第1章 幼少期ー三河の人質生活と少年時代の苦難

1542年、後の徳川家康は三河国・岡崎城で生まれる。
幼名は竹千代
父は松平広忠、母は於大の方
だが竹千代の人生は、城で穏やかに育つどころか、
生まれた瞬間から波乱の連続だった。

まず大問題だったのが、
松平家が周囲の勢力──
今川家織田家──の間で板挟みになっていたこと。
三河という土地は東西の大名から狙われやすく、
松平家は代々その圧力に苦しんでいた。
その上、父の広忠は松平家をどうにか立て直そうと奮闘していたが、
政情は常に不安定。
竹千代の誕生は喜びであると同時に、
「この子の人生は簡単にはいかない」という予感を抱かせるものだった。

さらに幼い竹千代に追い打ちをかけるように、
母・於大の方は政略上の理由で離縁される。
竹千代はわずか数歳で母と引き離され、
祖母と家臣たちに育てられることになった。
政治の都合で家族が割かれる──
この経験は後の家康の性格に大きな影響を与え、
「家族を守ることが武将の責務だ」という価値観につながっていく。

そして彼の運命を決定づけたのが、
6歳で経験する人質生活だった。
松平家は今川家へ従属する形を強めるため、
竹千代を駿府の今川義元へ送る約束をしていた。
ところがその途中、
竹千代を護送していた者が裏切り、
なんと織田信秀(信長の父)のもとへ売り渡されてしまう。
武将の子として生まれたとはいえ、
6歳で「売られる」経験をするのは異常な事態であり、
この時期の竹千代は恐怖と孤独の中にいた。

その後、交渉の末に竹千代は今川家へ引き渡され、
駿府へ移される。
こうして彼は今川家のもとで約10年間、
事実上の人質として暮らすことになる。
しかし、この駿府での生活が、
彼にとって研磨の期間となったのも事実だった。

今川義元の下で、竹千代は
・武芸
・礼法
・学問
・政治の基本
を徹底的に学んでいく。
特に今川家の家臣で教育係となった太原雪斎は、
青年家康の考え方を形作った人物として重要。
雪斎は教養に溢れ、政治にも精通し、
竹千代に「強さとは何か」「国を治めるとはどういうことか」
という根本的な視点を教え込んだ。

竹千代はこの教育の中で、
「力も必要だが、冷静さこそ勝利を呼ぶ」
という価値観を身につけていく。
若い頃から慎重で、無駄な戦いを避ける姿勢は
この人質期の生活によって育てられたものだった。

駿府での日々は決して自由ではなかったが、
竹千代は感情に流されず、
状況を利用して強くなる選択をしていく。
今川家の家臣たちと交流し、
武将としての礼儀を身につけ、
戦国の政治を間近で観察し、
自分が将来どんな道を進むべきかを少しずつ掴んでいく。

そして十代後半になる頃、
彼は“竹千代”から
松平元信(のち松平元康)へと名を改め、
今川家の家臣として戦場に立つ準備を整えていく。
ここから、彼の人生は人質ではなく武将として動き始める。

幼い頃から続いた孤独、屈辱、家族の離別、そして研鑽。
このすべてが、後の“天下を取る男”の土台となった。
家康は幼少期にしてすでに、
普通の武将の何倍もの試練をくぐり抜けていた。

 

第2章 青年期ー独立への第一歩と三河統一への道

人質として育った竹千代──今は松平元信(のち松平元康)は、
十代の後半になると、ついに武将として戦場に立つ時が訪れる。
この章では、家康が“今川家の家臣”という立場から、
“独立した三河の領主”へと変わっていく過程をまとめる。

まず元康が本格的に登場するのが、
1548年の第一次小豆坂の戦い
彼は軍の一角を任され、
若いながらも冷静な采配で織田軍を迎え撃った。
この戦いは今川と織田の抗争の一部にすぎなかったが、
元康の武将としての才能が初めて発揮された場でもある。

次に重要なのが、
桶狭間の戦い(1560年)
元康にとって運命を激変させる大事件だ。

今川義元が大軍を率いて尾張へ侵攻し、
元康もその戦に参加していたが、
戦の最中に織田信長の奇襲によって義元が討たれる。
この一報は元康の立場を一気に不安定にした。
今川家の支配力は急激に弱まり、
三河の松平家は“今川に従属するしかない家”から
“自分で生きる道を選ばなければならない家”へ変わった。

ここで家康は驚くべき行動に出る。
なんと、この混乱を利用して
岡崎城への帰還を実行する。
元康は戦場を抜け、
故郷の岡崎へ向かい、
城の支配を取り戻すことに成功。
ここに、十数年の人質生活を経て
松平家を実質的に復活させた。

だが問題は、
三河の国人(地元武士たち)が
一枚岩ではなかったことだった。
松平家は長らく今川と織田の狭間で揺れ、
家臣団内部にも今川方・織田方・独立派など
複雑な派閥が存在した。

そんな状況で家康がとった戦略は、
「まず三河を一つにまとめる」こと。
これが青年家康の最大の仕事となる。

ここで登場するのが、
有名な三河一向一揆(1563〜1564年)
これは宗教勢力である一向宗の門徒と
三河武士たちが結びついた大規模な反乱で、
なんと家康の家臣のかなりの数が反旗を翻す。
青年期の家康にとって、この一揆は
“もっとも屈辱的で苦しい戦い”だった。

だが家康は容赦しなかった。
裏切った家臣には厳罰を与え、
同時に必要な家臣は許し、
三河全体を一歩ずつ掌握していく。
このときの徹底した処置は、
後の“家康の慎重さと冷徹さ”の原型と言える。

一揆を制圧したことで、
家康はようやく本当の意味で三河を統一した。
ここに至るまで、
・母との生別
・人質生活
・今川家の崩壊
・一向一揆という内乱
など、家康は人生の前半で
普通の武将なら折れてしまうような試練を次々に乗り越えていた。

青年期の家康は、
突出した武勇で名を上げた人物ではない。
しかし彼が示したのは、
華やかな勝利よりも重要な
「領国をまとめあげる粘り強さ」
そして
「負けずに生き残るための判断力」だった。

三河を手中に収めた家康は、
ここから“真の戦国大名”として動き始める。
そしてこの時期、
彼の運命を形作る最重要人物──
織田信長との距離が急速に縮まっていく。

 

第3章 三河一円の支配ー家中統率と松平家再興

三河統一を成し遂げた家康は、
ようやく「松平家の当主」として本格的な支配に乗り出す。
しかし三河は他地域と比べても宗教勢力が強く、
国人層(地元武士)の自立心も強く、
統治は容易ではなかった。
この章では、家康がどうやって三河の秩序を築き、
“乱世に生き残る土台”を固めたかを立体的にまとめていく。

まず家康が直面したのは、
三河国内に残された“今川残党”の問題だった。
桶狭間で義元が討たれた後、
今川家の影響力は急速に弱まったものの、
その支配体制や宗教政策に慣れ切った者たちが多く、
松平家への帰属が曖昧な者が大量に残っていた。
家康はこれを丁寧に整理し、
必要な者は取り込み、不要な者は排除し、
組織としての松平家を再編成する。

ここで重要な役割を果たしたのが、
家康の腹心たちだ。
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政など、
のちに“徳川四天王”と呼ばれる家臣たちである。
彼らは家康の統治を支え、
戦場でも政治でも欠かせない存在となっていく。
家康は人を見る目が鋭く、
忠実で能力の高い若者を積極的に登用した。
この“人材の育て方”が、のちの徳川政権を強固にする大きな柱になる。

また、家康の統治姿勢で特筆すべきなのが、
寛容と冷徹の使い分けだった。
反乱を起こした一揆勢には厳罰を下すが、
自分に誠意を示す者には領地を返すこともあった。
特に三河一向一揆の後、
家康は裏切った者たちを一律処刑するのではなく、
“今後の秩序維持に有効な者”を選別し、
巧みに取り込んでいる。
これが後の家康の強みである
「敵を味方に変える能力」の原点となった。

三河を統治するうえで、
家康は経済基盤の整備にも力を入れた。
・農地の測量
・年貢の安定した徴収
・灌漑の整備
・寺社の管理
といった地道な政策によって、
三河は徐々に安定した領国へと変化していく。
これは戦ばかりに明け暮れた他国と比べ、
家康の領国経営能力がいかに高かったかを示すポイントになる。

また、この頃の家康は外交面でも慎重さを発揮した。
三河は地理的に、
西に織田信長、
東に今川家の残存勢力と武田信玄という
“怪物級の大名たち”に囲まれていた。
家康は独断で動くことを避け、
周囲の状況を見ながら緩やかに勢力を拡大していく姿勢を取った。
無謀な戦いをしないという家康の姿勢は、
この三河時代にすでに確立されている。

三河をまとめあげたことで、
松平家は戦国大名としての地位をようやく確固たるものにし、
家康自身の名声も上昇した。
しかし家康の“本当の飛躍”はまだここからだった。
三河国内の統治を固めたことで、
次に家康が向き合うのは、
東海の巨大勢力──
織田信長と武田信玄との関係である。

こうして家康は、
三河という“揺れる足場”を安定した拠点へと変え、
戦国時代を生き抜くための第一段階を終えた。
ここから彼は、
天下を揺るがすほどの巨大な連携と戦いへ一歩を踏み出していく。

 

第4章 織田との同盟ー清須同盟と信長との協調関係

三河を統一した家康が次に選んだ道は、
東海最大の勢力へ伸び始めていた織田信長との協調だった。
この判断は、家康の生涯を決定づける分岐点となる。
以後、家康は信長と互いを利用しつつ支え合いながら、
戦国の巨大な荒波を乗り切っていくことになる。

まず最初に重要となるのが、
清須同盟(1562年)の締結。
三河の松平家と尾張の織田家は、
これまで敵対と協調を繰り返してきた関係だったが、
桶狭間で今川義元が討たれ、
今川家の支配力が弱まったことで情勢は大きく動いた。
家康は三河独立のため、
信長は尾張・美濃支配を進めるため、
双方にとって協力関係は極めて合理的だった。

清須同盟の実務交渉では、
家康は信長の妹であるお市の方を娶る案など
いくつかの縁戚案が検討されたが、
最終的には家康の嫡男・松平信康と
信長の娘・五徳(徳姫)が婚姻する形にまとまる。
これにより、
両家は“血縁関係を伴う強固な同盟”を結ぶことができた。

この同盟成立によって家康は、
長年苦しめられた今川の影響から完全に脱し、
三河を独立した領国として運営できるようになる。
同時に信長にとっては、
背後を家康に任せることで美濃攻めに集中できる利点があった。
ここから信長と家康の関係は、
利害に基づく実質的な“協力体制”へと進む。

信長の勢力が美濃へ進出すると、
家康も織田軍の後方支援として動き始める。
両家の軍勢はしばしば連携し、
街道整備、補給路確保、国境の治安など、
東海全体の秩序が徐々に安定したものへ変わっていった。
家康の三河統治能力の高さは信長にも高く評価され、
信長は家康を“同盟相手”としてだけではなく
“戦国を生き抜くための確かな味方”として認識するようになる。

この頃の家康は、
信長のような大胆さや破壊力は持たないものの、
・安定した領国経営
・律儀で信頼度の高い協力
・状況判断の確かさ
など、戦国大名に必要な能力を既に高いレベルで備えていた。
信長が「攻めの天才」だとすれば、
家康は「守りと持久戦の名手」に近かった。

同盟が機能し始めると、
家康は信長と軍事面で行動を共にする機会も増えていく。
その代表例の一つが、
姉川の戦い(1570年)
ここでは織田・徳川連合軍が
浅井長政・朝倉義景の連合軍と激突し、
家康軍は主力として奮戦した。
徳川軍は当時の規模としては決して大軍ではなかったものの、
その統率力と規律の高さで強敵を押し返し、
連合軍勝利の大きな支えとなった。

姉川での活躍により、
家康の信長政権内部での存在感はさらに増す。
信長から見れば家康は、
「地方にいても安心して背中を預けられる数少ない同盟相手」
であり、
家康から見れば信長は、
「天下を取る大波に乗るうえで不可欠な存在」
であった。
両者の関係は、
上下関係ではなく“互いの利益に基づいた協力”で成り立っていた。

この同盟時代の家康は、
攻める時は大胆に、
守る時は慎重に、
引くときは引くという柔軟さを発揮し、
徳川家の基盤をより強固にしていく。
信長が天下を目指して突き進む裏で、
家康は一歩ずつ確実に力を蓄え、
将来の大きな舞台を見据えていた。

そしてこの協調関係は、
やがて戦国最強の敵──
武田信玄との巨大な対決を迎えることで、
さらに深い絆と試練へと発展していく。

 

第5章 武田との激突ー三方ヶ原から長篠の戦いへ

家康の勢力拡大を阻む最大の強敵が、
甲斐の名将 武田信玄 だった。
東海・信濃・甲斐という一帯で、
武田家は圧倒的な軍事力と戦術力を誇り、
その進軍は周囲の大名にとって恐怖そのものだった。
家康も信長も、
“武田信玄という存在”を避けて通ることはできなかった。
この章では、家康が信玄・勝頼親子と繰り広げた
生涯最大級の激戦について整理していく。

最初の転機は
三方ヶ原の戦い(1572年)
信玄が西上作戦を開始し、
徳川領である遠江へ侵攻したことで幕が上がる。
家康は織田家との連携を期待していたが、
信長は当時、近畿方面での戦線に集中していたため、
十分な援軍は期待できなかった。
家康は、わずかな自軍を率いて信玄を迎え撃つという、
極めて不利な状況に立たされる。

三方ヶ原で家康は、
人生最大級の敗北を経験する。
武田軍の鉄壁の騎馬戦術の前に、
徳川軍は一気に崩れ、
家康自身も命からがら逃げ延びるしかなかった。
この戦いの後、家康が自分の疲れ切った姿を
「しかみ像」として描かせた逸話は有名で、
家康がどれほど深く敗北を反省し、
その痛みを忘れまいとしたかが分かる。

しかし、家康の真価は
“負けた後にどう動くか”に表れる。
三方ヶ原の敗戦後、
徳川軍は絶望せず、むしろ統率を強めた。
領民の被害を抑え、
城の守備を固め、
反武田派の国人たちと関係を築きなおし、
領国の立て直しを高速で進めた。
家康が“粘り強い武将”と評価される理由は、
まさにこの対応にあった。

その後、信玄は病に倒れ、1573年に死去。
家康は辛くも滅亡を免れた。
しかし武田家は終わらない。
信玄の息子 武田勝頼 が跡を継ぎ、
信玄に負けず劣らぬ機動力で勢力を保った。

そして1575年、
信長・家康連合軍 vs 武田勝頼軍が激突したのが
長篠の戦いである。
この戦いは戦国史の転換点とも言われ、
鉄砲の運用が戦術の主軸となった象徴的な戦いだった。

信長は鉄砲隊を
・三段撃ち
・交互射撃
の形で運用し、
武田の騎馬軍を迎え撃つ布陣を設計した。
家康軍は長篠城防衛の段階から全力で支援し、
連合全体の戦略に深く関わった。
もし長篠城が落ちていたら、
武田軍は勢いそのままに三河へ侵攻していた可能性が高く、
家康にとっても後がない戦いだった。

長篠の戦いの結果、
武田軍は壊滅的な打撃を受け、
騎馬軍の優位性は大きく揺らいだ。
これは家康にとって、
“三方ヶ原の屈辱”を雪辱する機会でもあり、
信長との同盟の価値を実感した瞬間でもあった。

武田勝頼はその後も抵抗を続けたが、
織田・徳川の挟撃で追い詰められ、
1582年、天目山で滅亡。
こうして武田家という戦国最大級の脅威は姿を消した。

武田滅亡の過程で、
家康は旧武田領の甲斐・信濃の一部を獲得し、
領土は大幅に拡大した。
ここで初めて家康は
“地方大名”から“広域を治める大名”へ成長した。

三方ヶ原の敗北、長篠の勝利、武田の滅亡。
これら一連の出来事は、
家康という人物が
・負けても折れない
・冷静に立て直す
・必要な時は大胆に動く
という三つの特徴を持つことを証明した。

そして武田家滅亡の年、
戦国全体を揺るがす大事件──
本能寺の変(信長の死)が家康に襲いかかる。

 

第6章 本能寺以後の動乱ー清須会議から東海支配の確立

1582年、戦国最大の衝撃が家康を直撃する。
本能寺の変
織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた事件だ。
この時、家康は堺見物の最中で、護衛も少なく、
完全に“無防備な立場”にあった。
もし光秀軍に見つかれば即座に討たれていてもおかしくない状況。
だがここで家康は、
驚異的な決断と胆力を見せる。

家康は腹心の家臣たちと相談し、
なんと危険地帯を突っ切って三河まで戻る
「伊賀越え」を断行する。
山道は険しく、敵兵だけでなく野盗も多い。
しかし家康は諦めず、地元勢力や寺社と連携しながら
命からがら岡崎へ帰還した。
この脱出劇は、家康の“生き残る力”を象徴する出来事となる。

信長の死を受けて、
織田家中では誰が後継者となるかを巡って大混乱が起きた。
この混乱の中で開かれたのが
清須会議である。
会議を主導したのは羽柴秀吉。
家康は信長の同盟者ではあったものの、
この会議で直接的な議決権を持つ立場ではなかった。
しかし、家康はこの結果を冷静に受け止める。

清須会議で決まったのは、
信長の孫である三法師(織田秀信)を後継とし、
信長の二男・織田信雄らが補佐するという体制。
秀吉はこの流れの中で勢力を一気に伸ばし、
織田家中における“実質的な後継者”としての地位を固めていく。

家康はこの情勢を鋭く読み取り、
秀吉とすぐに対決するのではなく、
まず自分の領地拡大と東海支配の安定に集中する。
これが後に大きな意味を持つ“時間稼ぎ”となる。

清須会議の少し後、
家康にとって重大な機会が訪れる。
織田信雄と羽柴秀吉の間で対立が生まれた際、
信雄の要請によって家康が支援に回り、
秀吉軍と対立する構図が生まれた。
これが
小牧・長久手の戦い(1584年)である。

小牧・長久手では、
家康の戦術力が大いに発揮された。
特に長久手での戦闘では、
家康は秀吉方の武将・池田恒興、森長可らを破り、
大勝利を収めている。
この勝利は家康の軍事評価を高め、
秀吉にとっても“侮れない相手”であることを印象づけた。

しかし、家康は勝っても驕らなかった。
秀吉との全面戦争を望むわけではなく、
あくまで“自立した大名としての地位”を守るために動いていた。
戦局が膠着し始めると、
家康は和平交渉へ踏み切り、
秀吉と同盟を結ぶという道を選ぶ。

この判断は、
家康の慎重さと合理性を象徴する出来事だった。
力で勝つよりも、
将来に繋がる地位を確保することを優先した形になる。
秀吉もまた、家康の能力を認めており、
1586年には家康を関白秀吉による臣従儀式に招き入れる。
このとき家康は、自ら臣従する代わりに
“徳川家の安定的存続”を確保するという道を選んだ。

その後、秀吉の全国統一が進む中で、
家康は東海地方の支配をさらに強固にし、
美濃・遠江・三河といった地域を安定させていく。
戦だけでなく、
治水・商業・土地政策など、
領国経営への集中によって内部を盤石に整えた。

本能寺の変から小牧・長久手、
そして秀吉への臣従という流れは、
家康にとって
“天下に出るための準備期間”だった。
この間に彼は
・戦わないと決めたら徹底して避ける
・勝てるところでは確実に勝つ
・時間を稼ぎながら力を蓄える
という特性を最大限に発揮し、
徳川家を次のステップへ導く下地を作り上げた。

そして秀吉の天下が確立したあとの家康は、
ついに大規模な領地移動を命じられる。
これが次章で語る
関東移封と江戸入府
という、家康の人生最大級の転換点につながっていく。

 

第7章 関東移封ー江戸入府と巨大都市建設の始動

1580年代後半、豊臣秀吉が日本全国をほぼ統一した頃、
家康に“人生最大級の転機”が訪れる。
それが関東移封である。
秀吉の命により、家康は長年支配してきた三河・遠江・駿河・信濃など
馴染み深い旧領を離れ、
まったく未知の土地である関東へ移されることになった。

この移封は、単なる引っ越しではない。
領地の規模は約250万石と大幅な増加。
しかし、それは同時に
“関東一帯の治安・経済・政治すべてを丸裸の状態から立て直す作業”
という、とてつもない重責もセットだった。

家康が与えられた関東の中心は、
江戸
当時の江戸は、現在の東京とはほど遠い。
湿地帯が広がり、川は氾濫し、
城は粗末、交通網も未整備。
武家の拠点として見ると“最下級レベル”の環境だった。

しかし家康は、この江戸で勝負する道を選ぶ。
彼は江戸を見た瞬間、
この土地が未来の巨大都市になる可能性を見抜いたとされる。
海へ開け、
東北・関東・東海の交通の要衝であり、
開発次第で無限に発展できる土地だった。

家康はまず、
江戸城の大改築に着手する。
かつて太田道灌が築いた小規模な城を基礎に、
石垣、水堀、櫓(やぐら)、城下町の配置などを大胆に再設計した。
この“江戸城改造”は数十年かけて続けられ、
のちの江戸幕府の政治中枢となる巨大城郭へと成長していく。

次に家康が取り組んだのが、
治水工事と都市計画である。
江戸は土地が低く、湿地が多いため、
そのままでは農業も城下町も維持できない。
そこで家康は大規模な河川工事を行い、
川の流れを変え、港を整備し、
湿地を農地へ変えるという大事業を推し進めた。
この時に作られた河川網や土地の区画整理は、
後の江戸100万人都市の骨格となる。

また家康は、
旧領から優秀な家臣たちと民衆を江戸へ呼び寄せ、
新たな城下町を形成した。
武家屋敷、商業地、寺社、宿場町を計画的に配置することで、
江戸はあっという間に人口を増やし始める。
家康は都市をただの政治拠点ではなく、
「経済が動き、人が集まり、文化が生まれる場所」として整備した。

この都市づくりこそが、
家康の長期的な戦略性を象徴している。
戦で勝つことよりも、
“国が長く続く仕組みを作ること”を重視していた。

さらに家康は、
関東の大名や国人たちと丁寧に関係を築き、
新領地での支配基盤を固めていく。
北条氏の旧領民は最初こそ警戒していたが、
家康の慎重かつ公平な政治は徐々に信頼を生み、
関東一帯は急速に安定していった。

秀吉の側近たちの中には、
「家康を関東に追いやることで中央から遠ざけた」
と考える者もいた。
だが家康はその逆を見ていた。
関東は人口が多く、土地も広く、
経済発展の余地も巨大。
ここを手に入れることは、
“未来の天下”を掴む最良の布石だった。

そして1598年、
豊臣秀吉が死去する。
この瞬間、
東日本を支配し、江戸という巨大基地を築きつつあった家康は、
日本全体の権力争いにおいて
最も有利な位置に立つことになる。

関東移封は、
秀吉の意図を越えて家康に“天下への足場”を与え、
江戸という都市を未来へ繋がる中心地へ変えた。
ここから家康の人生は、
いよいよ最大の戦へ向けて動き出す。

その戦こそ、
関ヶ原

 

第8章 天下分け目ー関ヶ原の戦いと天下掌握

1598年、豊臣秀吉が死去すると、
家康の周囲で一気に情勢が動き出す。
豊臣政権の柱であった“秀吉という個人”が消えたことで、
大名たちのバランスは急激に崩れ、
権力の空白地帯が生まれた。
この空白を埋めるのが誰なのか──
日本全体が緊張する中で、
最も有利な立場にいたのが家康だった。

家康は秀吉死後、五大老筆頭として政務を取り仕切った。
だが、中央政権内部では
家康と石田三成を中心とする“奉行衆”との対立が表面化する。
三成は法と制度を重んじる中央志向の官僚的な人物で、
武断派の多くから嫌われていたが、
秀吉の遺児・秀頼の政権を守るために奔走していた。
一方の家康は、
関東という巨大な領土を背景に実力を伸ばし、
多くの大名と婚姻・誓約などを結んで勢力を拡大していった。

この状況を危険視した三成派は、
家康を抑えようとして
やがて両陣営は政治的に真っ二つに割れる。
これが東軍(家康) vs 西軍(三成)の対立構図の始まりだ。

決定的な火種となったのは、
家康が諸大名に対して
勝手な婚姻や領地のやり取りを行ったとして
西軍が家康を糾弾した事件。
しかし家康は動じず、
むしろこれを利用して
反三成派の大名を味方に引き入れていく。

こうして1600年、
ついに日本全土を巻き込む内乱が始まる。
関ヶ原の戦いである。

戦いの舞台は、美濃国・関ヶ原。
家康率いる東軍は総数約7万。
対する三成の西軍は約8万。
数ではほぼ互角、
陣営の広がりも拮抗していたが、
家康には決定的な優位点があった。
それが
大名たちの信頼と結びつきの強さ
である。

関ヶ原当日、戦局を左右したのは、
西軍の一角にいた小早川秀秋
彼は事前に家康と密約を結んでおり、
戦の途中で突如、
西軍の陣へ向けて裏切りの突撃を開始する。
この小早川軍の寝返りによって
西軍の陣形は一気に崩壊し、
戦いは東軍優勢へと傾いた。

続いて、
脇坂・朽木・小川・赤座といった諸将も次々と東軍へ寝返り、
西軍は完全に包囲される形となる。
中心にいた石田三成は奮戦するも、
敗北を悟って逃走し、
最終的に捕縛され処刑された。

関ヶ原の勝利により、
家康は実質的に日本全国の軍事権を掌握した支配者となる。
表向きはまだ豊臣政権の一構成員だったが、
日本の命運はこの瞬間から家康の手の中にあった。

戦後処理では、
家康は敵対した大名を厳しく処分し、
味方した大名には領地を与える“恩賞と罰”を徹底。
天下を動かす勢力図は大きく塗り替えられ、
徳川家は
全国で最大の領土(約300万石以上)
を有する圧倒的な存在へと変貌した。

この関ヶ原の勝利は、
単なる合戦の勝敗ではなく、
戦国時代そのものの終焉を告げる出来事だった。
強力な敵大名は排除され、
徳川家の支配は東日本から西日本へと広がり、
“武家政権の中心”は豊臣から徳川へ移った。

そして家康は、
ここから新たな国家の形を作るために動き出す。
関ヶ原で勝っただけでは天下は安定しない。
法、制度、都市、外交、人事──
あらゆる方面で“統治の仕組み”を整えなければならない。
家康が目指したのは、
織田や豊臣とは違う、長く続く平和の国家だった。

その巨大構想が、
次章で語る
江戸幕府の創設
へとつながっていく。

 

第9章 政権の構築ー江戸幕府創設と武家諸法度

関ヶ原の戦いに勝利し、
日本の実質的支配者へと上り詰めた家康が、
次に取りかかったのは
“戦わなくても国が回る仕組み”を作ることだった。
これは信長にも秀吉にも完全にはできなかった領域で、
家康の最大の仕事と言っていい。

1603年、家康はついに
征夷大将軍に任じられ、
江戸幕府を開く。
ここから戦国時代は正式に幕を下ろし、
日本は“徳川の時代”へと突入していく。

幕府創設後、家康は最初に
大名の配置(領地の再編)
に着手する。
これは“誰にどこを治めさせるか”という国家レベルのパズルで、
徳川支配の骨格を作る非常に重要な作業だった。

家康は大名を三種類に分類する。

1・徳川家の親族
親藩(しんぱん)
2・関ヶ原で味方した大名
譜代(ふだい)
3・関ヶ原で敵対したが臣従した大名
外様(とざま)

親藩と譜代は江戸の近くに配置し、
政治の中心を固める役割を与えた。
一方、豊臣恩顧の大名や外様には、
九州・四国・中国・東北などの外縁部を任せ、
中央へ簡単に介入できないよう配置した。

この“地理による政治コントロール”は、
徳川の安定を260年以上も支える仕組みとなる。

次に家康が導入したのが、
幕府と大名の関係を法で縛る
武家諸法度(1615年)である。
これは後年に追加・修正されながら、
江戸時代の基本ルールとして機能し続けた。

重要な規定を挙げると──

・大名どうしの婚姻には幕府の許可が必要
・城は1つだけ(一国一城令
・勝手に戦をしてはならない
・参勤交代の原型となる“江戸と領国の往来義務”
・幕府への忠誠を示す儀礼の統一

これらにより大名たちは、
自力で軍事力を膨らませることがほぼ不可能になった。
戦国時代のように好き勝手に戦が起きることもなくなり、
幕府が日本全体の秩序を支配する体制が整っていく。

さらに家康は、
経済・流通にも強い関心を持ち、
全国の街道を整備して
五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)を確立する。
これにより、
江戸を中心とした巨大な物流網が完成し、
商人・旅人・物資が絶えず動く“経済国家の原型”が生まれた。

また家康は、
外交にも慎重かつ戦略的に取り組んだ。
スペインやポルトガルなどの南蛮勢力が日本へ接触し、
キリスト教が急速に広まる中で、
家康は一時的に交易を認めた一方、
布教の拡大には強く警戒した。
幕府の安定を脅かす可能性があると判断したためだ。
のちに息子の秀忠、孫の家光が
キリスト教禁制をさらに厳格化していき、
日本の外交は「江戸幕府の枠組み」へ吸収されていく。

政治の中心である江戸城も、
家康の構想の下で巨大な城郭へと姿を変え続けた。
大名たちは築城・堀普請に動員され、
江戸は急速に都市化していく。
この頃から江戸の人口は増え続け、
世界有数の都市へ成長する基礎が固まった。

一方、家康は将軍就任からわずか2年後に
将軍職を息子・徳川秀忠へ譲る
しかしこれは引退ではなく、
自らは“大御所”として駿府へ移り、
裏から国家の重要決定を行い続けた。
表の将軍は秀忠、
しかし実権の多くは家康が握る。
この二重構造は、幕府の安定と後継者育成のための工夫だった。

そして豊臣家との関係は、
最後に避けて通れない大問題として残されていた。
豊臣秀頼が成長し、
大阪城に巨大な富と軍勢を抱えて存在していた。
家康はこの“もう一つの巨大権力”を
決して放置するつもりはなく、
慎重に、しかし確実に
豊臣家を包囲していく。

江戸幕府の制度を固めつつ、
家康は次第に
“大阪をどう処理するか”
という最終局面へ向かっていく。
その結末が、
次章で語る
大坂の陣と家康最晩年
となる。

 

第10章 晩年と死ー大御所政治と家康の最終決断

江戸幕府が形を整える中で、
家康は早い段階で将軍職を秀忠へ譲り、
自らは駿府城へ移って“大御所”として政務の中枢に立ち続けた。
表向きは引退しているようで、実際には
政策の最終判断、外交、そして最大の懸案である豊臣家の処遇など、
国家の命運を左右する事柄のほとんどを握っていた。
ここからは、家康がどのようにして
徳川政権を揺るぎないものに仕上げていったかを整理していく。

家康にとって最大の課題は、
依然として大阪に巨大な勢力として残っていた
豊臣秀頼の存在だった。
豊臣家はすでに政治的権限を失ってはいたが、
大阪城には莫大な富や兵力が集中し、
反幕府勢力が集まる“最後の拠点”になっていた。
家康はこれを看過できなかった。

家康はまず、
豊臣家が再起の旗印にならないよう
周到な政治的包囲を進める。
大阪城の改修を巡って難癖をつけ、
豊臣家に“内外への弱み”を作るよう仕向けていく。
その一方で、諸大名へは
「徳川と豊臣のどちらにつくべきか」
という問いを突きつける形で圧力を高めていった。

そして1614年、とうとう緊張は臨界点に達する。
豊臣家が寺社建立のために方広寺の鐘銘を鋳造した際、
その文言の中にある「国家安康」「君臣豊楽」が
“家康を呪詛している”
という理屈で家康は豊臣家を追及する。
これは完全に口実ではあったが、
政治的には完璧な“開戦理由”となった。

こうして始まったのが
大坂冬の陣(1614年)である。
幕府軍は大阪城を取り囲み、
鉄砲や大筒で攻撃を加えたが、
豊臣方も真田幸村(信繁)らの活躍で頑強に持ちこたえた。
戦そのものは膠着したが、
家康は和議交渉の場で
“大阪城の外堀を埋め立てる”
という条件を巧妙に入れ込み、
豊臣家の軍事的防御力を徹底的に削ぐことに成功する。

翌1615年、
外堀のない“丸裸”の状態となった大阪城へ
幕府軍は再び総攻撃を開始する。
これが
大坂夏の陣である。
真田幸村の奮戦は伝説となり、
豊臣方の武将たちも勇猛に戦ったが、
兵力差と補給力の差は埋め難く、
ついに大阪城は落城。
豊臣秀頼と淀殿は自害し、
豊臣家はここに完全に滅亡した。

大坂の陣によって
徳川家に敵対する可能性を持つ勢力は日本から完全に消えた。
家康は、戦国一の巨大権力者であった豊臣家を消し去ることで
約150年に及ぶ戦国時代の因縁そのものに終止符を打った。

戦後、家康は駿府へ戻り、
幕府の体制をより強固にするための最終調整へ集中する。
外交では、朱印船貿易を通じてアジア諸国との関係を整え、
経済政策では貨幣制度を統一し、
農政では徳川幕藩体制の基盤となる石高制度を安定させた。
それらの“国家の形”は
秀忠・家光の代で完成するが、
その基礎設計をしたのは完全に家康である。

そして1616年、
家康の体調は急速に悪化していく。
死の床についた家康は、
徳川家が長く続くための教えを秀忠らに残し、
自らの墓所を
日光東照宮とすることを指示したと伝わる。
家康は自らを“東照大権現”として祀り、
死後も徳川と国家を守護する存在として
精神的象徴になることを望んだ。

同年4月17日、
家康は駿府城で静かに生涯を閉じる。
享年75。
戦国時代の大名としては
異例の長寿であり、
その長い人生を通じて
・戦で敗れながらも生き延びた粘り強さ
・合理的判断による政治力
・国家を作る視点を持つ統治力
を発揮し続けた。

家康が作った仕組みは、
その後260年以上も続く江戸時代という長期安定を生み、
日本史において他に類を見ない巨大な政治体制となった。
戦国の混乱を終わらせ、
平和国家の基礎を築いたという点で、
家康は“天下人”であるだけでなく、
“国家の設計者”として歴史に刻まれた存在となる。