第1章 幼少期ー土佐で芽生える異質さ

1835年、坂本龍馬は土佐藩の下級郷士である坂本家に生まれた。
土佐は日本でも特に上士と郷士の身分差が厳しかった藩で、郷士の家に生まれた龍馬は、物心ついた頃から社会の不平等を肌で感じて育つことになる。
坂本家は商いも行う郷士という立場で、武士でありながら特権的とは言いがたい複雑な階層にあった。
この“微妙な身分”の家庭環境が、龍馬の価値観を大きく形作る要素になっていく。

龍馬は幼い頃、決して神童ではなかった。
読み書きが苦手で、学問の習得も遅かった。
だがその一方で、早くから発揮されていたものがある。
それが人を見る観察力の鋭さ、そして他者を警戒させない柔らかい空気をつくる特有の気質だった。
これらは成長すると驚異的な人脈形成力となり、後に政治交渉の中心で活きることになる。

特に龍馬の人格形成に最も大きく影響したのが、姉の坂本乙女である。
乙女は女性としては当時の基準をはるかに超える体格と剣術の腕前を持ち、性格も豪快で堂々とした人物だった。
龍馬は幼くして母の幸を失い、乙女が実質的な“第二の母”として龍馬を支え、叱り、励ました。
後年、龍馬が乙女に宛てた手紙で「日本一の女子」と称しているほどで、その信頼と愛情は生涯深いものだった。
乙女は龍馬に剣だけでなく、困難に向き合う姿勢や、人の痛みを理解する心を与えた存在でもある。

龍馬が育った土佐は、山と海が近く自然が豊かで、龍馬は特に海を見るのが好きだったと伝わる。
幼い龍馬は海辺でぼんやり波を眺め、遠くの世界に思いを馳せるような子どもだった。
この海との親和性は後年、龍馬が海運・貿易・海軍構想へ関心を持つ下地となる。
自然環境すら龍馬の未来に影響を与えていたと言える。

また、龍馬は幼少期から身分制度の不条理を繰り返し目の当たりにする。
上士の子どもと郷士の子どもでは学校や道場での扱いが違い、行動にも制限があった。
龍馬はそのたびに強い違和感を覚え、乙女に疑問を投げかけていたと伝えられる。
乙女はこの疑問を否定せず、むしろ龍馬の感覚を肯定し、
「おかしいと思う心を持ち続けなさい」
という姿勢で弟を育てた。
これが後に龍馬が“藩を超えて動く”価値観の芽となる。

さらに、龍馬は幼少の頃から人前で争いを好まない穏やかな性格だったが、同時に相手が誰であれ自然と打ち解けられる稀有な資質を持っていた。
この“嫌われにくさ”と“距離の縮め方のうまさ”は、幕末という激動の時代において、武力よりも重要な政治的武器となる。

まとめると、龍馬の幼少期は派手な出来事こそ少ないが、
身分制度の不条理を敏感に感じ取る感性、
姉・乙女による強烈な影響、
海への親しみと広い世界への憧れ、
人を見る鋭い直感と柔らかい対人能力、
こうした要素が静かに積み重なり、後の日本を動かす人物の原型がすでに形を持ち始めていた時期だった。

 

第2章 少年期ー剣の道で広がる自信と世界観

坂本龍馬の少年期は、幼少期の内向的で泣き虫な面から一転し、自信と行動力が芽生え始める転換期だった。
特に大きな変化をもたらしたのが、姉・坂本乙女による後押しで本格的に始めた剣術である。
龍馬は体が大きくなると同時に動きも良くなり、剣の稽古にのめり込むようになる。
当時の土佐藩では武士階級にとって剣術は必須の教養であり、少年たちが道場で研鑽を積むのは一般的だったが、その中でも龍馬の成長は際立っていた。

龍馬が最初に剣を学んだのは、土佐藩内で評判のあった坪内道場である。
師である坪内平之丞は厳しさよりも合理的な指導で知られ、龍馬はその指導法と相性が良かった。
幼い頃、学問では劣等感の強かった龍馬にとって、剣術は初めて「得意と呼べるもの」になり、
ここで得た自信はのちの行動力に変わっていく。
剣を通して得た身体感覚や間合いの読み方は、後年の政治交渉でも相手の心理を読む力となり、性格面にも影響を与えた。

しかし龍馬の少年期にもっと重要な影響を与えたのは、剣術の技だけではなく、土佐藩の身分制度の現実である。
道場では座る位置、稽古の順番、扱われ方に至るまで身分差が反映され、
郷士出身の龍馬は常に「上士とは違う」という空気を味わわざるを得なかった。
この体験は龍馬の心に強く焼き付き、
「なぜ身分によって扱いが違うのか」
という疑問が深まっていく。
この疑問はやがて、藩の枠を飛び越える龍馬の価値観へ繋がっていく。

一方で、龍馬は家族との関係を通じて情緒の成熟も進めていた。
特に姉の乙女は龍馬にとって精神的な支柱で、剣術だけでなく学問にも向き合わせようとした。
龍馬は勉強が苦手だったにもかかわらず、乙女が根気強く読み書きを手伝い、手紙の書き方まで教えた。
この結果、龍馬は次第に文章表現に慣れ、後に多くの人の心をつかむ魅力的な手紙を書く人物へと成長する。
乙女の存在は龍馬の感性を育てた最大の要因であり、龍馬は晩年まで乙女へ頻繁に手紙を送り続けた。

また、少年期の龍馬は外の世界に対する好奇心を大きく膨らませていく。
海に囲まれた土佐では、港にさまざまな噂や異国の情報が流れ込み、外国船が遠くに見えることも珍しくなかった。
龍馬はそうした話に胸を躍らせ、
「藩の外には広い世界がある」
という感覚を強めていく。
この感覚こそが、後に脱藩という決断に直結する重要な要素となる。

少年期の龍馬は、まだ政治の表舞台に立つことはなかったが、
剣術の上達、乙女による教育、身分差への疑問、海への憧れなど、
後の龍馬を形成する根がすべて揃い始めた時期だった。
この段階で龍馬は土佐という小さな枠に違和感を覚えるようになり、
「このまま一生を終えるつもりはない」
という意識が静かに形を取り始めていた。

 

第3章 青年期ー江戸遊学と北辰一刀流との出会い

坂本龍馬の人生が大きく動き出すのは、青年期に入ってからだった。
土佐で剣術の実力を認められ始めた龍馬は、ついに藩の許可を得て江戸へ遊学することになる。
江戸は人口100万とも言われる巨大都市で、土佐の閉じた空気とは比べものにならないほど多様な文化・情報・人間が流れ込む場所だった。
龍馬はその空気に圧倒されつつも、好奇心のままに新しい世界へ飛び込んでいく。

江戸で龍馬が入門したのが、剣術流派として名高い北辰一刀流である。
その中心にいたのが、師範の千葉定吉だった。
北辰一刀流は、力任せではなく身体の理にかなった構えや動きを重視する流派で、
観察力の鋭い龍馬にとって非常に相性が良かった。
龍馬は稽古に励み、みるみる実力を上げていく。
やがて道場内でも腕前を認められるようになり、男谷清兵衛の試衛館に並ぶ江戸屈指の道場の一つで修行した経験が、龍馬に大きな自信を与えた。

千葉家との交流は剣術だけにとどまらない。
龍馬は道場に出入りする中で、千葉定吉の娘である千葉さな子とも深い親交を持つようになる。
さな子は剣術にも長けた才気ある女性で、多くの史料で龍馬への好意が記録されている。
さな子が龍馬に想いを寄せていたのは確実で、
龍馬自身も千葉家を「第二の家」と感じるほど信頼を寄せていた。
恋愛感情の詳細は断定できないが、少なくとも龍馬の青年期において千葉家が精神的支柱であったことは確かである。

江戸での生活は剣だけでなく、龍馬の価値観を大きく広げた。
特に、幕府が黒船の来航に揺れていた時期で、
異国との衝突、外交問題、近代技術
など、土佐では触れられない情報が次々と目の前に現れていた。
龍馬は剣術の修行の合間に、海軍や砲術の知識を教える講義を見聞きし、
世界の広さと日本の置かれた危機を肌で感じ取っていく。
これが後に海軍思想へつながる重要な根となる。

一方で、江戸での修行中も、龍馬は藩の身分制度に縛られていた。
下級郷士の身分では、江戸でも高位の者と対等に接することは難しく、藩命があれば逆らうこともできない。
しかし龍馬は、その制限の中でも多くの人物と交流し、
身分よりも人柄を優先する人間関係を築く姿勢を崩さなかった。
ここで磨かれた“誰とでも対等に接する能力”は後年の外交交渉の基礎となる。

江戸修行を経た龍馬は、剣術の腕を磨いただけでなく、
世界への視野、政治への感受性、人をつなぐ能力を大きく成長させた。
この時期の龍馬は、
「土佐の一武士」から
「日本全体を見渡す青年」へ
明確に変わり始めていた。

 

第4章 脱藩前夜ー土佐の現実との衝突

江戸で視野を広げ、剣術の腕も磨いた坂本龍馬が土佐へ帰国すると、そこに待っていたのは若き龍馬にとって耐えがたい現実だった。
土佐藩では依然として上士と郷士の身分差が圧倒的で、政治も日常も身分制度によって細かく制限されていた。
龍馬が江戸で触れた多様な価値観や自由な空気は、土佐にはほとんど存在しなかった。
その差はあまりに大きく、龍馬の内部で「この藩の中だけで生きていくのは不自然だ」という思いが急速に強まっていく。

この頃、土佐藩では尊皇攘夷を掲げる武市半平太が中心となり、郷士層をまとめる土佐勤王党が結成されていた。
龍馬は武市を兄のように慕っており、青年期の一部は彼の影響を強く受けていた。
武市は身分制度の改革を求め、藩内から政治を動かそうとする人物だった。
しかし、龍馬の視野は江戸を経験したことでより外側へ広がっており、
「藩の中だけで戦うのは限界がある」
という意識を持ち始めていた。
この点で、二人の間にはまだ小さな、しかし後に決定的となる方向性の違いが生まれていた。

土佐の政治状況も複雑だった。
藩主である山内容堂は聡明で文化人でもあったが、身分制度の維持については保守的な側面も持っていた。
容堂は郷士を抜擢することもあったが、それは能力のある者に限られ、制度全体を揺るがす改革には踏み切っていなかった。
龍馬は容堂に才能を高く評価されたこともあるが、それでも身分制度を根本から変えることは不可能に近いと知る。
この認識は、龍馬の“藩を超えた行動”への確信を強めた。

この時期、龍馬を揺さぶる大事件が起きる。
それが黒船来航後の日本全体の混乱と、幕府の弱体化だった。
攘夷論が各地で高まり、藩同士が対立し、幕府は外交でも内政でも揺れ続けていた。
龍馬は、土佐藩の枠内から事態を変えることはできず、むしろ藩の外に飛び出した方が日本のために動けると強く意識するようになる。
こうして、龍馬の中で「脱藩」という重大な選択が現実味を帯び始めた。

この頃の龍馬が最も苦しんだのは、土佐勤王党と武市半平太との関係だった。
龍馬は武市を尊敬していたが、武市の攘夷方針は次第に幕府との対立を深め、藩政にも歪みを生んでいた。
龍馬は外交・海軍・貿易など国を開く方向での改革を求めており、
武市の攘夷一辺倒の姿勢とは合わなくなっていた。
しかし、兄のような人物に意見を真っ向からぶつけることもできず、龍馬は複雑な感情を抱えたまま、藩の未来を見つめていた。

そして、藩から再び江戸へ赴くよう命が下る。
表向きは昇進にも見える命令だったが、龍馬は直感的に「自分が藩に管理されようとしている」と感じる。
龍馬の自由な行動、外の世界での影響力、そして思想は、土佐藩にとって“扱いづらい存在”になりつつあった。
龍馬はこの命令が自身の自由を奪い、藩に縛り付けようとする圧力だと理解し始める。

この状況の中で、龍馬の心は完全に固まる。
「藩を出る。自分の人生を、自分の意思で使う」
藩士としての人生を捨て、命を賭けて未来に賭けるという、常識からすれば無謀な決断だった。

この章の終わりにはまだ龍馬は脱藩していないが、
身分制度への疑問、武市との思想のズレ、幕末の混乱、藩の束縛、そして広い世界への確信が、
龍馬を“脱藩”という一点へ向かわせる大きな流れを形づくっていた。

 

第5章 脱藩ー命を懸けた境界線の突破

1862年、坂本龍馬はついに脱藩を決断する。
脱藩とは、藩士の身分を捨て、藩の統制から逃れる行為であり、当時の日本では重罪だった。
処罰は家族にも及び、最悪の場合は“死”。
それでも龍馬は、藩の枠に留まり続ければ日本の未来を変えるどころか、自分自身すら押し潰されると判断した。
これは勢いではなく、長い葛藤と現実認識の末に導かれた選択だった。

龍馬は土佐を出る前、幼なじみで志を同じくする沢村惣之丞に脱藩の計画を伝える。
沢村は龍馬の大胆さに驚きながらも深い理解を示し、同行を決意する。
のちに海援隊の重要人物となる沢村との絆は、この時点ですでに強固だった。
さらに龍馬は別の同志にも声をかけ、小さな脱藩グループが形成されていく。

脱藩の舞台となったのが、土佐国境の韮ヶ峠である。
この峠を越えた瞬間、龍馬は土佐藩士ではなく“無籍の浪人”になる。
身分も家も後ろ盾も失われ、法的には逃亡者であり、敵も味方も定まらない孤独な立場になる。
それでも龍馬は迷わなかった。
峠を越えるその数歩こそ、龍馬の人生における最大の一歩であり、日本史が変わる最初の音だった。

脱藩直後、龍馬は京都に身を置き始める。
京都は倒幕派、佐幕派、新選組、浪士が入り乱れた危険な都市であり、日常的に暗殺事件が起きていた。
しかし龍馬は、混乱の中心に行かなければ日本の未来を見据えることはできないと理解していた。
京都での龍馬は、情勢の観察を続け、各地の志士たちと交流し、次の行動の軸を模索していく。

この頃に訪れた大きな出会いが、のちに龍馬を大きく支えることになる人物たちとの接点である。
その中でも重要なのが、長州藩の志士たちだ。
長州は幕府との対立で追い詰められ、藩自体が崩壊の危機にあった。
彼らと交流することで、龍馬は
「日本の未来は、一藩の事情ではなく、すべての藩の行動で変わる」
という視点をさらに強めていく。

一方、土佐勤王党と武市半平太との関係は複雑になっていく。
龍馬は武市を尊敬していたが、脱藩という行動は、武市の掲げる「藩の内部から改革を進める」という路線とは根本的に矛盾していた。
龍馬は武市に別れの言葉を残し、武市は龍馬の志を理解しつつも深く傷ついたと伝わる。
この別れは、幕末の価値観のすれ違いを象徴するエピソードであり、
誰もが正しいと思う方法を選んでも、歴史の中で道が分かれていく現実を示している。

京都で動き始めた龍馬は、より広い視点で日本を見据える中で、
海の重要性にたどり着く。
日本は海に囲まれた国であり、外国と向き合うには海軍力や貿易の知識が不可欠だと考えた。
この認識が、後に勝海舟との出会いへ繋がり、龍馬の人生を決定的に変えることになる。

脱藩は、藩士にとって“死を覚悟する行為”だった。
しかし龍馬にとっては、
土佐を裏切る行為ではなく、
日本全体を視野に入れて動くための必然だった。

韮ヶ峠を越えた一歩は、
武士という身分にさよならを告げ、
自らの人生を使って未来を作る覚悟を固める一歩。
この瞬間から龍馬は、本当の意味で“坂本龍馬”として歩き始めた。

 

第6章 海援隊誕生ー勝海舟との出会いと新たな絆

脱藩後の坂本龍馬に決定的転機を与えたのが、幕臣の勝海舟との出会いだった。
龍馬は勝と語り合う中で、従来の攘夷思想がいかに現実から乖離しているか、そして近代国家に必要なのは海軍力・外交・貿易であることを痛感する。
勝は刀を振るうのではなく、海を通じて日本を守るという前衛的な考えを持っており、龍馬はその思考のスケールに衝撃を受けた。

勝海舟は、脱藩という大罪を犯した龍馬を知りながらも、
「こいつは使える」
と見抜き、弟子として受け入れた。
その信頼は龍馬にとって人生の方向性を決定づけるほど大きかった。
龍馬は勝のもとで兵学、航海術、国際情勢、砲術などを学び、日本が列強の脅威にさらされる現実を深く理解していく。

勝が設立した神戸海軍操練所は、日本初の本格的な海軍教育施設だった。
ここには全国から志ある若者が集まり、海図の読み方、帆船の操縦、船舶砲術などの近代的技術を学んでいた。
龍馬はここで「海による国づくり」を現実的に捉えるようになり、剣術中心の武士の考え方から完全に脱皮していく。
しかし操練所は幕府の財政難と政治混乱により短期間で閉鎖されてしまう。

操練所を失った仲間たちを前に、龍馬は新しい行動を起こす。
長崎の豪商・小曽根乾堂の支援を受け、操練所のメンバーを引き取り、
亀山社中という新組織を立ち上げた。
これは日本で最初期の「商社」であり、同時に「民間海軍組織」でもあった。
のちに亀山社中は名称を改めて海援隊となる。

海援隊の活動は多岐にわたる。
武器調達、海上輸送、航路開拓、商取引、情報伝達。
それに加えて龍馬自身が外交交渉の実務を担い、薩摩や長州など敵対する勢力の間を取り持つ役目を果たした。
特に有名なのが、薩摩名義で武器を購入し、それを長州へ渡すという取引で、
これがのちの薩長同盟成立の下地になる。
海援隊は“幕末の物流と外交の心臓”のような役割を担っていた。

この時期の龍馬の周囲には、重要な仲間たちが揃っていた。
幼なじみの沢村惣之丞
のちの明治政府で外交の中心を担う陸奥宗光
航海技術に優れた近藤長次郎など、
優秀な若者たちが“藩ではなく国のために動く”という思想に共鳴し集まってきた。

そして、この時期の龍馬に欠かせない存在が、後に妻となる楢崎龍(お龍)である。
お龍の登場は、龍馬の人生に「政治とは別の、人間としての支え」をもたらす重要な出来事だった。

1866年、龍馬は伏見の寺田屋に宿泊していたが、幕府側の治安組織が龍馬を討とうと襲撃を企てていた。
その危機を察知したのがお龍だった。
お龍は風呂に入っている最中に異変を感じ取り、
裸のまま階段を駆け上がって龍馬に危険を知らせたという逸話が残っている。
龍馬はお龍の警告で命を救われ、仲間の助けで寺田屋から脱出することができた。

この事件をきっかけに、龍馬とお龍の絆は深まり、
二人は公式に夫婦として結ばれる。
そして薩摩へ身を寄せた際、霧島へ旅をするが、
これが「日本初の新婚旅行」として有名である。
龍馬は剣と海の世界の人間だったが、お龍は“人としての龍馬”を支え、彼の心を柔らかく保つ存在だった。

海援隊時代の龍馬は、政治家でも軍人でもない。
外交官・海運業者・軍事顧問・調整役・組織運営者
これらすべての顔を同時に持ち、日本中の勢力をつなぐ存在だった。

そしてこの海援隊という舞台で、
龍馬は薩摩と長州を結びつけ、
後の薩長同盟、さらには大政奉還へ続く道を実務レベルで固めていく。

海を武器にし、仲間を束ね、愛する人を得て、
龍馬はここで“国を動かす人物”としての全ての要素を完成させつつあった。

 

第7章 薩長同盟ー破綻寸前の日本を繋いだ交渉の核心

海援隊を率いて全国を奔走する坂本龍馬は、ついに幕末最大の政治課題と向き合うことになる。
それが、薩摩藩と長州藩を手を結ばせることだった。
当時この二藩は、ただの敵対関係ではなく“殺し合いの因縁”すら抱えており、普通の交渉では絶対に歩み寄れない相手だった。
しかし日本全体を見渡した龍馬には、
「薩摩と長州が組まなければ幕府には勝てない」
という明確な戦略が見えていた。

長州藩は禁門の変で朝廷を敵に回し、幕府からも徹底的に攻撃され、藩の存続すら危うい状態に追い込まれていた。
一方、薩摩藩は西郷隆盛・大久保利通が台頭し、幕府を支えながらも内部では倒幕の意志を強めていた。
しかし薩摩にとって長州を助けることは政治的リスクが高く、長州にとっても薩摩は「裏切る可能性のある相手」という認識が強かった。

ここに龍馬が登場する。
龍馬は薩摩と長州のどちらにも属さず、
どちらにも信頼され、どちらにも肩入れしない中立の人物だった。
この“立場の軽さ”こそ交渉における最強の武器だった。

まず龍馬は薩摩側と接触する。
特に西郷隆盛とは海援隊時代から関係を築いており、西郷は龍馬を高く評価していた。
龍馬は西郷に対して、
「長州を切り捨てれば、次に追い詰められるのは薩摩自身」
「長州と手を組めば、日本の政治の主導権を握れる」
という二つの論理で説得した。
薩摩は、戦わずに勢力を伸ばすこの提案に魅力を感じ始める。

次に龍馬は長州側へ向かい、木戸孝允(桂小五郎)と交渉する。
木戸は非常に慎重な人物で、裏切りをもっとも恐れていた。
しかし龍馬は、
薩摩藩が長州を支援するために武器調達を代行している事実
を明かし、薩摩が本気で倒幕を考えていることを示した。
特に、薩摩名義で購入した最新式の銃器を長州へ流すルートを確保していたことは、木戸にとって最も強い安心材料になった。

1866年1月、京都の小松帯刀邸で歴史的会談が行われる。
薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀、長州側は木戸孝允。
そして調整役として龍馬が場を取り持った。
この会談は極度の緊張状態で、少しでも判断を誤れば決裂する状況だった。
薩摩も長州も互いに疑い、慎重に言葉を選ぶ。
龍馬は双方の言葉の“ニュアンス”を読み取りながら、誤解を回避するために一つ一つの言葉を丁寧に置き換えていった。

こうして成立したのが、歴史的な薩長同盟だった。
その内容は、

・薩摩が長州への軍事支援を保証すること
・長州が倒幕運動に積極的に参加すること
・両藩が互いの立場を尊重し、幕府と対抗する軸を作ること

この同盟によって政治の地図は一変する。

薩摩は名実ともに倒幕の主導権を得て、軍事力の増強に成功する。
長州は滅亡寸前の状況から脱却し、維新の主力として復活する。
そして日本全体の力関係は、ここから一気に幕府から薩長側へと傾いていく。

この歴史的大仕事の裏に、坂本龍馬の姿があった。
龍馬がいなければ、西郷と木戸が直接会う未来はまず訪れず、
日本の倒幕運動はまったく違う道筋になっていた可能性が高い。

薩長同盟は、龍馬の
交渉力・洞察力・情報網・中立性・人間的魅力
これらすべてが結実した成果であり、
幕末という混乱の中で、龍馬が最も大きく歴史を動かした瞬間と言える。

 

第8章 大政奉還ー戦を避けた政権交代の設計図

薩長同盟の成立で、日本の政治バランスは一気に崩れ始めた。
勢力図は完全に倒幕側へ傾き、幕府は制度としての寿命を迎えつつあった。
しかし、ここで坂本龍馬が目指したのは単純な「倒幕」ではなかった。
龍馬が求めたのは、
血を流さずに政権を移す“平和的革命”
という当時としては極めて異例の構想だった。

龍馬は薩長同盟の成立後、ただ倒すのではなく、
「新しい日本をどう設計するか」
という部分に力を注ぎ始める。
既存の幕府が瓦解したあと、国をどう運営するのか。
藩同士の主導権争いをどう防ぐのか。
列強と対等に交渉できる政治機構をどう作るのか。
こうした課題を龍馬は真剣に考え、各藩の代表を行き来しながら意見を調整していった。

この頃の龍馬の最重要の協力者が、土佐藩の後藤象二郎だった。
龍馬は後藤と共に新政府案をまとめ、その内容を船旅の途中で練り上げたため、
後に「船中八策」と呼ばれるようになる。
船中八策は、新政府の政治理念をまとめた“国家の青写真”とも言える文書で、
その主な中身は、

・議会政治の導入
・憲法制定
・官制改革
・外交の確立
・海軍力の育成
・通商拡大

など、近代国家としての基盤がすべて盛り込まれていた。
この構想は当時としては飛躍的に先進的であり、幕末の政治家たちのレベルをはるかに超えた視野を持っていた。

龍馬が描いた最大のポイントは、
「幕府が自ら政権を朝廷へ返す」
という案だった。
武力で幕府を倒すのではなく、徳川家が自ら政権を返上すれば戦は起きない。
倒幕派と佐幕派の衝突を避け、全国の藩が平和的に新政府へ移行できる。
龍馬はこれこそが日本にとって最も合理的な道だと考えていた。

龍馬はこの構想をもとに土佐藩の上層部を動かす。
特に藩主・山内容堂は、保守的でありながらも状況を読む目が鋭く、
幕府の限界と改革の必要性を理解していた。
龍馬は後藤象二郎を通じて内容堂を説得し、
ついに土佐藩が正式に「幕府に政権返上を建言する」という立場をとることになる。

この建言が、幕府のトップ 徳川慶喜 に届く。
慶喜は当時の政治家の中でも最も聡明で、
旧式の幕府体制が時代に合わないことを理解していた人物だった。
慶喜は土佐藩からの提案を熟読し、そこに合理性を感じ取る。
そしてついに、1867年10月、
慶喜は朝廷に政権を返上する意見書を提出する。
これが歴史上の大事件――大政奉還である。

徳川家の政権は約260年の歴史に幕を下ろし、
しかし不思議なことに、この大きな転換は“戦争なし”で実現された。
龍馬が望んだ道筋が現実になった瞬間だった。

ただし、大政奉還がすべてを解決したわけではなかった。
薩摩や長州の急進派は「政権を返上しただけでは幕府の力は残る」と不満を抱き、
幕府側にもまだ武力抵抗の意志があった。
つまり、大政奉還は国家の土台を切り替えたが、
新しい国家の構築はこれからという段階で、
政治は依然として緊張に満ちていた。

それでも、
「日本を戦わずに変える」
という龍馬の理想は、幕末の荒れた時代の中で確かに形になり、
その中心には、藩も身分も超えて動き続けた坂本龍馬がいた。

 

第9章 京都潜伏ー混乱の都で新国家をまとめる奔走

大政奉還が実行され、表向き日本は政権交代を果たした。
しかし坂本龍馬は、その後の京都の危うさを誰よりも理解していた。
政権を返したとはいえ、徳川家の軍事力は依然として健在。
薩摩・長州の急進派は武力倒幕を主張し、
新選組や見廻組などの治安部隊は浪士の活動を敵視し、
京都全体がいつ戦が始まってもおかしくない不安定な状態にあった。

そんな中、龍馬は敢えて京都に身を置き続ける。
彼の目的は、
大政奉還後の新国家像を固め、各勢力の暴走を防ぐこと
だった。

龍馬が京都で活動する拠点にしたのは、近江屋である。
近江屋は商人の家で、人目を避けるには適していた。
しかし同時に、多くの志士が行き交う情報の中心でもあり、
龍馬はここで各藩の情勢を整理しながら、
新政府の枠組みを整えるための調整を次々と進めていった。

龍馬が新政府に求めたのは、
特定の藩が権力を握る中央集権ではなく、
各藩が対等に議論し参加できる「連合政権」に近い形だった。
そのためには議会制度、憲法、行政組織、外交体制などをきちんと設計しなければならず、
龍馬は政治の“骨組み”を作る役割を果たしていた。
大政奉還後、朝廷や有力藩が混乱していた時期に、
この「制度設計」を現実的に考えたのは龍馬が最初と言っていい。

龍馬が京都で会談を重ねた相手は多岐にわたる。
薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允、土佐の後藤象二郎など、
維新の中心人物たちが龍馬の情報網を頼りに京都で動いていた。
龍馬がどれほど信頼されていたかは、
薩摩・長州・土佐という三つの大きな勢力が、
龍馬だけは“敵ではない”と認識していた点でも分かる。

この頃、龍馬の身を案じ、心を支え続けていたのがお龍だった。
お龍は寺田屋遭難で龍馬の命を救った後、
龍馬と行動を共にする時間が増え、
薩摩での療養や霧島への旅(日本初の新婚旅行)を経て、
互いの絆は非常に強固になっていた。
京都でもお龍は龍馬の生活を助け、
龍馬はお龍に政治の悩みや危険な状況を隠さず語り、
精神的な支えとして強く頼っていた。
龍馬にとってお龍は、ただの“妻”ではなく、
激動の時代を生き抜くためのもっとも近しい理解者だった。

しかし京都の情勢はますます悪化していく。
薩摩の急進派は江戸で騒動を起こし、
幕府側の浪士たちも龍馬を標的とみなすようになる。
新選組や見廻組は、
「薩長の調整役」「倒幕の黒幕」
という理由で龍馬を危険視し、密かに監視していた。

そのうえ、薩摩と長州の中にも“龍馬の構想は話し合いに頼りすぎている”と考える者が出始め、
龍馬は味方の中からも批判を受けるようになる。
つまり龍馬は、
敵にも味方にも“無視できない存在”になったことで、
あらゆる方向から狙われやすい状態になっていた。

それでも龍馬は、
戦を避けるため、新国家を作るため、
京都での活動を止めなかった。
混乱の都で命を狙われながらも、
薩摩と長州の暴走を抑え、
徳川家を無暗に刺激せず、
朝廷との連絡も維持するという、
極めて難しいバランス運営を続けていた。

大政奉還の成功後、
龍馬はすでに次の段階――
「日本が近代国家として歩き出すための基盤づくり」
に取りかかっていた。
しかしその矢先、
京都の混乱と緊張は極限に達し、
龍馬自身へ向けられる危険は日に日に増していく。

そして、龍馬はこの京都で、
人生最後の夜を迎えることになる。

 

第10章 最期の凶刃ー近江屋事件と33年の幕

1867年11月15日、坂本龍馬はついに人生最後の瞬間を迎える。
場所は京都・河原町の商家、近江屋
大政奉還からわずか一か月後のことだった。
龍馬は盟友の中岡慎太郎と二階の部屋で談笑しながら、
新しい政治体制をどう整えるかという次の課題を話し合っていた。
武力衝突を避け、大政奉還を実現したことで、
ようやく“これからの日本”を作る段階に入った──その矢先だった。

その夜、近江屋の玄関に数名の武士が姿を見せる。
彼らは帳場で店の者を押しやり、
刀を抜いたまま階段を駆け上がって二階へ突入する。
龍馬は不意の襲撃に驚き、反射的に刀へ手を伸ばそうとした。
しかし、襲撃者の動きは速く、
龍馬の額を鋭く斬りつけ、背中にも致命傷を与えた。
中岡慎太郎も応戦しようとしたが深手を負い、
数の差は埋めようがなかった。

襲撃者の正体は現在まで決定していない。
もっとも有力なのが幕府側の治安組織である見廻組による暗殺説で、
薩長を結びつけた龍馬を危険視していたことから動機もある。
しかし薩摩急進派の暴走説、他の浪士集団説もあり、
幕末の複雑な政治情勢をそのまま写すように、
事件の真相は混迷したまま残された。

龍馬は襲撃の最初の一撃で深い傷を負いながらも、
数歩は動いたと言われている。
床には血の跡が点々と残っていたと記録されており、
龍馬が最後まで立ち向かおうとした痕跡がある。
しかし傷は深く、
龍馬は近江屋の畳の上で息を引き取る。
享年33。
日本を変えるために奔走し続けた年月を考えると、
あまりに短い生涯だった。

中岡慎太郎はその後二日ほど生き延び、
襲撃の様子を断片的に語ったのちに息を引き取る。
これにより、近江屋事件の詳細な証言は限られ、
真相解明は困難になった。

龍馬が暗殺されたという報せは、
京都だけでなく全国に強烈な衝撃を与えた。
薩摩の西郷隆盛は深く悲しみ、
長州の木戸孝允は、
「龍馬ほどの人物がいなくなるのは大きな損失だ」
と語ったと伝わる。
土佐の後藤象二郎も言葉を失い、
龍馬の構想がなければ大政奉還は成立しなかったと悼んだ。

そして、龍馬をもっとも近くで支え続けたお龍もまた、
深い悲しみに沈んだ。
寺田屋遭難で命を救い、
共に霧島へ旅し、
龍馬の思想、葛藤、疲労、希望をすべて間近で見ていたお龍にとって、
龍馬の死は世界そのものを失うほどの衝撃だった。
お龍はその後、しばらく精神的に不安定な状態が続き、
龍馬の死を生涯引きずることになる。
それほどまでに、龍馬とお龍の絆は深いものだった。

龍馬の死は、幕末の動きを止めることはなかった。
むしろ龍馬が生前に提示した構想――薩長の連携、海軍の重要性、
議会制度を備えた新政府の骨格――は、
その後の明治政府の根幹へと引き継がれていく。
龍馬の死後間もなく戊辰戦争が起き、
明治維新が本格化するが、
その基盤を作ったのは間違いなく龍馬だった。

わずか33年という短い時間で、
土佐の下級郷士の少年が、
藩を超え、海を使い、人を動かし、
日本という国の未来を描き、
その方向を変えてしまった。
龍馬の人生は長くはなかったが、
その影響力は時代の枠を超え、現在まで続くほど大きい。

こうして、坂本龍馬という一人の人物が、
激動の幕末の中で駆け抜けた33年の物語は終わりを迎える。
だが、その足跡は“歴史の一場面”に留まらず、
今なお日本の精神や価値観に大きく刻まれ続けている。