第一章 幼少期ー乱世に生まれた王の子

紀元前259年、戦国時代の末期。
中国全土が群雄割拠の渦に飲まれる中、秦の都・咸陽で一人の子が誕生した。
その名は嬴政(えいせい)
後に「始皇帝」と呼ばれる男である。

彼の父は秦の王子・異人(後の荘襄王)、母は趙国の名家出身の趙姫
しかし彼の誕生は、祝福されるどころか波乱に満ちていた。
当時、父の異人は秦国内の政争から逃れ、敵国・趙に人質として送られていた。
つまり嬴政は、敵国で生まれた秦の王族の子だった。
この皮肉な出生こそが、彼の生涯に影を落とす運命の始まりだった。

幼い嬴政は、趙国の都・邯鄲で暮らすことになる。
だがその生活は安全とは程遠かった。
秦と趙の戦が激化するにつれ、
「敵国の王子の子」として命を狙われることもあった。
母・趙姫は我が子を守るため、必死に隠れ住み、
家臣たちも常に逃亡の準備をしていたという。
嬴政の幼少期は、剣と炎の中で過ごすような緊張の連続だった。

そんな中で、運命を変える男が現れる。
それが後に名宰相として知られる呂不韋(りょふい)である。
呂不韋は当時、商人として莫大な富と人脈を持っており、
異人(父)を秦の王に押し上げる策を描いていた。
彼は「この人質王子を使えば、天下を動かせる」と確信した。
呂不韋は莫大な財を使い、秦国内に根回しを行い、
ついに異人を王位に就かせることに成功する。

紀元前250年、秦王孝文王が即位してまもなく死去し、
異人が荘襄王として王位を継いだ。
そしてその数年後、父が死去すると、
わずか13歳の嬴政が秦王として即位する。
敵国の地で追われるように生まれた少年が、
ついに中華統一への道を歩み出す瞬間だった。

しかし、少年王の座は安定とは程遠かった。
実権を握っていたのは呂不韋と太后となった趙姫。
彼らの周囲には野心を抱く者たちが群がり、
宮廷は陰謀と欲望の渦に包まれていく。
嬴政は幼くして、権力とは信じられる者がいない孤独の世界であることを学んだ。

呂不韋は王を操ることで実質的に秦を支配した。
趙姫もまた、自らの地位と快楽を追い、
愛人を宮中に招き入れたと記録されている。
若き王・嬴政は表面上は従順に見えたが、
心の奥では静かに観察し、力を奪い返す機会を狙っていた。

この時期、彼を支えたのが家臣の李斯(りし)である。
法家思想の学者であり、
「秩序と力で天下を治めるべき」と説いた男だった。
李斯は少年王に向かってこう言ったという。
「人は情ではなく法によって統べねばならぬ。王は、仁ではなく断であれ」
その言葉が嬴政の心に深く刻まれた。

嬴政はこの頃からすでに、
「天下を一つにする」という思想を持ち始めていた。
ただの王ではなく、
分裂した世界を統べる唯一の支配者
敵国で育ち、裏切りと陰謀を知り尽くした彼だからこそ、
強さだけが正義であると信じるようになった。

彼の幼少期は、血と策謀の中で育った修行のような時間だった。
親を愛するよりも、疑うことを覚え、
仲間を頼るよりも、自らを鍛えることを選んだ。
その冷徹な少年が、やがて「始皇帝」として
中華のすべてを掌に収めるとは、
誰も予想していなかった。

嬴政はすでに幼少期の終わりにして、
「王であるとは、孤独であること」と悟っていた。
その孤独が彼を、
後に世界を変えるほどの冷静で恐るべき支配者へと育てていく。

 

第二章 少年期ー秦国の跡継ぎとしての試練

わずか十三歳で王位についた嬴政は、名目上は秦の支配者でありながら、
実際の政治を動かす力はまだ持っていなかった。
実権を握っていたのは相国・呂不韋と、母である太后・趙姫
若き王は玉座に座りながらも、周囲の大人たちが国家を操る姿をただ見つめるしかなかった。

呂不韋は秦の富と権力を手中に収め、
商人から政治家へと変貌を遂げた男だった。
彼は自らの知恵と財力で荘襄王を王位に押し上げたが、
その見返りとして政権を支配することを当然と考えていた。
呂不韋は王を「表向きの象徴」にし、自分を実質的な支配者に据えた。
一方で太后・趙姫は、贅沢と愛欲に溺れていった。
彼女はかつて呂不韋の愛人であり、後に彼の家臣だった嫪毐(ろうあい)を側近に引き入れ、
王の目を盗んで宮中に己の「小王国」を築き始める。

嬴政はその異様な権力構造の中で、
孤独と怒りを燃料に自らを鍛えていった。
彼は周囲に操られながらも、
幼い心の奥では「すべてを取り戻す」と誓っていた。
人を信用しないこと、表情を崩さないこと、感情を支配すること。
この時期に身につけた冷徹な性格こそが、後の始皇帝の根幹となる。

やがて、呂不韋の支配にも綻びが見え始める。
政敵や貴族たちの不満が高まり、
呂不韋自身の過去の出自や趙姫との関係も宮廷の噂として広まった。
一方で、嬴政は着実に学問と政治を学び、
各地の情勢にも鋭い興味を示すようになっていた。
彼はただの傀儡王ではなく、
内に静かに「国家を自らの手で動かす王」としての意志を育てていった。

紀元前238年、嬴政22歳。
この年、ついに長く続いた呂不韋の支配に終止符が打たれる。
嬴政は政変を起こし、呂不韋を失脚させた。
もはや少年ではなく、一国の王として初めて自らの権力を行使した瞬間だった。
呂不韋は失脚後、毒を仰いで自害。
かつて王を操った大商人は、静かに歴史の舞台から消えた。

続いて嬴政は、母・趙姫の愛人・嫪毐を排除する。
嫪毐は自らの勢力を持ち、反乱を企てたが、
嬴政の迅速な判断により鎮圧された。
反乱の首謀者たちは皆、処刑。
太后も政治から完全に退けられた。
若き王はこの一連の事件で、
自らの手で腐敗を切り落とす覚悟を証明した。

この時、嬴政の側近として頭角を現したのが李斯(りし)である。
法家思想の代表的な人物であり、
彼の主張は「情ではなく法によって人を治める」ことにあった。
李斯は嬴政にこう進言した。
「仁義は国を弱くし、法こそが国を守る」
この言葉が、後の秦の政治哲学――法治主義の礎となる。

また、嬴政の側近の中には、
後に六国統一戦を担う将軍たち、
王翦(おうせん)蒙恬(もうてん)李信(りしん)らの若き姿があった。
嬴政は彼らを見抜く慧眼を持っており、
ただ武に優れた者ではなく、忠誠と実行力を重視する人材登用を行っていた。
その結果、秦の軍はこれまでにない強さと統率を得ていく。

政治の腐敗を一掃し、法と秩序を再構築した嬴政は、
次なる目標を明確に定める。
「天下を統一し、分裂を終わらせる」
それは少年期の孤独と憎しみから生まれた野望であり、
同時に彼が自らの存在意義を賭けた使命でもあった。

幼くして権力の裏切りを知り、
青春のすべてを奪還のために費やした王。
彼の中には、すでに“中華を一つにする”という炎が宿っていた。
少年の苦難は終わり、ここから「秦王・嬴政」としての真の戦いが始まる。
そして、戦国の覇者たちを飲み込む嵐が、いま静かに動き出そうとしていた。

 

第三章 青年期ー権力掌握と内政の始動

紀元前238年、嬴政は22歳にしてついに自らの手で秦の実権を掌握した
それまでの少年王は、もはや傀儡ではなかった。
呂不韋を追放し、母・太后の私的勢力を粛清し、
王としての権威を完全に自らのものとした。
この年を境に、秦国は静かに、しかし確実に姿を変えていく。

嬴政が最初に手をつけたのは、内政の再構築だった。
長年の権力闘争で腐敗した官僚制度を立て直し、
法家思想を基盤に国家を運営する仕組みを整えた。
その中心にいたのが、宰相・李斯
彼は「国家を法で動かし、感情で揺らすな」と説き、
秦の政治を冷徹な秩序のもとに置いた。
この時期の秦では、恩情よりも規律、情よりも論理が優先された。

嬴政は民を統治するために、明確な基準を設けた。
功績による昇進制度(軍功爵制)を徹底し、
身分や血統に関係なく功を立てた者を登用した。
農民であっても戦で手柄を上げれば土地と爵位を得られる。
この制度によって秦の兵士たちは命を賭けて戦い、
一方で腐敗した貴族たちは自然と排除された。
王が直接「力ある者」を評価する仕組みは、
のちの秦の驚異的な軍事力の源となる。

さらに嬴政は、国内の交通・通信を整備し、
戦時だけでなく平時にも使える物流と軍道の整備を進めた。
秦の領土は山と谷が多く、各地の統治には時間がかかっていたが、
道と法を統一することで、王命が一気に全土へ届くようになった。
「王の声が届かぬ地は、もはやこの国にはない」
それが嬴政の誇りであり、支配の象徴でもあった。

内政改革と同時に、嬴政は外交にも目を向けた。
この時代、中国にはまだ六つの強国(韓・趙・魏・楚・燕・斉)が存在していた。
どの国も秦の台頭を恐れ、互いに同盟を結び秦の侵攻を防ごうとしていた。
だが嬴政はその包囲網を、巧みな外交と情報戦で少しずつ崩していく。
敵国の間に間者を送り込み、偽情報を流し、
「互いに疑わせる」という策略を用いた。
彼のやり方は、剣ではなく言葉の戦だった。

そして、嬴政は国家の基盤を固める中で、
一人の忠臣に目をかけていく。
それが将軍・王翦(おうせん)である。
王翦は戦場では寡黙でありながらも、
一度策を立てれば必ず勝利を収める名将だった。
「勝ちを急がず、確実に取る」
その性格が、嬴政の現実主義と見事に噛み合った。

また、王翦の息子・王賁(おうほん)や、
若き将軍・李信(りしん)らも頭角を現していく。
彼らは後に六国を滅ぼす秦軍の主力となるが、
この青年期にすでに嬴政が人材を見抜いていたことは、
彼の先見の明を示している。

この頃、嬴政の最大の課題は、
「どう六国を滅ぼすか」よりも、
「どう国内を一枚岩に保つか」だった。
秦は強大な軍を誇ったが、
同時に国土は広く、民の不満も根強かった。
重税と兵役に耐える民の疲弊を見て、
嬴政は次のような方針を立てる。
「民の心を束ねるのは、恐れと信頼の両方である」
つまり、恐怖による秩序と功による希望を並立させるという政治哲学だった。

青年王としての嬴政は、すでに常人の域を超えていた。
温情を装うことはあっても、決して情に流されなかった。
誰もが彼を恐れ、同時に惚れた。
彼の命令は絶対であり、失敗は許されなかった。
だがその冷徹さがあったからこそ、秦は初めて「統一を現実的に語れる国」へと進化した。

この時期の嬴政の言葉が記録に残っている。
「天下を統べるとは、六国を倒すことにあらず。
 人の心を一つにすることこそ、真の統一である」

青年王は、戦いの準備を整えながらも、
すでに戦の先――統一後の未来を見据えていた。
剣だけで国をまとめるのではなく、
思想・制度・文化までも統一する世界を描いていた。

嬴政はこの頃から、“天下の設計者”としての顔を見せ始める。
彼の視線の先にあるのは、まだ見ぬ「中華」という巨大な国。
その野望はもはや誰にも止められず、
次の章ではついに――
秦が六国を飲み込む、血と鉄の時代が幕を開ける。

 

第四章 戦国統一ー六国を滅ぼした鉄の戦略

紀元前230年、ついに嬴政の野望が現実となり始めた。
この年、秦軍はまず最も小国であったに侵攻。
将軍・内史騰が電撃的に首都・新鄭を陥落させ、韓は滅亡した。
ここを皮切りに、戦国時代最後の大戦「六国統一戦」が始まる。
嬴政はただ戦うのではなく、徹底した情報と戦略をもって
“順番と方法を計算した征服”を進めていった。

まず彼が掲げた基本方針は、
「強国を後に、弱国から崩す」こと。
これにより、周辺国を孤立させ、連合を組ませない戦略をとった。
敵は外だけではない。
国内では、戦続きによる疲弊と反乱の火種が常に潜んでいた。
嬴政は内政と戦争を両立させるため、
徹底した兵糧管理と補給路の整備を命じる。
これによって、秦軍は常に迅速に動く“無駄のない機械のような軍”となった。

韓を滅ぼした後、次の標的はだった。
趙はかつて嬴政が生まれた地。
少年時代に命を狙われ、屈辱を味わった因縁の国である。
紀元前228年、将軍王翦楊端和が趙を包囲。
激戦の末、趙都・邯鄲を陥落させた。
この時、趙王遷を捕らえ、趙は滅亡。
嬴政は、かつて自身を迫害した国の王都に入り、
静かに城壁を見上げたと伝えられている。
それは、復讐と統一の象徴の瞬間だった。

続いて紀元前225年、秦は中原の要・を攻撃。
この地は黄河を中心に交通と軍事の要衝であり、
魏を落とせば中華の心臓部を握ることができた。
将軍・王賁が河をせき止めて洪水を起こし、魏都・大梁を水攻め。
魏王は降伏し、国は滅びた。
嬴政は戦よりも効率を選び、
無用な犠牲を減らすために戦略を徹底的に練っていた。

次に攻めたのは
広大で富裕な国であり、秦最大の敵だった。
楚には兵力も資源も多く、
嬴政は当初、若き将軍・李信に討伐を命じた。
だが李信は楚の老将・項燕に敗れ、多くの兵を失う。
敗報を聞いた嬴政は激怒し、すぐさま王翦を呼び戻す。
王翦は慎重に戦を進め、20万人を動員して楚を包囲。
長期戦の末、紀元前223年、楚は滅亡した。
この勝利により、秦は中原南部を完全に掌握する。

続く標的は北方の
燕王喜は刺客・荊軻を送り、嬴政を暗殺しようとする。
この事件は中国史上最も有名な暗殺未遂として知られる。
荊軻は燕の都・薊から地図と敵将の首を献上するふりをして近づき、
嬴政の目の前で刃を抜いた。
だが失敗。
嬴政は自らの剣で荊軻を斬り捨て、怒りのままに叫んだ。
「天下を乱す者、皆これを誅す!」
この出来事は、彼の冷徹な決意を再確認させるものとなった。
その後、燕も紀元前222年に滅亡。

最後に残ったのは東方の
しかし、斉は他国が滅びゆく中も静観しており、
自国を守るため秦と通じていた。
嬴政は戦を仕掛けることなく、間者を使って斉の宰相を懐柔。
国内の反乱分子を煽り、内部から崩壊させた。
紀元前221年、斉王建が降伏。
この瞬間、戦国七雄すべてが秦の旗の下に屈した。

中国史上初めて、広大な中華全土が一つの王のもとに統一された。
嬴政の戦略は、単なる征服ではなかった。
各国の貴族を粛清し、制度・文字・道・貨幣を整え、
本当の意味で「一つの国家」を築こうとしていた。
そのために彼は、戦場で血を流しただけでなく、
文化と秩序の統一という第二の戦を始める。

紀元前221年、嬴政は自らの称号を定めた。
「朕(ちん)は始めて天下を統べる。ゆえに始皇帝と名乗る。」
この宣言によって、彼は単なる王を超え、
史上初の“皇帝”という存在となった。

戦乱の世を終わらせ、
鉄と知略で天下を平定した青年王。
その姿はもはや人ではなく、時代そのものを支配する存在となっていた。
そして次の段階――「統治者・始皇帝」としての物語が始まる。

 

第五章 天下統一ー中国初の皇帝の誕生

紀元前221年、六国をすべて滅ぼし、戦国の乱世を終わらせた男――嬴政は、
ついに「天下統一」を果たした。
この瞬間、中国史は新しい時代へと突入する。
彼は自らを「秦王」ではなく、“始皇帝(しこうてい)”と名乗った。
それは、単なる支配者ではなく、「万世に続く帝王の始まり」を意味していた。

彼の中にあったのは、もはや個人的な野望ではなかった。
分裂し続けた中華を一つの秩序の下に置き、
戦のない永遠の国家を築くという信念。
その理念のもとで、始皇帝は前代未聞の統一政策を次々と打ち出していく。

まず彼が手をつけたのは、政治の中央集権化だった。
それまで各国にあった貴族の領地支配を廃止し、
全国を三十六郡に分けて「郡県制」を導入。
地方の長官には、皇帝が直接任命する官僚を置き、
中央の命令が即座に地方へ届く仕組みを作り上げた。
これにより、秦は「王の下に一つの国家」として初めて統一された。

また、思想の統一にも着手する。
この時代、儒家・道家・墨家・法家など、様々な学派が存在していた。
始皇帝は、国家の秩序を乱す可能性のある思想を嫌い、
法家思想を中心とした「実務の学」を重んじた。
そして、李斯の進言により焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を実施する。
これは、史書や詩経・論語などの書を焼き、
反体制の学者を処刑するという苛烈な政策だった。
知の抑圧として後世に批判されるが、
始皇帝にとっては「思想の統一こそ国家の安定」であり、
彼の目的は秩序を守るための統制だった。

さらに彼は、貨幣・度量衡・文字の統一にも取り組む。
各国でバラバラだった通貨を「半両銭」に統一し、
重さ・長さ・体積の単位も国家基準で統一。
また、文字は「小篆(しょうてん)」に定められ、
官文書・記録はすべて統一表記で書かれるようになった。
これにより、中国全土で行政と経済が一本化し、
「言葉が通じ、計算が通じ、税が通じる国」が誕生した。

交通の統一も重要な柱だった。
始皇帝は全国に直道(ちょくどう)と呼ばれる広大な幹線道路を築き、
都・咸陽から各地へ放射状に道を延ばした。
また、運河や橋を整備し、物資と軍の移動を効率化。
この交通網は、後の中国の行政構造や物流の基礎となる。
「道を通わせることは、心を通わせること」
――それが始皇帝の統治哲学だった。

法制度においても、彼は徹底していた。
どんな身分の者であっても、法を破れば罰せられる。
逆に、功を立てた者には報奨を与える。
身分や血筋ではなく、行いと結果によって評価される社会
それが彼の理想とする国家だった。
しかしその厳しさはしばしば苛政と呼ばれ、
民衆の不満を生む一因ともなった。
だが始皇帝はそれを恐れなかった。
「人は恐れによって秩序を学ぶ」と信じていたからだ。

彼はまた、象徴としての巨大な事業を次々に命じる。
都・咸陽の拡張、阿房宮の建設、
そして後に自らの陵墓となる始皇陵の築造もこの頃始まった。
これらの事業は、彼の権威を示すだけでなく、
膨大な労働力を国家の中に取り込むことで民の不満を分散させる狙いもあった。

一方で、始皇帝の治世には外敵の影も忍び寄っていた。
北方では匈奴(きょうど)が勢力を増し、
中原に脅威を与え始める。
その対策として彼が着手したのが、
各国時代に築かれていた防壁を結び直した「万里の長城」である。
この巨大な防衛線は、単なる軍事施設ではなく、
「国の境界」を明確にする政治的象徴でもあった。

天下が一つにまとまり、
誰もがその支配に逆らえなくなったとき、
嬴政は真の「皇帝」となった。
だが、彼の心にはすでに次の欲望が芽生えていた。
それは、「この秩序を永遠に保ちたい」という願い――
やがて彼は、人の世を超えた不老不死の夢へと手を伸ばしていく。

鉄と秩序で世界をまとめた始皇帝。
その姿は確かに“統一の象徴”だったが、
同時に“永遠を恐れる人間”でもあった。
そしてここから、彼の支配は次第に神の領域へと踏み込んでいく。

 

第六章 統治改革ー法と秩序による新しい国づくり

天下統一を果たした始皇帝・嬴政は、
もはや王ではなく、「天下そのもの」となった。
だが彼が目指したのは、単なる支配ではなかった。
血で得た領土を、永遠に崩れない秩序で固めること。
それが、彼が抱いた最大の野望だった。

紀元前221年以降、始皇帝は徹底した行政改革に着手する。
まず行われたのが、国家運営の根幹を変える郡県制の拡充だった。
旧六国の貴族たちは土地を失い、中央が直接派遣した郡守・県令によって統治が行われる。
これにより、地方の権力者による反乱の芽を摘み、
全国の政治が一元化された。
「王朝の中心は咸陽にあり、咸陽の中心は朕にあり」――
この言葉が、始皇帝の統治理念を象徴している。

次に行われたのは、法治の徹底だった。
功臣であろうと、皇族であろうと、法を破れば罰せられる。
この厳格な法律体系は、李斯を中心に整備されたもので、
一切の情や例外を排除し、明文化された規律によって国家を動かす仕組みだった。
「法は人に勝り、法は情を超える」
この思想が、後の中国政治の根幹となっていく。

同時に、行政と軍事の分離も進められた。
地方の郡守は民政を司り、
軍事は中央の将軍に一元化される。
この制度によって、地方の反乱はほぼ不可能となった。
始皇帝はこれを「二重の鎖」と呼び、
国家を一枚の鉄で包み込むように統制した。

さらに、彼は交通・通信の改革にも力を注ぐ。
広大な領土を結ぶため、
都・咸陽を中心に放射状に広がる道路「直道」を建設。
この道は幅が広く、戦車が並走できるほどで、
軍の移動と行政の伝達を同時に支えるインフラだった。
また、統一された里程(距離単位)と度量衡により、
物資の輸送や税の徴収も効率化された。
これにより、“国家がひとつの身体のように動く”仕組みが完成する。

文字の統一も忘れてはならない。
戦国時代には国ごとに文字体系が異なり、
通達や契約で混乱が生じていた。
始皇帝は「小篆(しょうてん)」を標準文字と定め、
文書・刻印・記録の全てを統一。
これにより、法・記録・文化が一つの基準で共有されるようになった。
統一された言葉は、彼の国づくりを支える見えない武器となった。

貨幣制度も整備され、
各国で使われていた異なる貨幣は廃止され、
「半両銭」が全国共通通貨として流通。
市場の混乱が減り、経済活動が一気に活性化した。
始皇帝は経済を政治の道具としてではなく、
国家の安定を支える血液として扱っていた。

しかし、秩序の確立には代償もあった。
民の自由は奪われ、反抗者は容赦なく罰せられた。
さらに、思想の統一を図るために行われたのが、
悪名高い焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)である。
儒家や学者が保有していた古典や詩経、歴史書を焼き、
法家思想以外を否定する政策だった。
これにより、秦の文化は一時的に画一化され、
学問の多様性は失われた。
だが、始皇帝にとってはそれすらも必要な犠牲だった。
「知は乱を生む。秩序を守るのは法と沈黙だ」――
この言葉は、彼の恐ろしくも一貫した信念を示している。

彼はまた、民の監視にも力を入れた。
地方には密告制度を設け、
家族であっても不正を見逃せば連帯責任となる。
これにより、反乱の芽はほぼ潰されたが、
国全体が「恐れによる安定」の上に成り立つ社会となっていった。
始皇帝はそれを冷徹に受け入れていた。
「恐れは忠誠より確実な鎖だ」と彼は言ったという。

こうした改革によって、
秦は誰も手出しできないほどの強固な国家となった。
中央の命令は瞬時に地方へ届き、
法は全ての人に平等に適用された。
だが、始皇帝の視線はそこに留まらなかった。
彼の心には、まだ人の限界を越える夢があった。
それが、彼を狂気と伝説の境界へ導いていく――
「死をも支配する帝国」、
すなわち不老不死への探求である。

始皇帝の改革は、確かに秩序をもたらした。
だが同時に、それは人間らしさを削る政治でもあった。
民は静まり、世界は整った。
しかしその静けさの中で、ひとりの帝は次の野望へ歩みを進めていく。

 

第七章 不老不死ー永遠を求めた帝の執念

国を一つにまとめ、法と秩序を極めた始皇帝・嬴政の心に、
やがて新たな渇きが生まれた。
それは「この国が永遠に続くためには、自らが永遠に生きねばならない」という信念だった。
人が死ねば秩序も崩れる。
ならば死を克服すれば、真の統一が完成する――
その発想は狂気でありながら、彼にとっては当然の理だった。

始皇帝が不老不死を強く意識し始めたのは、
紀元前219年ごろとされる。
統一から数年、彼はすでに人間の寿命を超えた存在として崇められていたが、
老いと死への恐怖は、権力を握る者ほど強くなる。
彼は宮廷の方士(ほうし)と呼ばれる仙術師たちに命じ、
「不死の薬」を探させた。
中でも有名なのが、徐福(じょふく)という男である。

徐福は「東の海の果てに、仙人が住む蓬莱山があり、
そこに不老の霊薬がある」と進言した。
始皇帝はその言葉を信じ、数千人の童男女(若い男女)と職人、船団を組ませ、
東海へと派遣した。
これが後世に伝わる「徐福の東渡」であり、
伝説ではその船団は日本列島に到達したとも言われている。
しかし、薬は戻らなかった。
それでも始皇帝は諦めず、
次々と別の方士を各地へ送り出した。
彼の頭の中では、すでに死は「克服すべき敵」だった。

その一方で、彼の行動は現実的な恐れからも来ていた。
天下を統一して以降、暗殺未遂や反乱の噂が絶えなかった。
彼は常に身の危険を感じ、夜ごとに寝所を変え、
移動の際も行き先を誰にも明かさなかった。
「命を狙われるより、永遠に生きてみせる」――
不老不死への執念は、もはや国家的狂気に変わっていく。

紀元前219年から始まる彼の東巡(とうじゅん)は、
不老不死の探求と同時に、自らの支配を全国に示す巡行でもあった。
彼は咸陽を出発し、東海沿岸を巡りながら、
祭壇を築き、天と地の神々に祈りを捧げた。
「朕は天の子であり、天と並び立つ存在である」
彼はもはや自らを神に近い存在と見なし始めていた。

各地の伝承によると、
始皇帝は東巡の途中、海辺で巨大な石碑を建て、
そこに自らの偉業を刻ませたという。
「天下は一つ、法は一つ、朕の命は永遠なり」
その言葉には、すでに神の声に近い響きがあった。
彼の政治は現実的でありながら、
その心は神話の領域に足を踏み入れていた。

だが、方士たちの報告はいつも空虚だった。
どの国を探しても霊薬は見つからず、
時間だけが過ぎていく。
その中で、彼の信頼していた方士たちが、
「仙薬の研究のため」と称して私腹を肥やしていることが発覚する。
裏切りに激怒した始皇帝は、多くの方士を処刑し、
さらには地方の反乱の兆しにも過敏に反応した。
彼の支配は次第に恐怖による独裁へと変化していく。

しかし、不老不死の夢はやめなかった。
彼は自らの陵墓建設を進めながら、
「死してなお朕の国を護る軍勢を作れ」と命じた。
それが後に発掘される兵馬俑(へいばよう)の起源である。
生きた兵士を模した粘土の軍団は、
死後の世界でも皇帝を守る存在として造られた。
もはや始皇帝の“永遠”は、
肉体の寿命を越えた「死後の支配」へと変わっていた。

老いと病が忍び寄るにつれ、彼の執念はますます強くなる。
地方から不思議な鉱石や珍薬が献上されると、
すべてを口にした。
その中には水銀を主成分とする“仙薬”も含まれていた。
当時、水銀は神聖な金属とされ、
「体を清め、不老にする」と信じられていた。
だが実際には毒であり、
彼の身体を静かに蝕んでいった。

晩年の始皇帝は、
不老不死を求めながら、
皮肉にもその探求が彼の命を削っていった。
もはや国を動かす目的も「永遠を手に入れる」ことだけになり、
宮廷では誰も彼に逆らえなかった。
それでも彼は確信していた。
「朕が生き続ければ、世界は永遠に秩序を保つ」

この時、彼の瞳にはもう人間的な迷いはなかった。
それは狂気ではなく、神に近づいた者の孤独な確信だった。
だが皮肉にも、永遠を求めたその執念こそが、
彼を死へと導く最初の一歩となっていく。

 

第八章 巨大建築ー万里の長城と始皇陵の築造

天下統一を果たした始皇帝・嬴政は、
政治と法を整え、秩序を確立したのち、
さらに「永遠を形にする国家」を築こうとした。
その象徴こそ、彼が生涯をかけて進めた二つの巨大事業――
万里の長城と始皇陵である。

まず、彼が着手したのは北方防衛線の統一だった。
戦国時代、各国は匈奴(きょうど)など北方の遊牧民の侵入を防ぐため、
それぞれ独自に城壁を築いていた。
だがそれらは国ごとに途切れ、守りもばらばら。
始皇帝はこれを「一つの壁」として繋ぎ直し、
壮大な防衛線――万里の長城を造り上げるよう命じた。

工事には百万人を超える兵士・労働者・罪人が動員されたと伝わる。
険しい山々や砂漠を越え、土と石で築かれたその壁は、
遠く東の遼東から西の臨洮まで続いた。
まるで天を貫くようなその姿は、
「中華の限界」を物理的に描く建築でもあった。
始皇帝はそれを単なる防衛施設ではなく、
「国家の形」「皇帝の力」を象徴する存在として見ていた。

現場では過酷な労働が続き、
飢えや寒さで命を落とす者も多かった。
だが、始皇帝はそれを「国の礎」として受け入れた。
彼にとって人の命より重かったのは、
“永続する秩序”という理想だった。
長城の完成によって秦の北方は安定し、
匈奴の侵入は一時的に防がれた。
しかしそれ以上に重要だったのは、
この壁が「国の境界」を明確にしたことだった。
内と外を分け、天下の中心を「秦」に定義した瞬間――
中国という概念の始まりがそこに生まれた。

一方で、もうひとつの巨大事業が同時に進められていた。
それが、始皇帝自身の墓――始皇陵である。
建設は彼が即位した直後、まだ若き王の頃から始まり、
三十年以上にわたり数十万人が動員された。
場所は咸陽の東、現在の陝西省臨潼。
地中深くに掘られたその陵墓は、
伝説では地下にもう一つの国が再現されていたと言われる。

史書『史記』には、
「水銀をもって川とし、天井には星宿を描き、
宮殿のように広大な地下都市を築いた」とある。
地上にある都の縮図を、地下に丸ごと写したような構造。
そこでは水銀の川が流れ、
天井には夜空が再現され、
中央には玉座に座る皇帝像が置かれていたという。
死後の世界でも“統治者”として君臨するための、
永遠の宮殿だった。

そしてその陵墓を守るために造られたのが、
後に世界を驚かせることになる兵馬俑(へいばよう)である。
数千体に及ぶ兵士の像は、一体一体が異なる顔を持ち、
甲冑、髪型、表情に至るまで緻密に造られている。
それぞれが実在した兵士を模したとも言われ、
始皇帝の死後も彼を守る軍団として配置された。
まるで生きているように整然と並ぶその姿は、
彼が死後の世界にまで秩序と軍律を求めた証だった。

この建設事業は、帝国の繁栄を支えながらも、
同時に民を苦しめた。
重税と労役により農民の生活は厳しく、
各地で小規模な反乱が起こり始める。
だが始皇帝はそれを弾圧し、
「朕が作る国は千年の国である」と宣言して譲らなかった。
その信念の裏には、
死を恐れながらも死を制御しようとする、
人間としての限界への挑戦があった。

晩年の始皇帝は、長城や陵墓の工事現場に使者を送り、
進捗を細かく報告させた。
報告が遅れると処刑されることもあったという。
それほどまでに、彼にとってこれらの建造物は、
単なる建築物ではなく永遠の象徴だった。

彼が築いた壁は国を守り、
造らせた陵墓は今も地中に眠る。
どちらも、彼の支配が“死してなお続く”ことを願った証。
万里の長城は彼の権力の外郭を描き、
始皇陵は彼の魂の居城となった。
そしてこの二つの巨大な遺構こそが、
始皇帝という存在を神話へと押し上げた理由だった。

だが皮肉にも、彼が永遠を刻もうとしたその時、
身体は静かに崩れ始めていた。
不老の薬として飲んでいた水銀が体を蝕み、
眠れぬ夜が続くようになる。
不死を求めて築かれた帝国の中心で、
彼は少しずつ、自らの肉体が滅びへ向かっていることを悟り始めていた。

 

第九章 暗雲と陰謀ー刺客、粛清、後継問題

壮大な国家と不朽の秩序を築き上げた始皇帝・嬴政だったが、
その晩年は、まるで帝国の影が人の形を取って迫るような日々だった。
不老不死の夢を追い続ける一方で、彼の周囲では
権力争い、陰謀、そして裏切りが静かに蠢いていた。

紀元前213年、始皇帝は宮廷で開かれた会議において、
学者や臣下の間で思想の対立が激化していることを知る。
儒家の学者たちは「徳による統治」を唱え、
法家の李斯らは「法による支配」を主張した。
激怒した始皇帝は、李斯の進言を受け、
焚書坑儒をさらに徹底。
儒家の書を焼き、批判的な学者たちを処刑する。
この事件は後世、「文化を焼いた皇帝」として非難されたが、
彼にとっては秩序維持のための当然の決断だった。
その結果、宮廷は沈黙に包まれ、
彼に逆らう者は誰一人いなくなった。

しかし、外からの脅威は消えていなかった。
北方では再び匈奴が勢力を強め、
東方では斉や楚の旧貴族たちが密かに反乱を企てる。
さらに、国内では役人の腐敗や民衆の不満が増し、
各地で小さな暴動が起き始めた。
法による統制が行き届く一方で、
人々の心は冷えきり、国家は静かにひび割れ始めていた。

その中で、もうひとつの問題が浮上する――後継者問題である。
始皇帝には多くの息子がいたが、
誰を後継にするかを明確にしないまま歳を重ねていた。
長男の扶蘇は温厚で賢く、李斯や将軍たちの信頼も厚かった。
だが、彼の性格は父の苛烈な政治に反対する傾向があり、
「民を苦しめすぎている」と諫めたこともあった。
そのため、始皇帝の怒りを買い、
遠方の北方守備に左遷されていた。

一方で、次男の胡亥は野心が強く、
宦官・趙高と密接な関係を築いていた。
趙高は宮廷の内政を支配する官吏で、
始皇帝の命令書や印璽(いんじ)を管理する立場にあった。
冷酷かつ狡猾な彼は、皇帝の老いと病を見逃さず、
自らの手で政権を操ろうと企んでいた。

紀元前210年、始皇帝は五度目の東巡に出発する。
目的は病の治療と、再び不老不死の薬を求めるためだった。
しかし旅の途中、体調が急激に悪化する。
薬と称して摂取していた水銀が体を蝕み、
呼吸は乱れ、皮膚は蒼白に変わっていった。
彼は病床に伏しながらも、
「この命が尽きても、秩序は壊すな」と言い残す。
そして、密かに長男・扶蘇に遺詔(ゆいしょ)を送るよう命じた。
だが――その命令が実際に届くことはなかった。

始皇帝の死を知った趙高と李斯は、
政治の混乱を恐れ、皇帝の死を隠すことを決める。
行軍中も棺を開かず、代わりに腐臭を消すために大量の魚を積んだという逸話が残る。
「まだ陛下はご健在」と偽りながら、
趙高は李斯と共謀し、胡亥を後継者に据える偽の詔を作成。
「扶蘇は父の期待に背いた。胡亥を太子とする」
この一文が、秦帝国を揺るがす最大の偽詔(ぎしょ)だった。

北方の地でそれを受け取った扶蘇は、
真偽を確かめる術もなく、父の命に従って自害した。
こうして、胡亥が二代目皇帝・秦二世として即位。
だがその瞬間から、
秦は急速に崩壊への道を転がり始める。

一方、趙高は皇帝の死体を密かに咸陽に運び、
盛大な葬儀を行わせた。
地中深く眠る始皇陵には、
水銀の川と兵馬俑の軍勢が整然と並び、
永遠の支配者を迎えるための儀式が執り行われたという。
だが地上では、すでにその“永遠”が崩れ始めていた。

忠臣は粛清され、民は疲弊し、
後継の皇帝は操り人形。
始皇帝が築き上げた鉄の秩序は、
その死を境に急速に脆くなっていく。
「永遠を望んだ男」が去った途端、
世界は音を立てて動き出した。

皮肉にも、始皇帝の不老不死の願いは叶わなかった。
だが、死してなお彼の支配は続いた。
趙高による偽詔も、李斯の判断も、
すべては「始皇帝の名の下に」行われたからだ。
その名は、肉体を失っても権力として生き続けた。

この暗雲の中、帝国は光を失い、
やがて滅びの足音が近づいていく。
だが始皇帝本人は、すでにその未来を見ていたのかもしれない。
「人の世は終わっても、朕の国は永遠に続く」
――その言葉だけが、地下の玉座に刻まれていた。