第1章 幼少期ー複雑な家族関係と預けられた少年期

夏目漱石、本名・夏目金之助は1867年、江戸・牛込(現在の東京新宿区)で生まれた。
しかし彼の人生は、生まれた瞬間から“普通”とはかけ離れた状況だった。
父・夏目直克は名主という地域の役職にあり、家は比較的裕福だったが、
金之助が生まれた頃、両親はすでに高齢で、家庭は不安定な状態にあった。
特に、母・千枝が金之助を産んですぐに体調を大きく崩したことが
彼の人生に大きく影を落とす。

そのため金之助は、生後まもなく
別家庭へ“里子”として預けられることになる。
預け先は夫婦仲が悪く、生活環境としては決して恵まれたものではなかった。
幼い金之助は実家に戻ることができず、
自分が「捨てられた子」ではないかという思いを抱えるようになり、
この“出生の不安定さ”が後の漱石の性格や文学観に深く影響を与える。

さらに不幸は続く。
預け先での生活が終わると、また別の家庭──
親戚の須藤家に養子として迎えられる
この須藤家も家庭事情が複雑で、
金之助は「自分はどこに居場所があるのか」という感覚を
幼少期から抱え続けることになる。
こうした環境は、彼の中に
・繊細さ
・他人の感情への鋭い感受性
・孤独を抱える人物への理解
といった特質を育てていく。

10歳頃、ようやく夏目家に戻ることになるが、
ここでも完全な安らぎを得られたわけではない。
兄弟たちとの距離感、父母との微妙な温度差。
金之助には“ここが本当に自分の家なのか”という
根深い疑問がつきまとい続ける。
この頃の複雑な感情は、
後の文学作品に登場する“居場所を探す人物像”に
色濃く反映されることになる。

一方で、金之助には早くから
読書への強い関心が芽生えていく。
家に落ち着けない分、
彼は本の世界に逃げ込み、
その中で自分の心を整理し、
言葉で世界を理解しようとした。
漢詩や古典への最初の興味もこの時期に強まり、
のちの漱石らしい深く重厚な精神性の種が育ち始める。

また、江戸から明治へ移り変わる激動の時代。
町並みは大きく変わり、人々の価値観も揺れ動く中で、
金之助は混ざり合う古い文化と新しい文化を
幼いながら鮮烈に経験することになる。
後の漱石作品が
伝統と近代の衝突を描く理由は、
この幼少期にあると言っていい。

こうして、家庭という拠点を持てないまま、
しかし鋭い感性だけは確実に育ちながら、
金之助は青年期へ向かっていく。
次の章では、彼が学問にのめり込み、
英語と出会い、
人生の大きな方向性を決めることになる青年期をたどっていく。

 

第2章 青年期ー学問への目覚めと英語への傾倒

複雑な幼少期を過ごした金之助は、成長するにつれて
“自分は何を支えに生きていくのか”
という問いに向き合うようになった。
その答えは、次第にはっきりしてくる。
学問こそが自分の道だという確信である。

10代に入ると金之助は本格的に学問へのめり込み、
漢学・漢詩、江戸の古典といった伝統的学問を吸収しながら、
次第に新しい知識──特に英語へ強い興味を抱き始める。
明治という時代は、西洋文化が急激に流れ込んだ時代。
知識人を目指す者にとって英語は“新しい世界へ続く鍵”であり、
金之助も例外ではなかった。

やがて、彼は当時の名門である
東京府尋常中学校(現在の都立日比谷高校)へ進学し、
その後、第一高等中学校(一高)へ進む。
ここでの経験は、金之助の人生に深い影響を与える。
一高は、当時の日本で最もエリートが集まる学校だったが、
その雰囲気は厳格で、競争が激しく、
学生たちは精神的に追い詰められやすかった。
金之助自身もプレッシャーの中で精神的に揺れ、
不安や孤独感に悩まされながらも、
学問への集中だけは決して失わなかった。

そして大学進学。
彼が選んだのは、
東京帝国大学・英文科
当時の日本では、英文学の体系的な教育がまだ整っておらず、
英文科という道は“未知の領域”に飛び込むような挑戦だった。
しかし、金之助には強い憧れがあった。
英文学を徹底的に学び、西洋の思考に触れることで、
“この混乱した時代を理解する手がかりを得たい”
という気持ちがあった。

大学では、坪内逍遥ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)といった
文学界の重要人物の講義を受け、
西洋文学の構造・文章・思想に触れていく。
ここで培われた知識は後の作品に深く刻まれ、
漱石文学の基礎を形成した。

しかし、金之助の大学生活は順風満帆だったわけではない。
彼は他人との関係に不器用で、神経質な性格ゆえに、
周囲との距離感に悩むことが多かった。
また、家の経済状況も決して良くなく、
学費や生活費で苦労する場面もあった。
それでも金之助は、粘り強く学び続けた。
この“粘着質ともいえる努力”が、
後の漱石を形作る重要な要素となる。

大学卒業後、彼は次なる仕事として
英語教師の道を選ぶ。
これは生活のためであると同時に、
学問への情熱を実践する手段でもあった。
しかし、ここから彼は
松山・熊本という地方へ赴任することになり、
そこではまた新たな苦悩と成長が待ち受けていた。

青年期の金之助は、
・家庭が与えてくれなかった安心
・社会に対する不信
・自分の居場所を求める焦燥
を抱えながら、
それでも学問だけは決して手放さず、
自分を形作る芯として守り続けた。
この芯がなければ、後の“夏目漱石”は存在しない。

次の章では、金之助が教師として地方へ赴き、
“教育者”としての葛藤と、文学へ向かう伏線を見せる
教職時代の姿をたどっていく。

 

第3章 文学教師への道ー松山・熊本での教職生活

東京帝国大学を卒業した金之助は、
生活を支えるため、そして英語学を実地で使うため、
英語教師としての職を選んだ。
だが、彼の教師生活は決して順調ではなく、
むしろ漱石の内面に深い影響を残す“試練の時期”となる。

まず赴任したのは、四国の松山
愛媛県の松山中学校での勤務は、
金之助にとって初めての本格的な地方生活だった。
しかし、ここでの経験は彼を悩ませた。
土地の風土、人間関係、生徒との距離感、
どれもが東京育ちの金之助には馴染むのが難しく、
ストレスを抱える日々が続いた。

特に、松山時代の有名なエピソードとして、
下宿生活での居心地の悪さがある。
彼は住み込みの下宿で生活していたが、
下宿先の人々とのコミュニケーションがうまくいかず、
気疲れが絶えなかった。
また、生徒たちの奔放な振る舞いにも戸惑い、
「教師とは何か」「生徒とどう向き合えばいいのか」という
根本的な疑問を抱くようになる。
のちの『坊っちゃん』で描かれる
地方教師の苦労の一部は、
この松山時代の体験が基になっている。

松山に不安を感じていた金之助は、
翌年には場所を変え、
今度は第五高等学校(熊本)へと赴任する。
熊本は松山よりも大規模な教育機関で、
ここでの経験はやや安定していたと言われるが、
それでも彼の精神は揺れ続けていた。

熊本時代の金之助は、
授業の準備に膨大な時間をかけ、
真面目で誠実な教師だったが、
完璧主義の性格ゆえに疲労をため込みやすかった。
授業がうまくいかない日には強く落ち込み、
生徒のちょっとした態度にも敏感に反応していた。
こうした“気質による苦しさ”は、
のちに作品の登場人物の繊細さや葛藤に反映されていく。

一方で、熊本時代は金之助にとって
私生活の大きな転機ももたらす。
この頃、彼は中根鏡子と結婚し、家庭を持つことになる。
しかし、夫婦仲は決して順風ではなかった。
鏡子は明るく豪胆な性格で、
神経質で繊細な金之助とは何度も衝突し、
その緊張関係は結婚後も続いていく。
それでもこの家庭生活が、後の漱石の人生に
新しい体験や視点を与えたのは確かである。

熊本での生活を続ける中で、
金之助は次第に“自分の知識をもっと深めたい”という欲求を強めていく。
英文学への関心は高まる一方で、
日本の地方教師として生きることに
限界を感じ始めていた。

そんな金之助に大きな転機が訪れる。
明治政府からの
「英国留学派遣」
の打診である。
教師としての勤勉さ、英語力、学問への姿勢が評価され、
国費で海外留学へ行くという栄誉を手に入れた。
しかし、この留学こそが、漱石の人生に
“最も深い影”を落とす巨大な出来事となる。

松山と熊本での教職生活は、
漱石が社会の荒波と向き合い、
自分の弱さや孤独を思い知らされる日々だった。
それでもここで得た経験が、
後に作家としての世界観を支える下地となる。
次の章では、彼を決定的に変えた
ロンドン留学の始まりと、その衝撃を語っていく。

 

第4章 留学ーロンドン留学での孤独と精神的危機

熊本での教職生活の中、金之助に転機が訪れる。
明治政府が進めていた“海外留学による人材育成”の制度で、
彼が国費留学生として英国に派遣されることが決まった。
英文学を専門とする人物として、国家が彼を選んだのである。
当時の日本では、海外留学は一握りのエリートしか許されない貴重な機会だった。

しかし、この留学は彼にとって
単なる学問の旅ではなく、
人生を大きく揺さぶる“試練そのもの”となる。

金之助がイギリスへ向かったのは1900年。
渡航は数週間に及ぶ長旅で、
言語も文化も異なるヨーロッパへ向かうこと自体が大きな挑戦だった。
ロンドンに到着すると、
彼は大学の講義に出たり、
図書館で英文学や言語学の資料を徹底的に読み込んだりする生活へ入る。
表向きには“文科留学生”として順調に見えたが、
その内側では深刻な問題が進行していた。

ロンドンでの孤独である。

英国の生活環境は日本とまるで違い、
空気、人、街並み、文化、すべてが彼にとって“異質”だった。
当時のロンドンは産業革命の余韻を持つ巨大都市で、
煤煙が立ち込め、冬は暗く、
街に漂う孤独感は強烈だったと記録されている。

加えて、金之助は日常生活のほとんどを
“誰にも頼らず一人で過ごす”状況に追い込まれる。
外食もままならず、下宿で一人黙々と食事をとり、
講義に出ても友人ができず、
誰とも心を通わせられないまま時間が過ぎていく。

彼はもともと神経質で、内向的な気質を持っていた。
この気質が異国の孤独と混ざり合い、
精神状態は次第に不安定になっていく。

留学中の彼の手紙には、
ロンドンの生活を“幽霊の中にいるよう”と形容する表現が見られるほどで、
彼がいかに追い詰められていたかが伝わってくる。
当時、イギリス文学の研究に関して明確な指導者がいたわけでもなく、
金之助は途方もない量の資料に囲まれながら
自分だけの勉学方法を模索する毎日だった。

この時期、彼はついに
強い神経衰弱の症状を経験する。
「自分は誰からも理解されていない」
「世界から切り離されている」
「頭が分裂していくようだ」
といった感覚に襲われ、
精神的には極めて危険な状態だったと推測されている。

しかし、奇妙なことに、
この孤独と極限状態こそが
後の“夏目漱石”を生み出す礎となる。

ロンドンでの膨大な読書量と、
英文学の本質に対する深い洞察、
そして何より孤独から生まれた自己分析。
これらは、帰国後の彼の文学観を決定的に形作った。
“個人とは何か”
“文明の中で人はどう生きるのか”
“孤独と自意識はどこに向かうのか”
といったテーマは、のちの漱石作品の中心概念として現れる。

1903年、ついに金之助はロンドンでの留学を終え日本へ帰国する。
しかしその胸に残ったものは、
・孤独
・精神的な傷
・西洋文化への深い理解
・文学を通して世界と向き合う覚悟
これらが複雑に絡み合った重い影響だった。

帰国後、彼を待ち受けていたのは
東京帝国大学での講師職と、
文筆活動への大きな転機だった。
次の章では、留学の影響を抱えたまま日本に帰ってきた金之助が、
どのようにして“夏目漱石”へ変貌していくのかを見ていく。

 

第5章 帰国後の転機ー東京帝国大学講師と評論活動

ロンドン留学から帰国した金之助は、
その心に深い疲労と孤独を抱えていた。
しかし彼は、それを表に出すことなく、
すぐに学問の世界へ戻っていく。
1903年、金之助は
東京帝国大学の英文科講師として採用され、
英文学の講義を担当することになる。
ここから彼の人生は、作家・漱石へ至る大きな分岐を迎える。

大学での講義は、学生たちから高く評価された。
金之助の授業は、単なる翻訳や読み合わせではなく、
作品の構造やテーマを深く掘り下げ、
文学そのものの本質を問うような内容だった。
彼がロンドンで経験した孤独と自己分析が、
講義という形で表現されていたとも言える。

ただし、講師としての金之助は、
華やかなエリートというより、
常に精神の不安定さと闘う人物だった。
講義準備に膨大な時間をかけ、
神経質な性格から小さなことでも深く悩み、
ときには精神的に追い詰められることもあった。
しかし、そのストイックさが
“夏目漱石の知性”を形成していく。

この頃の金之助は、教育活動と同時に
文学評論にも取り組み始める。
英文学の研究書を翻訳したり、
研究論文として作品分析をまとめたり、
批評家としての活動を広げていく。
これらの評論は、大胆な洞察と鋭い批判精神を持ち、
日本の文学界に新しい視点をもたらした。

さらに、東京帝国大学での教職生活の一方で、
金之助は1905年に
偶然とも言える大きな転機に遭遇する。
それが、雑誌「ホトトギス」に発表した
『吾輩は猫である』である。

この作品は、もともと
“気晴らしのために書いた軽い読み物”
のようなつもりで書かれた。
しかし、ユーモラスで風刺のきいた文体、
文明と人間を冷静に観察する視点、
漱石特有の皮肉と柔らかさが融合した内容は
一気に読者を虜にし、
漱石は瞬く間に文壇のスターとなる。

この成功により、
金之助は“学者”から“作家”へと
明確に道を進むことになる。
ここで初めて、
英文学研究者・教師として生きてきた金之助が、
文学という創作の世界で
独自の表現を獲得した瞬間だった。

だが、この成功は同時に
人生の新しい負担も生む。
大学の講義と創作の両立、
精神の不調、
家庭生活のぎこちなさ。
金之助は、名声が高まるほどに
心の葛藤も増していく。

それでも彼は書き続けた。
留学で得た視野と、
講師生活で培った学問の深みを
文学へ落とし込むことで、
金之助は“夏目漱石”へと変貌していく。

この章の時期は、
単なる肩書の変化ではなく、
漱石が“書くしかない人生”へ進む準備を整えた時期だった。
次の章では、文壇を震わせた最初の傑作
『吾輩は猫である』の誕生と、
漱石が作家として確立されていく過程を描いていく。

 

第6章 「吾輩は猫である」ー文壇への鮮烈な登場

1905年、夏目金之助の人生は大きく動く。
雑誌「ホトトギス」に掲載された一編の小説──
それが『吾輩は猫である』だった。
この作品こそ、学者・教師としての金之助を
“夏目漱石”という作家へ押し出す決定的な突破口になる。

『吾輩は猫である』は、
本来は気晴らしのつもりで書かれた軽い読み物だった。
当初は一回限りの短編として依頼され、
漱石自身もここまで評価されるとは思っていなかった。
しかし、読み物として発表されたこの作品は、
文壇と一般読者に強烈な衝撃を与える。

まず、語り手が“猫”であるという着想が斬新だった。
名もなき猫が人間社会を冷静に観察し、
文明開化の滑稽さ、人間の矛盾、社会の空気
皮肉とユーモアたっぷりに語る形式は、
それまでの日本文学には存在しない表現だった。
しかも、漱石の文章は軽妙でありながら知的で、
随所に鋭い批判や洒落が仕込まれており、
読む者は爽快感と深さの両方を味わえた。

作品の舞台である中学校教師・苦沙弥の家には、
当時の知識人をからかうような人物が多く登場し、
彼らの会話や行動を猫が嘲笑混じりに眺める構造になっている。
そのため、知識層の読者は
“自分たちが笑われている”と感じながらも、
その皮肉が心地よく、癖になっていった。
漱石の知性とユーモアが炸裂したこの作風は、
瞬く間に話題をさらうことになった。

人気が高まるにつれ、
『吾輩は猫である』は連載へと発展し、
長編へと膨らんでいく。
漱石は自分でも驚くほどの反響を受け取り、
“文壇の最前線に立つ人物”として注目されていく。
この時点で漱石のペンネームが広く定着し、
学者としての夏目金之助から、
作家・夏目漱石へと明確に姿を変える。

しかし、華々しい成功の裏側で、
漱石の精神状態は決して安定していなかった。
ロンドンで受けた精神的ダメージは完全には癒えておらず、
神経衰弱の症状がたびたび表に出るようになる。
仕事が増えれば増えるほど、
漱石は心の負担を抱えることになり、
家庭生活でも気難しさが出て家族と衝突することも多くなった。

それでも、漱石は書き続けた。
『吾輩は猫である』のヒットによって、
彼は“文学こそが自分の表現の場である”と確信しはじめる。
学問や教師の立場では解決できなかった
孤独・不安・時代への疑問──
それらを表現できるのは文学だけだという意識が
次第に強くなっていった。

この時期の漱石にとって
『吾輩は猫である』の成功は、
単なるデビュー作のヒットにとどまらない。
彼自身が抱えてきた
・自己意識の揺れ
・文明に対する批判
・人間への深い観察
こうした特徴が、作品の中で形を持ちはじめる瞬間だった。

この成功を機に、漱石は大胆な選択をする。
安定した大学講師の職を辞め、
創作に専念するため、
朝日新聞社へ入社するのである。
ここから、漱石の創作は加速し、
次々と重要作品が生まれていく。

次の章では、朝日新聞に入った漱石がいかにして
“日本の国民的作家”へと登っていくのか、
その黄金期をたっぷり追っていく。

 

第7章 新聞小説家へー朝日新聞入社と創作の黄金期

『吾輩は猫である』の成功によって一躍文壇の中心へ押し出された漱石は、
ついに大きな決断を下す。
それは 東京帝大の講師職を辞め、朝日新聞社に入社する という選択だった。
当時、新聞小説は読者の規模も大きく、
日本全国へ文学を届ける最も影響力のあるメディアだった。
しかし、大学講師という安定した立場を捨てて作家一本で生きるというのは、
日本ではまだ前例がほとんどない大胆な選択だった。

朝日新聞社は漱石の才能を高く評価し、
待遇も破格。
漱石は専属作家として迎えられ、
新聞連載を軸に創作へ専念できるようになる。
こうして始まったのが、
漱石の “創作黄金期” と呼べる時代である。

まず漱石が手がけたのが、
『坊っちゃん』 の執筆だった。
松山での教師経験がモチーフになっており、
正義感が強く直情的な坊っちゃんが
曲者だらけの学校で騒ぎを起こす物語は、
明快で痛快で、読者に大きな支持を得た。
そして作品の軽快さとは裏腹に、
漱石自身が抱えていた“世間への不信感”や“人間関係の葛藤”が
随所に染み出し、単純な娯楽作品を超えた深みを生み出している。

続いて発表された
『草枕』 では、
“非人情”という考え方を軸に、
文明批評的な視点と自然描写が結びつき、
漱石の哲学性が一気に表面化した。
この作品は、後期の漱石思想へ続く重要な橋渡しとなる。

また朝日新聞へ入社してから、
漱石は原稿のペースを保ちながら
次々と作品を生み出していく。
『二百十日』『野分』『虞美人草』など
実験的で多様な作品群がこの時期に誕生し、
彼の創作領域は広がり続けた。

しかし、成功の裏で漱石の精神は不安定だった。
締め切りに追われ続ける新聞小説家という仕事は、
神経質で完璧主義の漱石には大きな負担となり、
しばしば胃痛や神経衰弱を発症した。
特に、ストレスによる胃潰瘍は重症化し、
時には執筆どころか生活自体がままならなくなるほどだった。
それでも漱石は筆を止めなかった。
書くことでしか自分の精神を保てないようにさえ見えるほど、
創作は彼の生きる中心になっていた。

この時期、漱石は家庭でも多くの問題を抱えていた。
妻の鏡子との関係は衝突も多く、
子どもたちの生活費や教育費も増えていく。
家族を支えるためにも、漱石は書き続けるしかなかった。
作家としての重荷と家庭の責任が同時にのしかかり、
彼は精神的に追い詰められ続けるが、
それでも作品の質は落ちないどころか、
むしろ円熟していくという異例の創作力を見せた。

朝日新聞社へ入った後、
漱石は“国民的作家”としての地位を完全に固めた。
新聞という巨大メディアを通し、
彼の小説は日本全国に広がり、
明治という時代の空気を表現する象徴的存在になっていく。

こうして黄金期の漱石は、
その後に続く代表作群を生み出すための舞台を整えた。
次の章では、
『坊っちゃん』『草枕』に続く
より本格的な文学的挑戦が結晶した
『虞美人草』を中心とした作品群を追っていく。

 

第8章 代表作の誕生ー『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』

朝日新聞社に入社してからの漱石は、
創作速度も質も一気に加速した。
この時期に生まれた作品は、
後世の“日本文学の基礎”と評されるほど重要なものばかりで、
漱石の才能がもっとも伸び伸びと発揮された時期でもある。
ここでは、その中心となる
『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』
という三つの代表作の誕生をたどる。

まずは、圧倒的な人気を得た『坊っちゃん』
この作品は、漱石の松山での教師生活をベースにしており、
直情型の青年教師“坊っちゃん”が、
狡猾で癖の強い同僚たちとぶつかり合う物語となっている。
“曲がったことが大嫌い”という坊っちゃんのキャラクターは、
読者に爽快感を与える一方、
その裏には漱石自身が抱える
社会への不信、権威への反発、人間関係への疑問
がしっかり刻まれている。
軽い読み物として楽しめるが、
実は漱石の価値観が最も鮮明に露出した作品でもある。

続いて、文学性を強く押し出した作品が『草枕』
冒頭の
「山路を登りながら、こう考えた」
はあまりにも有名で、
美しい自然の描写と詩的な感性に溢れる作品だ。
この小説のテーマは漱石の思想の核心でもある
“非人情”
感情や世俗の価値観に振り回されず、
芸術の目線から世界を眺めようとする主人公の視点は、
ロンドン留学で精神を追い詰められた漱石が
自分の心を守るために獲得した“生き方のヒント”そのものだった。
読みやすい作品ではないが、
漱石文学の中でも最も哲学的で、
のちの作品への思想的基盤を作った重要な一冊である。

そして、漱石が“新聞小説家”としての本領を示したのが
『虞美人草』である。
この作品は、漱石にとって初の“本格的長編”として書かれたもので、
これまで以上に構想が緻密で、
舞台・登場人物・テーマが非常に厚みのある内容になっている。

『虞美人草』では、
美貌と知性を兼ね備えた女性・藤尾を中心に、
恋愛と思想、伝統と近代、情熱と冷静が複雑に絡み合い、
漱石が明治社会に抱き続けていた違和感が
物語として立体的に描かれている。
特に藤尾という人物は、
自己と美と理想を突き詰めすぎて破滅へ向かう存在として描かれ、
そこには漱石自身の“理想への過剰なこだわり”が投影されているとも言われる。

『虞美人草』は、
新聞連載としては内容が重く思想的で、
読者層にとっては難しい作品だったが、
文壇では“漱石の本格的作家宣言”として高く評価された。
これにより、漱石は単なるユーモア作家ではなく、
明治文学の中心に立つ正統派の大作家として認められていく。

この三作が揃ったことで、
漱石は
・軽妙なユーモア
・哲学的な構造
・現代的な人間描写
・鮮烈な美意識
という、
後の日本文学を決定づけるスタイルを完成させた。

ただし、華々しい成功の裏では、
締め切りと期待の重圧が漱石の精神を蝕み、
神経衰弱は悪化していく。
それでも彼は書くことをやめず、
次の段階へ進む。
いよいよ、漱石作品の中でも“頂点”と呼ばれる後期作品群──
『彼岸過迄』『行人』『こころ』
へ至る時期が訪れる。

 

第9章 後期三部作ー『彼岸過迄』『行人』『こころ』

代表作を次々に生み出し、日本の文壇に揺るぎない地位を築いた漱石は、
やがて創作の中心テーマを“人間の内部”へ深く掘り下げていく。
その到達点となったのが、
『彼岸過迄』『行人』『こころ』
という、いわゆる“後期三部作”である。
この三作品は、漱石が生涯抱え続けた
不安、孤独、罪悪感、自己意識、近代の影──
そうした深層心理をもっとも鮮明に描いた領域であり、
日本文学史の中でも特別な位置を占める。

まず最初に発表されたのが 『彼岸過迄』
この作品は、会話形式で物語が進む独特の構造を持ち、
曖昧な境界を揺れ動く“私”という存在を追いかけるような内容になっている。
漱石自身が長年抱えてきた
人との距離感の難しさ、自意識の揺れ、
そして「自分は何者なのか」という問いが、
静かだが鋭い文体で掘り下げられていく。
前期作品のような軽さは消え、
代わりに“近代的人間の苦悩”が前面に出る。

続く 『行人』 では、
漱石文学の中でも特に重厚な心理描写が展開される。
兄・一郎、弟・二郎、そして一郎の妻・直。
この三人の関係性を中心に、
愛、嫉妬、猜疑心、責任、孤独といった
人間関係のもっとも複雑な部分へ踏み込んでいく。
一郎が抱く“自我の牢獄”のような苦しみは、
まさに漱石自身の投影と言ってよく、
作品全体が圧倒的な緊張感に包まれている。
精神の崩壊寸前まで自己を追い詰める男の姿は、
ロンドン留学での漱石の体験、
そして生涯の神経症との闘いがそのまま姿を変えたもののようにさえ見える。

そして、後期三部作の頂点──
日本文学でも屈指の名作として知られる 『こころ』
“先生”と“私”、
そして物語後半で語られる“先生とK”の関係。
この作品では、人の心に潜む
罪悪感、裏切り、自己嫌悪、愛の歪み、死への吸引力
が圧倒的な密度で描かれる。

“K”という青年の清らかさと脆さ、
先生の自己中心性と繊細さ、
二人の間に挟まれた友情と恋情の揺らぎ──
それらの感情が絡まり、
やがて破滅へ向かう過程は
読む者に強烈な余韻を残す。

『こころ』が日本でこれほど読まれ続ける理由は、
作品が
“近代以後の人間の孤独”
という普遍的な問題を突きつけているからである。
文明が進歩するほど、
人は自由になり、そして孤独にもなる。
漱石が生涯向き合い続けたそのテーマが、
『こころ』で凝縮されている。

この三作品は、
初期の漱石のようなユーモアは弱まり、
代わりに
構造、心理、思想、文学性
すべてが極限まで研ぎ澄まされていく。
漱石自身が人生の後半へ進むにつれ
精神的・身体的に追い詰められていく過程と並行するように、
作品も深く暗い場所へ潜っていく。
しかし、そこには暗さだけでなく、
“人間の内面を文章で照らす”
という漱石文学の真骨頂がある。

後期三部作は漱石の苦悩そのものだが、
同時に、日本文学の到達点のひとつでもある。
こうして漱石は、
日本の作家として唯一無二の場所へ登り詰め、
次の章で語る晩年へと向かっていく。

 

第10章 晩年と最期ー「則天去私」への到達と死

後期三部作を完成させ、
近代日本文学の中心に立った漱石は、
作家として絶頂に見える一方で、
心身は限界に近づいていった。
神経衰弱、胃潰瘍、締め切りの重圧、
家庭生活のゆらぎ──
それらが同時にのしかかり、
漱石の身体は次第に悲鳴を上げ始める。

特に胃潰瘍は深刻だった。
漱石はしばしば激痛に襲われ、
血を吐き、
執筆どころか日常生活さえままならない状態に陥ったこともある。
しかし彼は原稿を手放さない。
書かなければ自分が崩れてしまうと感じていたかのように、
彼は文字へ執着し続けた。

そんな漱石が晩年にたどり着いた思想が、
「則天去私」という考え方である。
これは“私情や自己執着から離れ、
自然の理に身を委ねて生きる”という境地で、
長年自意識と苦悩に悩まされ続けた漱石が
精神を救うために必死で追い求めた境地だった。

この思想の萌芽は、
講演や随筆『硝子戸の中』にも見られ、
晩年の作品『明暗』にも深く影を落とす。
『明暗』は、夫婦関係を中心とした心理劇で、
漱石文学の集大成とも言えるほどの濃密な内面描写を持つ作品だったが、
ついに未完のまま終わることになる。

晩年の漱石は、
若い文学者たちとの交流にも力を注ぎ、
“漱石山房”と呼ばれる早稲田の自宅には
弟子や文学志望の若者たちが集まった。
久米正雄、森田草平、寺田寅彦
といった後の文化人たちは、
この山房で漱石から教えを受けている。
漱石は若者への影響力を自覚しつつも、
決して威張ることなく、
自分の苦悩も弱さも隠さず語ることで
彼らと向き合っていた。

しかし、体調は悪化の一途をたどる。
1916年、胃潰瘍が再び重くなり、
療養しながら執筆を続けていたが、
ついに病状が悪化し、
12月9日、漱石は早稲田南町の自宅で息を引き取った。
享年49。
才能と知性に恵まれながらも、
常に自分自身の心と戦い続けた生涯だった。

最期の言葉は、
「どうもいけない」
と伝えられている。
華々しい作家の死に似つかわしくない控えめな言葉だが、
逆にそれが漱石らしさを示しているようでもある。
虚勢を張らず、嘘をつかず、
ただ“今”をそのまま受け入れようとした人間の言葉だった。

漱石の死後、
彼の思想と文学は日本の土台として残り、
『坊っちゃん』『草枕』『こころ』をはじめ、
多くの作品が学校教育にも組み込まれ、
“国民的作家”という地位を確立する。

漱石の生涯を振り返ると、
常に自分の内部と戦い続けた人生だった。
家庭に馴染めなかった幼少期、
孤独と闘ったロンドン留学、
精神の不調を抱えながらの執筆の日々──
そのすべてが作品に結晶し、
日本文学の新しい地平を切り開いた。

そして最後に辿り着いた
「則天去私」という境地は、
漱石自身が苦悩の果てに見出した
生き方そのものの答えだった。
文学者としてではなく、一人の人間として、
漱石が最終的に求めたのは、
自己に溺れず、しかし自己を捨てず、
自然と共に静かに生きる姿だった。