第一章 幼少期ー貧困と暴力の中で育つ
1937年4月28日、サダム・フセイン・アッ=ティクリーティは、イラク北部ティクリート近郊のアル=アウジャ村に生まれた。
その名の通り、彼はのちに中東を揺るがす独裁者となるが、
その出発点は極度の貧困と暴力に満ちた環境だった。
彼の父フセイン・アブドゥルマジードは、サダムが生まれる前に姿を消しており、
死んだという説と逃亡したという説がある。
母スブハ・トゥルファは夫を失い、悲嘆の中でサダムを身ごもっていた。
彼が生まれた時、母は精神的に不安定で、
幼いサダムを一時期養子に出したとも言われている。
そのため彼は、生後まもなく祖父の家で育ち、
幼少期から孤独と不信感を植え付けられる環境にあった。
村は貧しく、教育も乏しかった。
子どもたちは家畜を追い、飢えをしのぐために働くのが日常だった。
サダムは幼いころから「力こそが尊敬を生む」という現実を学び、
喧嘩では決して引かず、同年代の子どもたちを圧倒していたという。
暴力的な地域社会の中で、彼は生き延びるために“恐れられること”を選んだ。
やがて母は再婚し、義父ハサン・イブラヒム・ハッサンを迎える。
しかしこの義父がサダムに対して非常に厳しく、しばしば暴力をふるった。
サダムは家を飛び出し、9歳のときに母方の叔父ヒルアッラー・タルファを頼って
首都バグダードへ向かう。
この叔父との出会いが、彼の人生を大きく変えることになる。
ヒルアッラーは当時、アラブ民族主義運動に関与していた政治活動家であり、
若きサダムに「アラブの統一」「西洋帝国主義への抵抗」「強い国家の必要性」を説いた。
これがサダムの政治的覚醒の始まりだった。
読み書きも十分でなかった少年に、叔父は教育を施し、
やがてサダムは学校に通い始める。
遅れを取り戻すように学び、政治思想や軍事史に異常な興味を示した。
学校時代のサダムは、決して模範的な生徒ではなかったが、
野心と支配欲は早くも芽生えていた。
教師に反抗しながらも、彼は自分の意見を力強く主張し、
仲間内ではリーダーとして振る舞った。
彼の言葉には独特の威圧感があり、
同年代の少年たちは“何か特別なもの”を感じ取っていた。
ティクリートという土地柄も、彼の人格形成に大きな影響を与えた。
この地域は部族間の結束が強く、復讐と忠誠の文化が根付いていた。
サダムもまた「敵には容赦せず、味方には絶対の忠誠を尽くす」という価値観を吸収していく。
のちの彼の政治手法――裏切り者を徹底的に粛清し、家族や部族を優遇する支配構造――は、
この少年時代の部族的倫理から生まれたものだった。
貧困、暴力、孤独、そして不安定な家庭。
それらすべてが、サダムを「生きるために支配する」という性格へと導いていった。
彼にとって“優しさ”や“共存”という言葉は弱さの象徴であり、
人を動かすのは恐怖と力しかないと信じるようになる。
この時期、彼の胸に刻まれたのは、
「誰にも支配されない人生を送る」という決意だった。
そのための手段が政治であり、暴力であり、国家そのものだった。
十代の終わり、サダムはすでに心に明確な目標を描いていた。
それは貧困からの脱出でも、単なる成功でもない。
彼が望んでいたのは――「自分こそが支配者になる世界」。
少年時代に植え付けられた恐怖と怒りは、
やがてイラクという国全体を覆う影へと変わっていく。
次章では、青年となった彼がどのようにして革命思想と出会い、
運命の扉を開けていくのかを描く。
第二章 青年期ーバース党と革命思想の出会い
1950年代初頭、サダム・フセインはティクリートを離れ、叔父ヒルアッラー・タルファのもとで暮らしながら、
首都バグダードの高校へ通うようになった。
ここで彼は初めて、近代的な都市文化と政治思想の渦に触れる。
貧しい田舎の少年にとって、それはまるで別世界だった。
当時のイラクは王政のもとにあり、
英国の影響下で政治と経済が動いていた。
貧富の差は激しく、農民と労働者は搾取され、
一方で上流階級は英国式の教育と生活を享受していた。
この格差は若いサダムに強い怒りを与える。
彼は教室で教師にこう言い放ったという。
「イラクはイラク人のものだ。他国の影など必要ない。」
その頃、バグダードではアラブ民族主義が台頭していた。
アラブ諸国をひとつにまとめ、西洋列強に対抗するという理想に、
多くの若者が心を奪われていた。
サダムもまた、叔父の影響でこの思想に深く共鳴するようになる。
そんな彼が運命的に出会ったのが、
バース党(アラブ社会復興党)である。
この政党は「統一・自由・社会主義」を掲げ、
汚職と王政を打倒し、アラブ民族の独立と再興を目指していた。
バース党は当時まだ地下組織に近い存在だったが、
サダムはすぐにその活動にのめり込んでいく。
彼は学生グループの中で指導的役割を果たし、
機密文書の運搬や政治ビラの配布を担った。
その中で、彼は早くも「行動する革命家」として頭角を現す。
他の活動家が理想を語るだけの中、
サダムは「言葉よりも銃が国家を変える」と信じていた。
この頃、彼はバース党の有力指導者アフマド・ハサン・アル=バクルと出会う。
ティクリート出身という共通点もあり、二人はすぐに親交を深めた。
バクルは冷静な軍人肌の男で、
若きサダムの情熱と行動力を高く評価していた。
この出会いが後に、サダムが政権の頂点に立つ土台となっていく。
1956年、エジプトの指導者ガマール・アブドゥル=ナーセルが
スエズ運河の国有化を宣言し、西欧列強と衝突する。
このニュースはアラブ世界全体を揺るがし、
バグダードの街でも学生や労働者がデモを起こした。
サダムも参加し、警察に追われながらもデモの先頭に立っていたという。
彼にとってこの時期は、“政治は血と恐怖で動く”という現実を学ぶ訓練期間だった。
翌1958年、イラクで軍事クーデターが勃発し、
国王ファイサル2世と首相ヌーリー・サイードが処刑される。
王政は崩壊し、イラクは共和制へと移行。
サダムは革命の成功に歓喜し、「これでイラクは自由になる」と信じた。
しかし、その後権力を握った将軍アブドル=カリーム・カーシムは、
バース党ではなく自身の独裁体制を築き始める。
バース党員たちは失望し、
「真の革命を再び起こさねばならない」と決意する。
サダムもその一人だった。
彼はカーシム政権を“裏切り者”と見なし、
仲間と共に次なる陰謀を練り始める。
その中心的任務――それが、後に彼の人生を決定づける暗殺計画だった。
この時期のサダムは、まだ若く未熟ながら、
恐怖をまったく感じない大胆さを持っていた。
彼は自ら銃を手に取り、王を、政府を、そして体制を倒す夢を描いていた。
理想主義者ではなく、実行する政治家へと変貌していたのだ。
1959年、彼はわずか22歳。
この年、彼の人生を分ける事件が起こる。
それは、成功すれば英雄、失敗すれば死刑――
命を懸けたクーデターの引き金を引く瞬間だった。
次章では、その血にまみれた暗殺計画と亡命生活、
そして“冷酷な権力者”としての芽が開花していく過程を追う。
第三章 政治活動ー暗殺未遂と亡命生活
1959年10月7日、バグダード。
午後の陽射しの中を、イラク首相アブドル=カリーム・カーシムの黒い車が走っていた。
その進路上で、銃を手に待ち構えていた男がいた。
――サダム・フセイン、22歳。
彼は仲間のバース党員7人とともにカーシム暗殺計画を実行した。
道の両脇に潜み、車が現れた瞬間、一斉に発砲。
弾丸は車体を貫き、護衛たちが倒れる。
しかし運命は彼に味方しなかった。
カーシムは奇跡的に軽傷で生き延び、襲撃は失敗に終わる。
仲間の多くが射殺され、サダム自身も足に重傷を負った。
血を引きずりながら逃走した彼は、
闇夜の中、バグダード郊外の農村へ逃げ込む。
数日間、隠れ家で傷の痛みに耐えたのち、
叔父ヒルアッラーの協力を得て国外脱出を決行。
彼はシリアを経由し、最終的にエジプト・カイロへ亡命した。
エジプトは当時、ガマール・アブドゥル=ナーセルが率いる
アラブ民族主義の中心地だった。
サダムにとって、まさに理想と憧れの国。
彼は亡命者として大学に通い、政治学を学びながら、
バース党のエジプト支部で活動を続けた。
だが、彼は単なる学生ではなかった。
常に「イラクを奪い返す」ための情報を集め、
亡命先でも諜報活動に関与していたとされる。
エジプト政府の情報機関やナセル政権と密接な関係を築き、
バグダードでの情勢を注視していた。
この時期に、彼の中で“思想家”としての側面よりも、
“陰謀家”としての資質が強く育っていく。
カイロの街で彼は初めて西欧的な近代都市を体験する。
だが、同時に社会主義や自由主義が入り混じる政治的混沌も目の当たりにした。
ムッソリーニやヒトラーの演説手法を研究していたという記録もあり、
彼は「群衆を操る技術」「恐怖と魅力のバランス」を学び取っていく。
この時、彼はまだ若い亡命者だったが、
将来の“支配者の演出術”を磨いていた。
1963年、イラクで再びバース党によるクーデターが起こる。
カーシムは捕らえられ、銃殺刑に処される。
バグダードに新政府が樹立されると、
サダムは亡命生活を終えて帰国する。
24歳にして祖国へ戻った彼は、
「革命の生き残り」として党内で歓迎され、
政治局の末席に名を連ねるようになる。
しかし、この新政権は不安定だった。
内部抗争と軍部の対立で、バース党政権はわずか9ヶ月で崩壊。
再び軍のクーデターにより追放され、
サダムは逮捕されて刑務所送りとなる。
そこで彼は政治犯として収監されながらも、
他の囚人を統率し、密かに党の連絡網を築いた。
牢獄の中でも、彼の支配欲と冷徹な組織力は衰えなかった。
彼は看守を買収し、外部との通信を維持。
刑務所の中に“小さな国家”のような秩序を作り上げ、
自分を中心にした派閥を形成していった。
この頃から彼は、仲間を“同志”ではなく“臣下”として扱い始める。
恐怖と忠誠を同時に植えつける、後の独裁者的性質がすでに現れていた。
1966年、彼は脱獄を果たす。
看守の協力を得て密かに逃亡し、
再び地下活動に戻った。
この逃亡劇はバース党内部で伝説化され、
サダムは“行動力と執念の男”として一気に頭角を現す。
1968年、イラクは再び政変に揺れる。
軍とバース党が手を組み、クーデターを実行。
大統領には党の長老アフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。
そしてその背後で、政権の実務と治安を掌握したのが――
サダム・フセインだった。
彼はまだ正式な大統領ではなかったが、
すでに国の中枢で恐怖と情報を操る“影の支配者”となっていた。
亡命と監獄を経て、
サダムは完全に“力の政治”を理解した。
彼にとって国家とは理念ではなく、服従を管理する装置だった。
次章では、彼がどのようにしてこの装置を握り、
そしてついに“表の支配者”へと昇りつめていく過程を描く。
第四章 権力への道ーバクル政権の台頭と腹心としての成長
1968年7月、イラクでまたもやクーデターの銃声が鳴り響いた。
バース党と軍部の一部が手を組み、
当時の大統領アブドゥル・ラフマーン・アーリフを無血で追放。
イラク共和国は再び体制を変えた。
そして新たに権力の座に就いたのが、バース党の重鎮アフマド・ハサン・アル=バクル。
その背後に、静かに、しかし確実に影響力を伸ばしていたのが、
彼の部下にして甥――サダム・フセインだった。
サダムは正式には副大統領補佐という立場にすぎなかったが、
実際には政権運営のほぼ全てを掌握していた。
バクルは軍出身の理想主義者であり、政治手腕には乏しかった。
一方サダムは冷徹で計算高く、
誰が敵で誰が味方かを瞬時に見抜く“嗅覚”を持っていた。
彼はまず、自らの権力基盤を築くために治安・諜報機関を掌握する。
1969年、彼は国家諜報機関(ムハバラート)を再編し、
自分に忠実な部族出身者や旧友を配置した。
ティクリート出身の仲間たちが次々に要職に就き、
政権の中枢は彼の“地元ネットワーク”によって固められていく。
この時点で、すでにイラクの権力構造は
「大統領=象徴、サダム=実権者」という形に変わっていた。
サダムはまた、恐怖を政治の基盤とする手法を完成させる。
1970年、バース党内で反対派が動きを見せると、
彼は即座に容疑者を拘束し、
テレビでの「自白放送」を強制。
裏切り者を国民の前で処刑することで、
党員全員に“忠誠か死か”というメッセージを叩き込んだ。
この演出効果は抜群で、以後イラク国内に
サダムへの恐怖と服従が浸透していく。
一方で、彼は単なる暴君ではなく、
国家建設者としての顔も見せ始める。
石油産業を国有化し、得られた莫大な資金を
インフラ・教育・医療に投資。
イラクは1970年代初頭、
中東でも有数の経済成長を遂げる。
学校が建ち、道路が整備され、農業が拡大し、
国民の生活は確かに改善された。
サダムはこの成功を政治的プロパガンダに利用し、
「バース党の革命は民を豊かにした」と国民に刷り込む。
同時に、個人崇拝の演出も始まった。
街の壁には彼の肖像画が掲げられ、
新聞は彼を「祖国の守護者」「アラブの獅子」と呼んだ。
子どもたちは学校で「サダムこそ国家」と教えられ、
国営放送は毎朝、彼のスピーチと国歌を流した。
彼はゆっくりと、しかし確実に、
“国家=自分”という概念を国民の意識に植え付けていく。
1972年、ソ連との友好条約を締結。
冷戦下においてイラクは社会主義陣営寄りの中立国として立ち位置を確立する。
この外交の巧みさが、西側諸国からも一定の評価を得た。
サダムはこの時点で、
「アラブ世界の次世代リーダー」として注目を浴びる存在となる。
しかし、内部ではすでにバクルとの関係が微妙に変化していた。
老齢化した大統領に代わり、
実務を完全に掌握したサダムは、
官僚や軍の人事を独断で進め、
バクルを“象徴的存在”へと追い込んでいく。
1976年には正式に副大統領の地位を得て、
政治・軍事・経済すべての決定権を手中にした。
彼の支配方法は、一言でいえば「恐怖と恩恵の二重支配」。
忠誠を誓う者には豪邸や金を与え、
裏切りの兆候を見せる者には即座に死を与える。
この絶妙なバランスで、
サダムは国家全体を自分一人に従わせていった。
1978年、健康を理由にアル=バクルが引退を表明。
その背後では、サダムによる圧力が強まっていたと言われる。
翌1979年7月16日、
サダム・フセインが正式にイラク共和国大統領に就任。
この時、彼は演説でこう宣言した。
「この国は、今から私の責任のもとで前進する。
革命は終わらない。」
だがその直後、
彼はその「革命」の名のもとに、
かつての同志たちを次々と血で粛清していく。
次章では、サダムがいかにして絶対権力者へと変貌し、
国家そのものを“恐怖の劇場”へと作り変えていったかを描く。
第五章 権力掌握ー大統領就任と恐怖政治の始まり
1979年7月16日、バグダード。
議会の壇上で新たな指導者が立ち上がった。
サダム・フセイン――42歳。
満場の拍手の中で彼は大統領就任を宣言し、
その瞬間、イラクの運命は大きく動き出した。
だが、その笑顔の裏には、すでに血の粛清リストが用意されていた。
就任からわずか数日後、サダムは党幹部を集めて演説を行う。
議場にはテレビカメラが入り、全国放送が始まった。
彼は穏やかな口調で話し始めるが、
突如として一人の男の名を呼び上げた。
「この中に裏切り者がいる。革命を売り渡そうとした者だ。」
その瞬間、空気が凍りついた。
指名された幹部は立たされ、混乱の中で連行される。
次々と名が呼ばれ、
涙を流しながら連れ出される党員の姿が映し出された。
その数、およそ68人。
全員が“国家反逆罪”として後に処刑された。
この演出は、サダムの恐怖政治の幕開けだった。
党員たちは震え上がり、以後誰も彼に逆らえなくなる。
この“公開自白ショー”によって、
サダムは国内全体に「裏切り=死」という方程式を植え付けた。
それからというもの、
彼の統治スタイルは徹底的な監視と粛清に基づいていく。
国民の会話、家族の言葉、職場での一言までが監視の対象だった。
スパイ網が全国に張り巡らされ、
誰がどこで何を話したか、すぐにサダムの耳に届く仕組みが完成していた。
告発制度が奨励され、
「通報すれば報酬、沈黙すれば疑い」という歪んだ社会が生まれた。
しかし、恐怖だけでは国家を保てない。
サダムは同時に、繁栄の幻想を作り上げることに成功する。
1979年はちょうど石油価格が高騰し、
イラクは空前のオイルマネーを手にした。
彼はその資金を使って壮大な公共事業を展開する。
高速道路、病院、学校、ダム、発電所。
建設現場には彼の巨大な肖像が掲げられ、
国民は「サダムのおかげで豊かになった」と信じるようになった。
さらに彼は教育改革を推進。
識字率を急速に向上させ、
女性の社会進出も奨励した。
この点では近代化の功績もあったが、
それもすべては「ドゥーラ(父なる指導者)」としての
自分を称えるための政治的演出だった。
同時に、サダムは個人崇拝の頂点を築いていく。
肖像画は街の壁だけでなく、学校・工場・モスクにも掲げられ、
「我らの命はサダムのもの」と書かれた標語が全国に貼られた。
国営テレビは毎晩、彼の演説と功績を放送。
子どもたちは朝礼で彼の名を唱え、兵士たちは忠誠の誓いを立てた。
宗教すら政治の道具と化し、
イスラムの祈りの一部に「サダムの導きに感謝を」という文句が加えられるほどだった。
一方で、反対勢力の排除は容赦がなかった。
シーア派宗教指導者や共産主義者、クルド人運動家たちは次々に逮捕され、
行方不明者は年々増えていく。
刑務所では拷問が常態化し、
「目を閉じてもサダムが見える」と言われるほど、
彼の影は人々の心に食い込んでいった。
サダムは自身の演説でしばしばこう語った。
「強い国には強い指導者が必要だ。
私はそのために選ばれた。」
その言葉は国民の恐怖を“運命”へとすり替える呪文のように響いた。
しかし、そんな絶対的支配の中にも、不安があった。
隣国イランでは1979年、イスラム革命が勃発。
親西側だった国王パフラヴィーが倒され、
シーア派のルーホッラー・ホメイニが新政権を樹立する。
革命の波はイラク国内のシーア派にも影響を与え、
反政府運動が活発化していく。
サダムはこれを“国家への挑戦”と見なし、
イランへの敵意をむき出しにしていく。
恐怖と栄光のバランスの上に立つこの独裁体制は、
やがて国際政治の大火種へと変わっていく。
1980年、サダムはついに大きな賭けに出る。
それは、イラクという国の未来をも巻き込む戦争――
イラン・イラク戦争の開戦だった。
次章では、
彼がなぜ隣国との全面戦争を選び、
そしてどのように国家と自身の運命を狂わせていったのかを描く。
第六章 国内統治ー独裁体制の強化と個人崇拝
1980年代初頭、サダム・フセインのイラクは表向き「安定」と「繁栄」を掲げていた。
だが、その実態は徹底的に監視された国家、恐怖で統制された社会だった。
すべての官僚、軍人、教師、記者が忠誠を誓わされ、
忠誠の対象は「国家」ではなくサダム個人に置き換えられていた。
バース党は政府でも宗教でもなく、
“サダムの延長線上にある宗教的組織”として機能していた。
党員になるには忠誠の誓約書にサインし、
反対者を告発した証拠を提示する必要があった。
それはまるで“思想の通貨”のような制度で、
恐怖こそが社会の安定を支える燃料となっていた。
国家のプロパガンダ機関は24時間稼働し、
新聞、テレビ、ラジオ、映画、教科書のすべてが
サダムを英雄として描いた。
子ども向けの国語教科書には「サダムは太陽」「サダムは父」と記され、
彼の誕生日には全国でパレードと詩の朗読が行われた。
「イラクに神は二人いる。天にはアッラー、地にはサダム。」
そんな言葉がまかり通るほど、個人崇拝は狂気の域に達していた。
一方で、サダムは教育と文化事業にも積極的だった。
莫大なオイルマネーを使って大学を拡充し、
科学技術研究を推進、女性教育の促進にも乗り出した。
だが、それもすべて“忠誠を育てるための教育”であり、
自由な思想は存在しなかった。
学者が政権を批判すれば、翌日には姿を消す――そんな時代だった。
また、サダムは家族政治を築き上げる。
ティクリート出身の親族が政府要職を占め、
長男ウダイ・フセイン、次男クサイ・フセインが将来の後継候補として
早くから公の場に登場するようになる。
ウダイは暴力的で奔放、クサイは冷静で残酷。
サダムの“二つの影”として、国民に恐れられた。
サダム自身は、自分の地位を「絶対的に正当化」するために
イスラム的象徴とアラブ民族主義を融合させた。
彼はモスク建設を奨励しながら、
コーランを自らの血で書写させるという狂信的行為に及ぶ。
国家の首都バグダードには「サダム・グランドモスク」や
「勝利の大アーチ」といった巨大建造物が次々と立ち並び、
その下を通るすべての市民が彼の名を口にして通過した。
経済面では石油収入の増加により一時的に潤っていたが、
その豊かさは戦争への投資に吸い取られていく。
彼は軍拡を進め、国内総生産の3分の1を軍事費に投入。
戦車、ミサイル、化学兵器、そして核開発までも視野に入れていた。
「イラクはアラブの盾となる」と演説で豪語し、
周辺国への影響力を誇示した。
その頃、隣国イランではイスラム革命政権が成立し、
サダムはその存在を“イラクの脅威”と見なしていた。
特にイラク国内のシーア派が
ホメイニ体制に共感して反乱を起こすことを恐れていた。
この不安が、やがて彼を最大の過ちへと駆り立てる。
1980年9月22日、サダムはイランへの全面侵攻を命じた。
「ペルシャの狂信者どもに鉄槌を下せ」と号令をかけ、
空爆と地上戦を同時に開始。
彼はテレビで演説し、
「我らはアラブ世界の名誉を守る戦士である」と叫んだ。
こうしてイラン・イラク戦争が始まる。
戦争初期、イラク軍は優勢だった。
だが、やがて泥沼の消耗戦となり、
8年間にわたる戦闘で両国合わせて百万人以上の死者を出す悲劇となる。
兵士はガスマスクを着け、化学兵器が戦場を覆い、
少年兵までもが銃を持って戦った。
サダムは戦況が悪化しても「勝利は近い」と叫び続け、
国民に犠牲を強いた。
国内では戦争を口実にさらに統制が強化された。
「反戦」は反逆と見なされ、
徴兵を拒否した者は家族ごと投獄された。
にもかかわらず、彼の支持率は依然として高かった。
それは恐怖と愛国心を巧妙に混ぜ合わせた、
心理的支配の完成形だった。
イラクの街にはプロパガンダ映像が流れ続けた。
兵士が戦場で倒れる映像の後に、
サダムが笑顔で子どもを抱き上げる姿が映る。
「父は戦い、息子たちは彼のために生きる」――
そんな映像が、国家の忠誠の形として繰り返し放送された。
1988年、ようやく戦争が終結。
しかし、それは勝利ではなく、
国家の経済を疲弊させただけの痛み分けだった。
イラクの財政は崩壊寸前で、国民は再び貧困に苦しむ。
それでもサダムは笑顔を絶やさず、
「我々は屈しなかった」と演説で強調した。
この戦争で彼が得た教訓は一つ――
「どんな犠牲を払っても支配を手放すな。」
次章では、彼がその信念のもとに
さらに危険な挑発へと踏み出していく様を描く。
標的は、アラブの兄弟国――クウェートだった。
第七章 戦争の時代ーイラン・イラク戦争の勃発
1980年9月22日、イラク軍は国境を越えてイラン領へ突入した。
サダム・フセインは国営放送で「ペルシャの狂信者どもに正義の鉄槌を!」と叫び、
アラブ世界の防衛を自らの使命として掲げた。
しかしその裏には、単なる宗教対立ではなく、
領土・石油・覇権という冷徹な計算があった。
戦争のきっかけは、イラン南西部のシャッタル・アラブ川流域の支配権争いだった。
この地域は豊富な石油を抱え、
両国が長年「どちらのものか」を巡って対立していた。
さらに1979年、イランでイスラム革命が起き、
ホメイニ政権が誕生したことで状況は一変する。
シーア派中心のイランが、スンニ派主体のイラク国内に影響を及ぼすことを
サダムは“国家崩壊の脅威”と感じていた。
彼はこの危機を逆手に取り、
「イラクはアラブ世界を守る盾だ」として開戦を正当化。
周辺のアラブ諸国――サウジアラビア、クウェート、ヨルダン――から
資金的支援を受け、戦争を“聖戦”として演出した。
戦争初期、イラク軍は電撃的な攻勢を仕掛け、
国境地帯を占領、ハラブジャやアバダンへの進撃に成功する。
サダムはバグダードで勝利パレードを開き、
「数週間でテヘランを陥落させる」と豪語した。
だがその予想は、あまりに楽観的すぎた。
イラン側は国民総動員体制を敷き、
革命防衛隊を中心に抵抗を開始。
少年兵までもが信仰と復讐心で突撃し、
戦場は泥沼の塹壕戦へと変わっていく。
イラクの兵士たちは砂漠で飢え、
双方の死傷者は数十万を超えた。
サダムは劣勢を覆すため、化学兵器の使用を命じる。
1984年以降、イランの前線や自国クルド人地域に
マスタードガスや神経ガスが撒かれた。
この非人道的行為は国際的に非難されたが、
当時イラクは米国・フランスなどから黙認されていた。
冷戦構造の中で、
「ホメイニの革命を食い止める防波堤」として利用されていたのだ。
1986年、戦況は膠着。
イランが反撃に転じ、
イラク南部の都市バスラが何度も包囲される。
国内では戦争疲弊が深刻化し、物資不足が拡大。
それでもサダムは「一歩も退かない」と演説を繰り返し、
逃亡兵を公然と処刑して士気を保とうとした。
彼は宣伝戦にも長けていた。
前線から戻った兵士を国営放送に出演させ、
「指導者サダムの導きで勝利は近い」と言わせる。
同時に、戦死者の家族には金銭と住宅を与え、
悲しみを“忠誠の証”へと変えた。
国家全体が“サダムの戦争”を支える装置と化していた。
1988年3月、戦争は最悪の惨劇を迎える。
イラク北部の町ハラブジャで、クルド人住民へのガス攻撃が実施された。
推定5000人が死亡し、その多くが民間人だった。
これは明確な戦争犯罪であり、
世界は衝撃を受けたが、当時はまだ冷戦の影に隠され、
実質的な制裁はほとんどなかった。
同年7月、ようやく両国は停戦を受け入れる。
8年にわたる戦争は、勝者なき終わりを迎えた。
戦死者は100万人を超え、
経済損失は数千億ドル。
国境線は戦前とほぼ変わらず、
残ったのは廃墟と膨大な戦債だけだった。
だが、サダムは敗北を認めず、
「イラクは神の試練に勝った」と勝利を宣言。
バグダードで盛大な凱旋パレードを行い、
兵士たちを称え、自らを「中東の英雄」と演出した。
彼は戦争の悲惨さを宣伝の材料に変え、
「イラクは立ち上がる唯一のアラブ国家」と強調した。
しかしその裏で、国庫は空になり、
戦費の借金が国家を圧迫していた。
サウジやクウェートからの融資は膨れ上がり、
返済を求められると、サダムの怒りは爆発する。
「我々はアラブを守るために戦ったのに、
兄弟たちは金を取り立てるのか!」
その怒りが、やがて次の破滅的な決断へと繋がる。
1989年以降、サダムは“裏切り者”クウェートを敵視し始め、
経済交渉を武力で片付けようとする。
彼の頭の中には、再び戦争のプランが描かれていた。
今度の相手は、隣国イランではない。
それは、かつての「同胞」と呼んだ国――クウェート。
次章では、
その侵攻がいかにして国際社会を敵に回し、
サダム体制を決定的に崩壊へ導いたかを描く。
第八章 侵略と孤立ークウェート侵攻と湾岸戦争
1989年、サダム・フセインは戦後の国際情勢の中で再び焦り始めていた。
8年にわたるイラン・イラク戦争が終わっても、国家財政は崩壊寸前。
借金は800億ドルを超え、その大部分をサウジアラビアとクウェートが占めていた。
戦後の復興資金も尽き、失業率は上昇。
かつて「アラブの英雄」と呼ばれた彼の人気は、急速に陰り始めていた。
サダムは、この窮地を打開するために、
いつものように“外敵を作る”という手段を選んだ。
矛先を向けたのは、同じアラブ国家であるクウェートだった。
彼はクウェートに対し、
「イラクの石油価格を意図的に下げ、経済を破壊している」と非難。
さらに、国境付近の油田(ルメイラ油田)からの違法採掘を主張し、
「アラブの兄弟を裏切った国家」として攻撃対象に仕立て上げた。
だが実際の狙いは明白だった――
クウェートの石油資源と金融資産を奪うこと。
1990年7月、バグダードでの交渉が決裂すると、
サダムは密かに軍を動かす。
8月2日、イラク軍は電撃的にクウェートへ侵攻。
わずか1日で首都クウェート市を制圧し、王室は国外へ逃亡。
サダムはクウェートを「イラクの第19番目の州」と宣言し、
アラブ統一の名のもとに併合を強行した。
この暴挙は、世界中を震撼させた。
国連は即座に侵攻を非難し、
アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は
「この行為は許されない侵略だ」と演説。
国際社会は一致して制裁を発動し、
サダムは瞬く間に孤立していく。
しかし彼は怯まなかった。
国営放送で「我らは西洋の帝国主義に立ち向かう最後の砦だ」と語り、
自らを再び“アラブ世界の英雄”として演出する。
モスクの説教でも彼の名前が祈りとともに唱えられ、
国民は制裁下でも歓声を上げて彼の演説を聞いた。
だが、その熱狂は恐怖によって維持されたものだった。
1991年1月17日、
アメリカ主導の多国籍軍(オペレーション・デザート・ストーム)が
イラクへの空爆を開始。
世界初のテレビ中継戦争と呼ばれたこの作戦では、
最新鋭のミサイルが夜空を切り裂き、
バグダードが爆炎に包まれる映像がリアルタイムで世界中に流れた。
イラク軍は圧倒的な火力差の前に手も足も出ず、
防空網は数日で壊滅。
続いて地上戦が開始されると、
数十万のイラク兵が降伏または逃亡した。
一方、撤退時のイラク軍はクウェートの油田に火を放ち、
700本以上の油井が燃え上がる。
黒煙は空を覆い、
湾岸の海は油に染まり、
まるで地獄のような光景が広がった。
2月28日、アメリカは「クウェート解放」を宣言し、停戦を発表。
イラク軍は完全撤退を余儀なくされ、
サダムの戦略は大失敗に終わった。
彼の軍は壊滅し、
国の経済も制裁によって崩壊寸前。
にもかかわらず、サダムは敗北を認めず、
テレビ演説で「イラクは屈しなかった」と勝利を宣言した。
その姿は、現実を直視できない支配者そのものだった。
だが、国内では反乱が次々に起きる。
南部ではシーア派の反乱、北部ではクルド人蜂起が勃発。
一時は首都バグダードまで危機にさらされた。
しかし、アメリカはサダムの完全打倒を避け、
「地域の混乱を防ぐため」として軍を撤退。
その結果、彼は再び政権を維持することに成功する。
サダムは反乱の報復として、
数十万人に及ぶ住民を虐殺し、村々を焼き払った。
特にクルド人地域では化学兵器が再び使用され、
“勝者なき湾岸戦争”の後に、
イラク国内で第2の戦争が繰り返された。
戦争後、イラクは国連の厳しい経済制裁を受け、
石油輸出は制限、医薬品や食料も不足。
国民の生活は極限まで追い詰められるが、
政権は「すべてはアメリカのせいだ」と宣伝を続け、
サダム個人への批判を徹底的に封じ込めた。
彼の権力は維持されたが、
それは“燃え尽きた国家”の上に立つ脆い支配だった。
かつてアラブ統一を夢見た男は、
この頃には「孤立した王」に変わっていた。
次章では、制裁下のイラクで
サダムがどのように国内を支配し続け、
そして最終的に“世界の敵”として名指しされていく過程を追う。
第九章 崩壊への序章ー国連制裁と内部弾圧
湾岸戦争が終結した1991年、サダム・フセインは表向き「戦略的勝利」を宣言したが、
実際のイラクは瓦礫と貧困に覆われていた。
経済は完全に麻痺し、インフラは爆撃で壊滅、
石油輸出は国連制裁によって封じられた。
にもかかわらず、サダムは退かず、
再び国内の支配強化に全精力を注ぎ込んでいく。
戦争直後、イラク南部ではシーア派住民の反乱が起こり、
北部ではクルド人の独立運動が勃発した。
サダムはこの二つを国家の裏切りと見なし、
戦車と航空機を動員して徹底的に鎮圧した。
米軍が撤退した直後の権力空白を突き、
彼は反乱地域を焼き払い、
数十万人規模の民間人を虐殺したとされる。
これにより国内の反体制勢力は壊滅し、
国民の間に「抵抗は無意味」という諦めが広がる。
国連はこの暴力に強く反発し、
経済制裁をさらに強化。
イラクは石油を売ることも、
生活必需品を輸入することもできなくなった。
国民は食糧や医薬品を求めて列をなし、
街には飢えと病が蔓延した。
1990年代半ばには、50万人以上の子どもが栄養失調で死亡したとも言われる。
だが、サダム政権はこの悲劇を「西側の暴虐」として利用した。
彼はメディアを通じて、
「我々は制裁に屈しない英雄だ」「アメリカは子どもを殺す悪魔だ」と訴え、
国民の怒りを外に向けた。
一方で、制裁による物資の枯渇を利用し、
配給制度を完全に国家の統制下に置いた。
食料や燃料を得るには、
政府発行の“忠誠カード”が必要だった。
このカードを剥奪されることは、すなわち死を意味した。
こうして、制裁は逆にサダムの支配を強化する結果となった。
国民は反抗できず、国家は彼の掌の中で飢えながら生き延びる。
彼はこの状態を「経済的ジハード(聖戦)」と呼び、
自らを“耐え抜く預言者”として演出した。
一方で、国際社会の圧力は続いていた。
国連はイラクに対し、大量破壊兵器(WMD)の廃棄を命じ、
査察団(UNSCOM)が国内に派遣された。
しかしサダムはこれを国家主権への侵害とみなし、
査察官の立ち入りを妨害。
施設の隠蔽、記録の改ざん、武器搬出を繰り返した。
一時は査察団が退去し、
国連との対立は決定的となる。
同時に、サダムは秘密警察と情報機関を再編し、
政権維持のための恐怖装置を強化した。
「アムン・ハシビヤ」「ムハバラート」「共和国防衛隊」――
これらは彼の目と耳として全国を監視し、
わずかな反抗の兆しも潰していった。
捕らえられた者は拷問室に送られ、
“国家への罪”を自白させられた。
サダムは依然として華々しい演出を欠かさなかった。
記念行事では軍服に身を包み、
銃を掲げて群衆の前に立ち、
「イラクは立ち上がる」「西側は膝をつくだろう」と叫んだ。
その姿は、現実との乖離を象徴していた。
しかし、彼の孤立は確実に進んでいた。
アラブ諸国からも距離を置かれ、
かつて支援していたサウジアラビアやクウェートは完全に敵対。
イラクは中東の“ならず者国家”として孤立を深めていく。
1996年、国連は人道危機への対応として
「石油・食糧交換プログラム」を開始。
イラクは一定量の石油を輸出でき、その代金で食料を購入することが許可された。
だがこの制度もサダムの腐敗政治に利用され、
資金の多くが彼の家族や側近の懐に流れた。
ウダイ・フセインは密輸ビジネスを仕切り、
豪華な宮殿と車を次々と手に入れ、
国民の怒りを買った。
だが、その怒りの矛先は決して父には向けられなかった。
批判する者は、すぐに消されたからだ。
1998年、アメリカとイギリスは
「大量破壊兵器の隠蔽」を理由に空爆を実施。
作戦名はデザート・フォックス。
これによってイラクの軍事施設は再び破壊され、
サダムの怒りは頂点に達する。
彼は演説でこう叫んだ。
「彼らが爆弾を落とすなら、我々は意志を落とす!」
その“意志”とは、彼に従う以外に選択肢のない国民だった。
こうして1990年代を通じて、
イラクは世界から切り離された“閉じた帝国”と化す。
国民は飢え、街は壊れ、しかし彼だけは金箔の宮殿で暮らし続けた。
サダムは孤立しながらも、自らを信じていた。
「世界はまた私を必要とする日が来る」と。
だがその予言は、まったく別の形で的中する。
2001年、アメリカで起きた同時多発テロ事件(9・11)が、
彼の運命を再び動かす引き金となる。
次章では、世界の秩序が一変したあの年から、
サダム・フセインがどのようにして「最後の独裁者」として終焉を迎えたかを描く。
第十章 最期ーイラク戦争と処刑までの軌跡
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ。
ニューヨークのビルが崩れ落ち、世界が凍りつくその日、
サダム・フセインはバグダードの大統領官邸でテレビを見つめていた。
そして、皮肉げに笑ったと言われる。
「アメリカも苦しみを知ったようだな」
だが、その笑いはやがて彼自身を地獄へ導くことになる。
テロの首謀者オサマ・ビン・ラディンはアル=カーイダのリーダーであり、
サダムとは思想的にも宗教的にも敵対していた。
それでも、当時のアメリカ政権――ジョージ・W・ブッシュ大統領は、
「イラクは大量破壊兵器を隠し、テロ組織を支援している」と非難を開始。
その真偽が曖昧なまま、
世界は再びイラクに焦点を向けた。
2002年、国連は再び大量破壊兵器査察を実施。
サダムは部分的な協力を見せつつも、
依然として傲慢な態度を崩さなかった。
「我々は主権国家だ。命令は受けない」
その強硬姿勢が、ブッシュ政権の「武力介入」を決定づける。
2003年3月20日、夜明け前のバグダードにミサイルの閃光が走る。
イラク戦争の始まりだった。
アメリカ軍と連合国部隊が「自由作戦(Operation Iraqi Freedom)」の名のもとに侵攻。
サダムはラジオで国民に向けて演説し、
「イラクは侵略者に屈しない!」と叫ぶが、
軍の士気はもはや限界に近かった。
連合軍はわずか3週間で首都に到達。
4月9日、バグダード中心部の広場で、
群衆によってサダム像が引き倒される。
その映像は世界中に中継され、
20年以上に及ぶ独裁の象徴が、砂埃とともに崩れ落ちた。
だがその時、サダム本人の行方は誰にもわからなかった。
彼は側近とともに逃亡を続け、
イラク中部のティクリート周辺に潜伏。
一時は各地で“サダム生存説”が広がり、
支持者たちは「彼はまだ国を導く」と信じた。
しかし、2003年12月13日、
アメリカ軍がついに彼の隠れ家を突き止める。
発見場所は、ティクリート近郊アド・ドーラ村の農場地下。
深さ2メートルほどの穴の中で、
髭を伸ばし、埃まみれの姿で発見された。
銃は持っていたが抵抗せず、
ライトを向けられた瞬間、ただ静かに言った。
「私はサダム・フセイン。イラク共和国大統領だ。」
捕らえられた彼の映像は全世界に放送され、
かつて“神のごとき存在”と崇められた男が、
疲れ果てた老人のように見えた。
以後、彼はアメリカ軍の拘束下で裁判にかけられる。
イラク特別法廷が設置され、
「人道に対する罪」「大量虐殺」「戦争犯罪」など
数多くの罪状が読み上げられた。
その中でも最も象徴的だったのが、
1982年のドジャイル事件――
反体制派の暗殺未遂に対し、
報復として住民148人を処刑した件だった。
裁判中のサダムは、終始一貫して挑発的だった。
法廷で裁判官に向かって「アメリカの犬め!」と叫び、
傍聴席に向かって「私はいまだ大統領だ」と訴えた。
だが、証言と証拠は圧倒的で、
2006年11月、彼は死刑判決を受ける。
判決が読み上げられた瞬間、
彼は静かに笑い、こう言ったという。
「法廷は勝者のものだ。だが歴史は私のものだ。」
2006年12月30日未明、
サダム・フセインは絞首刑に処された。
刑場では黒い頭巾を拒み、
「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫びながら死を迎えた。
遺体は故郷ティクリートに埋葬され、
数百人の支持者がその名を叫んだ。
彼の死によって、
イラクは一つの独裁時代を終えた。
だが、同時に新たな混乱が始まった。
権力の空白がテロと宗派対立を生み、
国は再び戦火に包まれていく。
皮肉にも、彼が支配していた時代の“秩序”を
懐かしむ声すら上がった。
サダム・フセイン――
貧困から這い上がり、国家を握り、
恐怖と神話を武器に世界を挑発した男。
彼の人生は、力に取り憑かれた者の末路を象徴していた。
最期の瞬間まで、彼は一度も「後悔」という言葉を口にしなかった。
その沈黙こそが、彼の支配の証であり、
そして破滅の証でもあった。