第1章 天才の誕生ーザルツブルクに生まれた神童

1756年1月27日、オーストリアの小さな町ザルツブルクに、ひとりの男の子が誕生した。
名はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
彼の家は裕福ではなかったが、音楽に満ちていた。
レオポルト・モーツァルトは宮廷のヴァイオリニストであり、教育熱心な作曲家でもあった。
アンナ・マリアは穏やかで心優しい女性で、家庭には常に笑いと音楽があふれていた。

レオポルトは幼い息子の才能をすぐに見抜いた。
まだ4歳のヴォルフガングが、父の演奏するクラヴィア(鍵盤楽器)の旋律を正確に真似して弾いたのだ。
さらに、父が教えずとも和音を理解し、自ら小さな旋律を作り出した。
その姿に驚いたレオポルトは、息子の教育に全力を注ぐ決意を固める。

ヴォルフガングには4歳年上の姉マリア・アンナ(愛称ナンネル)がいた。
彼女も父の指導を受けた才能ある音楽少女で、兄妹はまるで二重奏のように息の合った演奏を見せた。
二人がクラヴィアの前に並ぶと、部屋中が音楽の喜びで満たされたという。

父はこの兄妹の才能を世に示そうと考え、6歳のヴォルフガングを連れて各地の演奏旅行に出る。
その第一歩が、音楽の都ウィーンだった。
ウィーンの貴族たちは、小さな体で複雑な曲を即興演奏し、譜面を一度見ただけで弾きこなす少年に驚嘆した。
彼は宮廷でも演奏を披露し、マリア・テレジア女帝から金の衣装と抱擁を贈られたという。

その後も、モーツァルト一家はヨーロッパ各地を巡る。
ミュンヘン、パリ、ロンドン、ハーグ――まだ幼いヴォルフガングは、旅の途中で多くの文化と音楽に触れた。
各地で耳にしたメロディやリズムは、彼の中に吸収され、後の作風の礎を築いていく。

ロンドンでは、ヨハン・クリスティアン・バッハ(大バッハの末子)と出会う。
彼からは“音楽における明るさと優美さ”を学び、幼いモーツァルトの音の世界に新しい光が差した。
この経験が、のちに彼の楽曲に見られる透明感と調和の美を形づくっていく。

一方で、長い旅は決して楽ではなかった。
宿は寒く、馬車の移動は過酷で、病にも悩まされた。
だが、ヴォルフガングはいつでも笑顔で鍵盤の前に座り、人々を喜ばせた。
父はその姿に、息子の中に「音楽こそ生きるための呼吸」があることを感じ取った。

8歳になる頃には、すでに彼は小さな交響曲を作曲していた。
しかもその譜面は完璧な構成を持ち、調性も転調も大人顔負けだった。
その才能に驚いたレオポルトは、ただの「神童」ではなく「真の作曲家」として息子を見るようになる。

旅の途中、母は病に倒れ、家族は疲弊していたが、ヴォルフガングだけは音楽をやめなかった。
夜、宿のロウソクの光の下で新しい旋律を書き、朝になると父に見せて意見を求めた。
レオポルトは言った。
「この子は私を超える」

彼が育った18世紀のヨーロッパは、貴族が芸術を支配していた時代。
だが、モーツァルトはその枠の外で、自らの心から湧き出る音楽を求めていた。
この幼年期に培われた感情の自由と音楽の喜びこそ、彼の一生を通して燃え続ける炎の始まりだった。

やがて彼は父の導きから少しずつ離れ、自分自身の音楽を探し始める。
その旅は、少年から青年へ、そして歴史に残る作曲家への道へと続いていく。

 

第2章 小さな旅人ー幼き日の演奏旅行とヨーロッパの驚嘆

6歳で初めての演奏旅行に出たモーツァルトは、瞬く間に“奇跡の子”としてヨーロッパ中の話題となった。
この旅は父レオポルトにとっても賭けだった。
息子の才能を広め、宮廷からの支援を得ることで一家の将来を安定させる――その思いがあった。
しかしヴォルフガングにとってそれは、世界と出会う大冒険だった。

最初の目的地はミュンヘン。
宮廷での演奏会に招かれ、幼いモーツァルトは堂々と鍵盤の前に座った。
小さな指が動くたびに、観客の顔から笑みが消え、やがて驚愕の表情に変わった。
彼は、難解なフーガも即興で再現し、しかも遊ぶように転調してみせた。
その天真爛漫な姿は“音楽の神童”と呼ばれるにふさわしいものだった。

次に一家はウィーンへ向かう。
ここでモーツァルトはマリア・テレジア女帝に謁見し、宮廷で演奏を披露する。
王族たちは最初、子どもの余興として楽しんでいたが、演奏が始まると空気が変わった。
彼の演奏は技巧だけでなく、感情の深さがあった。
幼子とは思えぬ表現力に女帝は心を打たれ、終演後、モーツァルトを抱き上げて「この子は神からの贈り物」と称えた。

この成功により、一家の旅はさらに広がる。
ドイツ各地、オランダ、そしてパリ、ロンドンへと続く。
馬車の中でヴォルフガングは退屈することなく、常に譜面帳を広げていた。
外の景色を見ながら旋律を口ずさみ、すぐに父がそれを書き留める。
旅の途中で生まれた小品はのちに「ロンドン・ソナタ」などの初期作品として知られる。

ロンドンでは、音楽一家バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハとの出会いが待っていた。
この人物は、当時のイギリスで人気の作曲家であり、クラシックに“優雅さ”をもたらした重要な人物だった。
モーツァルトは彼を深く尊敬し、実際に共演も果たした。
その出会いが、後の彼の作風――軽やかで明るい調べの基礎となる。

この旅では、輝かしい瞬間ばかりではなかった。
長い移動の疲れ、宿の寒さ、そして母アンナ・マリアの病。
それでもヴォルフガングは弱音を吐かず、どんな環境でも鍵盤の前に座り続けた。
彼にとって音楽とは、遊びであり、祈りでもあった。

特に印象的な出来事が、オランダでの体験だった。
ハーグで伝染病が流行し、ナンネルが倒れ、ヴォルフガング自身も高熱で倒れる。
しかし回復後すぐに、病院の礼拝堂で神への感謝を込めた小品を作曲した。
その曲はのちに「神に感謝するモテット」と呼ばれ、人々の涙を誘った。
まだ9歳の少年が、苦しみの中から祈りの音楽を生み出した瞬間だった。

旅の終盤、パリでは上流社会の厳しい目に晒された。
彼の才能を認める者もいれば、子どもを利用していると批判する者もいた。
それでもヴォルフガングは舞台の上で楽しげに演奏し、観客を魅了した。
音楽が純粋であればあるほど、人の心を溶かすということを、彼は本能で知っていた。

約3年にわたるこの大旅行で、彼はヨーロッパ中のあらゆる音楽を吸収した。
ドイツの厳格な和声、フランスの華やかな舞曲、イタリアの旋律美。
それらがモーツァルトの中で混ざり合い、彼独自の音楽語法となっていく。

父レオポルトは日記にこう書き残している。
「この子は、神が音楽を通して人間を喜ばせるために生まれた」
その言葉どおり、ヴォルフガングは旅を終える頃には、単なる“神童”ではなく、
“世界を知る小さな芸術家”として成長していた。

やがて一家はザルツブルクへ帰郷する。
しかし、ヴォルフガングの中ではもう旅は終わっていなかった。
彼の心はすでに、次なる旋律へと走り出していた。
「世界を見た目で、音楽を描く」――それが、幼き旅人が胸に刻んだ信念だった。

 

第3章 宮廷音楽家への道ーザルツブルクでの初仕事

長い旅を終えてザルツブルクへ戻ったモーツァルトは、わずか10歳にしてすでにヨーロッパ中にその名を知られる存在になっていた。
だが、彼を待っていたのは華やかな成功ではなく、小さな地方都市での現実的な生活だった。
ザルツブルクは音楽の都ウィーンに比べれば保守的で、芸術はすべて教会と大司教の支配下にあった。
そこでは、音楽家とは「雇われの職人」であり、創造者ではなかった。

父レオポルトは、息子を宮廷で安定した地位に就かせようと努力した。
1772年、16歳になったモーツァルトは、ザルツブルク大司教ヒエロニムス・コロレドの宮廷に仕える正式な音楽家として採用される。
肩書きは“副楽長代理”で、仕事は礼拝音楽や舞踏会用の楽曲を作ることだった。
彼の任務は限られていたが、その中で見せる創造力は際立っていた。

ミサ曲、交響曲、ディヴェルティメント――どんな小さな注文にも、モーツァルトは魂を込めた。
彼の作品はすでに成熟しており、旋律は明快で、構成は完璧。
同僚たちはあきれるほどの速さで彼が曲を書き上げるのを見て「神が筆を動かしている」とささやいた。

しかし、宮廷生活は息が詰まるものだった。
コロレド大司教は厳格で、芸術を支配の道具として扱った。
モーツァルトが創造の自由を求めるほど、上司との摩擦は増えていく。
彼が書いた音楽はあまりに豊かで、聴く者の心を揺さぶるため、
「教会音楽には情熱が強すぎる」と批判されることさえあった。

それでもモーツァルトは、信仰と芸術の調和を信じて作曲を続けた。
1773年にはローマを訪れ、バチカンでグレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』を耳で聴き取り、
わずか一度の聴取で完璧に譜面に再現したという逸話が残っている。
この行為は当時、禁じられていた“聖歌の書き写し”だったが、
法王クレメンス14世は彼の才能に感銘を受け、逆に「黄金拍車騎士」の称号を授けた。

一方で、宮廷ではその名誉もあまり評価されなかった。
コロレドにとってモーツァルトはただの雇用者にすぎず、
自由な創作を望む彼の心を理解することはなかった。
父レオポルトも息子を守りつつ、現実との板挟みになって苦しんだ。

その頃、若きモーツァルトの心を占めていたのは「音楽家ではなく、芸術家として生きたい」という願いだった。
ザルツブルクの宮廷音楽家という肩書きでは、彼の情熱は収まらなかった。
ウィーンやミュンヘン、ミラノへの遠征でオペラの仕事を得ると、
その新しい舞台で彼はまるで解き放たれた鳥のように輝いた。

1775年、モーツァルトはオペラ『偽の女庭師』を完成させる。
この作品はまだ若々しいが、登場人物の感情描写にすでに天才の片鱗があった。
同時期に書かれたヴァイオリン協奏曲第3〜5番は、いずれも生き生きとした旋律に満ち、
「ザルツブルクの太陽」と称えられた。

しかし、才能が輝くほど、コロレドとの溝は深まる。
1777年、モーツァルトはついに父の反対を押し切り、ザルツブルクを離れて独立の道を選ぶ。
「音楽を愛する者として、自由でなければ生きられない」
そう語り残して、彼は旅立った。

彼の胸には、これまでに得た技術、経験、そして抑えきれない情熱が燃えていた。
だが、この旅は栄光と挫折が交錯する、厳しい試練の始まりでもあった。

ザルツブルクという“狭い舞台”を離れた若きモーツァルト。
次に彼を待っていたのは、音楽の都ウィーンと、その自由の代償だった。

 

第4章 芸術と束縛ーコロレド大司教との確執

1777年、21歳のモーツァルトはザルツブルクを離れ、父レオポルトの庇護を抜け出して自由な音楽家として生きる道を選んだ。
宮廷に縛られた環境では、自分の音楽が本当に生きることはできないと悟ったからだ。
その旅の同行者は、母アンナ・マリア。
二人は馬車に乗り、ウィーンを経て南ドイツ、さらにフランスを目指した。

最初の目的地はミュンヘン。
ここで彼は、かつて共演した貴族たちに再会し、オペラ作曲の依頼を探すが、結果は芳しくなかった。
続くアウクスブルクでは、父の親族を頼って滞在し、演奏会を開くが収入はわずか。
そしてパリへ向かう長旅の中、母は疲労で次第に体調を崩していった。

1778年、パリ到着。
華やかな文化の中心に来たモーツァルトは、新しい可能性を感じていた。
だが現実は厳しかった。
フランスでは、彼の作品は「ドイツ的すぎる」と評価され、演奏の機会も少なかった。
パトロンの支援も得られず、生活は困窮していく。
それでもモーツァルトは作曲を続け、交響曲第31番「パリ」を完成させた。
この作品はエネルギッシュで輝かしく、彼の中にある“自由の息吹”が強く感じられる。

しかし、その最中に悲劇が襲う。
母アンナ・マリアが病に倒れ、パリで亡くなってしまった。
異国の地で母を看取り、墓地に埋葬するモーツァルトの姿は、深い孤独に包まれていた。
彼は父へ宛てた手紙でこう書いている。
「母はもう天に行きました。神は私に、孤独という課題を与えたようです」

失意の中でも彼は立ち止まらなかった。
音楽だけが、母への祈りであり、心を保つ唯一の手段だった。
帰国後、彼はザルツブルク宮廷に戻ることになる。
父の願いと生活のため、再びコロレド大司教のもとに仕えることを受け入れた。
しかし、それは自由を得た若者にとって、苦痛の選択でもあった。

1779年、再び宮廷音楽家に就任。
だが、もはや以前の彼ではなかった。
経験も技術も、人間としての誇りも増していた。
コロレドは依然として権威的で、音楽家たちを召使のように扱った。
演奏会では、彼がどんなに見事な演奏をしても、司教は無表情で手を叩くだけだった。

ウィーン遠征の際、モーツァルトは他の貴族や作曲家たちと交流し、
自分がいかに“時代の最前線”に立てる人間かを確信する。
音楽はもはや宮廷のためにあるのではなく、人間の心を描くためにある――その信念が、彼の中で明確になっていった。

そしてついに、1781年。
運命の転機が訪れる。
ウィーンで開かれた演奏旅行中、コロレドが彼を同行させた際に事件が起きる。
モーツァルトは宮廷の宴席で軽んじられ、
「お前はただの召使にすぎぬ」と侮辱された。
これに彼は激怒し、「私は音楽の僕ではなく、神の僕です」と返した。

その一件でモーツァルトは解雇される。
父レオポルトは息子の行動を心配し、何度も手紙で説得するが、彼の決意は揺らがなかった。
「ザルツブルクを出て自由に生きる」――それが彼の答えだった。

そして同年、ウィーンへと拠点を移す。
そこは帝国の中心、芸術と自由の都。
モーツァルトは新しい人生を始める。
彼の頭の中には、すでに次々と新しい旋律が流れていた。

過去の束縛を断ち切り、芸術家としての人生が本格的に始まる。
それは、宮廷に従う音楽家から、自らの魂に従う芸術家への転生でもあった。
彼の名はこの瞬間から、「神童」ではなく「革命的音楽家モーツァルト」として歩み始める。

 

第5章 自由への脱出ーウィーンへの移住と独立の挑戦

1781年、モーツァルトはついにザルツブルクを離れ、ウィーンへと拠点を移した。
それは彼にとって「音楽家としての第二の誕生」だった。
もはや大司教に仕える雇われ人ではなく、自由な芸術家として生きる道を選んだのだ。

だが、自由には代償があった。
定職を失った彼は、演奏会と弟子のレッスンで生計を立てる日々を送る。
貴族の後ろ盾もない中で、純粋な才能と行動力だけが頼りだった。
それでもモーツァルトは怯まなかった。
「芸術は誰のものでもない。心に音楽を持つ者すべてのものだ」と語り、ウィーンの社交界に乗り込んでいく。

彼の名は瞬く間に広がった。
その才能は、誰もが息を呑むほど鮮烈だった。
ウィーンで開催されたピアノ即興演奏の競演会では、貴族も音楽家も彼の前で沈黙した。
即興で作られる旋律は完璧な構成を持ち、
まるで作曲済みの作品のように美しかった。

この時期、彼は名作を次々と生み出す。
ピアノソナタ第11番(「トルコ行進曲」付き)、
交響曲第35番「ハフナー」、
そしてピアノ協奏曲第9番「ジュノム」。
どの作品にも共通しているのは、自由を得た者の高揚感と生命力だった。
それまでの宮廷音楽にはない軽やかさ、ユーモア、そして人間味があふれていた。

彼の音楽は、貴族たちのものではなく、人々のためのものへと変化していった。
サロンや劇場だけでなく、市民が集まる広間で演奏会を開き、
チケットを自ら売り歩くこともあった。
芸術をビジネスとして成立させた先駆け――それがウィーン時代のモーツァルトだった。

しかし、自由と引き換えに、孤独が忍び寄る。
父レオポルトは息子の選択を理解できず、頻繁に手紙で忠告を送った。
「お前は世の中を甘く見ている」と。
だがモーツァルトは静かに答えた。
「私は生きるためではなく、創るために生きている」

やがて、彼の周囲には支援者が現れる。
その一人がバロネス・フォン・ヴァルトシュテッテン夫人。
彼女はモーツァルトの芸術を深く理解し、社交界で彼を紹介してくれた。
彼女の支援を得て、モーツァルトはウィーンでの立場を確立していく。

この頃、彼の心を動かす出会いがもう一つあった。
それが、かつて仕えていたウェーバー家の次女、コンスタンツェ・ウェーバーである。
以前、彼は長女アロイジアに恋をしていたが叶わず、
今度はその妹との出会いによって新たな人生が始まる。

二人の関係は周囲から反対され、特に父レオポルトは激しく怒った。
「安定もないお前が結婚とは何事か」と。
しかしモーツァルトの決意は固かった。
芸術も愛も、どちらも妥協するつもりはなかった。

1782年、彼はついにコンスタンツェと結婚。
それは経済的には苦しい船出だったが、彼の人生における最も温かな出来事でもあった。
結婚の翌年、二人の間には長男が誕生し、モーツァルトは家族を愛しながら創作に没頭していく。

この時期に完成したのが、オペラ『後宮からの誘拐』である。
トルコ風の音楽とヨーロッパ的ユーモアが融合したこの作品は、ウィーンで大成功を収めた。
自由の中で彼が初めて手にした真の勝利だった。

それでも生活は楽ではなかった。
贅沢を好んだ性格もあり、収入が入ってもすぐに使ってしまう。
しかし、音楽に対してだけは一切の妥協がなかった。
朝から晩まで作曲を続け、譜面に向かう姿は、まるで“生きること=作ること”そのものだった。

ウィーンでの成功と挫折を繰り返す中、モーツァルトは次第に音楽の奥深い世界へと入っていく。
そこには、華やかなメロディの裏に、人間の感情と苦悩が宿り始めていた。

自由を手にしたモーツァルトは、次のステージ――
愛、友情、そして孤独をテーマにした創作期へと歩みを進めていく。
彼の人生の旋律は、ここからさらに複雑で、美しく、そして儚い光を帯び始める。

 

第6章 愛と家庭ーモーツァルトとコンスタンツェの結婚

1782年8月4日、ウィーンの聖シュテファン大聖堂。
白い花に囲まれたその祭壇で、モーツァルトは愛する女性コンスタンツェ・ウェーバーと結婚式を挙げた。
音楽家として、そしてひとりの男として、彼が自ら選び取った人生の伴侶だった。

出会いは6年前、マンハイム時代にまで遡る。
当時モーツァルトは、コンスタンツェの姉アロイジア・ウェーバーに恋をしていた。
だがその恋は叶わず、彼は傷心のままパリへ向かい、母の死を経験した。
運命は皮肉にも、再びウェーバー家と彼を結びつける。
ウィーンで再会したコンスタンツェは、姉とは違い、明るく奔放で、何より彼の音楽を心から愛した。

父レオポルトはこの結婚に大反対だった。
「安定した収入もないお前が家庭を持てるわけがない」と何度も手紙を送った。
それでもモーツァルトは譲らなかった。
「愛のない人生では、どんな音楽も響かない」
その言葉の通り、彼は芸術と同じ熱量で彼女を愛した。

結婚後の生活は、決して裕福ではなかった。
借金と収入の間を行き来する日々。
それでも二人は、笑いと音楽の絶えない家庭を築いた。
コンスタンツェは夫の健康を気遣い、時に作曲中の彼に食事を運び、時に一緒に歌を口ずさんだ。
彼女は単なる妻ではなく、創作を支える“もうひとつの旋律”だった。

この時期、モーツァルトは家庭をテーマにした音楽を多く残している。
たとえば『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。
軽やかで幸福感にあふれたこの曲は、結婚生活の穏やかな日々の空気をそのまま封じ込めたような作品だ。
また、オペラ『後宮からの誘拐』には、愛する人を救うためにあらゆる困難を乗り越える主人公が描かれている。
この作品は、彼自身の“愛の信念”そのものでもあった。

1783年には最初の息子が誕生し、モーツァルトは父となる。
その直後、彼は家族を連れてザルツブルクに帰郷する。
父レオポルトとの再会はぎこちなかったが、孫を抱いたときの父の表情は穏やかだった。
この旅でモーツァルトはミサ曲ハ短調を作曲。
それは妻コンスタンツェのための祈りであり、彼女自身がソプラノとして歌った。
愛と信仰が溶け合ったその音楽は、彼の私生活と芸術が最も美しく交わった瞬間でもある。

しかし、幸福は長くは続かない。
ウィーンへ戻った彼を待っていたのは、現実的な金銭問題と過酷な労働だった。
演奏会を開き、弟子を取り、貴族の注文をこなしながら、夜通し作曲を続ける。
それでもモーツァルトは疲れた顔を見せず、むしろ創作意欲はますます高まっていった。

家庭の中でも彼は常にユーモアを忘れなかった。
手紙にはふざけた言葉や冗談が並び、コンスタンツェを笑わせるために自作の替え歌まで歌ったという。
しかしその明るさの裏で、彼はプレッシャーと孤独に苦しんでいた。
ウィーンの音楽界は才能ある作曲家であふれ、支援者たちの気まぐれな好意に左右される世界だった。

それでも、彼の家庭は希望の源だった。
子どもが眠る横でピアノに向かい、朝日が差す頃には新しい楽曲が生まれていた。
「この家の笑い声こそ、私のオーケストラだ」
そう語ったと言われるように、モーツァルトにとって家庭は音楽と同じく“生きる舞台”だった。

やがて、彼の創作はさらに深みを増していく。
単なる技巧の美ではなく、人間の感情そのものを描く音楽へと進化する。
そしてその中心には、常に愛する妻と家族がいた。

ウィーンの自由な空気と、支えてくれる家庭。
この二つが融合したとき、モーツァルトの音楽は一段と成熟し、
やがて世界に残る名作の数々――『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』――へとつながっていく。

芸術と愛。
その両輪が回り始めたこの時期こそ、彼の人生がもっとも“人間らしい音楽”を奏でていた瞬間だった。

 

第7章 光と影の創作期ーピアノ協奏曲とオペラの黄金時代

1784年から1787年にかけて、モーツァルトの人生はまさに創作の黄金期を迎える。
彼の音楽はこの時期に一気に成熟し、技巧と感情のバランスが奇跡的な完成度に達した。
彼のペンから生まれる旋律は、まるで呼吸のように自然で、それでいて深く人間的だった。

この頃の彼の中心的な活動は、ピアノ協奏曲の作曲と演奏会だった。
1784年だけで12曲という驚異的なペースで書き上げている。
これらの作品は、ウィーンの市民社会を相手にした自主公演のためのものだった。
貴族の patronage(庇護)に頼らず、自分の才能で観客を集める――それは当時としては革命的な生き方だった。

彼がピアノに座ると、聴衆は息を止めた。
即興のように始まる旋律、オーケストラとの会話のような掛け合い、
そしてすべてを包み込むような温かい音色。
モーツァルトの演奏会は“音楽が生きている瞬間”そのものだった。
彼の弟子たちは後に語っている。
「彼のピアノは、まるで語りかけるように歌った」と。

この時期に生まれたピアノ協奏曲第20番ニ短調第21番ハ長調は、今もなお彼の代表作として知られている。
前者は緊張感と悲劇性に満ち、後者は光に包まれた希望の旋律を持つ。
まさに“光と影の対話”――この対比こそが、彼の音楽の真髄だった。

私生活では、家庭に子どもが増え、経済的にはますます厳しくなっていく。
それでも彼は創作を止めず、むしろ追い詰められるほどに筆が走った。
この頃のモーツァルトには、音楽を書くことでしか自分を保てない切実さがあった。

1785年、彼はウィーンで知り合った一人の貴族、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンと親交を深める。
二人は互いに尊敬し合う関係で、ハイドンはレオポルトに宛ててこう書いている。
「あなたの息子は、私が知る中で最も偉大な作曲家です」
この言葉は、当時のモーツァルトが同時代の巨匠からも絶対的に認められていた証だった。

そして1786年、モーツァルトの芸術が新たな段階へと進む。
それが、オペラ『フィガロの結婚』である。
脚本はロレンツォ・ダ・ポンテ。
彼との出会いはモーツァルトにとって運命的だった。
二人は互いの才能を引き出し合い、音と言葉が完璧に融合した作品を生み出した。

『フィガロの結婚』は、当時の社会を皮肉たっぷりに描いた“階級を超える喜劇”だった。
召使フィガロが貴族を出し抜くという物語は、革命前夜のヨーロッパで非常に挑戦的な題材だった。
にもかかわらず、モーツァルトはこの作品に人間の愛と赦しの美しさを込めた。
軽妙な旋律の裏に、社会批判と人間理解が共存している。
まさに“笑いの中の哲学”と言える傑作だった。

初演はウィーンで行われ、観客の反応は賛否両論。
しかしプラハ公演では爆発的な成功を収め、町中が“フィガロ・フィーバー”に包まれた。
プラハの人々は彼の音楽の本質――自由への賛歌――を感じ取っていた。

この成功により、モーツァルトはプラハへ招かれ、そこで次の大作の構想を練る。
それが、彼のもう一つの代表作『ドン・ジョヴァンニ』へとつながっていく。

ウィーン時代の中期、モーツァルトは名声と孤独の間で揺れていた。
音楽家としての絶頂期でありながら、社会的には不安定で、生活はいつも逼迫していた。
それでも彼は筆を止めなかった。
むしろ、苦悩の中にこそ“真の音楽”があると信じていた。

この時期のモーツァルトを形容するなら、まさに光と影の狭間に立つ芸術家
彼の音楽は明るく輝くが、その奥底にはいつも寂しさと祈りが潜んでいた。

ピアノ協奏曲とオペラの成功で彼の名はウィーンに鳴り響いた。
だが、心の奥には常に次の旋律が響いていた。
“もっと深く、もっと人間的に”――そう願いながら、彼は次なる作品、『ドン・ジョヴァンニ』の構想へと向かっていく。

 

第8章 絶頂と苦悩ー『フィガロの結婚』から『ドン・ジョヴァンニ』へ

1786年、オペラ『フィガロの結婚』の成功によって、モーツァルトは名実ともにウィーンを代表する作曲家となった。
だが、彼の歩む道は栄光だけではなかった。
成功の光の裏には、嫉妬と経済的不安、そして芸術家としての孤独が常に影のように寄り添っていた。

『フィガロの結婚』は、召使が主人を出し抜くという、当時としては大胆な社会風刺劇だった。
そのためウィーンの保守的な貴族層からは冷ややかな目で見られた。
それでも、モーツァルトは音楽によって「人間は身分に関係なく同じ心を持つ」という真理を表現した。
愛、嫉妬、赦し、喜び――すべての感情が、彼の旋律の中に平等に並んでいた。

この作品で共作した詩人ロレンツォ・ダ・ポンテとの絆は強まり、
二人は次なる挑戦として、新たなオペラを構想する。
それが、1787年に完成した『ドン・ジョヴァンニ』である。

“放蕩者の石像を招く物語”として知られるこのオペラは、まさに人間の善悪、罪と罰、そして魂の救済を描いた壮大なドラマだった。
主人公ドン・ジョヴァンニは快楽に生き、罪を重ねながらも最後まで己の生を貫く。
その姿は、単なる悪人ではなく、自由を求めすぎた人間の象徴として描かれている。

この作品を上演したのはプラハ。
かつて『フィガロの結婚』が熱狂的な喝采を浴びた街だ。
『ドン・ジョヴァンニ』の初演では、観客は息を呑み、終幕後は嵐のような拍手が鳴り止まなかった。
その成功の後、プラハの新聞はこう記している。
「モーツァルトの音楽は、神々が人間に与えた最高の贈り物である」

だが、ウィーンへ戻ると、状況は一転する。
貴族たちは彼を「才能は認めるが、扱いにくい作曲家」と見なし、注文は減っていった。
『フィガロ』の社会的テーマが政治的とみなされ、彼の名声は一時的に陰りを見せる。
音楽的には絶頂期にあった彼が、経済的には最も困窮していたという皮肉な現実だった。

それでも、彼の創作意欲は燃え続けた。
この時期に書かれたピアノ協奏曲第25番・第26番(戴冠式)
そして室内楽の傑作弦楽五重奏曲などは、彼の内面的な成熟を示している。
華やかさよりも深い感情の揺らぎを描き、まるで人の心の奥底を音にしているようだった。

また、この頃のモーツァルトは精神的にも変化していた。
母の死、父との確執、そして自らの名声が揺らぐ現実――
そのすべてが、彼の音楽に“光と闇の交錯”をもたらした。
『ドン・ジョヴァンニ』の中で響く不協和音や沈黙の間には、
死と向き合う芸術家の不安が確かに息づいている。

1787年、彼の心に大きな穴を開けた出来事が起こる。
父レオポルトの死である。
幼い頃からの最大の理解者であり、時に最大の重荷でもあった父がいなくなった今、
モーツァルトは初めて“本当の孤独”を知る。
彼は手紙にこう書いた。
「父は私の中に生きている。だから私はもう怯えない」

この頃、ウィーン宮廷はハプスブルク家の音楽改革を進めており、
モーツァルトはライバルであるアントニオ・サリエリと共に皇帝ヨーゼフ2世のもとで活動する機会を得た。
しかし、期待されたほどの収入は得られず、
生活の苦しさは続いた。
それでも彼は人前では明るく振る舞い、音楽仲間を家に招いては冗談を言いながら即興演奏を披露した。

彼の友人たちは口を揃えて言う。
「彼は笑うときも、どこか悲しい目をしていた」
その笑顔の裏に、音楽という言葉でしか語れない痛みが隠れていた。

『ドン・ジョヴァンニ』以降、彼の音楽はより劇的に、より人間的に変わっていく。
そこには“天才”という称号では片付けられない、
苦悩する人間としてのモーツァルトがあった。

名声、貧困、愛、孤独――すべてが交差するこの時期こそ、
彼の芸術が最も深く、最も真実に輝いていた瞬間だった。

そして彼は次の作品に向かう。
『コジ・ファン・トゥッテ』、そして最期のオペラ『魔笛』。
その旋律には、死の気配を知りながらも、なお生を讃える力が宿っていた。

 

第9章 最後の旋律ー『魔笛』と未完の『レクイエム』

1791年――わずか35歳のモーツァルトにとって、これが最後の年になる。
病と貧困に苦しみながらも、彼は信じられないほどの創作意欲を見せていた。
その年、彼の筆は止まることを知らず、奇跡のように数々の名曲を生み出していく。

その中心にあるのが、オペラ『魔笛』だった。
この作品は、単なる童話ではなく、光と闇、理性と信仰、そして人間の成長を描いた哲学的な作品だった。
台本を手がけたのは、友人で俳優のエマヌエル・シカネーダー
彼とモーツァルトは、音楽と物語の両面から、人間の“魂の救済”をテーマにした作品を作り上げた。

夜の女王、パミーナ、ザラストロ、タミーノ――
それぞれのキャラクターは、人間の心の中にある対立を象徴していた。
光を求める者、闇に支配される者、そして真理に導かれる者。
モーツァルトはそのすべてを音で描き分けた。
「夜の女王のアリア」は怒りと狂気の極致にあり、
「パパゲーノとパパゲーナの二重唱」は人生の喜びそのものだった。

初演は1791年9月30日、ウィーン郊外のフライハウス劇場。
観客は総立ちとなり、アンコールが何度も繰り返された。
だが、舞台裏で指揮をしていたモーツァルトの顔は蒼白だった。
彼の身体はすでに限界に近づいていた。

その頃、彼のもとに“黒衣の使者”が現れる。
正体不明の男が、「亡くなった者のためのミサ曲を依頼したい」と言い残し、
多額の報酬と共に去っていった。
それが、彼の絶筆となる『レクイエム(鎮魂曲)』の始まりだった。

この依頼主は後に、伯爵ヴァルゼック=シュトゥパッハだったことが判明する。
彼はモーツァルトに作曲させたあと、自分の作品として発表するつもりだった。
だがモーツァルトは、そんな事情を知らぬまま、死の予感に取り憑かれたように作曲を続ける。
妻コンスタンツェは夫を支えながら、病床の彼を励ました。
しかしモーツァルトは言った。
「このレクイエムは、私自身のためのものだ」

彼の体は日に日に弱っていった。
それでもペンを握り、弟子ジュスマイヤーに口述で指示を与えながら作曲を進めた。
天国へと続く旋律、死の静けさ、赦しの祈り――すべてがその譜面に刻まれていた。
完成が近づいた11月下旬、彼はほとんど食事もとれず、夜通し作業を続けた。

そして1791年12月5日未明。
ウィーン、ラウエンガッセの小さな部屋で、彼は静かに息を引き取る。
コンスタンツェと友人たちが涙の中で『レクイエム』の一節を歌ったという。
未完のまま残されたその曲は、弟子ジュスマイヤーによって補筆され、
今も世界中で演奏され続けている。

葬儀は質素だった。
王侯貴族を感動させた天才の棺は、雪の降るウィーン郊外へ運ばれ、
名もない共同墓地に埋められた。
誰も正確な墓の位置を知らない。
だが、彼の音楽が眠る場所は、墓ではなく世界中の心の中だった。

死の直前まで彼は笑っていたという。
友人たちは語る。
「彼は死を恐れていなかった。むしろ、それを音楽に変えようとしていた」
その言葉の通り、モーツァルトの最期の年には“死”と“生命”が混ざり合うような旋律が満ちている。

『魔笛』で人間の魂の成長を描き、
『レクイエム』でその魂の帰り道を描いた彼の最期の季節は、
芸術史上、最も美しく、最も悲しい瞬間のひとつだった。

そして彼が残した音楽は、時を超えて今も鳴り響いている。
それは“天才の証”ではなく、命ある者すべてへの祈りの音だった。

 

第10章 永遠の調べー死後の評価と“天才”の遺産

1791年12月5日、モーツァルトが息を引き取ったとき、ウィーンの空は灰色に覆われていた。
葬列にはわずかな友人しかおらず、コンスタンツェの姿も見えなかった。
それでも、遠くの教会では彼の『レクイエム』が静かに響き、人々の胸に深い余韻を残した。
このとき誰も知らなかった。
彼の音楽がこれから二世紀以上にわたり、人類の魂を揺さぶり続ける存在になることを。

モーツァルトの死後、彼の名は一時的に忘れられかけた。
生活は破綻しており、借金の記録ばかりが残り、作品の多くは散逸した。
妻コンスタンツェは夫の遺作を守るために奔走し、
未完の『レクイエム』を完成させ、演奏会を開き、彼の名誉を回復していく。
彼女の努力がなければ、今日のモーツァルト像は存在しなかった。

やがて時代が進むにつれ、音楽家たちは再び彼の楽譜を開き、その圧倒的な完成度に驚愕する。
ベートーヴェンは若き日に彼の前でピアノを弾き、
その後も一生「モーツァルトを越えたい」と語っていた。
ショパンやシューベルトも、彼の旋律の中に“音楽の理想”を見出した。
ロマン派の時代に入っても、彼の音楽は決して古びなかった。
むしろ、人間の感情を最も純粋に表現する形として再評価された。

19世紀、彼の作品はヨーロッパ中の音楽院で教材として扱われ、
『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』は次第に“人類の遺産”と呼ばれるようになる。
その音楽は、聖堂でも劇場でも、時代や国境を超えて愛された。
彼の作品の特徴は、複雑さではなく、人間の心の透明さにあった。
笑い、涙、怒り、優しさ――どんな感情も、彼の音の中では美しく並んでいた。

彼の音楽には、二つの相反する側面が共存している。
ひとつは、神のように秩序立てられた構成美。
もうひとつは、人間らしい感情の揺らぎ。
それらが完璧に調和しているからこそ、モーツァルトの音楽は“永遠”を感じさせる。
たとえ200年以上の時が流れても、彼の旋律を聴くと、誰もが“今ここで生まれたような新鮮さ”を覚える。

近代に入ると、心理学者や哲学者までもがモーツァルトを語り始めた。
ニーチェは「彼の音楽には、悲しみが喜びと共に笑っている」と記し、
アインシュタインは「宇宙の調和そのものだ」と称えた。
芸術を超えて、彼の存在は人間の精神の象徴になっていった。

彼の死からおよそ50年後、ウィーンにはモーツァルト像が建てられた。
その足元には、彼の代表的な旋律のモチーフが花で描かれ、
春になると観光客が絶えず訪れるようになった。
ザルツブルクの生家も保存され、今では世界中から音楽家が巡礼に訪れる聖地となっている。

しかし、彼の真の遺産は建物や銅像ではない。
それは、彼の音楽を聴くときに人が感じる**「生きている」**という感覚。
どんな時代、どんな国の人間でも、彼の音楽を聴くと心が動く。
その普遍性こそが、モーツァルトという存在を不滅にしている。

現代の演奏会でも、彼の作品は毎年のように演奏される。
それは単なる伝統ではなく、彼の音楽が“永遠の現在”を生きているからだ。
彼が亡くなった1791年から二百年以上が経った今も、
『レクイエム』は葬儀で、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は結婚式で演奏され、
『魔笛』は新しい世代の子どもたちを舞台へと誘う。

彼は人生の終わりまでに600曲以上を残した。
それらの一つひとつが、彼の短い命の中で燃え尽きた情熱の結晶だった。
モーツァルトの人生は儚くも、彼の音楽は終わらない。
彼の旋律は、今もどこかで誰かの心を救い、笑わせ、涙を誘っている。

天才とは何か――
それは、死んでもなお、音楽が生き続けること。
モーツァルトはその証明として、この世界に音を残した。
彼の調べは永遠に終わらず、今も静かに、優しく、世界を包み込んでいる。