混乱を鎮めていく。

孔明はこのとき、軍事的な征服よりも、人心の掌握を最優先にした。
太守たちの中には劉備に敵対的な者もいたが、孔明は力で押すのではなく、説得・恩義・人材評価によってまとめ上げていく。
その代表例が、後に劉備軍の重要な武将となる趙範(チョウハン)、金旋(キンセン)などの勢力処理だった。
孔明は彼らのプライドを傷つけず、それでいて劉備側へ自然と従わせる形を整え、
「武力で従わせれば一代、徳で従わせれば永代」
という考えを体現していった。

また、荊州に劉備が入ったことで多くの民が流れ込み、食糧管理や治安維持が急務となっていた。
孔明はここで治水整備、農耕の再編、徴兵制の整理などを進め、劉備軍が“流民の救い主”として認識されるように導く。
この結果、荊州の民は劉備軍に深く協力するようになり、後の赤壁戦前後での大量動員の基盤が築かれていった。

荊州時代で忘れてはならないのが、劉備と孫権との同盟構築である。
曹操が南下を進める中、荊州が落ちれば劉備も孫権も消える。
ここで孔明は孫権陣営との交渉に派遣される。
相手は呂蒙(リョモウ)、程普(テイフ)、張昭(チョウショウ)ら主戦派・融和派が入り混じる難しい場。
孔明は孫権の前で明確に言い切る。

「曹操には勝てぬと思われるか? 我らは協力すれば必ず退けられる」

孫権は孔明の胆力と論理の鮮烈さに心を動かされ、
ここで“孫劉同盟”が正式に結ばれる。
これが後の赤壁の戦いを支える土台になった。

荊州時代の孔明が優秀だった点は、
人材を見抜く目も圧倒的だったところにある。
関羽・張飛・趙雲などの猛将をどう配置するか、
文官の中で誰を重く扱うか、
地方太守をどう説得するか、
これらを緻密に判断し、劉備軍を「軍事と内政の両輪が揃った集団」へと変えた。

さらに、孔明は荊州においてすでに“後の益州攻略”の計算を始めていた。
益州の劉璋(リュウショウ)が優柔不断であること、張松(チョウショウ)・法正(ホウセイ)らが内部不満を抱えていること、
益州の土地の豊かさ、地形の守りやすさ、人口の多さ――
これらすべてを観察し、
「荊州を固めた後、益州を得て二州による国家基盤を作る」
という三分の計の第一段階を、ここで着々と実行していた。

この荊州の整備がなければ、劉備は赤壁にも勝てず、益州にも入れず、蜀漢は成立しなかった。
孔明の働きは、表に出る奇策だけではなく、
“未来へ向けた静かな下準備”
こそ本領であることを、この時期が証明している。

荊州時代の締めくくりは、曹操が大軍を率いて南下し、赤壁の戦いが近づく場面だ。
劉備軍は荊州を基盤とし、孫権との同盟も成立し、孔明の戦略は大きな成果を見せ始める。
これらの積み重ねが、次章の“益州攻略”と“蜀漢建国”へつながっていく。

 

第5章 蜀入りー益州攻略と蜀漢建国の基盤

荊州の安定と孫権との同盟によって劉備軍が大きく力を得ると、諸葛亮は次の段階へ進む準備を始めた。
それが、天下三分の計の核心である「益州(四川)取得」である。
益州は豊かな土地と険しい地形を兼ね備えており、乱世を生き抜くための“最も価値の高い領地”だった。

しかし、益州にはすでに劉璋(リュウショウ)が割拠していた。
劉備と同じ劉姓で、相手が温厚で争いを避ける性格だったため、益州攻略は単純な侵略ではなく慎重な戦略が求められた。
ここで孔明は、表立った強硬策を避け、外交・民意・同盟勢力の協力を組み合わせる形で進めていく。

まず孔明が行ったのは、益州内部の不満勢力――
張松(チョウショウ)、法正(ホウセイ)らとの連携だった。
張松は曹操に冷遇されたことを恨みに思い、劉備こそ益州を託すべきと考えていた人物である。
孔明は彼らの不満と願望を読み取った上で、
「劉備こそ民を守るための正統な後継者である」
という空気を益州内部に浸透させるよう動いた。

さらに孔明は、劉備が無用な略奪や暴虐を行わないよう徹底し、
民に「この軍こそ味方である」と感じさせる形を作っていく。
軍の行進ひとつ、物資の扱いひとつにまで孔明の指示が行き届き、
劉備軍は益州の人々から歓迎される形で進軍した。

やがて劉備は益州入りを果たし、劉璋のもとで客将として迎えられる。
しかしこの状態は長く続かない。
張魯(チョウロ)との戦いや、益州内部の不安定さが増す中で、
劉璋の優柔不断さが原因となり、益州の民は次第に劉備に期待するようになる。

ここで孔明は大きな決断を下す。
「劉備による益州掌握は、民を守るために必要である」
という判断である。
劉備軍はついに劉璋との対立に踏み切り、益州攻略戦が始まった。

益州を守る側には厳顔(ゲンガン)、張任(チョウジン)など勇将がいたが、
内部の民意はすでに劉備へ傾いていた。
法正の献策、劉備自身の統率、そして孔明の戦略が組み合わさり、
劉備軍は各城を制圧していく。

最終的に成都包囲が行われたとき、劉備は民の被害を出さぬよう慎重に行動し、
劉璋は降伏を選ぶ。
このとき諸葛亮は、劉璋への丁重な扱いを劉備に進言し、
益州全体の安定を最優先とする姿勢を徹底した。
これにより益州の民はさらに劉備軍を信頼し、
劉備の蜀王朝=蜀漢成立のための社会基盤が完成した。

益州取得後、劉備はついに漢中王を名乗る。
これは後漢皇室の後継を継ぐ宣言であり、
劉備が“天下の正統”を掲げる政治的な節目となる。
諸葛亮はこの任命にも深く関わり、
劉備に忠義を尽くすことと、漢室の再興を掲げて国家の進む方向を定めた。

益州の地は豊かで、人口も多く、軍事力の増強もしやすい。
ここで孔明は農業生産力の拡充、兵站の整理、法律の整備、視察制度の導入など、
蜀漢の国づくりの基礎を整え始めた。
この頃から孔明は劉備に次ぐ実質的な政治の柱となり、
蜀漢という国家の形を作り上げる中心人物となっていく。

益州攻略は、武力による征服だけではなく、
孔明が積み重ねてきた“民意の理解・外交・戦略判断”が組み合わさった結果だった。
劉備軍は単なる軍閥から“国家”へと姿を変え、
ここに蜀漢建国の基盤が完成する。

そして次章では、劉備の死、そして孔明が蜀漢の丞相として国家運営の全権を握る重大な転機が訪れる。

 

第6章 劉備死後ー政権掌握と丞相としての国家運営

益州を掌握し蜀漢の基盤が整うと、劉備は関羽が荊州で討たれた報を受け、呉への復讐を決意する。
この判断は蜀漢にとって大きな誤りとなり、夷陵の戦いで大敗。
劉備は白帝城へ退き、重い病を抱えたまま国の将来を案じることになる。
このとき劉備は、諸葛亮を至近に呼び寄せ、国を託す重要な言葉を残す。

「君は朕の丞相として国を支えよ。もし劉禅が補佐に耐えぬ時は、君が代わってもよい」
という、有名な一節である。
これは単なる信頼ではなく、政治的権限のすべてを託す宣言だった。
劉備は最後の瞬間に、国家の未来を守れるのは諸葛亮だけだと判断した。
つまりここで諸葛亮は、蜀漢の事実上の最高権力者となる。

劉備が崩御すると、若い劉禅(リュウゼン)が皇帝を継承する。
年若く経験の浅い皇帝の下で、国家を維持するには圧倒的な手腕が必要だった。
諸葛亮はただ丞相に就任したのではなく、
内政・軍事・外交のすべてを一手に担う「一国の頭脳」として動き出す。

まず孔明が着手したのは、国家の再建と政治の再統一だった。
夷陵の敗北後、蜀漢には戦死者の遺族、戦乱に疲弊した民、失意の兵士など、
混乱が広がっていた。
孔明はここで大規模な農業復興策を行い、屯田制を再整備し、
蜀国内の生産力を短期間で持ち直させた。
また、兵站能力を向上させるための倉庫網の再配置や、大規模道路の整備を命じ、
後の北伐が継続できる土台を整備する。

次に行ったのは、蜀漢内部の派閥整理だった。
蜀漢にはもともと劉璋時代からの旧臣と、劉備と共に益州へ入った旧来の将たちが混在していた。
対立が続けば国が割れる恐れがあるため、
諸葛亮は全員を公平に扱い、功績に応じて役職を与える形で融和を進めた。

特に、楊儀(ヨウギ)、費禕(ヒイ)、董允(トウイン)、蒋琬(ショウエン)といった文官を中心に、
「蜀漢の政務を安定して回せる布陣」
を作り上げたことは極めて大きい。
彼らは後に蜀を支える柱となる。

一方で、国境では緊張も続いていた。
北方の曹魏は依然として強大で、蜀漢にとって常に最大の脅威だった。
孔明は魏との直接衝突を避けつつ、辺境の守りを強化するため、
馬謖(バショク)、姜維(キョウイ)、魏延(ギエン)らを配して防衛線を固めていく。
特に魏延の扱いは難しく、豪胆だが独断も多い人物だったため、
孔明は慎重に彼を用いた。
これは蜀漢軍内部のバランスを保つための重要な政治的判断だった。

さらに外交面でも、孔明は吳との関係改善を進めた。
夷陵の戦いの痛恨を経ても、
魏に対抗するには孫権との協力が不可欠
という現実を孔明は理解していた。
彼は丁寧に使者を送り、呉の大都督たちとの関係を修復し、
再び孫呉との同盟関係を築き上げる。
これによって蜀は魏からの侵攻を大きく減らすことができた。

こうした政治・軍事・外交の再建を終えると、孔明は次の課題に向き合う。
それが、
「漢室中興のための北伐」
である。
劉備の志を継ぎ、漢王朝を再び立て直すためには、魏を討つしか道はない。
しかし孔明は若い皇帝・劉禅に無理な夢を押し付ける形にはしなかった。
まずは蜀国内の安定、経済の回復、人材の育成――
すべてを整えた上で、
“持続的に戦える国家”へ仕立てていく。

そして準備が整ったと判断したとき、
彼はついに朝廷へ上奏し、
魏討伐の北伐計画を正式に開始する。

この第6章は、諸葛亮が政治家として最も輝いた時期であり、
軍師ではなく“国家の統治者”へと姿を変えた瞬間でもある。
次章では、孔明がいよいよ南方の不安を取り除くため、
孟獲との長く険しい戦い――南征へ向かうことになる。

 

第7章 南征ー孟獲平定と南方安定化

諸葛亮が北伐を開始する前に、どうしても片づけておく必要があった問題があった。
それが、蜀南方で起きていた反乱である。
南中と呼ばれるこの地域は、現在の雲南・貴州周辺にあたり、多様な民族が暮らし、険しい山岳地帯が続く複雑な土地だった。
ここが動揺すれば、蜀を南から突かれ、北伐どころではなくなる。
諸葛亮はまず、国家の背後を安定させるため南征へ向かう決断を下す。

この南中反乱の中心人物が、後に諸葛亮とのやり取りで有名となる孟獲だった。
孟獲は豪胆で人望があり、地形を熟知し南中勢力をまとめ上げる力を持っていた。
魏の工作も加わり、反乱は大規模化していた。
もし孟獲を無理に討てば、南中の民は一斉に抵抗し、蜀に長期的な火種を残す危険性があった。
ここで孔明は、他の武将には到底思いつかない方法で南征を進めていく。

南征の旅路は非常に険しかった。
険峻な山道、湿地、毒虫、風土病、補給難――
兵だけではなく家畜まで倒れていくほど過酷な環境だった。
しかし諸葛亮は、補給線を整理し、戦う前から民へ米塩を施し、
「蜀は侵略ではなく安定をもたらしに来た」という印象
を作り続けた。
軍が通る村々では略奪を禁じ、交易を許し、治療薬を分け与えることさえ行った。
これが南中の民心に大きな変化を生むことになる。

戦いが始まると、孟獲は地の利を生かして巧妙な伏兵戦を仕掛けた。
しかし孔明は柔軟に対応し、次々と孟獲の軍を破る。
こうして孟獲は捕らえられるのだが、ここで諸葛亮は驚くべき行動を取る。

孟獲を殺さずに解放する。

孟獲は「これは不意を突かれただけだ。正面から戦えば負けぬ」と言い残して去る。
孔明はそれを聞き流すどころか、
「もう一度戦って、心から降伏するまで戦おう」
と考えていた。

その後も孟獲は何度も反撃し、何度も捕らえられる。
諸葛亮は“七度捕らえて七度放つ”という前代未聞の行動をとり続ける。
これは単に寛大さを示しただけではなく、
南中全体に「力ではなく徳で治める」姿勢を見せる政治的戦略
でもあった。

七度目に捕らえられたとき、孟獲はついに膝をつき、
「孔明に心から服した。ここより後は永遠に反しない」
と誓う。
この一言は南中の豪族、民の心を完全に蜀へと向ける決定打となった。

孟獲だけでなく、朶思大王(ダシダイオウ)ら周辺豪族も孔明の姿に心服し、
南中は蜀に完全に帰順する。
このとき得られたのは単なる領土ではない。
南中の兵、馬、鉄、塩、資源はすべて北伐の生命線となる。
つまり南征は、蜀漢が“長期戦を戦う国家へ変わるための大手術”だった。

南征を終えると、諸葛亮は南中で得られた資源を基に国力を回復し、
蜀の経済は一気に安定した。
この成果のおかげで、後の大規模な北伐遠征が可能になる。
さらに、南中の兵は諸葛亮を深く信頼し、その後たびたび北へ同行する形となった。

南中から成都へ帰還する際、諸葛亮は現地の民から盛大な歓声で迎えられたと伝わる。
彼らにとって孔明は、単なる征服者ではなく、
土地を豊かにし、争いを終わらせた指導者
だったからである。

こうして蜀漢の南方は完全に安定し、背後の脅威が消えた。
そして諸葛亮はついに、長年準備してきた「漢室復興のための北伐」へ本格的に動き出す。
次章では、第一次〜第四次北伐までの孔明の智略と、その苦闘を描いていくことになる。

 

第8章 北伐前半ー第一次〜第四次の遠征と軍略

南中を平定し帰還した諸葛亮は、ついに長年温めてきた国家悲願――北伐を開始する。
その目的は、魏を討ち、漢室の名を復興すること。
劉備の遺志を継ぎ、諸葛亮が国家の全責任を背負って挑む壮大な戦いだった。

北伐の出陣前、孔明はまず蜀の国力を細かく計算した。
蜀は魏に比べ国土も人口も少ない。
一度の敗北が致命傷になり得る。
だからこそ孔明は、持久戦を前提とした慎重な戦略を構築した。
軍の編成、補給路、倉庫網、道路整備、鍛冶の増強まで細かく整え、
国家全体で“北へ向かう準備”を整えていった。

そして234年、孔明は出陣する。
蜀の民は街道に立ち、涙を流しながら丞相を見送ったと記されている。
それほどまでに、彼の北伐は国家の命運をかけたものだった。

北伐の主戦場となるのは祁山(キザン)方面。
ここは長安へ至る要地で、魏にとっても蜀にとっても譲れない場所だった。
第一次北伐で孔明は馬謖(バショク)に街亭の守備を任せる。
しかし馬謖は孔明の指示に背き、高地にこもるという判断を下す。
結果、魏の張郃(チョウコウ)に包囲を許し、街亭を失陥。
北伐は失敗した。

孔明はこれに対し、激怒するのではなく淡々と処理した。
馬謖を斬り、責任を負う形で自ら官職を一段階下げる。
法と組織の秩序を守るために、自身にも厳格な処罰を課したのである。
この態度は軍全体の規律を引き締め、蜀の士気を逆に安定させた。

第二次北伐では魏の陳倉攻略を試みる。
しかし陳倉は郝昭(カクショウ)が守る堅城で、兵力差を補う工夫が凝らされていた。
孔明は龐統(ホウトウ)が生前に残した戦略を応用し攻城を仕掛けたが、
魏の援軍が到着し退却を余儀なくされる。
ただしこの遠征は、補給の確保・後方兵站の整備という面で蜀軍に大きな成長をもたらす。

第三次北伐では陽平関方面へと軍を進め、魏軍と対峙する。
孔明は巧妙な兵站線を構築し、魏の司馬懿(シバイ)を消耗戦へ誘い込む。
曹魏は多方面で戦線を抱えており、司馬懿は大規模な進軍をしにくい。
これを読み切った孔明は、短期間での攻めよりも、
「魏に息をさせない連続作戦」
という戦略を採っていた。
ただし、後方の食糧問題が発生したことで、ここでも大規模な決戦には至らず退却する。

第四次北伐では更に進んで祁山周辺を制圧し、一時は魏の勢力範囲を大きく削ることに成功した。
この遠征で孔明は訓練した南中兵を積極的に活用し、
蜀軍の戦力は多様性を獲得していった。
また、魏延(ギエン)と楊儀(ヨウギ)という内部対立のある二人を見事に使い分け、
軍内部の不安を押さえながら戦線を維持した。
孔明の政治力と軍指揮の両立がなければ不可能な離れ業だった。

しかし、この第四次も長期戦による食糧難が響いた。
孔明は補給難によってついに撤退を命じる。
ここで有名なのが、
「木牛流馬」
と呼ばれる補給輸送具の発明である。
山岳地帯でも安定して大量輸送ができる機構を作り、後の北伐を支える重要な物流技術となった。

第一次から第四次までの北伐は、いずれも最終的な決戦に至れなかった。
しかしそれは孔明の力不足ではなく、魏の国力差と地形、そして蜀の限られた人口が原因だった。
それでも孔明は、
「退却は敗北ではなく、次の北伐へ向けた準備期間」
として扱い、軍を疲弊させずに帰国させ、すぐに次の作戦へ備えた。

この執念と継続こそ、蜀漢が魏にとって最大の脅威であり続けた理由だった。
諸葛亮は一度も国の存続を諦めず、国家のすべてをかけて戦い続けた。

そして、ついに彼の最終決戦――
第五次北伐、五丈原の戦いが訪れる。
次章では、孔明最期の戦いと、その壮絶な終幕を描くことになる。

 

第9章 第五次北伐ー五丈原での病没と最後の進軍

第四次北伐から短い間隔で、諸葛亮はすぐさま次の作戦へ移行する。
それが彼の生涯最後の遠征、第五次北伐である。
このとき孔明はすでに50歳を超え、長年の政務と遠征で体は限界に近づいていた。
それでも北伐を続けた理由はただひとつ。
「漢室再興」という劉備の遺志を果たすためだった。

孔明は再び漢中から祁山へ向け進軍し、五丈原に布陣する。
ここは標高が高く乾燥した土地で、夏の風は強く、冬は凍える。
この地形は兵站の維持に負担をかけるが、同時に魏軍にとっても攻めにくい地であった。

今回孔明が対峙したのは、宿敵・司馬懿。
司馬懿は魏で最も強かで慎重な戦略家として知られ、
お互いが互いの思考を読み合う“知の戦い”が展開されていく。

五丈原では、両者は大軍を構えながらも、大規模な決戦に踏み込まない。
理由は互いの能力を深く理解していたからだった。
孔明は補給線の弱さを抱え、司馬懿は曹魏内部の政治が不安定で、迂闊に大勝負へ出られなかった。
こうして両軍は牽制と小競り合いを繰り返し、消耗戦に近い状態が続く。

この時期、諸葛亮は蜀軍の士気を保ち、農作業を兵に行わせて自給率を上げ、
細かい軍律を守らせるなど、常に軍を最善の状態へ保とうと努力した。
しかし、その一方で彼自身の体は確実に弱っていく。

長年の過労、遠征の疲労、五丈原の厳しい気候は孔明の健康を奪っていった。
それでも彼は軍の前に立ち、
「この戦いが最後になる」
などと一切口にしなかった。
ただ国家のために働き続ける姿勢を崩さなかった。

ついに病が悪化し、諸葛亮は軍営に伏せる。
軍務を取り続けたい思いとは裏腹に、体は動かなくなっていく。
その時、孔明は最期の政治的決断を行う。
誰に後を託すか、という問題である。

孔明は、後継には蒋琬(ショウエン)・費禕(ヒイ)を中心とした文官を推した。
楊儀(ヨウギ)は軍務に長けていたが争いを起こしやすく、魏延(ギエン)は勇猛ながら独断が多い。
孔明は蜀が分裂しないように、
「安定を優先する布陣」
を最後の遺言として残した。
劉禅への奏上には、国の方向性、後継者の配置、そして蜀の未来を守るための最適な政治体系が細かく記されていた。

孔明が最期に見たのは、天幕の上の空だったと伝えられる。
五丈原の風が鳴り、秋が近づく中、
蜀の丞相、漢室復興の悲願を背負った男は静かに息を引き取った。
享年54。
その死によって、第五次北伐は中止され、蜀軍は撤退することになる。

孔明の死後、蜀軍内部は不安定になる。
楊儀と魏延が対立し、最終的に魏延は討たれ、軍は成都へ帰還した。
これは孔明が懸念していた“内部対立”が現実化したものであり、
彼の存在がどれほど国家をまとめていたかが浮き彫りとなる。

五丈原の戦いは勝敗がつかなかったが、
諸葛亮の死こそが蜀漢にとって最大の痛手であった。
彼の統率力、戦略、内政、外交、そして国家全体を支える精神力――
そのすべてを持つ者は蜀に二度と現れなかった。

孔明の最期の戦いは、華々しい決戦ではなく、
国家のために燃え尽きるように働き続けた知将の静かな終幕であった。
そして次の章では、彼の死後、蜀漢に何が残り、中国史にどれほど大きな影響を与えたかを語ることになる。

 

第10章 死後と影響ー“臥龍”が後世へ残したもの

諸葛亮が五丈原で亡くなると、蜀漢という国家は大きな岐路に立たされた。
彼は丞相として内政・外交・軍事・法整備・人材配置の全てを一手に握り、国家そのものを支えていた存在である。
そのため、孔明の死は蜀の機能に深い影響を与えることになる。

まず、彼の最期の遺言に従って蒋琬(ショウエン)が政務を継ぎ、費禕(ヒイ)がこれを補佐した。
孔明が生前に整えておいた政治組織は安定しており、しばらくの間、蜀は秩序を保つことができた。
これは、孔明が“死んだ後まで国家が崩れないように”と考えて政治構造を作った証である。
この点にこそ、彼の深い国政観が表れている。

一方で軍事面では、孔明が懸念していた対立が現実になる。
魏延(ギエン)と楊儀(ヨウギ)の争いが激化し、最終的に楊儀が魏延を討つ形で決着する。
しかしその後、楊儀自身も失脚するなど、孔明がいた時代には生じ得なかった混乱が続き、
「丞相の統率が国家全体をまとめていた」という事実が明らかになった。

蜀漢はその後、蒋琬・費禕の時代を経て、姜維(キョウイ)が北伐を引き継ぐことになる。
姜維は孔明を心から敬愛し、その戦略思想を継ごうと努力したが、
蜀の国力は徐々に低下し、魏との力の差は広がり続けた。
孔明が行っていたような緻密な兵站・外交・政治の多方面調整を同時にこなせる人物は現れず、
北伐はかつてのような継続性を失っていく。

しかし、孔明の死後の蜀漢が短い安定を保てたのは、
彼が生前に整えた法制度・人事制度・農業改革・軍制整備があったからであり、
その遺産は国家を一定期間支え続けた。
これが諸葛亮の「政治家」としての偉大さを示す部分である。

諸葛亮の死後、彼の名声はさらに高まっていく。
歴史書『三国志』では、陳寿が孔明の人格と能力を高く評価し、
「治世の能臣、乱世の名将」
という言葉を残した。
これは、平和な時代でも乱世でも有能である稀有な人物、という最大級の賛辞である。

さらに後世の『三国志演義』では、諸葛亮は“神に近い知将”として描かれ、
天下の風を読み、天を動かし、火計を操る人物として昇華されていった。
これは物語としての脚色ではあるが、
それほど孔明が人々の想像力を刺激し、尊敬され続けたという証拠だった。

彼が後世に残した最も大きな影響は、「智の象徴」としての姿である。
中国だけでなく日本でも諸葛亮は尊敬され、軍略家、政治家、思索家として語り継がれた。
また、
・人材登用の公平さ
・法に厳格で自らにも厳しい姿勢
・国家のために私心を捨てた生き方
・理と情の両方を備えた判断
これらが“為政者の理想像”として数多くの人間に影響を与えている。

加えて、彼が実際に行った制度改革――屯田制の整理、兵站線の合理化、倉庫網の再編などは、
後世の政治思想にも大きく影響し、
「戦う国家の運営とは何か」というテーマの基礎になっている。

諸葛亮の人生は、華々しい大勝よりも、
“国家を支え続けた積み重ねの時間”
にこそ価値があった。
そして彼の死後、蜀漢は衰えていくが、
孔明が生涯かけて守ろうとした「民」と「国家」の理念だけは、後世の記録に深く刻まれ続けていく。

こうして“臥龍”諸葛亮の生涯は幕を閉じるが、
彼の名は千年以上経った今でも、人々の心に生き続けている。