第1章 幼少期ー尾張の乱世に生まれた異端児

1534年、織田信長は尾張国の那古野城で生まれる。
父は織田信秀、尾張でも屈指の勢力を持つ戦国大名で、
駿河の今川、三河の松平、美濃の斎藤といった強国に囲まれながら、
経済力と軍事力を背景に勢いを伸ばしていた人物だった。
母は土田御前。信長にとっては美しく気位の高い母であり、
後の信長の性格形成にも影響を与えたとされる。

幼い頃の信長は、のちに「うつけ者」と呼ばれるほど破天荒だった。
弓や馬、槍の稽古よりも町中を走り回り、
武将の子らしからぬ格好で城下を歩くこともあった。
しかしその行動の背景には、幼いながらに
身分や形式に縛られない価値観
が芽生えていたと考えられる。
この型破りな感性こそが、後の信長の行動力の根に繋がっていく。

信長には兄弟が多く、とりわけ母に愛されたのは弟の織田信行(信勝)だった。
信長は家中でも扱いが難しい子どもとして見られ、
他の兄弟や家臣からも「行動が読めない存在」と捉えられていた。
しかし父の信秀だけは、信長の鋭い観察力と大胆な気質を早くから評価していたと伝わる。

信長の少年期には、尾張国内の織田家一族が複雑に割れている状況があった。
織田家は統一された一枚岩ではなく、
清須三奉行家・岩倉織田家・弾正忠家など複数の分家が勢力を競い合っていた。
信長の家系である弾正忠家はそのうちの一つであり、尾張全体を支配しているわけではなかった。
つまり信長は、生まれながらに“内も外も敵ばかりの環境”に置かれていたことになる。

幼少の信長は戦国武将としての教育も受けた。
弓・槍・馬の基礎から、戦術、兵法、家臣団のまとめ方。
だが信長の場合、これらをただ覚えるだけではなく、
「どうすればもっと効率が良いか」
「なぜ昔のやり方にこだわるのか」
と考える子どもだったとされる。
他の子が従うだけの教えも、信長にとっては“疑問の対象”になりやすかった。

同時に、信長は城下町の商人や農民と垣根なく接し、会話する子どもでもあった。
これは戦国大名の子としては非常に珍しい姿で、
身分社会が当然だった時代に、
庶民の感覚を直接知る武将としての素地がここで育ったとも言える。
後に楽市楽座などの経済改革を実行できた背景には、
幼少期に身分を超えた人々と触れ合った経験がある。

また、信長は幼い頃から武勇だけでなく、
人の性格を見抜く鋭さを持っていたとされる。
家臣や城下の若者の中で、腕だけでなく
“どんな性格の人物がどう動くか”
を意外なほど正確に掴むことができたという。
後に多くの家臣を巧みに使いこなせた理由の一つは、
この頃から培われた観察力にあった。

少年期の信長は破天荒に見えながらも、
実際には合理性と柔軟性を備え、
身分制度や伝統に疑問を抱く異質な感性を持って育った。
そして尾張という戦国の最前線で育ったことで、
自身の立場が生涯「戦うことから逃れられない運命」であることも理解し始めていた。

信長の幼少期は、
後の“常識破りの戦国武将”を作る土台がすでに固まり始めていた時期だった。

 

第2章 青年期ー家督相続と織田家内の権力争い

織田信長の青年期は、父・織田信秀の死とともに始まる。
1551年、信秀が病死したことで、家督は嫡男である信長が継ぐことになる。
だが、当時の信長は尾張中に「うつけ者」と知られており、
家臣や親族からの信頼は決して厚くなかった。
父の葬儀で抹香を仏前に投げつけたという逸話は有名で、
信長が形式や権威を軽んじていたことを象徴する出来事として語られている。
この行動は家臣や一門衆に衝撃を与え、
「信長では家は持たない」と考える者も多かった。

家督相続後、信長が最初に直面したのは、
弟の織田信行(信勝)との激しい対立だった。
母の土田御前は信行を溺愛しており、
父の死後、信行を家督に据えようとする動きが家中で強まっていく。
弾正忠家だけでなく、織田家の他の分家からも、
「信長より信行の方が穏当で扱いやすい」という声が上がっていた。
そのため信長は、家督を継いだ後も安定した立場にはなく、
実際には“織田家のトップとして認められていない”という状態だった。

この状況を悪化させたのが、尾張国内における織田家の分裂構造だった。
織田家は「清須三奉行」「岩倉織田家」「守山城の信行派」などが入り乱れ、
信長の弾正忠家はその一勢力にすぎなかった。
そのため信長は、家督を継いだといっても、
尾張国全体を支配していたわけではなく、
むしろ反対勢力に囲まれた孤立状態に近かった。

こうした不利な状況の中でも、信長は武将としての実力を示し始める。
まず彼が手を付けたのは、父・信秀の遺した経済基盤の維持だった。
信秀は経済に通じた大名で、那古野・熱田などの商業を掌握していた。
信長は父の施策を継承し、商人や港湾勢力を味方につけることで、
軍事行動に必要な資金を自力で確保していく。
身分や家伝にとらわれずに経済力を武力に転換する姿勢は、
この青年期の段階ですでに見られる。

一方、信行派との対立は次第に激化していく。
1556年、信行は尾張国内の不満勢力と結び、
兄・信長の排除を狙って兵を挙げた。
これが稲生の戦いである。
信長軍は規模が小さかったが、機動力と地の利を活かし、
これを撃退することに成功する。
この勝利で信長は「武勇に優れた大将」としての評価を高めるが、
信行との対立はここで終わらない。

稲生の戦いの後、母・土田御前の仲裁もあり、
信長と信行は一時的に和解した。
しかし信行は再び謀反を企て、
信長暗殺を目論む。
この計画は家臣の柴田勝家によって密告され、
信長は信行を討つという苦渋の決断を下す。
こうして1557年、信行は誅殺された。

信行を失ったことで、信長は弾正忠家の主導権を完全に握るが、
その代償は大きかった。
母・土田御前との関係は決定的に悪化し、
家中にも大きな緊張が生まれる。
だが信長は、
「情よりも家の安定を優先する」
という大名としての覚悟をここで固めていく。

さらにこの青年期、信長にとって重要な同盟が結ばれる。
それが、後に天下統一に向けて信長を強力に支える存在となる、
美濃の大名・斎藤道三との縁組である。
信長は道三の娘である濃姫(帰蝶)を正室に迎える。
道三は信長の“型破りな本質”を見抜き、
「わしの後を継ぐのはこの婿よ」とまで言ったとされる。
この婚姻により、信長は美濃への影響力を得て、
尾張内での政治的地位も上がっていく。

青年期の信長は、
家督相続、信行との対立、家中の不信、周囲の敵対勢力など、
数え切れないほどの試練に直面した。
しかしその中で信長は、
決断力・実行力・政治的柔軟性・経済感覚
これらを徐々に研ぎ澄まし、
“大名としての土台”を確実に築き始める。

この時期の信長がいなければ、
後の天下布武の道は決して開けなかった。

 

第3章 一統への道ー清須統一と尾張支配の確立

青年期の激しい家中争いを乗り越えた織田信長は、
続いて尾張国という“外側”の敵と向き合う段階へ進む。
当時の尾張は一国でありながら、実態は複数の織田家が割拠する分裂状態だった。
信長の弾正忠家はその一勢力にすぎず、尾張を名実ともに統一するには、
国内の敵対勢力すべてを相手にしなければならなかった。

尾張の最大勢力は、清須城を本拠にする織田大和守家(清須三奉行)である。
信長の弾正忠家よりも格式は上で、
尾張守護代に最も近い存在として長らく尾張の中心にいた。
信長が家督を継いだ頃、世間的には
「信長=一地方領主」
「清須の織田家=尾張の主」
という認識が一般的だった。

しかし信長は、この力関係をひっくり返す戦略を練る。
その第一歩が、父・信秀が死の直前に攻め込んだ戦地の整理と、
尾張南部の経済圏の掌握だった。
特に熱田周辺の港と商人を味方につけたことは極めて大きく、
経済力=軍事力という戦国の原則を早くから理解していた信長の強みになった。

1559年、信長はついに清須の織田家へ圧力をかけ、
内部の分裂を突く形で主導権を握り始める。
清須側は旧来の権威はあったが、内部抗争が激しく、
若く精力的な信長の圧力に耐えきれなかった。
信長は城主の織田信友を排除し、
清須城を実質支配下に置くことに成功する。
この時点で、尾張国内における信長の存在感は一気に高まった。

さらに信長は、
・敵対勢力の拠点を短期間で集中的に攻める
・反抗的な国衆を従わせる
・必要な場合は降伏した者をすぐ赦し家臣化する
といった柔軟かつ迅速な戦略をとっていた。
恐怖と寛容を状況に応じて使い分けるスタイルは、
のちの天下統一戦でも生きる信長独特の統治方法だった。

こうして清須を押さえた信長にとって、
次の大きな課題は、外部の脅威──特に今川義元である。
今川家は駿河・遠江・三河を支配した大大名で、
尾張よりはるかに強大だった。
そのうえ三河の松平元康(後の徳川家康)は今川の支配下にあり、
信長にとって東側は完全に不利な状況にあった。

しかし信長は、今川に備えつつも尾張内部の安定化を急ぐ。
軍事と外交を同時に進め、尾張の東西を固める一方で、
濃姫との政略結婚によって美濃の斎藤道三と協力関係を築いた。
道三は信長を高く評価し、
「美濃を譲る」とまで言ったと伝わるほど信頼していた。
この道三の後ろ盾は、信長の尾張統一に大きな安心材料となった。

だが、美濃側でも状況は一枚岩ではない。
斎藤道三は家中の反発を受けて息子の斎藤義龍に討たれ、
信長は強大な「斎藤家の敵」を背負う形になった。
それでも信長は動じず、尾張の内部統治を徹底し、
徐々に勢力を固めていく。

こうした動きの中、
信長は尾張国内の武将を組織的に再配置し、
「尾張一国=織田信長」
という状況を整えていった。
旧来の分家制度を弱め、忠実な家臣を各地へ配置し、
軍の機動力を上げ、兵の訓練を強化し、
ここで初めて“戦国大名・織田信長”が本格的に形を持ち始める。

そしてついに1560年、
信長の尾張統一計画は動き出し、
次の舞台となる桶狭間の戦いへ向かうことになる。

尾張をほぼ掌握した信長の前に立ちはだかるのは、
甲冑を整え、2万を超える大軍を率いた今川義元だった。
この瞬間、尾張の一武将にすぎなかった信長は、
日本中が注目する戦国史最大級の戦いへ足を踏み入れていく。

 

第4章 上洛への布石ー美濃攻略と斎藤家との決着

尾張国内をほぼ掌握した織田信長の次の標的は、
隣国・美濃(現在の岐阜県)だった。
美濃を支配していたのは斎藤家
かつて信長の強力な後ろ盾となった斎藤道三の死後、
斎藤家の主導権はその子である斎藤義龍へ移り、
さらに義龍の死後は若い斎藤龍興が家督を継いでいた。

本来であれば婚姻関係による協調路線もあり得たが、
道三亡き後の斎藤家は信長に対して敵意を隠さず、
美濃は信長にとって大きな脅威となる。
特に美濃は京へ上る際の重要な通路に位置しており、
ここを押さえなければ信長は上洛(上京)すらできなかった。
つまり美濃攻略は、
信長が天下への道を歩き出すための必須条件だった。

しかし斎藤家を相手にするのは容易ではなかった。
美濃は“堅城の国”として知られ、
要害が多く、国衆のまとまりも強く、
何より本拠の稲葉山城(後の岐阜城)は難攻不落と言われていた。
信長は力攻めだけでは勝てないと判断し、
長期的な戦略を組み上げていく。

まず信長が行ったのが、
美濃国衆の分断策だった。
斎藤家に不満を抱えていた地侍や国衆へ接触し、
「斎藤龍興では国は守れない」
と説くことで、徐々に斎藤家の求心力を奪っていく。
特に美濃三人衆と呼ばれる
稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就といった実力者たちは、
後に信長へ寝返る重要勢力となった。

さらに信長は、美濃攻略の前に
1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取るという、
歴史的な大勝利を収めていた。
この勝利により、尾張の安全は一気に確保され、
信長は西(美濃)へ軍を動かす余裕を手に入れる。
桶狭間の勝利で名声を上げた信長に対し、
美濃の国衆たちは
「この男は本物だ」
という強烈な印象を持つことになる。

その後も信長は、美濃の国境に城を築いて圧力をかけ、
小さな合戦を積み重ねては、
斎藤家に味方する勢力を徐々に削っていく。
こうした継続的な揺さぶりが、
斎藤龍興の統率力の弱さを露呈させる一因となった。

転機は、1567年。
美濃三人衆がついに信長へ寝返り、
内部崩壊した斎藤家は稲葉山城を保持できなくなる。
信長軍は一気に侵攻し、
稲葉山城を攻略することに成功する。
斎藤龍興は伊勢へ逃れ、
ここに長きにわたる織田・斎藤の対立は終止符が打たれた。

稲葉山城を手に入れた信長は、
ここを拠点とするにあたり重要な決断を下す。
城の名を岐阜城と改め、
自身の天下への意志を表す言葉として
「天下布武」という印章を使い始めた。
天下布武とは、
「武をもって天下を治める」という意味ではなく、
武を基礎に中央政権を再構築する政治理念で、
室町幕府に代わる新しい国家像を掲げたものだった。

さらに信長は岐阜の経済を活性化し、
商人を保護し、人や物の流れを集約させるため、
街道整備や市場政策に着手する。
軍事と経済の両面で、美濃を“信長の国”へと作り変えた。
岐阜の発展は、のちの安土城下町の原型にもなる施策だった。

美濃を手中に収めたことで、
信長は尾張・美濃の二国を完全に掌握し、
軍事力・経済力ともに東海地方の覇者となる。
この時点で信長は、
戦国大名の中でも頭一つどころか二つ抜けた存在となり、
ついに「上洛」という大きな目標へ向けて動き出す。

美濃攻略は単なる領地拡大ではなく、
天下布武の第一歩であり、
信長の生涯にとって最初の“天下を掴むための勝負”だった。

 

第5章 天下への進軍ー桶狭間の戦いと勢力拡大

尾張と美濃という土台を固めつつあった織田信長の名が、
日本中に轟き渡るきっかけとなったのが桶狭間の戦い(1560年)である。
この戦いは「奇襲で勝った」という簡単な話ではなく、
信長の観察力、決断力、情報戦、そして運のすべてが絡み合った、
戦国史に残る大転換点だった。

当時、信長の東に位置する駿河・遠江・三河の大大名、
今川義元は圧倒的な軍事力を誇っていた。
義元の軍勢は約2万5千ともされ、
その進軍経路には家臣の松平元康(後の徳川家康)が加勢し、
尾張は今川軍によって包囲状態に近かった。
一方の信長は、最大でも4千程度の兵しか動員できず、
戦力差は文字通り“桁違い”だった。

義元は京への上洛を目指し、
尾張を通過点として侵攻を開始する。
桶狭間はその行軍の途中にある地で、
今川軍は余裕を持って陣を敷き、
勝利はすでに確実と捉えていた。
尾張中では
「信長は滅びる」
と噂され、味方すら動揺していたと言われる。

しかし信長はただ一人、状況を冷静に見ていた。
敵の油断、雨天の予兆、地形の複雑さ、
何より尾張の地を熟知している自分の優位。
これらすべてを一瞬で組み合わせ、
「少数で大軍を倒す唯一のチャンスがある」
と判断する。

信長はまず、城下の兵を鼓舞するため、
有名な“敦盛”を舞う。
気性の荒い大名が武者震いを鎮めるための所作とも言われるが、
信長にとっては士気を整え、
自らの覚悟を示す儀式でもあった。
その後、信長は精鋭の兵を率いて城を出撃する。

この頃、突然の豪雨が降り始める。
視界が奪われ、音がかき消される悪天候。
信長はこれを天機と捉え、
「今川義元が本陣で休息している瞬間」を狙い撃つ計画を発動する。
そして少数の兵で谷間を抜け、
今川軍の大軍を真正面から避けて、
本陣へまっすぐ突撃した。

桶狭間の地形と雨を利用したこの電撃戦は、
義元の目の前に突如として織田の兵が現れるという、
まさに急襲そのものだった。
信長軍は混乱する今川軍を押し破り、
信長自身も最前線で戦い、
ついに今川義元を討ち取る
大軍の総大将が討たれたことにより、
今川軍は総崩れとなり撤退した。

桶狭間の勝利により、
信長の名声は一気に全国へ広がる。
戦国時代において、
「小勢で大軍を討つ」という事例は他にもあるが、
大名同士の正面衝突で大大名が討死するという衝撃は、
他の戦とは比較にならないほど大きかった。

この戦いによって、
信長は東側(今川の脅威)を完全に払拭し、
その後、三河の松平元康――すなわち徳川家康と同盟を結ぶ道が開かれる。
織田・徳川の同盟は、以後数十年にわたる日本史の中心軸となる。
この“尾張・三河連合”が成立したことで、
信長は背後を守られたまま西へ向かうことが可能となった。

桶狭間後、信長は美濃攻略へ本格的に乗り出し、
前章で述べたように稲葉山城を落として美濃を支配する。
尾張と美濃を完全に治めた信長は、
軍事・経済・地理の三要素を手にした強力な大名となった。

さらにここから信長は、
・近江の浅井長政との婚姻同盟(お市の方を嫁がせる)
・六角氏の支配する近江南部への進出
・京都周辺の勢力との交渉
を進めていくことで、
上洛への準備を整えていく。

尾張の一武将にすぎなかった信長は、
桶狭間を境に“尾張の大名”から“天下を目指す男”へ変貌し、
東海地方の覇者となっていった。

桶狭間の戦いは、信長が天下統一へと歩み出す
最初の巨大な勝負であり、
この勝利がなければ信長の天下布武は決して始まらなかった。

 

第6章 中央進出ー足利義昭の擁立と京都政局

桶狭間の戦い、美濃攻略を経て勢力を急拡大させた織田信長は、
ついに全国政治へと踏み込む段階へ入る。
このタイミングで信長が手を伸ばしたのが、
室町幕府最後の将軍となる人物、足利義昭だった。

義昭は、足利将軍家の血筋でありながら、
兄である足利義輝が三好三人衆に討たれたことで身を隠す生活を送っていた。
義昭には将軍の資格があったが、
自力では京都へ戻れない状態にあった。
そんな義昭を擁立すれば、
信長は“将軍の後ろ盾”という正統性を手に入れられる。
一方の義昭にとっては、
信長こそが京都奪還のために最も頼れる武将だった。

この利害の一致こそが、
信長を天下へ押し上げる大きな転機になった。

信長はまず、義昭を保護していた越前の朝倉義景に義昭の上洛支援を求めたが、
義景は動こうとしない。
そこで義昭の目は美濃の新鋭──つまり信長へ向けられる。
1568年、義昭は密かに信長を頼って美濃へ移動し、
ここに信長・義昭の同盟関係が成立する。

信長は義昭を正式に迎え入れ、
・上洛の大義名分
・軍事行動の正統性
・諸勢力への政治的圧力
これらをすべて一度に手に入れる。
天下布武の実現に必要な“政治の勘所”を、
信長はここで完全に掴んだと言える。

1568年、信長はついに軍を率いて京都へ進軍する。
この上洛戦は、戦国時代において特別な意味を持っていた。
天下を統一するには、まず京都を押さえ、
朝廷と幕府を掌握する必要があったからだ。

信長軍は、
・近江の六角氏
・京都周辺の反信長勢力
を次々に退け、抵抗らしい抵抗を受けないまま京都入城を果たす。
ここで信長は、足利義昭を第15代将軍へ就任させる。
これにより信長は、
「将軍を支える天下の実力者」
という地位を確立した。

だが問題はここからだった。
義昭は将軍として独自の政治を行おうとし、
信長は実務と軍事を自分の裁量で進めようとする。
この方針の違いは、
次第に両者の間に決定的な亀裂を生むことになる。

信長が京都で行った政治施策は大胆だった。
・京都の治安を徹底的に改善
・寺院勢力の武装や土地独占を制限
・商工業の活性化
・街道の整備
これらにより、京都は戦乱で荒れていた時代から
急速に安定を取り戻す。

一方で義昭は、
「将軍としての威光を取り戻すべき」
という考えから、
諸大名に対して自らの権威を求めようとする。
しかしその行動は、
信長の構築する新秩序と衝突し、
やがては義昭が反信長勢力と結びつく原因にもなっていく。

京都での信長の活動は軍事だけではなかった。
彼は茶の湯文化や都市整備にも強い関心を示し、
織田政権の文化的基盤を整え始める。
信長は戦国武将でありながら文化政策にも優れており、
ここでの経験が後の安土城下町の構想につながっていく。

しかし、京都政局には依然多くの敵がいた。
・三好三人衆
・松永久秀
・比叡山延暦寺
・本願寺勢力
彼らは京都周辺で大きな影響力を持ち、
信長の支配を脅かす“火種”だった。

特に比叡山は強力な宗教勢力であり、
武装した僧兵を抱え、近江・山城の政治に大きな影響を持っていた。
信長は彼らの独自権力を危険視し、
後に極端な対処へ踏み切ることになる。

信長の中央進出は成功だったが、
それと同時に新しい敵も増え、
政治・軍事の両面で多くの戦いが始まる。
この時期の信長は、天下布武の理念を掲げながらも、
常に反発と争いの中で動き続けていた。

上洛で手にした「正統性」を武器に、
信長はここから一気に全国へ勢力を広げていくが、
その道にはさらに大きな反発と戦いが待っている。

 

第7章 信長包囲網ー比叡山焼き討ちと各地の反発

足利義昭を将軍に擁立し、京都で政治的主導権を握った織田信長だったが、
その成功は同時に強烈な反発を全国から呼び寄せることになった。
信長は既存の権威や特権を容赦なく削り落とし、
寺社・武家・商工勢力に対しても一律で新秩序を押しつけたため、
「利益を失う側」からの敵意が急速に増していった。

最大の火種となったのが、
京都と近江に絶大な政治力と宗教的影響力を持つ比叡山延暦寺だった。
比叡山は単なる宗教施設ではなく、
・膨大な荘園収入
・武装僧兵の軍事力
・朝廷や公家との深い繋がり
・近江・山城の交通の要衝を制圧
といった強大な力を持つ“宗教勢力の独立国”とも言える存在だった。

信長は、比叡山が反信長勢力──特に浅井長政朝倉義景──に味方し、
軍事的な後方支援をしていることを危険視する。
浅井・朝倉との戦いは信長の織田政権最大の試練の一つで、
その背後に宗教勢力がある限り、戦局は安定しなかった。

浅井長政は信長の妹・お市の方を妻に迎えた義兄弟関係にあったが、
信長の急拡大に危機感を覚え、
朝倉義景と結びついて反旗を翻した。
信長にとって浅井長政は、
「家族関係の破綻」と「戦略上の脅威」が同時にのしかかる特別な敵だった。

信長はまず、浅井・朝倉連合の力を削るため、
比叡山に対して徹底的な中立要請を行う。
しかし比叡山はこれを拒み、
むしろ浅井・朝倉の援軍を受け入れ、
信長軍の背後に脅威を作り続けた。
この段階で信長は、
比叡山はもはや敵の軍事拠点である
と判断する。

そして1560年代後半、
信長は歴史的決断を下す。
比叡山延暦寺の焼き討ちである。

この行動は信長の人生でも最も議論が多い事件だが、
重要なのは、信長が寺を攻撃した理由が
「宗教そのものへの挑戦」ではなく
“自立武装勢力としての比叡山”を排除するための軍事行動
だった点だ。
比叡山の背後支援が続く限り、
浅井・朝倉との戦いは決して終わらなかった。

焼き討ちは徹底して行われ、
大量の堂塔が炎上し、僧兵を中心に多くの死者が出た。
これにより比叡山の軍事力は壊滅し、
近江の戦線は一気に信長有利へ傾く。

しかしこの強硬策は、
全国に「信長は容赦のない大名」という印象を植え付け、
結果として反信長勢力はさらに結束していくことになる。
ここから発生するのが、
第一次信長包囲網である。

信長を敵と認定した勢力は数えきれないほど増え、
・浅井長政
・朝倉義景
・本願寺顕如の一向一揆勢力
・武田信玄
・足利義昭
・三好残党
といった大小の大名・宗教勢力・幕府残存勢力が
“共通の敵”として信長への対抗姿勢を強めた。

特に本願寺勢力との戦いは長期化し、
石山本願寺を拠点として、
僧侶から庶民に至るまで大規模な一揆軍が信長と激突する。
信長にとっては“宗教勢力との全面戦争”が避けられない状況となり、
包囲網は政治・軍事の両面に重くのしかかっていく。

さらに西からは驚異的な軍事力を誇る武田信玄が進軍を開始する。
信玄は名将として知られ、
信長と対等に戦える唯一の存在と言われていた。
もし信玄が健在であれば、
信長の天下布武は未完のまま終わっていた可能性すらある。

そして京都では、
将軍足利義昭が信長の支配に不満を募らせ、
秘密裏に反信長勢力と接触し始めていた。
義昭の動きは王権の正統性を象徴するものであり、
政治的に信長を追い詰める最も厄介な問題となる。

この時期、信長は
・東の武田
・北の越前朝倉
・西の本願寺
・南の雑賀衆
・京都の足利義昭
と四方八方に敵を抱え続ける、
まさに戦国時代でも異例の包囲状態にあった。

しかしこの極限状況の中で、
信長は一歩も退かず、
むしろ各個撃破の戦略を磨き上げ、
ここから一気に包囲網を崩していくことになる。

信長包囲網は、
信長が“敵を生み続けるほどの圧倒的存在”となった証明であり、
そして彼が天下統一へ進むための
最大の壁として立ちはだかった。

 

第8章 革新の時代ー楽市楽座・軍制改革・文化政策

多方面からの包囲網を受けながらも、織田信長は勢力を縮めるどころか逆に加速させ、
ここから“織田政権の革新期”へ突入する。
この時期の信長は、単なる戦上手の大名ではなく、
経済・軍事・文化の三領域を同時に改革する異例の統治者として姿を強めていく。

まず信長の代表的な改革が楽市楽座である。
これは、商売に制限を掛けていた「座」という既得権益を撤廃し、
誰でも市場で自由に売買できる仕組みを作る政策だった。
当時の経済は、寺社や特定商人が権利を独占し、
一般の商人は自由に商売ができない状態にあった。
信長はこれを壊し、
「商売したい者は全員参加していい」
という環境を整えた。
これによって市場は大きく活性化し、
物資の流れが加速し、人と金が信長の城下町へ集まり始める。

この経済改革によって繁栄したのが、
美濃の岐阜城下と、後に築かれる安土城下である。
岐阜は「楽市」の実験場として大きな成功を収め、
商人たちが安全と経済の自由を求めて集まる都市へ変貌する。
信長は、戦国時代では珍しく商人や技術者を高く評価し、
出自より能力を優先する方針を貫いた。
これが“下克上を許容する新秩序”として、
多くの人間を織田政権へ吸い寄せる原動力となる。

軍事面の改革も、信長を唯一無二の存在へと押し上げる。
最も象徴的なのが、火縄銃の大量導入と組織的運用だった。
鉄砲そのものは日本に伝わっていたが、
信長はその潜在力を誰よりも理解し、
「三段撃ち」を含めた集団射撃戦術を確立する。
鉄砲を浪人集団や足軽にまで広く配備し、
戦場での運用を体系化したのは信長が最初だった。

また、信長は軍制の近代化を重視し、
部隊単位の指揮系統を整備し、
武功によって身分の上下が決まるシステムを採用する。
これにより、農民上がりであっても武功次第で大名級に出世する可能性が生まれ、
実際に豊臣秀吉をはじめ、多くの“低い身分の出身者”が台頭していく。
信長の軍隊が強かった理由は、
単なる兵の多さではなく、
能力主義による士気と実力の高さにあった。

さらに文化面では、信長独自のセンスが強く表れる。
信長は茶の湯文化を大きく評価し、
武将のステータスとして確立させた。
茶器や茶室を政治交渉の道具として使い、
千利休をはじめとした茶道の名人を重用する。
戦乱の時代にもかかわらず、
信長は芸術・文化の価値を深く理解し、
それらを“政治の一部”として活用していた。

そしてこの時期の信長の象徴的建築が安土城である。
安土城は、
・壮大な天主
・巨大な石垣
・計画都市としての城下町
・城郭を“権威の象徴”へ作り変える設計思想
を備えた、日本初の“近代城郭”と言える存在だった。
軍事拠点であると同時に、政治・文化の発信地でもあった。
安土城の建設によって、
信長は自らを「天下の主」とする政治体制の形を明確化した。

この頃、信長は外交にも力を入れ、
ポルトガル商人や宣教師の活動を保護することで、
西洋技術・武器・情報を積極的に取り入れる。
これにより火縄銃や大砲の輸入を安定させると同時に、
欧州文化への理解も深めた。
信長は宗教勢力とは衝突したが、
異文化を排除する人物ではなく、
むしろ新しい技術や価値観を歓迎する性格だった。
こうした姿勢が、織田政権の他にない発展につながった。

一方、全国各地の反信長勢力は依然として存在し、
信長包囲網は簡単には崩れない。
しかし、比叡山を排除し、
浅井・朝倉を追い詰め、
石山本願寺との長期戦でも着実に優位を築き、
武田信玄の死によって東からの脅威も弱まる。
こうして包囲網は少しずつ崩壊し、
信長の勢力はますます中央へ集中していく。

この“革新の時代”は、
信長が天下統一へ向けて最も勢いを持った瞬間であり、
彼がただの武人ではなく、
時代そのものを作り変えようとした改革者であったことが、
最も強く現れている時期だった。

 

第9章 最盛期ー安土城と天下統一目前の情勢

包囲網を崩し、軍事・経済・文化を同時に刷新した織田信長は、
ついに戦国大名として 絶頂期 を迎える。
この頃の信長は、尾張・美濃・近江・伊勢・越前・若狭・摂津・河内・大和・山城の一部など、
日本の政治と経済の中心地をほぼ掌握しており、
影響力は東は信濃、西は播磨にまで及んでいた。
もはや「地方の大名」ではなく、
事実上の“天下人”として機能していた段階だった。

この最盛期を象徴する建築が、近江の安土城である。
安土城は、軍事的な堅牢さよりも、
権力・文化・政治の象徴として作られており、
当時としては異例の七層構造、華美な装飾、大規模石垣を備えていた。
天主(てんしゅ)は豪華絢爛で、壁には絵師の狩野永徳が描いた壮麗な図が広がり、
信長は世界にも通じる“王の居城”を意識していたと言われる。
安土城は単なる居城ではなく、
“織田政権の中枢”としての都市構想そのものだった。

信長はここに武将を呼び寄せ、
政治会議を開き、各地の支配方針を指示し、
さらに外国人宣教師や貿易商を招いて文化交流を行う。
安土城は戦国時代の武士社会とは思えないほど開かれた空間で、
信長の大胆な国家観を象徴していた。

同時期、信長の軍事行動もほぼ連戦連勝の状態だった。
まず越前の朝倉義景、琵琶湖周辺の浅井長政を滅ぼし、
近江・北陸方面の脅威を消し去る。
この二勢力の消失は、信長が“中央政権”として確固たる地位を築くきっかけとなった。

次に大きな山場となったのが、
長年対立してきた宗教勢力 石山本願寺との戦いである。
本願寺は全国的に信徒を持つ巨大宗教組織で、
軍事力も大名級に匹敵していた。
信長との戦争は10年以上に及ぶ持久戦だったが、
ついに本願寺は和睦し、石山から退去する。
これは当時の日本における宗教勢力の軍事支配に
終止符を打つ大きな出来事だった。

さらに中国地方では、
“備中高松城”で有名な毛利家との戦いが始まる。
毛利家は西国最大の大名で、
織田政権にとって残る最後の巨大勢力と言える存在だった。
ここで信長は、
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)という部下を大抜擢する。
秀吉は中国攻めの総大将として戦線を任され、
信長はその中央からの援護を指示していた。
信長の部下の中でも、
秀吉・柴田勝家・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らが
それぞれ大名級の規模で軍を動かし、
織田家の勢力は急拡大していく。

東では、
かつての名将・武田信玄を継いだ武田勝頼との最終決戦が行われる。
信長は徳川家康と連携し、
ついに武田家を滅ぼすことに成功する。
この瞬間、
信長の“東の脅威”は完全に消えた。

これら一連の軍事勝利によって、
信長の支配領域は圧倒的な広さを誇り、
全国の大名たちは
「信長に従うか、滅びるか」
という状況に追い込まれる。
誰もが信長の天下統一が“時間の問題”だと考えていた。

政治面でも、信長は
・朝廷の権威を現実政治に取り込み
・大名・寺社勢力を整理し
・商業の自由化を進め
・楽市楽座で経済を開放し
・各地の道路・関所を整備し
国家の骨組みを作り始めていた。
もはや信長の統治は「戦国大名」の枠を超え、
近代国家への前段階に到達していた。

だが、強大な権力を持つ者には、
必ず“内部からの揺らぎ”が生まれる。
信長の家臣団は優秀な者が多かったが、
その反面、彼らは皆が一国を任されるほどの大物へ育っていた。
中でも、最も有能であり、
最も信長政権の中枢を担っていた人物の一人が
明智光秀である。

光秀は行政・軍事の双方に優れ、
信長の信任はとても厚かった。
しかし、信長の言動や政治方針の中に
光秀を追い詰めていく要素が少しずつ積み重なっていく。

そして、
中国地方で秀吉が毛利家と対峙していた、その最中。
天下統一の完成が目前に迫っていた、その瞬間。
信長の運命は思わぬ方向へ大きくねじ曲がっていく。

信長の最盛期は、
輝かしい栄光と、
迫りくる破局の影が
同時に存在した時期でもあった。

 

第10章 本能寺の変ー明智光秀の謀反と最期

1582年6月2日早朝、京都・本能寺。
この日、織田信長は天下統一の最終段階に入り、
わずかな供のみを連れて本能寺で休息していた。
配下の羽柴秀吉が中国地方の毛利家と戦う最中で、
その援軍として信長は自ら出陣する準備を整えていた。
大軍はまだ集まっておらず、
護衛は少ない。
しかし信長は、この状況を「危険」とは考えていなかった。
もはや織田政権を揺るがす敵は存在せず、
全国は信長に従う方向へ完全に傾いていたからだ。

だがその油断の隙を突くようにして、
歴史を揺るがす事件が起きる。
明智光秀が率いる軍勢が、
突如として本能寺を包囲したのだ。
光秀は前日に「中国攻め」の援軍として出陣したはずだった。
しかし行き先を変え、
静かな京都へと軍を滑り込ませた。
この作戦は、光秀の号令
「敵は本能寺にあり」
によって開始される。

なぜ光秀は信長へ反旗を翻したのか。
後世の議論は数多くあるが、
この章では“事件発生までの事実”のみを整理する。

光秀は元々、信長の中核家臣であり、
行政にも軍事にも優れた人物だった。
丹波攻略や近畿統治を任され、
信長から最も厚い信頼を受けていた武将の一人である。
だが晩年の信長は、
・苛烈な叱責
・重い負担の任務
・天下統一に向けた過度な緊張
などが積み重なり、
光秀との関係に軋みが生じた可能性がある。
また、光秀は丹波・近江など広い領地を統治しており、
信長の方針次第で地位が変動する立場でもあった。

いずれにせよ、光秀が“謀反”を選んだという事実だけは確実で、
6月2日未明、1万以上の軍勢を率いて本能寺へ襲いかかる。

本能寺は四方を囲まれ、
まだ夜が明けきらぬ中で戦いが始まった。
信長は敵の襲来を知ると、
弓と槍を手にわずかな護衛と共に奮戦する。
だが数百人規模の守備で、
1万の軍勢を退けることはできない。
本堂は包囲され、火が放たれ、
煙と炎が立ちこめる中で戦闘は激しさを増す。

信長はやがて戦いの継続が不可能と悟り、
自らの首が敵の手に渡ることを避けるため、
最後に自身の命を終える。
遺体は炎の中に消え、
信長の首は見つかっていない。
彼がどのような姿で最期を迎えたか、
詳細は歴史の闇に覆われている。

同じ頃、信長の嫡男である織田信忠も、
二条城で明智軍と戦っていた。
信忠もまた撤退を選ばず、
父と同じく自刃して果てる。
織田家の中心はこの一日にして一気に崩れ落ちた。

本能寺の変は、日本の歴史において最大級の衝撃だった。
信長は天下統一を目前にし、
東の武田家は滅び、
西では秀吉が毛利家と戦いつつも優勢に進め、
反信長勢力はほぼ壊滅していた。
信長の「天下」は、あと一歩のところにあった。
その瞬間、もっとも信頼していた武将の一人が
背後から刃を突き立てた形になる。

しかし歴史の歯車は止まらない。
光秀による政変は僅か11日で崩壊する。
中国地方で毛利と戦っていた羽柴秀吉は、
信長の死を聞くや否や、
驚異的な速度で兵を返し(中国大返し)、
山崎の地で光秀を撃破する。
光秀は敗走中に討たれ、
三日天下に終わる。

こうして、本能寺で倒れた信長の後を引き継いだのは、
忠実な家臣の一人であり、
“成り上がりの象徴”でもあった秀吉だった。
彼は信長の遺志を継ぎ、
その後の日本統一を成し遂げていく。

信長の死によって、安土城は焼け落ち、
織田政権は一度崩壊する。
しかし信長が生涯で築いた
軍事制度、経済政策、都市構想、中央政権の骨格
はその後の豊臣政権、さらに江戸幕府へと受け継がれ、
日本の近世国家の基礎として深く息づくことになる。

幼い頃は“うつけ者”と呼ばれながら、
常識を打ち破り続け、
時代を丸ごと塗り替え、
天下統一寸前まで日本を導いた男。
彼の人生は戦国史の中で最も激しく、
最も革新的で、
そして最も劇的な終わりを迎えた。

こうして織田信長の生涯は、
本能寺の炎と共に幕を閉じる。