第1章 スコピエの少女ーアグネス・ゴンジャの家族と信仰 

1910年8月26日。
オスマン帝国の支配下にあったスコピエという町で、一人の少女が産声を上げた。

名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ
後に世界中で“マザー・テレサ”として知られることになる少女だが、この時はまだ、祈りと家族の愛に包まれた小さな命にすぎなかった。

ニコラ・ボヤジュは建設業を営む実業家であり、地域の政治活動にも深く関わっていた。
彼はアルバニア系の民族独立運動を支援し、困っている者には惜しみなく手を差し伸べる心の広い男だった。

ドラナは敬虔なカトリック信者で、日々の祈りを欠かさず、貧しい人々への施しを当然のように行っていた。
彼女は娘にこう教えた。
「手の届くところに貧しい人がいるなら、そこに神がいると思いなさい」
その言葉はアグネスの幼い心に深く焼きつき、後の人生のすべての指針となる。

家は決して裕福ではなかったが、温かさに満ちていた。
アグネスには兄と姉がいたが、家族全員が信仰と奉仕を中心に生きていた。
父は家に旅人を泊め、母は貧しい人に食事を分け与え、子どもたちも自然とその手伝いをした。
食卓ではいつも祈りが捧げられ、「感謝の心」が日常の中に息づいていた。

しかし、アグネスがわずか8歳の頃、父ニコラが突然病に倒れる。
原因は毒殺ともいわれているが真相は定かではない。
一家の柱を失った母は、強い信仰を支えに必死に子どもたちを育て上げた。
この時、幼いアグネスの中に「困難の中でこそ人は神を見つめる」という感覚が芽生えた。

少年少女時代のアグネスは、教会の聖歌隊で歌い、祈りに時間を費やすことを何よりも好んだ。
同時に、通りで飢えや寒さに震える人々を見ては心を痛め、「いつか誰かを助けたい」と感じていた。
その“誰か”が特別な存在でなくてもいい、目の前にいる一人を救うことこそが神の仕事だと幼心に悟っていた。

10代になる頃には、彼女の信仰心はより強くなり、聖書の言葉を熱心に学ぶようになる。
中でも彼女の心を動かしたのは「隣人を自分のように愛しなさい」という一節だった。
それは彼女にとって単なる教義ではなく、生き方そのものの宣言になっていく。

母の背中を見て育ち、父の死を通して“愛と痛み”を知り、アグネスはいつしか心の中で確信するようになる。
「この世に生まれた理由は、誰かを幸せにするため」。

まだ少女の彼女は、この思いがやがてインドのカルカッタで何百万もの命に触れる原動力になるとは知らなかった。
しかし、このスコピエの家で育まれた信仰・家族・奉仕の三本柱が、すでに彼女の人生を静かに導き始めていた。

 

第2章 決意の召命ー修道女を志す十代の選択

アグネス・ゴンジャが思春期を迎えたころ、彼女の心はすでに「神に人生を捧げる」という方向へ動き始めていた。

14歳のとき、教会で行われた宣教師の講話を聴いた。
その中で語られた「インドで貧しい人々のために働く修道女たち」の話が、彼女の心を激しく揺さぶった。
それはまるで神から直接届いた呼びかけのように感じられ、胸の奥で静かに燃える何かが目覚めた。

スコピエの町を歩けば、アグネスの目に映るのは戦争や貧困に苦しむ人々の姿だった。
第一次世界大戦後、バルカン半島の社会は混乱の渦中にあり、人々の暮らしは不安定だった。
そんな中でもアグネスは、自分の将来を「安定した生活」ではなく「奉仕の道」に見出そうとしていた。

家族、とくに母ドラナは最初、娘の決意に戸惑った。
だが、アグネスの目の真剣さを見て、やがてその道を祝福する。
母は別れの日、彼女の手を握ってこう言った。
「神にすべてを委ねなさい。どんなことがあっても、神があなたを導いてくださる」

18歳のアグネスは、スコピエを後にする決断を下す。
行き先は遠いアイルランド。
そこにあるロレート修道会が、インドでの宣教を行っていたからだ。
未知の土地へ旅立つことは大きな不安を伴ったが、彼女の決意は揺るがなかった。

出発の日、母の目には涙が光っていた。
娘が二度とこの家を訪れることはないかもしれないことを、母は直感していた。
それでも母は祈りながら、娘を見送った。
アグネスもまた、心の奥でこう呟いた。
「神よ、私をお望みの場所へお遣わしください」

アイルランド行きの列車に乗り込むアグネスの胸には、恐怖と期待が入り混じっていた。
小さなスコピエから世界へ――それは単なる旅ではなく、信仰に基づく使命の始まりだった。

アイルランドに着くと、修道会での厳格な生活が待っていた。
早朝からの祈り、英語の勉強、規律に満ちた日々。
慣れない環境に戸惑いながらも、アグネスはいつも穏やかな笑顔を絶やさず、仲間たちの中でもひときわ謙虚だった。

修練期の中で、彼女は「修道名」を与えられる。
それが“テレサ”――フランスの聖人テレーズにちなんだ名だった。
聖テレーズは「小さなことを大きな愛で行う」ことを説いた人物。
アグネスはその精神に深く共鳴し、「テレサ」として新たな自分を生き始める

数か月後、彼女はインドへの派遣を命じられる。
人生の大きな岐路がまた一つ動き出す。
まだ見ぬ大地、カルカッタ。
その名を聞いただけで、多くの修道女が恐れを感じた。
だがテレサの胸には、不思議なほどの平穏があった。

「神が導くなら、私はどこへでも行く」

この信念を胸に、彼女はアイルランドの地を後にし、インド行きの船に乗り込んだ。
その瞬間、彼女の人生は“家族の愛”から“人類全体の愛”へと広がる第一歩を踏み出していた。

 

第3章 ロレート会の道ーアイルランドからインドへ

1929年1月6日。
18歳のテレサは、ロレート修道会の宣教師としてインドのカルカッタに到着した。
海を越える長い航海の果てに見たその街は、彼女の想像をはるかに超えていた。
活気と混沌が入り混じり、街のあちこちで貧困が露わになっていた。
インドは当時、イギリス統治下にあり、社会格差は残酷なほど広がっていた。

テレサはまず、ダージリンにあるロレート修道院で修練を続け、そこで教師としての訓練を受けた。
山々に囲まれた静かな修道院で、彼女は祈りと教育の意味を深く学んでいく。
そして1931年5月24日、正式に修道女として誓願を立てた。
そのとき選んだ名前は「テレサ・シスター」。
この瞬間、彼女の人生は完全に神の手に委ねられた。

誓願を立てた直後、彼女はカルカッタの聖マリア女学校に赴任する。
ここで英語と地理を教える教師としての人生が始まる。
生徒の多くは比較的裕福な家庭の子どもたちで、清潔な制服を着て授業を受けていた。
しかし校門の外に出れば、そこには物乞いや病人がひしめき合い、同じ街とは思えない現実が広がっていた。

テレサはその矛盾に心を痛めながらも、教師としての役割を全うした。
生徒たちには学問だけでなく、「他者への思いやり」を教えた。
彼女の授業は穏やかでありながらも芯があり、生徒たちから深く慕われた。
若い修道女でありながら、すでに母のような包容力を持っていたからだ。

やがて1937年、テレサは終生誓願を立て、正式に修道会の一員として生涯を神に捧げる。
その日、彼女はロレート会の仲間たちから「マザー・テレサ」と呼ばれるようになる。
“マザー”という言葉には、彼女の内に宿る愛と責任の象徴があった。
この日から、彼女は単なる教師ではなく、魂を導く者となっていく。

だが、マザー・テレサの心の奥には、ずっと小さなざわめきが残っていた。
裕福な生徒たちに囲まれながらも、路上の貧しい人々を見捨てているような気がしてならなかった。
学校の窓から見える街の影が、彼女の祈りの中で何度も浮かび上がる。

夜、聖堂で一人祈るたびに、その声は強くなっていった。
「この子たちだけでなく、外のあの人たちを助けることはできないのか」

それはまだ言葉にならない問いだったが、やがて“神からの呼びかけ”として形を帯びていく。
ロレート会での穏やかな生活、規律に守られた日々。
しかしその裏で、彼女の心は新しい使命の扉へと手をかけ始めていた。

カルカッタの街の喧騒の中で、神は静かに囁いていた。
「外へ出なさい。わたしの貧しい者たちのもとへ行きなさい」

この声こそが、後にマザー・テレサの人生を決定的に変える“第二の召命”へとつながっていく。

 

第4章 カルカッタの教壇ー聖マリア学校での奉仕

カルカッタの聖マリア女学校で教えるマザー・テレサは、静かな情熱を持った教師だった。
小柄で優しい口調ながら、授業中は生徒たちの目をまっすぐに見つめ、「勉強よりもまず心を清く」と語った。
彼女にとって教育とは、知識の伝達ではなく
愛の実践
そのものだった。

毎朝の祈りから始まる日々の中、彼女は校内外の区別を強く意識するようになっていく。
教室の窓の外には、貧しい人々が群がる路地が見えた。
子どもたちは裸足で、埃と病にまみれ、空腹で倒れている。
同じカルカッタの空の下にありながら、学校の中と外の世界はまるで別の星のように遠かった。

1930年代後半、インドでは独立運動が激化し、街の空気は緊張していた。
さらに第二次世界大戦の影響で物価が高騰し、貧困層の生活は急速に悪化していた。
それでもマザー・テレサは、与えられた役目を果たそうとする。
「愛は大きなことではなく、小さなことの中にある」という信念のもと、目の前の生徒に全力を注いだ。

彼女は教えるだけでなく、生徒たちに貧しい人への思いやりを育てようとした。
孤児院や病院を訪ねる課外奉仕を企画し、社会の現実を見せた。
その活動を通じ、生徒の中には後に福祉や医療の道に進む者も現れた。
マザー・テレサの教育は、単なる学問を超えた“魂の教育”だった。

しかし、彼女の心の奥底では次第に葛藤が膨らんでいく。
校舎の外の貧しさを目にするたび、自分が守られた場所で暮らしていることに罪悪感を覚えた。
ある晩、彼女は修道院の礼拝堂で長く祈った。
「神よ、私はここで正しいことをしているのでしょうか」
その問いに明確な答えはなかったが、胸の奥で何かが確実に動き始めていた。

やがて1943年、カルカッタをベンガル飢饉が襲う。
数百万人が命を落とし、街には死体が溢れ、子どもが飢えで泣き叫んでいた。
マザー・テレサは自分の目でその惨状を見た。
その光景は、彼女の心を完全に変えてしまった。

教壇に立ちながらも、彼女の視線はいつも校門の外に向かっていた。
「私の居場所は、もしかしたらこの中ではなく外なのかもしれない」
そう感じながらも、彼女はまだその思いを口にできなかった。

1946年、彼女は神に誓いを立てて15年目を迎えていた。
その年、人生を決定的に変える出来事が訪れる。
列車に乗り、休暇でダージリンへ向かう途中、彼女は突然神の声を聞いた
それが、後に彼女が語る“呼びかけの日(The Call within the Call)”である。

列車の中で、彼女の心に響いた言葉はひとつ。
「貧しい人々の中に入っていき、私を愛しなさい」

その瞬間、マザー・テレサは涙を流しながら理解した。
それまでの教師としての奉仕は“準備”に過ぎず、真の使命はまだ始まっていなかった。
カルカッタの街で見たあの飢えた人々こそ、自分が向かうべき場所だった。

列車がダージリンの駅に着いたとき、彼女の人生はすでに神の声によって新しい軌道へ乗っていた。

 

第5章 路上の声ー「呼びかけの日」と白いサリー

1946年9月10日。
マザー・テレサがダージリンへ向かう列車の中で体験した“呼びかけの日”は、彼女の人生を根底から変えた。
その日、車窓の外に広がるインドの貧しい村々を眺めていた彼女の心に、突然、静かでしかし抗いようのない声が響いた。
それは幻聴でも夢でもなく、神の直接の呼びかけとして彼女は受け取った。

「貧しい人々の中に入り、彼らの間で私を愛しなさい」

この言葉が胸に刻まれた瞬間、彼女の人生は“修道女”から“奉仕者”へと完全に方向を変えた。
列車を降りたとき、彼女は涙を拭いながら決意した。
「私は修道院を出て、貧しい人の中に生きる」

だがそれは簡単な決断ではなかった。
ロレート修道会の規律の中で生きる彼女が外に出るには、教皇の許可が必要だった。
さらに周囲の修道女たちは、彼女の計画を理解できなかった。
「あなたが一人でスラムに行ったところで、何ができるというの?」
その問いに、マザー・テレサはただ静かに答えた。
私は神の手にある小さな鉛筆です。書くのは神です

彼女はロレート会の衣を脱ぎ、白いサリーを身にまとった。
それは青い縁取りのあるインドの伝統的な衣で、以後、彼女とその修道会の象徴となる。
この服装の変化は単なる外見の問題ではなく、貧しい人々と同じ生活をするという誓いの証だった。

1948年、ついに彼女は正式に修道会を離れ、カルカッタのスラム街へと足を踏み入れる。
長年暮らしてきた清潔な修道院とはまるで別世界だった。
悪臭、病、飢え、そして死。
彼女は裸足でその街を歩きながら、目の前の現実に圧倒された。

最初の頃、マザー・テレサには仲間もいなかった。
頼れるのは神だけ。
生活のための食事も乞いながら、路上の子どもたちに読み書きを教えた。
屋根もない青空教室で、彼女は棒切れを使い、地面に文字を書いた。
子どもたちは初めは警戒していたが、やがて彼女の優しさに惹かれて集まってくるようになった。

マザー・テレサは同時に、病人たちの看護にも取り組み始める。
当時、カルカッタではハンセン病や結核が蔓延しており、患者は人々から忌避されていた。
しかし彼女は「彼らの中にも神がいる」と信じ、傷を洗い、薬を塗り、時には抱きしめて慰めた。
周囲からは「狂っている」と言われることもあったが、彼女は怯まなかった。

その姿を見て、少しずつ協力者が現れる。
かつての教え子や地元の医師たちが彼女に手を貸し、寄付や医薬品が集まり始めた。
マザー・テレサは小さな祈りの家を作り、そこを活動拠点とする。
それが後に「神の愛の宣教者会」となる最初の形だった。

彼女は言った。
「私たちは大きなことはできません。小さなことを大きな愛で行うだけです」

その言葉どおり、マザー・テレサの活動は華やかではなかった。
だが、ひとつひとつの行動が確実に人々の心を動かしていった。
路上で息を引き取る子どもを抱き、傷ついた人の手を取り、孤独な人の傍らに座る。
その小さな姿に、人々は「生きた愛」を見た。

この時期、マザー・テレサはすでに病人のための施設を作る構想を抱いていた。
「誰にも見捨てられず、誰も一人で死なない場所を作りたい」
それが彼女の新たな目標となる。

列車の中で聞いた“神の声”が、カルカッタの路上で現実になり始めていた。
その声は彼女を導き続け、やがて世界中を照らす希望の光へと変わっていく。

 

第6章 新しい会ー神の愛の宣教者会の創設

1948年、マザー・テレサはロレート修道会を正式に離れ、独りカルカッタのスラムでの活動を始めた。
その決断からわずか2年後、彼女のもとには数人の若い女性たちが集まり始める。
彼女たちは皆、マザー・テレサの「貧しい人の中で生きる」という信念に心を動かされ、自らも奉仕の道を選んだ。

1950年10月7日、長い準備と教会への申請を経て、ついに新しい修道会が正式に承認される。
その名は「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」
この名前には、神の愛を“言葉ではなく行動で示す”という願いが込められていた。

宣教者会の最初の拠点は、カルカッタのモティジル地区にある小さな家。
そこが彼女たちの祈りの場であり、寝床であり、そして命を救う現場だった。
家具らしいものはなく、布団も粗末だったが、マザー・テレサは微笑みながら言った。
「私たちは貧しい人と同じものしか持たない」

活動の中心となったのは、「死にゆく人の家(ニルマル・ヒルダイ)」の設立だった。
これは路上で息を引き取ろうとしている人々を受け入れ、最期の瞬間まで人としての尊厳をもって看取る場所。
どれだけ貧しく、どれだけ汚れていても、そこでは全員が「神の子」として迎え入れられた。

マザー・テレサは自ら患者の体を洗い、傷を消毒し、食事を与えた。
時には、看病の最中に息を引き取る人もいたが、彼女は静かに十字を切り、そっとその手を握った。
「この人は、神の腕の中で眠ったのです」と彼女は言った。

やがて、彼女の活動は地元の人々に知られるようになり、少しずつ支援が集まっていく。
裕福な商人や外国人の寄付、医師たちの協力、学生ボランティアの参加。
カルカッタの街に、小さな“奇跡”が生まれ始めていた。

マザー・テレサは施設の運営よりも、「愛の姿勢」そのものを重視した。
彼女の言葉は常に短く、しかし力強かった。
「私たちは成功するために呼ばれたのではありません。忠実であるために呼ばれたのです」
その一言が仲間たちの背中を押した。

宣教者会の修道女たちは、青い縁取りの白いサリーを身につけ、カルカッタの裏通りに散っていった。
孤児の保護、ハンセン病患者の看護、飢えた者への食事。
どの行いも小さく見えたが、それぞれが命を救い、心を照らした。

1955年には子どもの家(シシュ・ババン)が設立され、孤児や捨てられた赤ん坊が保護された。
マザー・テレサは赤ん坊を抱きながら、「この子たちこそ未来の希望です」と微笑んだ。
病と飢え、そして絶望の街の中で、彼女たちは“神の愛の証”として存在していた。

1950年代後半になると、会のメンバーは急速に増加する。
インド各地に支部が作られ、活動の範囲も広がっていった。
それでもマザー・テレサは、いつも初心を忘れなかった。
「一番貧しい人の中の、さらに貧しい人に仕える」
その原点を守り続けるため、彼女は修道女たちにこう言い聞かせた。
「もし私たちが貧しい人の手を取りながら、神を見ないなら、それはもう愛ではありません」

マザー・テレサのもとに集まった人々は、信仰の力だけを頼りに活動を続けた。
電気も水もない場所での看護。
病の臭いが染みついた部屋での祈り。
それでも彼女は一度も不平を言わず、穏やかに笑い続けた。

やがて、カルカッタの片隅に始まったその小さな運動が、世界を動かす光へと成長していく。
だが、名声や注目を望んだわけではない。
マザー・テレサにとって、すべてはただ一つの目的――
「苦しむ人の中に神を見る」ための歩みだった。

 

第7章 死にゆく人の家ー貧者とともに生きる日々

1950年代後半、カルカッタの街角には、白と青のサリーをまとった修道女たちが現れるようになった。
彼女たちは「神の愛の宣教者会」のメンバーであり、その中心に立つのがマザー・テレサだった。
彼女たちは豪華な教会にも、整った施設にもいなかった。
彼女たちの現場は路上だった。

マザー・テレサはまず、路上で倒れている病人を拾い上げ、自らの手で介抱した。
彼女が設立した「死にゆく人の家(ニルマル・ヒルダイ)」には、毎日、命の灯が消えかけた人たちが運び込まれた。
ベッドも医療器具も十分ではない。
それでも、そこには清潔な布と温かい食事、そして何よりも人として扱われる尊厳があった。

マザー・テレサはこう語った。
「私たちは貧しい人にパンを与えるだけでなく、愛を与えます。彼らが人間として死ねるようにするのです」
彼女にとって“救う”とは、生き延びさせることだけではなかった。
“誰にも看取られずに死ぬこと”こそが最大の悲しみであり、それを取り除くことが彼女の使命だった。

「死にゆく人の家」に運ばれる人の多くは、名前さえ知られないまま息を引き取った。
マザー・テレサはそんな人々を“神の子”と呼び、十字を切って看取った。
その手の温かさに触れながら、死者の表情が穏やかに変わっていく光景を何度も目にした修道女たちは、涙を流した。

やがて活動の輪は広がり、ハンセン病患者の支援施設や、孤児のための家(シシュ・ババン)も設立される。
マザー・テレサは、病に苦しむ人々の傷口を恐れずに洗い、赤ん坊の口にスプーンでミルクを流し込んだ。
それは宗教のための行いではなく、人間として当然の愛だった。

ある日、外国人の記者が彼女に質問した。
「なぜ、こんなに汚く悲惨な人々の中で働けるのですか?」
マザー・テレサは微笑みながら答えた。
「この人たちの中に、私はイエスを見ます。だから抱きしめられるのです」
その答えに、記者は言葉を失った。

カルカッタの街では、マザー・テレサの存在は次第に伝説のようになっていった。
一人で始めた活動は、数百人の修道女、数千人のボランティアを生み出し、国境を越えて広がっていく。
それでも彼女自身は、質素な部屋に住み、粗末な食事をとり、「貧しい者の中の一人」であり続けた。

マザー・テレサの一日は驚くほど過酷だった。
朝4時に起き、祈りを捧げ、病人の世話に出かける。
昼食もわずかにパンと紅茶だけ。
夜は書簡と祈りに時間を費やし、わずかな休息を取るだけだった。
だがその顔には、疲労よりも静かな喜びが宿っていた。

彼女の周囲には常に“矛盾”があった。
神を信じる者でありながら、あまりにも多くの苦しみを目にする日々。
それでも彼女は、「神は私たちを試すが、見捨てはしない」と言い続けた。
どんなに過酷な現実でも、彼女の瞳には希望があった。

1950年代の終わりには、マザー・テレサの名はインド政府にも知られるようになり、彼女は社会奉仕賞を受賞する。
しかし彼女は、受賞式を欠席して現場に残った。
「賞よりも、今ここで苦しんでいる人の方が大切だから」。

それがマザー・テレサの生き方のすべてだった。
名誉も、地位も、彼女にとっては意味を持たなかった。
彼女が求めたのはただ一つ、「誰もが愛される世界」

やがてその小さな愛の行動が、インドから世界へと波紋のように広がっていく。
カルカッタの狭い路地で始まったその祈りが、いつしか国境も宗教も超えた“人間の祈り”へと変わっていった。

 

第8章 世界へ拡がる手ーノーベル平和賞と国際展開

1960年代に入ると、マザー・テレサと「神の愛の宣教者会」の活動はインド国内だけでなく、世界へと広がっていった。
戦争、飢餓、貧困に苦しむ地域に次々と派遣される修道女たち。
青い縁取りの白いサリーは、やがて“無償の愛の象徴”として知られるようになる。

最初の国外派遣は、ベネズエラ。
続いてローマ、タンザニア、オーストラリア、アメリカ――その活動範囲は驚くべき速さで拡大した。
しかしマザー・テレサは決して華やかな宣伝をしなかった。
どこの国でも最初に建てるのは、貧民のための家
それはどんな国でも変わらない、彼女なりの“聖地”だった。

彼女のもとには、各国から寄付金や支援の申し出が届いた。
それでもマザー・テレサは、金銭ではなく祈りと行動を重視した。
「お金があっても、愛がなければ意味がない」と言い切り、信者にも無信者にも分け隔てなく接した。
貧困は宗教や国境を選ばない。
だからこそ、彼女の慈善はどんな枠にも囚われなかった。

1965年、教皇パウロ6世は「神の愛の宣教者会」を国際修道会として正式に承認。
これにより、会は全世界で活動することが可能となった。
その後10年間で、支部は40か国を超え、修道女の数は数千人に達した。
同時に一般市民にも参加できる「ボランティア部門」が設立され、信仰を持たない人々もマザーの理念に共鳴していった。

1970年代、マザー・テレサの名はついに世界の耳に届く。
しかし彼女はメディアに出ることを好まなかった。
それでも、取材を避けきれなくなったとき、彼女は穏やかに語る。
「私の顔を見るのではなく、私の手がしていることを見てください」
彼女にとって重要なのは、自分ではなく“行い”だった。

1979年、マザー・テレサはついにノーベル平和賞を受賞する。
カルカッタの小さな祈りの家から始まった活動が、世界的な評価を受けた瞬間だった。
授賞式の日、彼女はいつもの白いサリーを身にまとい、オスロの壇上に立った。
式典の食事会の費用をすべて貧者への支援に回し、マイクの前でこう語った。

「私たちの敵は貧困です。そして貧困の根は無関心です」

会場は静まり返り、やがて大きな拍手が湧き起こった。
だが、マザー・テレサはその名誉を自分のためとは思わなかった。
彼女にとってそれは、“貧しい人々の声が世界に届いた証”だった。

帰国後、彼女は何事もなかったようにいつもの活動に戻る。
カルカッタの路地に戻り、病人を抱き、子どもにスープを与え、死者の手を握る。
彼女にとって世界の舞台も路上も同じ価値を持っていた。
どちらも“神の現場”だったからだ。

1980年代に入ると、活動はさらに拡大。
アフリカでは飢餓救済に、ヨーロッパではホームレス支援に、アメリカではHIV患者のケアに取り組む。
マザー・テレサは世界中を飛び回りながらも、いつも語る言葉は変わらなかった。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」

彼女の生き方は、多くの人々の良心を揺さぶった。
政治家も学者も、宗教家も、貧しい人のそばにいる彼女の姿に“真の聖人”を見た。
だがマザー・テレサ自身は、その称号を拒み続けた。
「私は聖人ではありません。神の手の中の、欠けた鉛筆です」

その“欠けた鉛筆”が書き続けた物語は、すでに地球の果てまで届こうとしていた。
名誉も権力も持たない小柄な女性が、世界を動かす。
それがマザー・テレサという存在の、最も奇跡的な事実だった。

 

第9章 沈黙の闇ー霊的暗夜と手紙の告白

1980年代後半、マザー・テレサは世界的な尊敬を集めながらも、心の奥底では深い苦悩を抱えていた。
外から見れば、彼女は“聖女”と呼ばれ、世界中の信者に希望を与える存在。
しかし、彼女の内面では長年にわたり「神の沈黙」と呼ばれる霊的な闇が続いていた。

後年になって公開された彼女の私信には、その苦悩が赤裸々に綴られている。
彼女はこう書いている。
「神は私を愛しておられないように感じます。天は閉ざされ、私の祈りは何も届かない」
信仰に生きた彼女が、誰よりも深い“信仰の不在”に苦しんでいた。

この“霊的暗夜”と呼ばれる状態は、表向きには決して見せることがなかった。
マザー・テレサはいつも笑顔で、人々を励まし、病人を抱きしめ続けた。
だが、夜にひとり祈る時間になると、彼女の心は深い孤独に沈んだ。
その沈黙の中で、彼女は神の声を待ち続けた。

皮肉にも、この時期こそが彼女の活動が最も拡大した時期でもある。
修道会のメンバーは1万人を超え、123か国に支部が広がっていた。
名誉、賞賛、拍手――それらが増えるほど、彼女の心は静かに沈んでいった。
彼女にとって神とは“栄光”ではなく、“沈黙”の中にいる存在だったからだ。

「神は私を必要とされない。けれども私は神を必要としている」
その痛切な言葉は、ただの神秘体験ではなく、信仰の真の試練だった。

しかし、マザー・テレサはその闇の中でこそ、最も純粋な愛を見つける。
信仰が感じられないときでも、愛を実践し続ける。
それが彼女にとっての祈りだった。
「信じられなくても、信じるように行動する」
この逆説こそ、彼女の生涯を貫く力となった。

ある神父に宛てた手紙には、こんな一節がある。
「私は笑っていますが、心の中では痛みで叫んでいます。けれども、微笑みを絶やさないのは、神に微笑みを返すためです」
この一文が示す通り、マザー・テレサの“聖性”は完璧さではなく、痛みを抱えながらも愛を選び続けた不完全さにあった。

1990年代に入ると、彼女の体は次第に衰えていく。
心臓発作を起こし、入退院を繰り返しながらも、活動を止めなかった。
病院のベッドの上でも、彼女は祈りと書簡を続けた。
世界の政治家が見舞いに訪れても、彼女の関心はただ一つ――貧しい人々がどう生きているか、だった。

マザー・テレサの“沈黙の闇”は、最後まで完全に消えることはなかった。
だが、その闇の中でこそ、彼女の信仰はより深く、より静かに根を張っていった。
「もし私の闇が、人々を神へ導く光となるなら、私はそれを喜んで受け入れます」

その言葉通り、彼女の心の痛みは、誰かの希望の光へと変わっていく。
彼女の微笑みが優しかったのは、痛みの重さを知っていたからだった。

人々が「聖女」と呼んだその笑顔の裏には、誰にも見えない闇と、神への沈黙への祈りがあった。
けれども、その沈黙こそが、彼女を“完全な愛の証人”へと鍛え上げていた。

 

第10章 最後の巡回ー帰天と遺された光

1990年代に入ると、マザー・テレサの体は次第に限界を迎えていた。
長年の過労と心臓疾患が重なり、彼女は何度も倒れた。
それでも活動をやめようとはしなかった。
医師の静止を振り切って、修道女たちと共にカルカッタの路上に立ち続けた。

彼女の言葉はいつも同じだった。
「私は休むために天国へ行くでしょう。でも、地上にいる間は働きます」
その冗談めいた口調の裏には、限界を超えても奉仕をやめない決意が隠れていた。

1996年、マザー・テレサは再び心臓発作で倒れ、入院生活に入る。
見舞いに訪れた修道女たちに、彼女は静かに言った。
「私の代わりに、もっと愛しなさい」
それはまるで遺言のような言葉だった。

1997年9月5日、カルカッタの祈りの家で、マザー・テレサは息を引き取る。
87歳。
その死は、インド全土を、そして世界を深い悲しみに包んだ。
インド政府は国葬を決定し、葬列にはヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、そして無宗教の人々までが集まった。
宗教も国境も越えた弔い。
それは彼女が生涯をかけて求め続けた“愛の共同体”そのものだった。

葬儀の日、カルカッタの街には数十万人の人があふれた。
白と青のサリーをまとった修道女たちが静かに祈りを捧げる中、彼女の棺は街を進んだ。
群衆は花びらを投げ、泣きながら手を合わせた。
それは悲しみよりも、感謝に満ちた光景だった。

マザー・テレサの死後、「神の愛の宣教者会」はさらに拡大していく。
彼女の遺志を継ぎ、修道女たちは今も世界各地で活動を続けている。
災害地、戦場、スラム、孤児院、病院――そのどこにも、あの白いサリーの姿がある。
彼女が生きたように、誰かの痛みに手を伸ばす人々が確かに残っていた。

2003年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、マザー・テレサは列福(聖人への第一段階)の儀式を受ける。
そして2016年、教皇フランシスコにより正式に聖人(聖テレサ)として列聖された。
カルカッタの路上から始まった一人の女性の祈りが、ついにカトリックの歴史の中に刻まれた。

だが、マザー・テレサが生きていればこう言っただろう。
「私は聖人ではありません。ただ、神の手の中の小さな鉛筆です」

彼女の人生は、奇跡の連続ではなく、小さな愛の積み重ねだった。
一人の命を抱き、一人の孤独を癒し、一人の子どもを育てる。
その“一人”の積み重ねが、やがて世界を照らした。

マザー・テレサが残した言葉に、こんなものがある。
「私たちのすべての行いは、神の愛のほんのしずくです。けれども、そのしずくが集まれば、大きな海になります」

彼女の手からこぼれたその“しずく”は、今も世界のどこかで人を潤し続けている。
静かで、しかし確かな愛の形として――。