第1章 ジェニーの決意と“父なしの息子”の誕生

物語の始まりは、1940年代のアメリカ東海岸。
若き看護婦ジェニー・フィールズは、
軍病院で働く真面目で頑固な女性だった。
恋愛にも結婚にも興味がなく、
「私は誰の妻にもならずに、子どもを産みたい」と本気で考えていた。
当時の社会では異端もいいところ。
同僚たちは彼女を変わり者扱いし、
両親も「女として終わっている」と嘆く。

だがジェニーは一歩も引かない。
「女が“男に愛されること”でしか生きられないなんて、
 そんな世界の方がおかしい。」
そう考えた彼女は、
ある夜、病院で昏睡状態の負傷兵テクニカル・サージェント・ガープを見つける。
彼は脳損傷で言葉も話せず、意識もない。
だが彼女は、彼に“安全な父親”としての役割を与えようとする。

「あなたの遺伝子を借りるだけ。
 愛なんていらないの。」
ジェニーは倫理も常識もすべて無視して、
その兵士の子を身ごもる。
この異常な決断によって生まれたのが――
T・S・ガープ。
(名は“テクニカル・サージェント”の略から取られた皮肉なものだった。)

ジェニーは職場を追われ、家族にも縁を切られたが、
彼女は平然としていた。
「私は自分の選んだ人生を生きる。
 それが愛よりも自由ってやつよ。」

やがてガープが生まれる。
幼い彼は、母の強さと孤立の中で育つ。
母ジェニーは彼を溺愛しながらも、
どこか“研究対象”のように観察していた。
「この子は、男として世界をどう見るんだろう?」
それがジェニーの生涯のテーマになる。

ガープは成長するにつれ、
母の強烈な個性に影響を受けながらも、
自分なりの“愛と性と死”の意味を探し始める。
彼はスポーツが得意で、想像力が豊かだった。
そして何より――“母の作った世界の中で生きている自分”に違和感を覚えていた。

一方で、ジェニーの行動は世間の注目を集め始める。
彼女が戦場の負傷兵と子を成したこと、
男に頼らず子を育てていること、
それが当時の女性運動の象徴のように扱われ、
次第に彼女はフェミニズムの偶像になっていく。

だが、ジェニー自身は運動家ではなかった。
「私はただ、自分が正しいと思うことをしただけ。」
彼女の信念は純粋で、同時に危うかった。

小さなガープはそんな母を見ながら思う。
「母さんは世界を変えたいんじゃなくて、
 世界を拒絶してるんだ。」

「母が生きる世界は孤独で、
でもその孤独の中でしか自由は手に入らない。」

第1章はここで終わる。
“父なき息子”として生まれたT・S・ガープと、
“愛なき母”として生きるジェニー・フィールズ
ここから二人の人生は――
愛、性、暴力、そして死に満ちた“ガープの世界”へと広がっていく。

 

第2章 教育と欲望、そして「書くこと」のはじまり

少年期を過ぎたT・S・ガープは、
母ジェニーとともにステアリング校という名門寄宿学校へ向かう。
彼女は看護師として校内で働き、
ガープはその特権で学ぶことになった。
ここで彼の人生の軸――性・創作・孤独のすべてが動き出す。

ステアリング校は厳格な男子校。
だがガープはどこか浮いた存在だった。
母親が学校で働き、
“結婚せずに子を産んだ女”として周囲から見られること。
それは思春期のガープにとって、
誇りでありながらも、深い恥でもあった。
「俺は母の理想の副産物じゃない。
 俺は俺の人生を書いてやる。」

彼は勉強よりも、
レスリング物語を書くことにのめり込んでいく。
レスリングは彼に“身体の現実”を教え、
執筆は“心の混乱”を言葉に変える道具だった。
夜な夜なノートを広げ、
彼は“戦争に行かなかった兵士の物語”を描いた。
それは彼自身の存在証明でもあった。

そんな彼の前に現れるのが、
コーチの娘ヘレン・ホルム
文学少女で、知的で、冷静な彼女にガープは一目惚れする。
だが彼女は簡単には心を開かない。
「あなたの小説が面白かったら、デートしてあげるわ。」
この言葉が、ガープの作家魂に火をつけた。

彼は書き続け、彼女を口説き、
そしてついに恋が始まる。
二人は激しく、真っ直ぐに惹かれ合う。
ヘレンはガープに“現実的な知性”を与え、
ガープは彼女に“衝動と情熱”を教えた。
しかしこの関係は、同時に
“彼の母ジェニーの世界”とは正反対のものでもあった。

ジェニーはその恋を冷ややかに見ていた。
「愛なんて病気と同じよ。
 かかれば治るけど、跡は残る。」
だがガープは母の言葉に反発する。
「母さんが信じないなら、俺が信じてやるよ。」

そして彼の中で、
“母の理想”と“自分の愛”が衝突する最初の火花が散る。

やがて卒業の日が近づく。
ガープは文学を志し、ヘレンと結婚することを決意する。
ジェニーは微笑んで言った。
「いいわ。あなたはあなたの“現実”を生きなさい。
 でも、世界はあなたを壊しに来るわよ。」

その夜、ガープは母の部屋の机に置かれた原稿を見つける。
そこには彼女が執筆中の本――
『ある独立した女性の考察』のタイトルが記されていた。
女性の生き方を告白的に綴ったその作品は、
のちに全米で大論争を巻き起こすことになる。

母は“自分の言葉”で世界を変えようとしていた。
そして息子ガープもまた、“自分の物語”で生きようとしていた。
二人の道は重なりながらも、
少しずつ違う方向へと分かれていく。

第2章はここで終わる。
ガープは作家としての道を歩き始め、
ヘレンとの愛を手に入れる。
だがその先には――
“愛と創作と暴力”が同じ線上にある世界が待っていた。

 

第3章 愛と結婚、そして“現実”という名の戦場

T・S・ガープヘレン・ホルムは結婚した。
二人は学生時代からの恋人であり、
互いの知性と情熱に惹かれ合った。
しかし、結婚した瞬間から、
彼らの関係は“恋”ではなく“生活”へと変わっていく。

最初の数年は穏やかだった。
ガープは小説を書き続け、
ヘレンは文学講師として働きながら、
互いの仕事を尊重して暮らしていた。
彼らの間に息子ダンカンが生まれると、
ガープは「ついに自分の“家族”を持った」と胸を張る。
だが同時に、
彼は母ジェニー・フィールズの影から逃れられないでいた。

ジェニーは今や一躍時の人。
著書『ある独立した女性の考察』がベストセラーとなり、
フェミニズムの象徴として講演に引っ張りだこだった。
彼女の本は男たちを痛烈に批判し、
“女性は男の戦争にも性にも従属しない”と宣言する。
一方のガープは、
そんな母の成功を誇りに思いながらも、
どこかで怒りを抱いていた。
「母さんは俺の存在で世界に復讐してる。」

母が“社会的理想”を追う一方で、
ガープは“個人的な愛”の中で生きようとする。
だが現実は冷酷だ。
ヘレンは職場で次第に別の男性――
文学青年のマイケル・ミルズと知的な交流を深めていく。
二人の関係はあくまで“本の話”に見えた。
しかし、
ガープは本能的に気づいていた。
「彼女の心のページは、俺の知らない誰かにめくられてる。」

その頃、ガープ自身も、
ベビーシッターのアリス・フレッチャーと関係を持ってしまう。
最初は一瞬の気の迷い。
だが、アリスが彼を“孤独な男”として理解したことで、
ガープはその関係を断ち切れなくなっていく。
ヘレンに対する罪悪感と、
母の教えに対する反抗が、
彼の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていった。

そんなある夜、
ガープは息子を寝かしつけながら思う。
「家族ってのは、
 人間が愛という幻想を信じたせいで作った最初の牢獄だ。」

そして――
ついに秘密は破れる。
ヘレンがマイケルと不倫をしていることを、
ガープは偶然目撃してしまう。
怒りに駆られた彼は、
息子を車に乗せてヘレンの家を飛び出し、
そのまま猛スピードで帰路を走った。

その途中、
交差点に立っていたのは――マイケル・ミルズ。
ヘレンを迎えに来た彼を避けきれず、
ガープの車は激突する。

マイケルは即死。
ダンカンは重傷。
ヘレンは絶叫。

血とガラスの中で、ガープは呆然とつぶやいた。
「俺はただ、愛してた。それだけだったのに。」

数週間後、
ダンカンは奇跡的に一命を取りとめる。
しかし、ガープとヘレンの関係は、
もはや修復不能だった。
二人の間に残ったのは、
“愛の死骸”と“責任”という鎖だけ。

「愛は永遠じゃない。
だが、その終わり方こそが、人間を一番正直にする。」

第3章はここで終わる。
ガープは愛し、裏切り、失い、
家族という幻想の現実を突きつけられる。
この事故を境に、彼の人生は“創作と死の物語”へと傾き始める。

 

第4章 母と息子、そして“世界”が燃え始める

車の事故から数か月。
ガープは身体の傷を癒やしたが、心の中の傷は深く、
家族の関係は完全に変わってしまった。
ヘレンは罪悪感と喪失感に押しつぶされ、
ガープも“愛とは何か”という問いの答えを見失っていた。
彼らの間にあるのは、
再構築というより“残骸の整理”に近い沈黙だった。

その頃、母ジェニー・フィールズの名声はさらに高まっていた。
彼女は“男に頼らずに生きる女性”の象徴として、
世界中で講演を行い、
フェミニスト運動のカリスマとなっていた。
しかし、ジェニーが放ったメッセージは、
やがて予想外の“極端な信者たち”を生み出す。

それが――「エレン派」と呼ばれる過激な女性集団
彼女たちは男社会への復讐を宣言し、
性的暴力の被害者を支援する一方で、
加害者を徹底的に憎み、
中には自ら舌を切り落とす者まで現れた。
「言葉を男に奪われないために、
 話す権利そのものを捨てたのだ」と主張する彼女たちの姿は、
ジェニーにとっても恐怖であり、皮肉だった。

「私の本は、
 人を救いたかったのに、信仰の道具になってしまった。」

その一方で、ガープはようやく再び小説を書き始めていた。
テーマは“愛と恐怖”。
事故の夜の記憶を小説に変えようとする彼に、
ジェニーは言う。
「あなたはまだ、世界を信じたいのね。」
「信じたいんじゃない。理解したいんだ。」
二人は初めて、作家として対等に言葉を交わした。

ジェニーは息子を誇りに思いながらも、
自分の作った“世界”がどんどん暴走していくのを止められずにいた。
フェミニストの集会では、
彼女の言葉が“教義”のように引用され、
反対派の男たちからは“魔女”と罵られる。
それでも彼女は毅然としてマイクの前に立つ。
「私は誰も憎んでいない。
 ただ、女が自分の意志で生きることを肯定しただけ。」

ガープはその母の姿を見ながら、
複雑な感情に揺れていた。
「母さんは正しい。
 でも“正しい”ってやつが、
 一番人を狂わせる。」

一方で、彼の小説は評価され始め、
文学界に名を知られるようになっていた。
批評家たちは「母の二世」だと皮肉を言うが、
彼はそれを気にせず書き続けた。
「俺は母の理想を壊すために、
 母と同じように書いてる。」

そんな折、ジェニーは彼を呼び出し、
一枚の新聞を差し出す。
そこには“男に暴行された少女が報復で彼を刺殺した”という記事。
「あなたの本で、この子が救われたかもしれない」と母は言った。
ガープはその言葉に震えながら答える。
「人が誰かを殺したあとで、
 “救われた”なんて言葉、俺は信じたくない。」

母と息子――
二人の信じる“正しさ”は、
ついに交わらないまま、別の方向へ進み始める。

「世界は怒りで動く。
でも、怒りの中にあるのはいつも愛の亡霊だ。」

第4章はここで終わる。
ガープが“書くこと”で世界を見つめ、
ジェニーが“語ること”で世界を変えようとする。
二人の思想が燃え上がるほど、
その炎はやがて破滅の火種へと変わっていく。

 

第5章 家族の再生と、暴力の時代

時が流れた。
ガープは作家としての地位を確立しつつあった。
新作『世界の端で笑う男』が注目を集め、
「母ジェニーを超えた」とまで評された。
だが、彼自身はその評価を苦笑で受け流す。
「母を超えるって? 母は神話だ。俺はただの凡人だよ。」

ヘレンとは長い沈黙を経て、
再び“家族”として寄り添い始めていた。
息子ダンカンの傷はまだ残っていたが、
それでも彼は笑顔を取り戻し、
家族には久々に穏やかな時間が訪れていた。
ガープは小説を書きながら料理をし、
ヘレンは学生たちに文学を教え、
「普通の生活」という幻想を少しだけ信じていた。

しかし、世界は再び狂い始めていた。
ジェニーの影響を受けたエレン派が暴走し、
男たちへの報復や過激なデモを繰り返していた。
その暴力に反発する“反フェミニスト団体”も現れ、
社会は憎悪と怒号で分断されていく。
ジェニーは演説でこう語る。
「私たちは誰とも戦っていない。
 ただ、無視されることに耐えないだけ。」

だが彼女の理想は、
もはや“怒りの燃料”としてしか消費されていなかった。
講演会のたびに脅迫状が届き、
警備が強化される。
それでもジェニーは怯えずに立つ。
「女が静かにしている限り、世界は変わらない。」

そんな中、ガープは再び筆を握る。
テーマは“暴力と愛の共存”。
彼は母の活動を批判する形で、
『母という戦場』という小説を書き始める。
「母さんの戦いは、たぶん間違ってはいない。
 でも戦いが長く続くほど、人間は理由を忘れる。」
それは、母への挑戦であり、
同時に息子としての祈りでもあった。

執筆の傍ら、ガープはエレン派の元メンバーとも交流を始める。
彼女たちは傷つき、迷い、
もはや“運動”ではなく“生きる場所”を探していた。
その中の一人――ポーという女性が、
彼にこう言った。
「あなたの母は正しかった。
 でも、正しさだけじゃ誰も幸せになれなかった。」
ガープは黙って頷いた。

ある晩、母ジェニーから電話がかかる。
「講演に来てほしいの。
 あなたと一緒に、“二つの視点”として話したい。」
ガープは逡巡する。
「俺が行けば、きっと会場は荒れる。
 でも、母さんが望むなら行くよ。」

講演当日。
母と息子が並んで壇上に立つ。
ジェニーは“女性の独立”を語り、
ガープは“人間の不完全さ”を語った。
会場には緊張が走る。
そこにいたのは賛成派、反対派、報道陣、
そして――
一人の銃を持った男。

男は叫んだ。
「お前が世界を壊したんだ、ジェニー・フィールズ!」
次の瞬間、銃声が響く。

ジェニーは撃たれ、倒れる。
 胸に赤い花のような血が広がった。

ガープは母を抱きしめ、必死に叫ぶ。
「母さん! まだ喋ってくれ!」
ジェニーは微笑み、
小さくこう言った。
「喋りすぎた女の、最後の沈黙ね。」

第5章はここで終わる。
ジェニー・フィールズは信念のために死に、
ガープはその“思想の遺児”として残される。
母が築いた世界――「言葉によって救われ、言葉によって殺される世界」が、
ここから彼を飲み込み始める。

 

第6章 母の死と、“言葉の重さ”の中で

ジェニー・フィールズの葬儀は、
全米の注目を集める巨大な儀式になった。
数千人の女性たちが、
「彼女は私たちの声だった」と泣きながら集まった。
一方で、保守派の男たちは「男を侮辱した罰だ」と冷笑した。
だが――息子T・S・ガープにとって、
それはただ一つの事実だった。
“母はもういない。”

式の間、ガープは終始無言だった。
葬儀委員たちが彼を「ジェニーの後継者」と呼び、
女性活動家たちが彼に涙を向けても、
彼は表情を変えなかった。
やがて司祭が聖書を朗読し、
弔辞の順番が回ってくる。
ガープはゆっくり立ち上がり、マイクの前に立った。

「母は…戦った。
 でも、戦うことが幸せをもたらしたかどうかはわからない。
 彼女は世界を変えたけど、
 同時に世界に傷をつけた。
 それでも――俺は彼女を誇りに思う。」

その一言に、会場は静まり返った。
誰もが彼の声の震えの中に、
“愛と怒りと赦し”が入り混じった複雑な響きを感じた。

葬儀の後、ガープは母の遺品を整理するため、
かつての実家を訪れる。
机の引き出しには、未完成の原稿と手紙が残っていた。
手紙の宛名には――“ガープへ”

「あなたが何を書こうと、
それが誰かを救うかもしれないし、傷つけるかもしれない。
でも、それが“書くこと”の意味なのよ。
人は沈黙に殺される前に、
言葉で自分を守らなきゃいけない。」

ガープはその手紙を読みながら、
目頭を押さえ、涙をこぼした。
母が生きていた頃には聞けなかった“母の本音”。
それは政治でも思想でもなく、
“一人の母親としての愛”だった。

彼は母の葬儀が終わった夜、
タイプライターに向かう。
そして、新しい原稿の冒頭にこう書いた。

“母が死んだ日、僕はようやく書き手になった。”

しかしその文章を打ちながら、
彼の胸には恐怖も生まれていた。
「母の言葉が世界を動かしたように、
 俺の言葉も誰かを壊すかもしれない。」
それでも書く。
なぜなら、それ以外に生きる術を知らなかったからだ。

彼の書く物語は、
愛、暴力、喪失、そして死――
すべて母の人生から流れ出た要素だった。
だが、彼の作品はもはや母の模倣ではなかった。
ガープ自身の“痛みの報告書”になっていた。

執筆の最中、
母のかつての仲間たち――エレン派の一部が彼を訪ねてくる。
彼女たちは涙ながらに言う。
「ジェニーが死んでも、私たちはまだ戦ってる。
 でも、あなたの本が……少し、私たちを楽にしたの。」
ガープは静かに答えた。
「母さんの戦争は終わった。
 これからは、俺たちが沈黙を選べる時代を作らないとな。」

その言葉に、女性の一人が微笑んだ。
「あなたはジェニーの息子ね。」

夜、ガープは書き終えた原稿を閉じ、
窓の外を見つめる。
母の墓が遠くにある気がした。
だが彼は、もうそこに祈らない。
彼の中に母がいると、ようやく信じられたから。

「人は死んでも、言葉が残る。
言葉がある限り、沈黙は世界を支配できない。」

第6章はここで終わる。
母の死によってガープは本当の作家となり、
“言葉”という武器と呪いを受け継いだ。

だが、その言葉が再び彼自身を破滅へ導くことを、
このときの彼はまだ知らなかった。

 

第7章 名声と孤立、そして“ガープ現象”

母ジェニーの死から数年後。
T・S・ガープはその悲劇を糧にして、作家として完全に覚醒していた。
彼の作品『母の葬列』は出版されるや否や大反響を呼び、
文学賞を総なめにし、
“フェミニズム第二世代の代弁者”とまで呼ばれるようになる。
皮肉なことに、彼が一番避けたかった母と同じ象徴化が起こったのだ。

講演会では女性たちが涙を流し、
男性たちは困惑し、
評論家たちは口を揃えて言った。
「ガープは“ジェニー・フィールズの息子”であると同時に、
 “男のジェニー”である。」
ガープはその言葉にうんざりしていた。
「母の亡霊から逃げ出したと思ったら、
 俺がその亡霊になってやがる。」

彼は名声を嫌い、
次第に人前から姿を消し始める。
講演の依頼も断り、
ファンレターも読まず、
ただ執筆に没頭した。
彼の頭の中には、
あの夜の母の言葉が何度も響いていた。

「沈黙に殺される前に、言葉で自分を守りなさい。」

しかしその“言葉”こそが、
今のガープを蝕んでいた。
彼は文章を書くたびに、
“誰かがまた誤解し、また誰かが死ぬかもしれない”という恐怖に囚われていた。

家では、ヘレンと二人の息子――ダンカンとウォルトが待っていた。
だがガープは家族との距離も保てなくなっていた。
夜中まで書き続け、
時には寝室の扉を閉ざしたまま数日出てこないこともあった。
ヘレンはそんな彼に言う。
「あなたはもう、現実より“物語”の中で生きてるのね。」
ガープはため息をついて答えた。
「現実があんなに馬鹿げてるのに、
 物語の中に逃げない奴の方が異常だ。」

やがて“ガープ現象”という言葉が生まれる。
彼の本を読み、人生を変えたと語る人々が続出し、
彼自身の発言が神格化されていく。
「俺は預言者でも聖人でもない!」
そう叫んでも、誰も聞かない。
メディアは勝手に彼の思想を切り取って売り、
人々は勝手に感動し、憎み、崇拝した。

そんなある日、彼の家に一通の手紙が届く。
差出人は不明。
だが封を切ると、中にはこう書かれていた。

「お前の母が死んで世界は汚れた。
次はお前の番だ。」

脅迫状。
警察はファンのいたずらだと言ったが、
ガープは直感した――これは、信者の狂信だ。
母が生きていたときと同じ、
“正義に酔った誰か”の臭いがした。

ヘレンは不安を募らせ、子どもたちを守ろうとする。
だがガープは、逆に強気に笑って言う。
「いいじゃないか。
 俺の人生は最初から“危険な物語”なんだ。」

だがその夜、
彼は鏡の前でふと立ち止まる。
やつれた顔、疲れ切った目、
手にはインクではなく、
母の時と同じ“血の予感”がこびりついていた。

「人を動かす言葉は、いつだって人を壊す刃でもある。」

第7章はここで終わる。
ガープは名声を得た代わりに、
自分の言葉に支配される“亡霊のような存在”になっていく。
母の遺志を継ぐどころか、
母と同じ運命――“言葉に殺される運命”――へ、
ゆっくりと近づき始めていた。

 

第8章 “安全”という幻想と、崩壊していく家庭

ジェニーの死から数年、
ガープは社会の中心から少しずつ距離を取り、
静かな田舎町に家族と移り住んでいた。
大きな屋敷を買い、
庭にはブランコと古いオークの木。
彼は「もう騒ぎは終わりだ」と自分に言い聞かせながら、
家族を“守る”ことに執着していった。

作家としての仕事も続けてはいたが、
出版のたびに殺到する手紙や取材の依頼を、
ヘレンが断っていた。
彼女は夫の疲労と恐怖を知っていたからだ。
「もうあなたが戦わなくていい場所を作りたい」
そう願っていた。
ガープも同じことを思っていた。
だが、「安全」という言葉ほど危ういものはなかった。

ある日、彼は近所の主婦から話を聞く。
「ジェニー・フィールズを信じていた女性たちが、
 あなたの本を“裏切り”だと呼んでいるわ。」
彼は笑って受け流したが、
その夜、書斎でペンを握ったまま動けなくなった。
“母を裏切った息子”、
“思想を捨てた男”――
そんな見出しが脳裏をよぎった。

彼は家族にこそ平穏を望んでいたが、
息子たちは彼の名声と影に苦しんでいた。
長男ダンカンは学校でいじめられ、
教師からも「問題児」扱いを受ける。
次男ウォルトはまだ幼く、
父の孤独を理解できないまま笑顔を向けていた。
ガープはそんなウォルトを見るたび、
「この子だけは俺のように壊れてほしくない」と願った。

だが、平穏はいつも唐突に壊れる。
ある朝、彼の家の門に貼り紙があった。
赤いペンで大きく書かれている。
「裏切り者のガープを沈黙させろ。」
警察は政治的いたずらと処理したが、
彼はわかっていた。
母の死から続く“憎悪の連鎖”が、
また動き出したのだ。

彼は家を要塞のように閉ざし、
家族を守るために監視カメラをつけ、
外出を極端に減らした。
夜、ヘレンがそっと言う。
「ねえ、あなたがこんなふうに怯えて生きるなら、
 結局、あの人たちの勝ちじゃない?」
ガープは返事をしなかった。
ただ、息子たちの寝顔を見つめながら、
心のどこかで悟っていた。
“安全”とは、結局恐怖を形にした夢にすぎない。

そして、ある午後。
小説の取材と称して、一人の若い女性が訪れる。
「あなたの母に影響を受けた世代です」と言いながら、
彼女は強い目でガープを見つめた。
会話は穏やかだったが、
どこか刺々しい違和感が残った。
彼女が帰ったあと、ヘレンが封筒を見つける。
ポストに入っていたその中には、短い手紙。

――“母の沈黙を取り戻すために、
 あなたにも沈黙してもらう。”

風が強くなり、空が曇る。
ガープはその紙を握りつぶし、
静かに外を見た。
ブランコが風で揺れていた。

第8章はここで終わる。
ガープが守ろうとした“家族の平和”は、
皮肉にも母と同じ憎悪の渦の中に巻き込まれ始める。
彼の築いた避難所は、
すでに戦場の入口だった。

 

第9章 静かな襲撃と、終わりの予感

秋。
空気は冷たく、風の音だけが響く。
ガープの屋敷は高い塀に囲まれ、
外から見れば完璧に守られた家だった。
だが中では、家族全員が息をひそめるように暮らしていた。

彼は何度も警察に相談したが、
脅迫状は犯人不明のまま。
それでも彼は冷静を装い、
子どもたちには「ただの悪ふざけだ」と言い聞かせていた。
しかし、夜ごと眠れない。
窓の外の音に耳をすまし、
車のライトが通るたび、
心臓が跳ね上がる。

彼の中では、
現実と物語の境界が少しずつ曖昧になっていた。
書斎でタイプを打つ音だけが、
彼を人間として繋ぎ止めていた。
彼は新作を書いていた。
タイトルは『沈黙する世界』
そこには、暴力と報復を繰り返す社会の中で、
“語ること”の意味を見失った人々が描かれていた。
執筆は苦痛だった。
言葉が出るたびに、
それがまた誰かを狂わせる気がした。

夕暮れ、郵便配達が来る。
封筒の中にはまた、
切り抜かれた新聞の文字を貼り合わせた手紙。
“母の沈黙を返せ”。
その一文を見た瞬間、
彼はタイプライターを殴りつけた。

ヘレンはそんな彼を抱きとめる。
「もう書くのをやめて。
 あなたは十分戦ったわ。」
ガープはうなずきながらも、
「母さんが書くのをやめたら殺されたんだ。
 俺もやめたら同じだ。」

その夜、風が強くなり、
雨が屋根を叩いていた。
子どもたちは眠り、
ヘレンは寝室で本を読んでいた。
ガープは一人、書斎の明かりを落とし、
暗闇の中で深呼吸をした。
「もうすぐ終わる気がする。」
何が終わるのか、自分でも分からなかった。

次の朝、
ヘレンが庭に出ると、
車のドアが少し開いているのに気づく。
運転席にはガープ。
ぼんやり前を見て、
指先には紙片を握っていた。
“俺は恐怖よりも、沈黙が怖い。”

だがその瞬間、
木々の影から人影が動いた。
銃声。
ヘレンの叫び声。
鳥が一斉に飛び立つ。

銃弾はガープの胸を貫いた。
撃ったのは、
以前家を訪ねてきたあの若い女――
母の信奉者の一人だった。
「あなたは母を汚した」と彼女は叫び、
そのまま取り押さえられる。

ガープはヘレンの腕の中で息を荒げながら、
空を見上げていた。
風に舞う木の葉が、
まるで過去の亡霊のように降り注いでいた。
ヘレンは泣きながら彼を抱きしめる。
「お願い、まだ喋らないで。もう喋らないで。」

空気が静まり返り、
時間が止まったようだった。
雨上がりの空の下で、
すべての音が遠ざかっていく。

第9章はここで終わる。
ガープの“沈黙”は、
ついに現実になった。
彼が恐れたもの――言葉と暴力の連鎖――が、
母の時と同じように、
再び一つの命を奪った。

 

第10章 終わりなき物語

病院の廊下は、静かすぎた。
蛍光灯の白い光が、夜明け前の空気に冷たく滲んでいる。
ヘレンは手術室の前の椅子に座り、
無意識に指を組み合わせたまま、動かない。
ドアの奥では、医師たちの声と機械の音が交互に響く。
ガープはまだ生きていた。
しかし、その体はほとんど血を失っていた。

ヘレンの脳裏に、
彼が最後に打ちかけた原稿の一文が浮かぶ。
“沈黙は、いつも世界より先に死ぬ。”
その言葉を、もう一度聞かせてほしかった。

夜が明け、手術室のランプが消える。
医師が小さく首を振る。
ヘレンは立ち上がり、
ただ静かにうなずいた。
泣き声はなかった。
彼女の中で、悲しみというよりも、
何か長い物語がようやく最後のページに届いたという
鈍い実感だけがあった。

数日後、彼の葬儀は母ジェニーの時とは対照的に、
静かで、小さなものだった。
集まったのは家族と、
ほんの数人の友人、
そして彼の本に救われたという若い読者たち。
誰も演説をせず、
音楽も流れず、
ただ風が吹き抜ける音だけが残った。

ヘレンは棺の上に、一冊の本を置いた。
それはガープの未発表原稿『沈黙する世界』。
表紙にはインクの染みが残り、
文字の一部が滲んで読めなくなっていた。
彼が最後に書き残したページの終わりには、
句読点もなかった。

時が経ち、
ダンカンは父と同じように作家の道を歩き始める。
彼は父の本を読み返し、
「父は何かを守りたかったのか、
 それとも壊したかったのか」
という問いに取り憑かれる。
答えはどこにもなかった。
だが、彼は知っていた。
父は“語ること”をやめなかった。
たとえその言葉が世界を傷つけても。

ヘレンは老いても、
庭のブランコを磨き続けた。
かつて子どもたちが笑った場所。
ガープが息を整えながら、
「いつかここで、何も書かずに一日過ごしたい」と言っていた場所。
彼はその願いを、結局叶えられなかった。

夕暮れ、風が吹く。
木々が揺れ、
ブランコが静かにきしむ。
空は淡い金色に染まり、
遠くで鳥の群れが飛び立っていく。

ヘレンは空を見上げる。
風に乗って、どこかで誰かの声が聞こえた気がした。
その声がガープのものか、
それとも世界のざわめきなのか、
もう確かめる術はなかった。

彼の死から長い年月が経っても、
本屋には今も『ガープの世界』が並んでいる。
その背表紙には、
小さな文字でこう印字されていた。

――「世界はめちゃくちゃで、
 それでも誰かは書かずにいられない。」

第10章はここで終わる。
物語は閉じたが、
ガープの“声”は沈黙しなかった。
それは世界の片隅で、
まだ誰かの心に残響している。