第1章 黄巾の乱――乱世の幕開けと三英雄の誓い

後漢王朝が衰えきった2世紀末、中国全土は腐敗と飢えに覆われていた。
役人たちは賄賂にまみれ、朝廷は宦官の手で腐敗し、民は重税に苦しんでいた。
そんな中、人々の絶望を救うと称して立ち上がったのが、張角(ちょうかく)率いる太平道(たいへいどう)という宗教結社だった。

張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つ」と掲げ、
黄色い頭巾を巻いた信徒たち――黄巾軍を率いて大規模な反乱を起こす。
これが、後の乱世すべての始まり、黄巾の乱(こうきんのらん)である。

中央政府はこの反乱を鎮圧するため、
地方の有力者や義勇兵に兵を募らせた。
その中に、のちの時代を動かす三人の男がいた。

ひとりは、平原の青年劉備(りゅうび)
靴屋の息子として生まれ、貧しいながらも志高く、仁徳を重んじる人物だった。
もうひとりは、赤ら顔で長髭の武人関羽(かんう)
正義と忠義を何よりも重んじる義士。
そして最後は、豪胆で直情的な巨漢張飛(ちょうひ)
喧嘩っ早くも情に厚く、誰よりも仲間思いだった。

この三人は洛陽の外れ、桃園(とうえん)の裏庭で出会う。
戦乱を嘆き、義のために立ち上がることを誓い、
桃の花が舞う中で盃を交わした。
「我ら、生まれた日は違えども、死すときは同じ日、同じ時を願わん!」
――これが有名な
桃園の誓い
である。

劉備は義勇軍を率いて黄巾軍と戦い、
関羽・張飛とともに奮闘する。
三人の連携は見事で、
その勇名は瞬く間に広まっていった。

やがて中央から派遣された将軍たちの協力もあり、
張角は病で倒れ、黄巾軍は壊滅。
この反乱は鎮圧されたが、代わりに――
「各地の群雄が自らの軍を持った」という、
さらなる混乱の火種を残した。

劉備は功績を挙げながらも、地位を得られず、
わずかな兵を連れて放浪を続ける。
一方で、この乱で頭角を現したもうひとりの男がいた。
若き武将、曹操(そうそう)

彼は冷静で、策略に長け、
「乱世こそ英雄の舞台」と考える野心家だった。
この曹操と劉備の出会いは、
いずれ天下を二分するほどの宿命となる。

第1章は、「乱世の始まりと三英雄の誓い」の章。
腐った王朝に代わり、民のために立ち上がった劉備たち。
だが同じ戦の中から、曹操のような“現実の英雄”も生まれ、
ここから三国の時代――
すなわち“理想”と“野望”が激突する物語が幕を開ける。

 

第2章 董卓の暴政――洛陽炎上と義の同盟

黄巾の乱が鎮圧され、いったん平穏を取り戻したかに見えた後漢。
だが王朝の腐敗はさらに進み、
ついに朝廷そのものが軍閥の玩具になってしまう。

若き皇帝・少帝が即位すると、
宮廷では宦官と外戚が権力争いを始めた。
これに乗じて洛陽へ兵を進めたのが、
西涼の将軍――董卓(とうたく)

董卓はもともと地方の豪将にすぎなかったが、
混乱の都で軍権を握ると、その野心を隠そうともしなかった。
彼はわずか数日のうちに、
皇帝を廃し、弟の献帝(けんてい)を即位させる。
そして、自らを丞相(じょうしょう)と称し、
実質的な独裁者となる。

洛陽の街は炎に包まれ、
逆らう者は片端から処刑された。
董卓の側近で最強の武将――呂布(りょふ)は、
無双の力で敵を蹴散らす。
その戦場での姿は、まさに“人中の呂布、馬中の赤兎”と称されるほど。

だが、董卓は暴政を極め、民を苦しめ、
群雄たちの怒りを買う。
ついに、反董卓の旗が上がる。

それを呼びかけたのが、幽州の名族袁紹(えんしょう)
各地の諸侯が彼のもとに集い、
“董卓討伐連合”が結成される。
そこには、劉備・関羽・張飛の姿もあった。

連合軍の将たちは、
孫堅(そんけん)・曹操(そうそう)・袁術(えんじゅつ)など、
後の三国を形作る顔ぶれが勢ぞろいしていた。

だが、連合はすぐに瓦解する。
名門同士の対立、功績の奪い合い、嫉妬、そして恐れ――
董卓の暴政よりも、人間の欲が戦を止めた。

曹操だけがなおも戦いを続け、
董卓を追撃するが、
呂布の猛攻の前に敗走。
彼はそのとき初めて悟る。
「理想だけでは、乱世は終わらぬ。
 秩序を作るためには、力が必要だ。」

その後、董卓は長安へ都を遷し、
洛陽は焼け野原と化した。
民の嘆きは天を突き、
誰もが「この国に正義はあるのか」と呟いたという。

やがて、董卓は呂布の裏切りによって殺される。
彼を討った呂布は一時的に英雄となるが、
その気まぐれな性格が、再び国を混乱へと導く。

第2章は、「暴政と裏切り、乱世の炎が広がる章」
董卓の登場によって王朝の権威は完全に崩壊し、
この国を救う者は、もはや皇帝でも朝廷でもなくなった。
ここから、群雄が己の理想と野望を掲げて――
本格的な覇権の時代が始まる。

 

第3章 群雄割拠――曹操の野望と孫堅の死

董卓が呂布の裏切りによって討たれたあと、
「暴君を倒した英雄」たちは、それぞれの地へ散り、
次第に天下を奪う覇者としての姿を現し始める。
これが、まさに「群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)」の時代の幕開けだった。

最初に動いたのは、
才知と行動力に優れた若き英雄――曹操(そうそう)
彼は戦乱で荒れ果てた中原を統一するため、
圧政を嫌って逃げ込んできた民を保護し、
兵農を一体化した独自の軍政を敷く。
この「屯田制(とんでんせい)」こそ、
のちに魏の強さの礎となる。

だがその頃、南方では別の英雄が力を伸ばしていた。
それが孫堅(そんけん)――
のちに「江東の虎」と呼ばれる男だ。
彼は董卓討伐の際にも勇名を轟かせた将であり、
鋭い剣と誇り高き魂を持つ武人だった。

孫堅は戦の最中、焼け落ちた洛陽で偶然、
伝説の玉璽(ぎょくじ)――「皇帝の証」を発見する。
この玉璽を持つ者こそ、天命を受けし王。
それは後の覇権争いをさらに激しくする“象徴の宝”だった。

その玉璽を狙ったのが、同じ連合軍の名族袁術(えんじゅつ)
彼は孫堅と同盟を結びながら裏切り、
玉璽を奪おうと陰謀を巡らせる。
孫堅は命を懸けて抗うが、
董卓残党との戦いの最中、
流れ矢に倒れ、戦死した。

――この時、まだ彼の息子、孫策(そんさく)は若かった。
しかし父の遺志を継ぎ、やがて南の大地・江東を統一していくことになる。

一方、北では曹操が少しずつ勢力を拡大し、
名族・袁紹(えんしょう)と対立を深めていく。
曹操の行動は冷徹だった。
時には敵将を捕らえても、才能ある者ならば必ず登用し、
「天下を治めるために情を捨てる」という現実主義を貫いた。

その頃、劉備・関羽・張飛はまだ小勢力にすぎず、
義を信じ、各地を転々としながら戦いを続けていた。
民のために剣を振るう劉備の姿は、
“仁の英雄”として徐々に人々の心を掴んでいく。

乱世の地図が刻一刻と変わり、
群雄がそれぞれの旗を掲げる。
北には曹操。
南には孫家。
そして中原のあちこちで、名族や野心家たちが割拠する。

だが、そのどの者もまだ知らなかった。
この群雄の中から、
真に天下を統べる“三国”――魏・呉・蜀が形をなすまで、
多くの血と裏切りがまだ流れ続けることを。

第3章は、「群雄割拠と覇道の胎動」の章。
董卓という暴君が消えても、平和は訪れず、
英雄たちはそれぞれの理想を掲げて立ち上がる。
曹操の野心が、劉備の理想と、孫家の誇りと――
やがてぶつかり合う、その前夜だった。

 

第4章 呂布の流転――最強の武人と裏切りの果て

董卓の死後、乱世の舞台を最も荒々しく駆け抜けた男がいた。
それが“天下無双の豪将”――呂布(りょふ)
人々はこう呼んだ。
「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と。

彼は董卓を討った英雄として一時は名を上げるが、
その性格はあまりに気まぐれで、
恩を与えた主を何人も裏切った。
彼が寝返るたびに、戦場は血に染まり、
味方は敵に変わる――それが呂布の人生そのものだった。

最初に彼を庇護したのは袁紹(えんしょう)だったが、
呂布はすぐに不満を抱き、出奔。
次に頼ったのは
張楊(ちょうよう)
、そして張邈(ちょうばく)
だが、どこに行ってもその強すぎる力は恐れられ、
味方にすら疎まれる。

そんな中、呂布は戦乱の中で貂蝉(ちょうせん)という絶世の美女に出会う。
彼女は実は、董卓の部下である王允が仕掛けた“連環の計”の駒であり、
呂布と董卓を離間させるための存在だった。
だが、呂布はその美に心を奪われ、董卓を討ったのち、
貂蝉とともに逃亡する。

以後、呂布は各地を転々としながらも、
自らの力で勢力を築き上げ、
ついには徐州(じょしゅう)を奪い取る。
そこにいたのが――劉備

当時、劉備はまだ小国の君主にすぎなかったが、
民を思う心は誰よりも強かった。
彼は呂布に手を差し伸べ、共に戦おうとする。
だが呂布は恩を忘れ、
油断していた劉備の城を裏切って奪う

張飛は怒りに震え、叫ぶ。
「呂布! 貴様に義も信もあるか!」
呂布は冷笑し、
「義? 勝つ者が正義だ。」

その後、呂布はさらに勢力を広げ、
ついには曹操と正面から激突する。
彼は赤兎馬を駆り、暴風のように敵を薙ぎ払ったが、
曹操の冷徹な策と兵糧攻めに徐々に追い詰められていく。

ついに呂布は部下の裏切りによって捕らえられ、
縄で縛られて曹操の前に引き出される。
「曹操殿、俺を殺すな。俺を使えば、天下を取れるぞ!」
そう言って縋る呂布を、曹操は静かに見つめ、
やがて命じた。
「そのような者を信じるほど、私は愚かではない。」

こうして、乱世最強の武人は絞首台に消えた。

呂布の死を聞いた劉備は、ただ一言。
「彼に忠義があれば、天下は彼のものだったろう。」

第4章は、「力と裏切りの果て」の章。
呂布の強さはまさに“人の限界”を超えていたが、
信義を持たぬその力は、
結局誰のためにも、何のためにも使われることはなかった。
そしてこの瞬間、
乱世は“義”と“策略”の時代へと移り変わっていく。

 

第5章 曹操の台頭――官渡の戦いと中原統一の始まり

呂布が処刑され、乱世最強の武が消えたあと、
戦場を支配し始めたのは知略と冷徹さの象徴・曹操(そうそう)だった。
彼はもはや一地方の軍閥ではなく、
中原をまとめ上げる現実的な支配者へと進化していく。

その頃、北方では名門の袁紹(えんしょう)が圧倒的な勢力を誇っていた。
兵力・物資・血統――どれを取っても完璧。
それに比べ、曹操の軍は少なく、国もまだ不安定。
だが彼には、他の誰にもない武器があった。
「頭脳」と「覚悟」だ。

両者はついに激突する。
場所は中原の要所――官渡(かんと)
この戦いが天下の行方を決めるとまで言われた。

袁紹は大軍を率い、兵糧も豊富。
曹操は劣勢ながらも、持久戦に持ち込み、
敵の油断を待つ。
長期戦の末、曹操は奇策を打つ。
敵陣の補給路を突き、烏巣(うそう)の兵糧庫を奇襲。
これがすべてを変えた。

炎が夜空を焦がし、袁紹軍は混乱に陥る。
兵糧を失った大軍は一瞬で崩れ、
曹操はわずかな兵で大軍を撃破した。
この戦い――官渡の戦い――は、
乱世における“戦略の勝利”の象徴となった。

敗走した袁紹は病に倒れ、
その子らが後継を巡って争う中、
曹操は北方をすべて掌握。
洛陽を再建し、後漢の天子・献帝を保護して、
名目上の「漢の忠臣」として権力を固めた。

だがその実態は、
皇帝を手の内に置いた独裁者だった。
彼の名のもとに軍を動かせば、
誰も逆らえない。

この頃、劉備は徐州を失い、再び流浪の身。
しかし曹操はその“仁の心”を恐れていた。
「劉備は俺と同じ器を持つ。だが理想を掲げる分、もっと厄介だ。」

そして劉備は逃亡の末、荊州へと身を寄せ、
そこでのちに天下を左右する天才軍師――諸葛亮(しょかつりょう)との出会いを果たすことになる。

一方、南方では孫堅の息子、孫策(そんさく)が台頭。
父の遺志を継ぎ、江東を制覇し、
若きカリスマとして勢力を伸ばしていた。
彼のもとにいたのが、弟の孫権(そんけん)
そして無二の友・周瑜(しゅうゆ)
この江東の勢力が、やがて“呉”として三国の一角を担う。

第5章は、「知略が力を超えた瞬間」の章。
官渡の戦いにより、曹操は中原を統一し、
“漢の臣”として“天下の主”となった。
だが、南の孫家、流浪の劉備がまだ生きている。
乱世は、さらに大きな三つ巴へと動き出す。

 

第6章 劉備と諸葛亮――三顧の礼と蜀の夢の始まり

官渡の戦いで曹操が中原を制したころ、
敗走を重ねた劉備(りゅうび)は、仲間を失い、国を持たぬ流浪の将となっていた。
だが、彼の中の“理想”だけはまだ消えていなかった。
「民のための国を作る。それが俺の道だ。」

そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、荊州の牧――劉表(りゅうひょう)
一時の安住を得た劉備は、民をまとめながら、
心の中で焦りを抱えていた。
力では曹操に敵わず、地位でも孫家に及ばない。
――“知”こそが必要だ、と。

そのとき、荊州の学者たちの間で一人の名が囁かれていた。
「伏竜(ふくりゅう)と呼ばれる天才がいる」と。
その男の名こそ、諸葛亮(しょかつりょう)

劉備はすぐに彼を訪ねようと決意する。
冬の山道を越え、雪を踏み、
藁をまとって農家の戸を叩いた。
一度目は留守。
二度目も空振り。
そして三度目――、
ついに草庵で、書を読みながら静かに座る青年と対面する。

「あなたが諸葛孔明か。」
劉備は深く頭を下げた。
「俺には力も地もない。だが、この国を救いたい。
 どうか、共に歩んでくれ。」

諸葛亮はしばし黙し、やがて微笑む。
「あなたが私を三度訪ねてくれたその誠意――それこそ天命。
 ならば、私はあなたにすべてを賭けましょう。」

これが歴史に残る三顧の礼(さんこのれい)
ここから、劉備と孔明の伝説的な主従関係が始まる。

諸葛亮はその場で、天下三分の計を説く。
「天下はすでに曹操が北を、孫家が南を握っています。
 ならば、我らは西――益州を取って国を築くのです。
 蜀を拠点にし、天命を待ちましょう。」

劉備は拳を握り、
「天はまだ俺たちを見捨てていない」と答えた。

その後、曹操は荊州を狙って南下を開始。
荊州の主・劉表が病死すると、その息子は降伏し、
劉備は再び追われる身となる。
だが、逃亡の最中でも彼は民を見捨てなかった。
「俺は王になるために生きるんじゃない。
 民を生かすために戦う。」

この姿勢こそが、諸葛亮を動かした。
孔明は心の中で確信する。
「この人こそ、天下を任せるに値する“真の王”だ。」

劉備は家族と部下を連れて荊州を脱出し、
南方へと進む。
その逃亡の途中、彼を追うのは――曹操。
この二人の因縁が、ついに歴史を決定づける戦へと向かっていく。

第6章は、「理想が形を持ち始めた章」
劉備が諸葛亮を得たことで、“仁”に“知”が加わり、
蜀という新しい理想国家の種がまかれた。
次に訪れるのは――赤壁、運命の戦場だった。

 

第7章 赤壁の戦い――炎と風が変えた天下の行方

劉備が諸葛亮を得て間もなく、
曹操は北の全土を平定し、80万の大軍を率いて南下を開始した。
その旗印には、後漢の皇帝・献帝の名。
つまり“正義”を掲げた大侵攻だった。

その矛先にあったのは、南の地・江東を治める若き君主――孫権(そんけん)
父・孫堅、兄・孫策の遺志を継ぎ、
才気あふれる名将・周瑜(しゅうゆ)を筆頭に、
堅実に国をまとめ上げていた。

曹操は使者を送り、こう告げる。
「お前たちは漢の臣。
 私に従えば、富も名も約束しよう。」

孫権は動揺した。
相手は天下を制した男、兵力も十倍。
家臣の多くは降伏を進言する。
だが、ただ一人、孔明は静かに笑った。
「曹操の軍は北方の兵。
 湿地の戦を知らぬ。火と風を用いれば、勝機はあります。」

これを聞いた周瑜は、
「面白い……貴様、ただの軍師ではないな。」
と、孔明を戦友として迎える。

こうして劉備と孫権の連合軍が結成された。
いまや天下を二分する大戦、
その舞台は長江――赤壁(せきへき)の断崖。

曹操軍は圧倒的な数で川を埋め尽くし、
夜には無数の松明が星のように揺れていた。
だがその大軍は疫病に苦しみ、
兵の士気は低下していた。

周瑜は敵の弱点を突き、火計を立案。
孔明は天を仰ぎ、風を読む。
「南東の風が吹く夜を待て。
 その時、炎は天をも焼く。」

やがて運命の夜。
南東の風が吹き始める。
周瑜は号令を下す。
「火船を放て!」

無数の火矢と火船が曹操軍の艦隊に突っ込み、
炎は連鎖して川全体を覆った。
夜空は紅蓮に染まり、爆風が大地を揺らす。
曹操は逃げ場を失い、撤退。
赤壁の断崖には、焼けた船と兵の叫びだけが残った。

――これが赤壁の戦い
数に勝る曹操を、
劉備・孫権連合が奇策で打ち破った歴史的な戦いである。

孔明は風の中で静かに呟く。
「天はまだ、この国を見放してはいない。」
周瑜は隣で微笑む。
「だが、俺たちの勝利は短い夢かもしれん。
 英雄が多すぎる国だからな。」

第7章は、「知と風と炎が作り出した奇跡」の章。
赤壁の戦いによって天下は三分された。
北の曹操(魏)、南の孫権(呉)、西の劉備(蜀)。
――ここから、三国の時代が本格的に始まる。

 

第8章 蜀の建国――仁の旗のもとに

赤壁の戦いののち、曹操は北へ退き、孫権は南を守り、
劉備はその隙を突いて西へと進んだ。
孔明の“天下三分の計”が、ついに現実の形を取り始める。

劉備は荊州の一部を得たが、
それだけでは国を支えるには足りない。
孔明は進言する。
「荊州は戦の要ですが、地は狭い。
 西の益州――蜀を取る時です。」

益州は山々に囲まれた豊かな土地で、
長年、劉璋(りゅうしょう)という温和な君主が治めていた。
劉備と同じ“劉”の姓を持ち、遠縁の関係。
劉備は当初、争う意思はなく、
「共に天下を救おう」と和平を申し出る。

だが、劉璋の周囲の臣たちはそれを恐れ、
「劉備は偽善者です! 蜀を奪う気に違いありません!」
と煽る。
結果、両者の間に緊張が走り、
やがて戦が避けられなくなる。

劉備は涙を流しながら言った。
「この戦、俺の望むところではない。だが、天の理がそう命じた。」

関羽・張飛・趙雲(ちょううん)・黄忠(こうちゅう)ら
歴戦の将たちが進軍し、
ついに成都を包囲。
城が落ちる前夜、劉璋は降伏を決意する。

城門を開けた彼の前で、劉備は剣を抜かずにこう言った。
「民の命を守ってくれたその決断、敬意を表する。
 今日から、この国は“蜀”とする。」

その言葉に城内の民は歓声を上げ、
“仁の王”の誕生を祝った。
このとき、劉備のもとには五人の柱が揃っていた。

諸葛亮(軍師)――智を司る伏竜。
関羽(将軍)――義を貫く赤面の豪傑。
張飛(将軍)――猛将にして兄弟の魂。
趙雲(ちょううん)――静かなる勇、冷徹な槍の達人。
黄忠(こうちゅう)――老いてなお矢を放つ神射手。

彼らを中心に、蜀は一気に力をつけていく。
民の信頼は厚く、他国と違い、
「この国には“義”がある」と評された。

しかしその裏で、曹操は北方を完全に制し、
孫権もまた東南で富を蓄えていた。
三国は明確に形を取り、
それぞれの理念を掲げて動き始める。

魏は「秩序」。
呉は「安定」。
そして蜀は――「仁」。

第8章は、「理想が国となった章」
劉備が“仁”を現実に変え、蜀を建国した瞬間だった。
だがその理想の国にも、すでに影が忍び寄っていた。
北では曹操が牙を研ぎ、南では孫権が動く。
そして西の蜀には――“兄弟の絆を裂く運命”が迫っていた。

 

第9章 関羽の最期――義の星、落つ

蜀が建国されて間もなく、
劉備・関羽・張飛の三兄弟は、
かつて桃園で交わした誓いを思い出していた。
「我ら、生まれた日は違えども、死すときは同じ日、同じ時を願わん。」

その言葉は、まだ心の奥で輝いていた。
だが、時代の流れは冷酷だった。

曹操は北方の支配を固め、孫権は呉の国力を増す。
そして両者の狭間にあるのが――荊州
赤壁の戦のあと、蜀が一時的に管理していた地だが、
呉との領有をめぐって緊張が続いていた。

この地を守っていたのが、劉備の義弟・関羽(かんう)
彼は「美髯公(びぜんこう)」の名で知られ、
その風格と忠義は天下に轟いていた。
孔明でさえこう言ったという。
「関羽が戦えば、軍は十倍に強くなる。」

当時、曹操は北方で反乱を鎮圧するため出陣しており、
関羽はその隙を突いて魏を攻め、襄樊(じょうはん)の地を包囲。
まさに天下を震わせる快進撃だった。
その勢いに、曹操はついに動揺する。
「関羽を侮っていた。あの男は一国の将の器だ。」

だが、関羽の“義”の強さは、同時に脆さでもあった。
彼は同盟国・呉からの支援を断り、
「義に背く者と手を組む気はない」と言い放つ。

――それが命取りだった。

孫権は曹操と密かに手を結び、
関羽の背後――荊州を奇襲する。
包囲され、退路を断たれた関羽は、
息子・関平とともに孤軍奮闘。
だが、敵は圧倒的。

やがて兵糧も尽き、夜明け前、
関羽は敵の伏兵に捕らえられる。
孫権のもとへ送られた彼に、
「降れば厚遇する」との言葉がかけられた。

関羽は静かに笑い、
「義を捨てて生きるなら、死んだほうがましだ。」

そして、斬首
その首は魏の都・許昌へ送られた。

曹操はその首を見て涙を流したという。
「この男を殺したのは、私ではない。
 乱世という怪物だ。」

その夜、曹操の夢に関羽が現れ、
青龍偃月刀を手に無言で立ち尽くした。
曹操はうなされ、
「関羽が義の神となる」と語ったという。

以後、人々は関羽を「関聖帝君」として祀り、
武の象徴でありながら“義の神”として崇めた。

劉備はその報を聞き、震えるほど怒り、
「義弟を殺した孫権、決して許さぬ!」と叫んだ。
孔明が止める間もなく、
彼は復讐のため呉征伐を決意する。

第9章は、「義の死と復讐の炎」の章。
関羽の死は、蜀の誇りと同時に、
三兄弟の絆を引き裂いた悲劇でもあった。
“仁の国”を掲げた劉備の心に、
初めて“怒り”という炎が宿った瞬間だった。

 

第10章 夷陵の戦い――炎に沈む蜀の王

関羽の死の報せを聞いたとき、劉備は拳を握り潰すほど震えた。
義のために生き、義のために死んだ兄弟。
それを討ったのが、かつて肩を並べた同盟国・孫権――。

「孫呉を討たねば、俺は人でなしだ!」
孔明がどれだけ止めても、劉備の怒りは収まらない。
「義弟の仇を討たずして、どうして民を導ける!」

その激情のまま、蜀は大軍を起こし、呉へ進軍した。
将兵は4万、関羽・張飛亡き後の蜀軍にしては異例の大遠征。
だが、その怒りの炎は冷静な戦略を焼き尽くしていた。

呉の総大将は、若き名将――陸遜(りくそん)
彼は周瑜の後継として孫権に重用され、
冷静沈着、しかも智謀に満ちた男だった。
蜀軍が進むと、陸遜は退き、退き、退き続ける。
劉備は嘲笑した。
「腰抜けめ。呉にはもう戦える者もいないのか。」

だが、それはすべて陸遜の策だった。
夏が訪れ、蜀軍の陣は森の中――湿気と熱気が満ち、
兵たちは疲弊し、兵糧は腐り始めていた。

その夜、陸遜は密かに命じる。
「今だ。火を放て。」

呉の兵が一斉に火矢を放ち、
炎は風に乗って蜀軍の陣を包む。
夜空は赤く、地は揺れ、兵は逃げ惑う。
退路はすでに断たれていた。

その地――夷陵(いりょう)
蜀軍は全滅寸前となり、劉備は愛馬を失って山中へ退く。
焦げた土の匂いの中で、彼は呟いた。
「孔明の言う通りだった……俺は義に溺れたか。」

敗走した劉備は、白帝城(はくていじょう)に身を寄せる。
病に倒れ、日に日に衰えていく中、
孔明を呼び寄せ、静かに言葉を残した。

「孔明、お前にすべてを託す。
 国を頼んだぞ。民を頼んだぞ。」
孔明は涙をこらえ、深く頭を下げる。
「陛下、必ずや蜀を護り抜きます。」

劉備は微笑み、
「俺は桃園の夢を見た。
 関羽と張飛が笑っていた……。」

そしてそのまま、眠るように息を引き取った。

劉備、享年六十三。
蜀の初代皇帝、ここに崩御。

第10章は、「理想の王の最期」の章。
義に生きた男が、義に呑まれて散った瞬間。
蜀は深い悲しみに包まれ、
孔明が国のすべてを背負う時代が始まる。
――だが、この“伏竜”こそ、
三国の歴史を再び揺らす、最後の巨星だった。

 

第11章 諸葛亮の北伐――天に挑んだ智の戦い

劉備が夷陵で命を落としたのち、
蜀の国を支えたのはただ一人、
“伏竜”の名で呼ばれた天才軍師――諸葛亮(しょかつりょう)だった。

彼は新たな皇帝・劉禅(りゅうぜん)に仕え、
「陛下、私は陛下のためではなく、
 先帝(せんてい)の遺志のためにこの身を使い果たします」と誓う。

朝廷の政治を整え、法を正し、民を潤わせる。
彼の治世は清廉でありながらも、あまりに厳格だった。
蜀は再び活気を取り戻し、
兵の士気は高まり、人々は彼を“聖人のような宰相”と称えた。

だが孔明の心は、常に北に向いていた。
――曹操の後継、魏を討ち、天下を平らげる。
それが、劉備の志を果たす唯一の道だった。

ついに西暦228年、孔明は出陣を宣言する。
蜀の兵5万、北へ向けて進軍。
これが有名な第一次北伐(ほくばつ)である。

最初の戦場は祁山(きざん)。
孔明は自ら兵糧を管理し、慎重に進軍。
敵の将軍・曹真(そうしん)を翻弄し、
蜀軍は連勝を重ねた。

この時、孔明のもとに一人の奇才がいた。
――馬謖(ばしょく)
才覚はあったが、経験が浅い若者。
孔明は彼に要地・街亭(がいてい)を任せた。

だが、馬謖は命令を無視し、高地に陣を構える。
その隙を突かれ、魏軍に包囲され、壊滅。
孔明は怒りに震えながらも、涙をこらえ、
「法は万人に平等であらねばならぬ」と言い、
最愛の部下・馬謖を自ら斬首する。

その夜、孔明は灯の下でひとり嘆いた。
「才はあれど、用い方を誤れば国を滅ぼす。
 人を知ることの難しさよ……。」

だが、彼は決して止まらなかった。
何度敗れても再び立ち上がり、
魏の将・司馬懿(しばい)と知略をぶつけ合う。

両者の戦いは、もはや軍ではなく“頭脳”の戦だった。
司馬懿が孔明の進軍を読めば、孔明はその裏をかき、
司馬懿が守れば、孔明は風を操り、
時には虚を突いて退く――まさに神業。

ある時、司馬懿が蜀軍を包囲すると、
孔明はたった数人の兵で城を開け放ち、琴を弾いた。
魏軍は「罠だ!」と恐れ、撤退。
これが有名な空城の計(くうじょうのけい)である。

天才同士の駆け引きは何年も続き、
ついに蜀軍は再び北の戦場・五丈原(ごじょうげん)に陣を張る。
だが、その時すでに孔明の体は限界に近かった。

第11章は、「智が命を削る戦」の章。
孔明は理想のために、
自らの生命を燃やして“天”に挑んだ。
戦の勝敗ではなく、信念そのものが問われる戦いだった。
そして次の章――その智が尽きる、静かな夜が訪れる。

 

第12章 五丈原の星――孔明の死と三国の終焉

五丈原の地に陣を構えた諸葛亮(しょかつりょう)は、
もはや人ならぬほどにやつれていた。
長年の戦と不眠、そして尽きぬ責務が、
彼の命をじわじわと削っていた。

夜風の中、灯の光に照らされた顔は、
まるで蝋のように白い。
彼は筆を持ち、静かに遺言を書き始める。
「天下の平定、果たせず。
 我が死をもって、蜀を乱すことなかれ。」

外では兵が夜警をし、
遠く魏の陣では司馬懿が動きを伺っていた。
「孔明が病に伏している? それも策かもしれぬ……」
司馬懿は油断せず、陣を崩さなかった。

孔明は最後まで、国を案じていた。
寝台のそばには、木で作られた小さな人形が並んでいる。
それは、死後も兵を動かすための木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)
彼の天才が最後に生んだ“動く補給兵器”だった。

やがて夜が深まり、
孔明は灯の炎を見つめながら、
小声で天に祈る。
「あと少し……あと七日。
 七日生きれば、北伐を完遂できる……。」

彼は祈祷を始め、自らの寿命を延ばそうとする。
だが、その瞬間、風が吹き、
灯がふっと消えた。

それを見た弟子たちは、泣き崩れる。
「先生……」

――西暦234年、諸葛亮、五丈原にて死す。
享年54。

孔明の死後、蜀軍は混乱したが、
司馬懿はなおも慎重だった。
「孔明の死すらも罠かもしれぬ。」
彼が進軍をためらっている間に、
蜀軍は遺骸を持って撤退。

この時、蜀軍は孔明の遺体を車に乗せて進み、
旗を立て、彼の姿を遠くからでも見せるようにした。
魏軍がそれを見て恐れ、
「孔明がまだ生きている!」と叫び、退いた。
――これが伝説の死せる孔明、生ける仲達を走らすの逸話である。

孔明の死から数十年後、
三国の力関係は静かに傾き始める。
魏では司馬懿の一族が実権を握り、
孫権亡き呉は衰退、
蜀もまた、劉禅の治世で力を失っていった。

そしてついに、魏の将軍・鍾会(しょうかい)鄧艾(とうがい)が蜀を攻め、
成都は陥落。
劉禅は降伏し、蜀は滅ぶ。

時を同じくして、魏も司馬家の手で奪われ、
晋が建国。
その晋が呉を滅ぼし――
長き戦乱は終わりを迎えた。

しかし、人々の心には、まだ炎が残っていた。
“仁の劉備”、
“知の孔明”、
“勇の関羽・張飛”、
そして“野望の曹操”、“誇りの孫家”。
彼らが生きた時代を、
人はいつしかこう呼んだ。

――「三国志」と。

第12章は、「知の死と伝説の誕生」の章。
孔明の死で、乱世は静かに幕を閉じた。
だがその智と義の物語は、千年を越えて語り継がれ、
いまなお、人の理想と愚かさを映す鏡として輝き続けている。