第1章 雪の国境列車と“白痴”の登場
夜明け前、冬のロシア。
スイスからペテルブルクへ向かう列車が雪原を走っていた。
その車内に、一人の奇妙な青年が座っている。
名前は――レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵。
25歳、痩せぎすで、穏やかな目。
だが、どこか現実から半歩ずれたような雰囲気を持っていた。
彼はてんかんの治療のため、長くスイスの療養所で暮らしていた。
社会の中では“白痴(ばか)”と呼ばれるような男――
だが、彼の中には純粋さと優しさが宿っていた。
人を疑わず、誰の言葉にも真っ直ぐに耳を傾ける。
その天真爛漫さが、後に多くの人々の運命を狂わせていく。
列車の中で彼は、
将校風の男ロゴージンと、実務家レベジェフに出会う。
ロゴージンは血気盛んな男で、目の奥に炎のようなものを宿していた。
「俺はナスターシャ・フィリポヴナに惚れている。
だが、あの女は破滅を呼ぶ。」
彼が語るその名前――ナスターシャ・フィリポヴナ・バラシコワ。
この瞬間から、公爵の運命は彼女の名に引き寄せられていく。
列車が雪を切り裂く中、
ムイシュキンはロゴージンに穏やかに語る。
「愛というものは、人を救うものではありませんか?」
ロゴージンは笑う。
「救う? いや、焼き尽くすものだ。」
ペテルブルクに到着した公爵は、
遠い親戚であるエパンチン将軍一家を訪ねる。
彼の純粋さと率直さは、
将軍夫人や三人の娘たち――とくにアグラーヤの心に強い印象を残した。
アグラーヤは美しく、誇り高く、皮肉を好む女性。
彼女は無垢なムイシュキンに対して、
興味と苛立ちを同時に感じていた。
その夜、公爵は初めてナスターシャの肖像画を見る。
その絵に描かれた女性は、
美しく、そして絶望的な哀しみをたたえていた。
「この人は、苦しんでいますね……」
その言葉に部屋の空気が凍る。
彼はまだ知らない――
その“苦しむ女”が、やがて彼の心を奪い、
そしてすべてを破壊することを。
「純粋さは、無力である。
だが、その無力さこそ、神に最も近い。」
第1章はここで終わる。
列車の雪煙の中から現れた“白痴”ムイシュキン公爵。
彼の無垢な魂が、愛と欲望と破滅の渦に巻き込まれる物語が、
ここから静かに始まっていく。
第2章 社交界の渦とナスターシャの微笑
ペテルブルクに到着したムイシュキン公爵は、
親戚筋であるエパンチン将軍一家に迎え入れられた。
彼の純粋で礼儀正しい言葉遣いは、
最初こそ奇妙に映ったが、
次第に一家の心を掴んでいく。
とくに将軍の末娘アグラーヤは、
この“白痴”と呼ばれる青年に興味を持った。
世間の常識や打算で動く男たちとは違い、
ムイシュキンは、まるで子どものようにまっすぐだ。
だがそのまっすぐさが、彼女の誇り高い心をかき乱していく。
エパンチン家の晩餐会では、
ムイシュキンは場違いなほど素直に人を褒め、
そして不思議なほど誰にも敵意を抱かない。
人々は最初、彼を笑い、軽蔑する。
だが、会話を交わすうちに、
誰もが自分の“偽善”を見透かされているような居心地の悪さを感じ始めた。
彼の存在そのものが、人間の心の汚れを映す鏡のようだった。
ある日、ムイシュキンは社交界で再びロゴージンと再会する。
彼は変わらず激情的で、
「俺はナスターシャを手に入れる」と宣言する。
公爵は静かに返す。
「彼女を愛しているのなら、彼女の苦しみを救うべきだ。」
ロゴージンは笑い、
「お前みたいな善人が一番危険だ」と言い残して去った。
その夜、公爵はエパンチン家の知人の屋敷に招かれ、
ついにナスターシャ・フィリポヴナ本人と対面する。
その瞬間、彼は息を呑んだ。
肖像画で見たあの哀しみの顔――
それが、目の前で生きていた。
ナスターシャは美しく、傲慢で、どこか壊れかけていた。
「あなたが“白痴の公爵”ね?」
挑発的な口調。
だがその奥に、
長い間裏切られ続けた人間だけが持つ“絶望の疲れ”があった。
公爵は穏やかに言った。
「あなたは悪くない。
ただ、人を信じすぎたのです。」
その言葉に、ナスターシャの瞳がわずかに揺れる。
彼女は笑ってグラスを傾けた。
「あなた、本当に“白痴”かもしれないわ。」
晩餐の終わり、
ロゴージンが突然現れ、
ナスターシャに宝石の箱を差し出す。
「これは十万ルーブルだ。俺と来い。」
場の空気が凍る。
そのとき、ムイシュキンが立ち上がった。
「あなたはこのお金で自分を売るのですか?
あなたは……そんな人じゃない。」
その声は震えていたが、
確かに彼女の心を貫いた。
ナスターシャは一瞬、彼を見つめ、
そして狂ったように笑い出す。
「ああ、あなたに会うべきじゃなかった。
私、もう滅茶苦茶になってしまう!」
第2章はここで終わる。
ムイシュキンの純粋な善が、
ナスターシャの壊れた魂を目覚めさせてしまう。
そしてこの出会いが、
やがて全員を悲劇へと導く“運命の歯車”を動かしていく。
第3章 火のような恋と、崩れ始める理性
ナスターシャ・フィリポヴナの屋敷での晩餐会は、
あの日を境にペテルブルク中の噂になった。
「金か、愛か」「理性か、狂気か」。
その中心には、いつも三人の名――
ムイシュキン公爵、ナスターシャ・フィリポヴナ、そしてロゴージンがあった。
ムイシュキンは再びナスターシャを訪ね、
彼女の中の“哀しみの根”に触れようとする。
彼女は笑いながら言う。
「あなたは私を哀れんでるのね。
でも、哀れみと愛は違うわ。」
公爵は穏やかに首を振る。
「哀れみは愛の始まりです。
僕はあなたを救いたい。」
その言葉に、ナスターシャは一瞬黙り込み、
やがて狂気じみた笑みを浮かべた。
「救う? あのロゴージンでさえ、
私を“地獄まで一緒に行く”と言ったのよ。
でもあなたは、“天国へ連れていく”って言うのね。
どっちが本物の愛かしら?」
その夜、ナスターシャの誕生日を祝う宴が開かれる。
社交界の男たちが彼女に金を贈り、
彼女はそれをテーブルの上に無造作に積み上げた。
「見て、公爵。
これが私の価値なのよ。」
公爵は立ち上がり、まっすぐに彼女を見つめて言った。
「あなたの価値は、これよりはるかに高い。
あなたは善を信じられる人だ。」
その瞬間、会場の空気が変わる。
ロゴージンが現れ、
「来い、ナスターシャ!」と怒鳴る。
その手には、燃えるような執着が宿っていた。
だがナスターシャは、
突如テーブルの金をつかみ取り、暖炉に投げ込んだ。
炎が爆ぜ、光が室内を染める。
「ほら、これが私の結婚祝いよ!」
笑いながら泣く彼女を見て、
公爵はただ立ち尽くした。
それでも、ナスターシャは彼を選ぶ。
「あなたと結婚するわ。
あなたの言葉が本当なら、私を救ってみなさい。」
ロゴージンは沈黙し、
その目に狂気の炎を宿したまま去っていった。
しかしその夜、
ムイシュキンのもとに彼の影が忍び寄る。
ロゴージンだ。
暗い通りで彼は囁く。
「お前を殺す。
だが同時に、お前を愛してる。」
公爵はただ目を閉じて答えた。
「僕も、あなたを恐れてはいません。」
雪が降る。
二人の男が、同じ女を愛し、同じ地獄を見つめていた。
「愛は救いにもなれば、毒にもなる。
そして、純粋すぎる者ほど深く傷つく。」
第3章はここで終わる。
ムイシュキンの善意が、
ロゴージンの情念と激突し、
ナスターシャの心をさらに狂わせていく。
ここから三人の運命は、
もう誰にも止められない道を転がり始める。
第4章 結婚式の崩壊とロゴージンの影
春の終わり、街には明るい風が吹いていた。
ムイシュキン公爵とナスターシャ・フィリポヴナの婚約の報せは、
ペテルブルク中の話題になっていた。
「白痴の公爵が、罪深い美女を救おうとしている」
人々は半分笑い、半分怯えながらその噂を楽しんでいた。
ムイシュキンは本気だった。
彼は彼女を“堕落した女”としてではなく、
人間として赦したいと心から願っていた。
ナスターシャもまた、彼の優しさの中で
一瞬だけ安らぎを見出していた。
だが、心の奥ではその幸福を信じ切れずにいた。
「あなたは優しい。けど、それが一番怖いの。」
結婚式の朝。
花々で飾られた教会に、人々が集まる。
ムイシュキンは少し緊張した面持ちで待っていた。
その姿は、まるで祈りを捧げる聖者のようだった。
だが、ナスターシャは現れない。
代わりに届けられたのは一通の短い手紙だった。
「ごめんなさい。
あなたの光の中では生きられない。
私は、また闇へ帰ります。」
彼女は――ロゴージンのもとへ走っていた。
街の雑踏を抜け、涙をこぼしながら馬車に飛び乗り、
「早く!ロゴージンの家へ!」と叫んだ。
その頃、教会では沈黙が落ちていた。
ムイシュキンは何も言わず、
しばらくの間ただ立ち尽くしていた。
参列者の囁きが広がり、
エパンチン夫人が泣き、
アグラーヤが拳を握りしめる。
それでも彼は微笑んで言った。
「彼女は罰を受けたがっているんです。
その罰が彼女を救うなら、僕は構いません。」
彼はそのままロゴージンの家を訪れる。
扉の向こうで、
ナスターシャが泣きながらロゴージンの胸にすがっていた。
ロゴージンの目は血走り、震えている。
「来たな、公爵。
彼女は俺のものだ。
だが、お前が現れると、俺は彼女を殺したくなる。」
ムイシュキンは一歩踏み出し、
「もし彼女を殺したら、あなたは自分を殺すことになる。」
と静かに言った。
ロゴージンはその場に崩れ落ち、
頭を抱えて嗚咽した。
その夜、公爵は自室でナスターシャの名を呼び続けた。
彼女の姿は、もう雪の幻のように遠かった。
「人を赦すことは、時にその人を地獄へ近づける。」
第4章はここで終わる。
ナスターシャの“逃避”は、
彼女が本当の幸福を恐れた証であり、
ムイシュキンの“無限の善”が、
ついに現実を壊し始めた瞬間でもあった。
第5章 破滅の予感と二つの愛
結婚式の失踪から数週間。
ムイシュキン公爵は深い疲れの中で静かに暮らしていた。
ペテルブルクの社交界は冷ややかで、
「哀れな白痴」「理想主義者の道化」
そんな言葉が彼の背後で囁かれた。
それでも彼は怒らなかった。
むしろ、人々の悪意にさえ慈しみを見せた。
「彼らは不幸だから、人を笑うんです。」
その純粋さは、誰よりも美しく、誰よりも危うかった。
ある日、彼は再びアグラーヤ・エパンチンと再会する。
彼女は以前よりも落ち着き、
その瞳の奥には複雑な情が宿っていた。
「あなたは彼女をまだ愛しているの?」
ムイシュキンは一瞬沈黙し、
「……たぶん、そうです。
でも、それは哀れみのようなものかもしれません。」
アグラーヤは唇を噛んだ。
「哀れみなんて愛じゃないわ。
私なら、あなたを壊してでも手に入れる。」
彼女の言葉には、
ナスターシャとは違う“生きた熱”があった。
ムイシュキンの胸の奥で、
忘れていた人間らしい感情が少しだけ灯る。
しかし同時に、彼は悟っていた。
自分は愛する力を持ちながら、
それを“現実の幸福”に変える力を持っていないのだと。
そのころ、ナスターシャはロゴージンと暮らしていた。
二人の関係は、
愛というより依存と恐怖の牢獄だった。
ロゴージンは彼女を手放せず、
嫉妬と罪悪感に取り憑かれていた。
夜ごと彼はナイフを握りしめ、
「お前を殺したら、俺も終わる」とつぶやいた。
ナスターシャはその狂気に怯えながらも、
どこかでそれを“罰”として受け入れていた。
ある日、彼女はこっそりムイシュキンを訪ねる。
顔は青ざめ、目は焦点を失っていた。
「あなたは私をまだ赦せる?」
ムイシュキンは静かに頷く。
「ええ。何度でも。」
彼女はその言葉に泣き崩れた。
「あなたが優しいほど、私、もう戻れなくなるの。」
その夜、ロゴージンの影が再び現れる。
彼の瞳は暗く、声は低かった。
「俺たちはもう地獄を生きてる。
でも、お前がいなきゃ意味がない。」
三人の関係はもはや誰にも止められなかった。
愛と罪、赦しと破滅が絡み合い、
ひとつの終点へとゆっくり向かっていた。
「愛は、救いを願う者の最後の病だ。」
第5章はここで終わる。
ムイシュキンは理想の愛と現実の愛のあいだで引き裂かれ、
ナスターシャとロゴージンの情念は、
すでに死の匂いを漂わせはじめていた。
第6章 再会の夜と血の約束
夏の夕暮れ、
ムイシュキン公爵は久しぶりにロゴージンの家を訪ねた。
街の喧騒は遠く、
建物の中には沈黙と重い空気が満ちていた。
二人のあいだには、言葉にできない緊張が漂っている。
ムイシュキンは穏やかに微笑んだ。
「ロゴージン、あなたはまだ彼女を愛しているんですね。」
ロゴージンは顔をしかめ、
「愛してる。だがそのせいで、俺は滅びる。」
彼の手は震えていた。
机の上には、刃の光る短刀が置かれている。
ムイシュキンはその刃を見つめながら言った。
「あなたはその刃で彼女を殺したくなる。
でも同時に、自分を救いたいと思ってる。」
ロゴージンは笑う。
「お前の言葉は毒だ。
優しさで人を縛るんじゃない。」
そう言いながらも、
彼の目は涙に濡れていた。
そのとき、階段の向こうから足音がした。
扉が開き、
そこに立っていたのは――ナスターシャ・フィリポヴナだった。
顔は青白く、唇は震えている。
「あなたたち、私をどうしたいの?」
彼女は二人を見つめながら呟いた。
ムイシュキンはそっと手を差し伸べる。
「ナスターシャ、もう逃げなくていい。
僕はあなたを赦す。」
ロゴージンはその手を叩き落とした。
「赦す? お前は神か!」
部屋の空気が一瞬にして張りつめる。
ナスターシャは怯えたように後ずさり、
それでも二人の男のあいだから離れられなかった。
「ねえ、二人とも私を壊して。
もう、どっちでもいいの。」
その言葉が落ちた瞬間、
ロゴージンの手が短刀を掴んだ。
だが次の瞬間、ムイシュキンがその腕を掴み、
「やめて!あなたも、彼女も、もう十分苦しんだ!」と叫ぶ。
刃は床に落ちた。
ロゴージンはそのまま膝をつき、泣き崩れる。
「俺はもう自分が何者かもわからない。」
ムイシュキンは静かに彼の肩に手を置いた。
「それでも、人は赦されるんです。」
その夜、ムイシュキンは夢を見る。
暗闇の中に、ナスターシャが立っている。
彼女の背後には光があり、
「公爵、あなたの優しさは世界を壊すわ」と囁く。
翌朝、
ロゴージンとムイシュキンは握手を交わした。
だがその手には、
どちらも“これが最後の平和”だと知る感触があった。
「赦しとは、地獄の入口に立ちながら微笑むことだ。」
第6章はここで終わる。
三人の関係は限界に達し、
愛はすでに祈りではなく呪いのような宿命へと変わり始めていた。
第7章 アグラーヤの幻と崩壊する“善”
夏の終わり。
ムイシュキン公爵は再びエパンチン家を訪ねた。
長い間、音信を絶っていたが、
将軍夫人も娘たちも、まだ彼を忘れてはいなかった。
だが、その家の空気は以前より冷たく、
「白痴の公爵」はもはや奇跡ではなく、
社会の“異物”として見られつつあった。
アグラーヤ・エパンチンは、
以前よりも強く、美しく、そして冷たくなっていた。
彼女はムイシュキンを見つめ、静かに言った。
「あなた、まだあの女を思っているのね。」
公爵は答えに詰まる。
その沈黙が、すべてを語っていた。
アグラーヤは微笑んだが、その笑みには怒りが混じっていた。
「あなたの“優しさ”は、誰のためのものなの?
彼女を救おうとして、自分まで壊すつもり?」
彼女の言葉は鋭く、しかし正しかった。
公爵の“善”は、もはや現実を支える力ではなく、
現実を解体していく力になっていた。
誰もが彼の中に“聖者”を見たが、
同時に“危険な無垢”も見ていた。
その夜、アグラーヤは公爵を庭に呼び出した。
月明かりの下、二人は向かい合う。
「あなたがもし本当に彼女を忘れられないなら、
今ここで私の前から去って。」
ムイシュキンは目を伏せ、静かに言った。
「僕は……彼女を憎めません。
それが、僕の罪です。」
アグラーヤの瞳に涙が滲む。
「あなたの罪は優しすぎること。
だけど、そんな優しさで世界は救えないのよ。」
その言葉を残して、彼女は屋敷を去った。
翌朝、彼女は家族とともに国外へ発ったという。
ムイシュキンは誰にも何も言わなかった。
ただ、庭に立ち尽くし、
花の咲き残る一輪を摘んでポケットに入れた。
風が吹き、月の残光が消えていく。
そのころ、街の片隅ではロゴージンが
ますます孤独と狂気に沈んでいた。
ナスターシャの姿は見えず、
噂では彼女が再び逃げたとも囁かれていた。
ロゴージンの家の窓には灯がつかず、
ただ夜ごと、祈るような声が漏れ聞こえていた。
「善が悪を救おうとする時、
その境界はすでに崩れている。」
第7章はここで終わる。
ムイシュキンは現実の愛を失い、信仰としての愛だけを残した。
その“無垢な善”は、ついに人を救う力を失い、
彼自身の理性を少しずつ削り落としていく。
第8章 ナスターシャの帰還と最後の懺悔
秋の気配が街を包む頃、
ムイシュキン公爵のもとに突然の知らせが届く。
――ナスターシャ・フィリポヴナが戻ってきた。
彼女は数か月の逃亡の末、再びペテルブルクに姿を現したのだ。
噂では、ロゴージンのもとから逃げ、
各地をさまよいながら生きる気力を失っていたという。
その夜、彼女は人づてに公爵の居所を知り、
静かに彼の部屋を訪れた。
扉を開けた瞬間、二人の視線が交わる。
沈黙の中に、過去のすべてが戻ってきた。
ナスターシャは憔悴しきっていた。
かつての華やかさは消え、
頬はこけ、目の奥には暗い光が宿っている。
「公爵……あなた、まだ私を赦せる?」
ムイシュキンはためらわず頷く。
「ええ、何度でも。」
彼女は小さく笑った。
「あなたの“赦し”は罰みたい。
その優しさが、一番痛いの。」
彼女は膝をつき、顔を両手で覆った。
「もう疲れたの。
誰かに愛されても、私は救われない。
あの人(ロゴージン)も、私を殺したがってる。
でも、殺される前に、あなたの顔が見たかったの。」
ムイシュキンは彼女を抱き起こし、
「あなたはまだ生きている。
それだけで、もう赦されてる。」
と静かに告げた。
その声は、神の祈りにも似ていた。
彼女はしばらく黙り込み、
やがて目を閉じて呟く。
「もし私が死んだら、あなたは悲しむ?」
「ええ。」
「でも、あなたはきっと私を責めないわね。」
「いいえ。あなたを責める理由なんて、僕にはない。」
その言葉を聞いたナスターシャは、涙をこぼしながら笑った。
「やっぱりあなたは人間じゃないわ。
あなたに出会った瞬間から、
私の地獄は始まってたのかもしれない。」
その夜、彼女は眠るように公爵の部屋を去った。
外では小雨が降り、
街灯が濡れた石畳に滲んでいた。
公爵は窓辺に立ち、
彼女の小さな影が霧の中に消えていくのを見送った。
数時間後――
扉が再び叩かれる。
ロゴージンが立っていた。
顔は蒼白で、手には何かを握りしめている。
「公爵……俺たちは、もう終わった。」
それだけ言って、暗闇に消えた。
「愛は赦しに姿を変え、赦しは死に姿を変える。」
第8章はここで終わる。
ナスターシャの帰還は“希望”ではなく、
滅びの前の静けさだった。
公爵の無垢な愛は、彼女を救えず、
そしてロゴージンの狂気も、もはや止まらない。
第9章 血と赦しの夜
冷たい朝靄の中、
ムイシュキン公爵は落ち着かない胸の鼓動に突き動かされ、
ふらりと街を歩いていた。
頭のどこかで――何かが終わることを感じていた。
道は静かで、霧が人の輪郭を飲み込む。
その時、背後から低い声がした。
「公爵。」
振り向くと、そこにロゴージンがいた。
蒼白な顔、血の気のない唇。
彼は震える声で言った。
「来い。……見せたいものがある。」
二人は並んで歩いた。
一言も交わさず、石畳を踏みしめて。
ロゴージンの屋敷に入ると、
空気が異様に重く、
まるで世界全体が呼吸を止めたかのようだった。
暗い部屋の奥で、
白い布が静かに光っていた。
ロゴージンが近づき、
その布をそっとめくる。
そこに横たわっていたのは――
ナスターシャ・フィリポヴナの死体。
胸元には刃の跡、
その顔は、穏やかな眠りのようだった。
ムイシュキンは言葉を失った。
ロゴージンは膝をつき、うつむいたまま呟く。
「俺が……やった。
彼女は笑ってたんだ。
“これでやっと自由になれる”って。」
部屋の時計の針が動く音だけが響く。
公爵は静かにロゴージンの肩に手を置いた。
「あなたは彼女を愛していたんですね。」
ロゴージンは涙を流しながら、
「愛してた。……それが罪だ。」
ムイシュキンはその隣に座り、
二人は死体のそばで、
まるで兄弟のように肩を寄せた。
夜が明けても、二人はそのまま動かなかった。
ムイシュキンの指は冷たく、
その瞳からは理性の光がゆっくり消えていった。
彼は何度も同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫です、もう……苦しみは終わりました。」
ロゴージンは泣き続け、
やがてその声も途絶える。
部屋の外では、人々の足音が遠ざかっていく。
時間は止まり、
世界には赦しと狂気だけが残っていた。
「愛が極まると、殺意と祈りはひとつになる。」
第9章はここで終わる。
ここで物語は頂点に達する――
ムイシュキンの“無垢な愛”とロゴージンの“狂った愛”が、
同じ場所で、同じ死の前に融合する。
それは救いでもあり、
もはや人間の限界を超えた“神の悲劇”そのものだった。
第10章 沈黙の朝と白痴の微笑
夜が明けた。
ロゴージン邸の窓から差し込む朝の光が、
血の気の失せた部屋を照らしていた。
床の上には、
白い布をかけられたナスターシャ・フィリポヴナの亡骸。
その傍らに、ムイシュキン公爵とロゴージンが並んで座っている。
二人とも、もう現実の境界を越えていた。
ムイシュキンは静かに布の端を撫でながら、
まるで幼子をあやすように微笑む。
「もう大丈夫ですよ……あなたはもう苦しくない。」
その声には慈悲があった。
だが同時に、
人としての感情がどこか抜け落ちているようでもあった。
ロゴージンは黙ってその隣に座り、
時おり嗚咽しながら、
「俺たちは……どこへ行くんだろうな。」とつぶやく。
公爵はその問いに答えない。
ただ、ぼんやりと宙を見つめ、
額の汗を指で拭うだけだった。
彼の瞳はもはや現実を映さず、
そこには壊れた理性の静寂が漂っていた。
やがて外の扉が叩かれる。
警察と医師たちが部屋に入る。
ロゴージンは抵抗もせず、ただ立ち上がって言った。
「俺が殺した。
でも、彼(ムイシュキン)は罪がない。」
医師たちが近づくと、
ムイシュキンは微笑みながらナスターシャの手を握り続けていた。
その姿を見た者たちは息を呑む。
まるで悲しみと狂気が祈りの形を取ったようだった。
数日後。
ロゴージンは牢に、
ムイシュキンは再び療養所へ送られた。
スイスで過ごしたあの静かな日々へ――
ただし、今度の彼の中には、
もはや“希望”も“救い”も残ってはいなかった。
看護人の問いかけにも、
彼はほとんど反応しなかった。
時折、誰もいない窓辺でつぶやく。
「ナスターシャ……もう痛くないですか?」
そして、微笑む。
その笑みは優しさでできていたが、
人間としての光が完全に失われた微笑でもあった。
ペテルブルクではこの事件がしばらく話題になり、
やがて誰も口にしなくなった。
だが、人々の記憶のどこかに、
“あの白痴の公爵”の穏やかな顔だけが焼きついていた。
「彼は神に似ていた。
だが、神のように愛したがゆえに、人ではいられなかった。」
第10章はここで終わる。
ムイシュキンは最後まで“善”を貫き、
世界の悪と苦しみをその身に受けて壊れていった。
その姿は敗北ではなく、
むしろ――無垢が最後に世界を映した鏡だった。