第1章 人工の幸福と“人間工場”
時代は西暦2540年(フォード紀元632年)。
車の神様・ヘンリー・フォードが“神”として崇められ、
その名にちなみ、世界は効率と管理の上に築かれていた。
舞台はロンドン中央孵化・条件付けセンター。
ここでは、人間はもう「母親の腹」からではなく、
人工子宮で“生産”される。
ガラスの中で育つ無数の胎児。
温度も栄養も遺伝子もすべてコントロールされ、
人間は生まれる前から“階級”を決められていた。
上位のアルファ階級は知的で美しく、
社会の管理を担う。
ベータ・ガンマ・デルタ・イプシロンと階級が下がるにつれ、
頭脳も体格も意図的に制限され、
最下層のイプシロンは、考えることさえ許されない労働者として作られる。
博士のハッチャードが説明する。
「個性は不幸の源だ。
だから我々は“同一性”を与える。
幸福とは、決められた役割を喜んで果たすことなのだ。」
さらに子どもたちは“条件付け教育”を受ける。
睡眠中に繰り返される音声――
「私はアルファ。アルファは優れている。デルタとは違う。」
この“睡眠学習(ヒプノペディア)”によって、
人間たちは階級を疑うこともなく“自分の身分を愛する”ように育てられる。
そして、社会の秩序を保つ最終兵器――ソーマ。
それは飲むだけで幸福になれる“合法的な麻薬”。
怒りも悲しみも、みなソーマの霧の中で消える。
この世界では、
家族・宗教・芸術・愛といった概念は“野蛮な遺物”とされ、
感情の深さよりも“快楽の安定”が尊ばれていた。
センターの中を、ひとりの若い職員が歩く。
彼の名はバーナード・マルクス。
彼はアルファ階級の男だが、
他のアルファよりも体が小柄で、どこか“異質”。
周囲の人々が笑いながらソーマを飲み、
機械のように快楽を語る中、
バーナードの目だけが冷めた孤独を宿していた。
「みんなが幸せそうに笑ってる……
でも、それが本当の幸福なのか?」
この第1章は、“完全に管理された幸福社会の導入”の章。
“すばらしい新世界”では、
戦争も貧困も存在しない――
だが同時に、“人間らしさ”も存在しない。
そして、その疑問を抱いたバーナードこそ、
この社会の“異物”として物語を動かす最初の歯車となる。
第2章 条件づけられた愛と「自由な幸福」
ロンドン中央孵化・条件づけセンターでは、今日も“教育”が行われていた。
しかしその教育とは、知識や創造性を育てるものではない。
「社会の安定」を守るための、感情操作の訓練だった。
看護師たちは幼児たちを花畑へ連れていく。
花を摘もうとする無邪気な子どもたち――
だがその瞬間、強烈な電流と警報音が鳴り響く。
子どもたちは恐怖で泣き叫び、花に近づこうとしなくなる。
ハッチャード博士が微笑んで言う。
「自然を愛する心など不要だ。
だが“労働と消費”を愛する心は絶対に必要だ。」
次は“性教育”。
この社会では、恋愛や家族愛は犯罪に等しい。
代わりに、子どもたちは“幼少期からの性的交流”を奨励されていた。
「誰もが誰とでも楽しめる。
それが“愛の平等”だ。」
彼らにとって“自由恋愛”は文字通りの言葉だったが、
そこには感情も絆も存在しなかった。
アルファ階級の職員たちは仕事の合間にソーマを飲み、
「一粒で憂鬱が吹き飛ぶ!」と笑い合う。
社会は完璧に“幸福”に見えた。
しかし――その中でただ一人、
バーナード・マルクスだけが笑えなかった。
彼は同僚のレーニナ・クラウンという女性に惹かれていた。
レーニナは健康的で社交的、
まさに「理想的な市民」。
だが、彼女の“愛”の定義はバーナードとは違っていた。
「あなた、変なのね。
みんなは私とデートしたらソーマを飲んで、
楽しい時間を過ごすだけよ。」
「でも、レーニナ。
君と“ただ過ごす”だけで、何かを感じたいんだ。
他の人みたいに、何も考えずに笑いたくない。」
レーニナは首を傾げる。
「考える? 考えるなんて危険よ。」
バーナードは心の中で叫んだ。
(彼らは幸福なんかじゃない。ただ“感じること”を忘れてるだけだ。)
だが周囲はそんな彼を異常者扱いした。
同僚たちは陰で笑い、
「マルクスはソーマを飲み忘れてるんだ」と噂する。
夜、バーナードは一人で空を見上げる。
星のない人工的な空気の下、
彼の頭にはひとつの疑問がこだまする。
「人間は“痛み”なしで、本当に幸福になれるのか?」
この第2章は、“感情のない自由と、孤独な反抗”の章。
社会は秩序と快楽によって完璧に制御されている。
だがその中で、“考える人間”だけが不幸になる。
そしてバーナードは初めて気づく――
この世界で一番危険なのは、幸福ではなく“疑問”だ。
第3章 異端のアルファと野蛮の誘惑
数日後、バーナード・マルクスはレーニナを誘って休暇に出る。
行き先は、文明社会から隔離された区域――“野蛮人保留地”。
そこだけは、世界国家の支配が及ばず、
古い宗教、家族、出産、そして死がそのまま残されていた。
レーニナはソーマを飲みながら笑う。
「赤ちゃんを“産む”なんて信じられないわ。気持ち悪い!」
バーナードは答えない。
だがその目は真剣だった。
「そこに……本当の人間の生き方があるのかもしれない。」
彼は上司に休暇の許可を求めたが、
返ってきたのは冷たい言葉。
「野蛮人の村など見ても、君の“欠陥”は治らんぞ。」
それでも彼は構わず出発する。
文明社会から離れた空の下、
ヘリコプターが砂漠の上を飛び、やがて赤土の村へ降り立つ。
そこには、老いと痛みと祈りがあった。
しわくちゃの顔、病人、泣く子ども――
ソーマも条件付けも存在しない、本物の人間の生活。
レーニナは恐怖に震える。
「ひどい場所ね……汚れてる。」
だがバーナードの胸には、不思議な感動が湧いていた。
「ここでは、苦しみが生きてるんだ……。
誰もそれを“薬で消そう”としない。」
その時、彼らの前にひとりの若者が現れる。
肌は白く、瞳は深く澄んでいた。
村の人々からは「ジョン」と呼ばれている。
彼の母親は、驚くことにロンドン中央孵化センターの女性リンダ――
かつて行方不明になった市民だった。
つまり、ジョンはこの文明社会の血を引きながら、
“自然な出産”で生まれた唯一の人間だったのだ。
ジョンは文学を愛していた。
古い書物――シェイクスピアを読みながら、
「この世界は醜くても、言葉は美しい」と語る。
バーナードはジョンに惹かれていく。
「彼の存在は、社会への最大の挑戦だ……」
リンダは泣きながらバーナードにすがる。
「私をロンドンに連れて帰って。
ここでは“汚れた女”として虐げられているの。」
バーナードは即座に決める。
ジョンとリンダを連れて帰ろう。
彼らこそ、この“すばらしい新世界”に真実の衝撃を与える存在になる――と。
レーニナは怯えながら言う。
「彼を……この社会に連れて帰る気なの?」
バーナードは微笑む。
「そうだ。彼は“自然に生まれた人間”だ。
この世界が忘れた“現実”そのものだよ。」
この第3章は、“異世界との接触と真実の胎動”の章。
バーナードは完璧な社会に初めて“異物”を持ち込む決意をする。
それは、幸福に支配された世界に――
人間の苦しみと魂を呼び戻す第一歩だった。
第4章 ロンドンへの帰還と“野蛮人”の衝撃
バーナードとレーニナは、リンダとジョンを連れてロンドンへ帰還した。
空港に降り立つやいなや、センターの職員たちは騒然とする。
「リンダだって?あの“事故で行方不明”になった女が?!」
そして、その隣に立つジョンを見てさらにざわついた。
彼は文明社会の誰とも違っていた。
褐色の肌、燃えるような瞳、そして“野蛮人”と呼ばれる存在感。
彼の視線は街の人工的な光を嫌悪するように見つめ、
レーニナの香水や服装に顔を赤らめる。
「女性が……こんなふうに……堂々と……」
彼は混乱しながらも、どこか惹かれていた。
ジョンはレーニナを見るたび、シェイクスピアの言葉を思い出す。
「ああ、美しき奇蹟の生き物よ……」
一方、バーナードは野蛮人を連れ帰ったことで、
これまでの立場を一変させる。
彼はかつて周囲から“変人”扱いされていたが、
今や皆が彼のもとへ押しかけた。
「野蛮人に会わせてくれ!」
「彼は本当に“自然に生まれた”のか?」
バーナードは内心で笑う。
(ようやく俺の時代が来た……!)
一方、リンダは文明社会に戻ったことで、
あらためて“異物”として扱われた。
彼女の太った体、老いた顔は、
この若さと快楽が支配する社会では“不快な現実”にすぎなかった。
「なんて醜い女!」
「気分が悪くなる!」
リンダは耐えきれず、ソーマを過剰摂取して眠り続けるようになる。
「ソーマさえあれば、痛みも恥も消えるの……」
一方、ジョンはこの世界を理解しようとするが、
その“幸福”の構造に疑問を抱く。
「なぜ、誰も考えない?
なぜ、悲しみが悪いことなんだ?」
レーニナは優しく言う。
「考えるより、感じる方が楽しいのよ。
ほら、ソーマを飲んで、忘れましょ?」
ジョンは怒りを抑えきれず、叫ぶ。
「僕は“本当の人間”でいたいんだ!
幸福なんて薬で作るものじゃない!」
その言葉に、周囲の人々は笑った。
彼らには“苦しみ”という概念そのものが理解できなかったのだ。
バーナードはジョンを利用して注目を集め、
高官や上流層の前で彼を見せ物のように紹介する。
ジョンは耐えながらも、
その中に深い孤独と嫌悪を募らせていった。
「ここでは、誰も本当の意味で生きていない……」
この第4章は、“異世界が交わり、偽物の幸福が露呈する章”。
文明社会の人々はジョンという“鏡”に映され、
自分たちの世界がどれほど空虚で作り物だったかを見せつけられる。
だが同時に、ジョン自身もまた――
その偽りの幸福に飲み込まれ始めていた。
第5章 名声と虚無、そして堕落のはじまり
ジョン――“野蛮人”は、ロンドンで一大センセーションを巻き起こした。
新聞もメディアも彼を取り上げ、人々は「本物の自然人」を見たがった。
だが彼らの興味は理解ではなく、見世物だった。
「怒った顔も面白いね!」
「ほら、また“神”とか言ってる!」
ジョンはまるで動物園の檻の中にいる気分だった。
バーナード・マルクスはその人気を利用して、
以前自分を笑っていた上司や同僚を次々と呼び寄せ、
豪華なパーティーを開く。
「どうだ、俺を馬鹿にしてたやつら。
今や“野蛮人の仲介者”だぞ。」
レーニナもまた、ジョンに惹かれていた。
彼の純粋さ、激しい感情――
この世界では見たことのない“本物”だった。
だがジョンは彼女を避けた。
レーニナの自由な愛、
すべてを“軽い遊び”とする考え方を、どうしても受け入れられなかったのだ。
「あなた、私が嫌いなの?」
「嫌いじゃない……だけど君は、僕が愛を知っていると思ってるのに、
実際は“愛を知らない”。」
レーニナは混乱し、泣きながら部屋を出る。
その夜、ジョンはひとりでシェイクスピアの一節を読み返した。
「人は魂を売って安らぎを得るが、
それは“死よりも深い眠り”なり。」
同じ頃、バーナードの立場にも変化が訪れる。
野蛮人の人気に飽きた人々が、次第に彼から離れていく。
そして、かつての上司から冷たく告げられた。
「君の人気は“野蛮人”のおかげだ。
その彼が拒絶を続ける限り、君にも価値はない。」
一方、ジョンの母リンダは、
ソーマの過剰摂取で昏睡状態に陥っていた。
医師たちは「幸せなまま死ねる」と笑いながら言う。
ジョンは怒りに震え、医師の胸ぐらを掴む。
「それを“幸福”と呼ぶのか!?
母は生きてるんだぞ!!」
しかし、まわりの見物人たちは笑ってスマートフォンを向けるような顔で、
その光景を“娯楽”として眺めるだけだった。
リンダはソーマの夢の中で穏やかに息を引き取った。
ジョンはその手を握りしめ、
「母さん、僕たちは間違ってたんだ……」と涙を落とす。
だが、その姿さえも――
翌日のニュースでは「野蛮人の悲しみ、リアルすぎる!」と笑いのネタにされた。
この第5章は、“名声と幸福の崩壊”の章。
ジョンは“真実”を語るほど孤立し、
バーナードは権力の中で空虚さに沈み、
レーニナは“愛の意味”を見失う。
幸福に管理された社会では、悲しみも怒りも“エンタメ”に変えられる。
そしてそれこそが――
この世界で最も恐ろしい“退廃のかたち”だった。
第6章 死と暴動、そして神への叫び
リンダの死を境に、ジョンの中で何かが完全に壊れた。
白く無機質な病院の中で、
人々は“幸福の薬”ソーマを受け取り、
笑顔で次々と列を作っていた。
「母が死んだばかりなのに……
こいつらは、まるで何も感じていない!」
ジョンの怒りは頂点に達する。
彼は薬の箱を掴み、叫んだ。
「これは毒だ!!
お前たちは“魂”を殺されているんだ!!」
周囲がざわつく中、
彼は群衆の前でソーマの錠剤を次々と床に投げ捨てた。
「これを飲むな!現実を見ろ!生きろ!!」
人々は恐怖と混乱の中で後ずさりする。
だがすぐに怒号が湧き起こった。
「野蛮人がソーマを壊してるぞ!」
「止めろ!警備を呼べ!」
そこへ駆けつけたのが、バーナードとヘルムホルツ・ワトソン。
ヘルムホルツは、同じアルファ階級の知識人でありながら、
社会の偽りに気づいていた男だった。
彼は笑いながら言う。
「やれやれ、ジョン。君はやっと“人間らしく怒った”な。」
3人は暴徒に囲まれ、警棒で叩かれながらも必死に抵抗する。
しかし、ほどなくして治安部隊が到着し、
電撃装置で鎮圧。
人々は再びソーマを配られ、
数分後には何事もなかったかのように微笑み出した。
ジョンたちは連行され、
白い壁の部屋――世界統制官ムスタファ・モンドの前へ通される。
ムスタファは穏やかに笑っていた。
「私は君たちの怒りを理解しているよ。
だが、我々がこの世界から“痛み”を取り除いたのは、
人間を守るためだ。」
ジョンは机を叩く。
「痛みのない世界なんて、生きているとは言えない!」
モンドは首を振る。
「君は“幸福”を誤解している。
人は選択の自由よりも、安定と安心を求める。
我々はただ、その欲求を叶えただけだ。」
「じゃあ“神”はどこにいる!」とジョンが叫ぶと、
モンドは静かに答える。
「神は人が“不幸で苦しんでいるとき”にしか必要とされない。
だから我々の世界に神は不要だ。」
その言葉に、ジョンは目を見開き、
自分の中の“信仰と本能”が砕けていくのを感じた。
この第6章は、“反逆と理念の衝突”の章。
ジョンの激情と、ムスタファ・モンドの理性。
二つの世界観――「痛みと自由」 vs 「安定と幸福」が
真っ向からぶつかる瞬間である。
そしてその果てに、ジョンは初めて悟る。
この社会では、
自由は生き残れず、真実は常に“異常”と呼ばれる。
第7章 理想と管理の対話
拘束を解かれたジョン、バーナード、ヘルムホルツの三人は、
世界統制官ムスタファ・モンドの部屋に通された。
そこは本棚で埋め尽くされていた――だが、それは異様な光景だった。
この時代に紙の本を持つことは、
宗教を持つことと同じくらい“危険な行為”だったのだ。
モンドは静かに言う。
「君たちが見たがっている“自由”は、
我々がかつて手にしていた。
だがその結果、戦争と飢餓と混乱しか残らなかった。」
ジョンは一歩前に出て叫ぶ。
「だからって、人間を“育てる”のか!?
感じることも考えることもできないようにして!」
ムスタファは微笑む。
「我々は人間を“壊した”のではない。
“安定したシステム”にしただけだ。
ほら、戦争も貧困もない。
誰も飢えず、誰も孤独を感じない。」
ヘルムホルツが問いかける。
「それは“幸福”ではなく、“服従”じゃないのか?」
モンドはゆっくり椅子に座り、
封を切った古い本を開く。
それは“聖書”だった。
「これはもう不要な書だ。
神は“危険”なんだよ。
なぜなら神を信じる人間は、
他の権威に従わなくなる。」
ジョンは息を詰めた。
「でも、人は信じることで強くなれる。
神を捨てたら……心が空っぽになる!」
モンドは冷たく笑う。
「空っぽでいい。
“空っぽ”だからこそ、ソーマで満たせる。」
その言葉に、ジョンの拳が震えた。
「あなたたちは幸福じゃない!ただ“死なないだけ”だ!」
「いいや、ジョン。幸福とは“痛みを感じないこと”。
君のように愛や苦しみに囚われるのは、旧時代の病気だ。」
沈黙。
やがてモンドは穏やかに言う。
「だが、君のような存在も必要なんだ。
我々には時々、“苦悩”を観察する必要がある。
だから君を処刑はしない。――隔離する。」
ヘルムホルツも笑った。
「なるほど、“美しい牢獄”ってわけだ。」
モンドは彼を見つめる。
「君は詩人だろう?
君のような者は、氷と風しかない島で生きる方が幸せだ。」
ヘルムホルツは肩をすくめる。
「案外、それも悪くない。」
バーナードは恐怖に泣き叫ぶが、
ジョンとヘルムホルツは黙って受け入れた。
「俺は人間でありたい。
たとえ苦しみの中でも。」
この第7章は、“理想の幸福と不完全な自由の対話”の章。
ジョンとモンドの思想の対立は、
“人間の尊厳とは何か”という問いそのものだった。
そして読者は知る――
この世界では、「真実を知ること」こそ最大の罪だということを。
第8章 孤独な祈りと“人間に戻る”試み
ジョンはロンドンを離れ、
郊外の古い灯台にひとりで暮らし始めた。
ムスタファ・モンドの提案により、
彼は「観察対象」として、社会の外へ追放されたのだ。
灯台の周囲には自然が広がっていた。
人工の光も、ソーマの匂いもない。
久しぶりに嗅ぐ“腐った土の匂い”が、
ジョンには生の実感として沁みた。
彼は決意していた。
「もう誰とも関わらない。
この体も心も、神のもとへ清めるんだ。」
ジョンは祈りと断食、
そして自らを鞭で打つ苦行を始める。
痛みを通して、忘れかけていた“罪と贖い”を取り戻そうとしていた。
「痛みこそ、生きている証だ。」
毎朝、朝日が昇ると彼は叫ぶように祈った。
「神よ、僕を汚れから救ってください。
母を救えなかった罪を、
この肉で償わせてください。」
やがて、その異様な生活ぶりが噂になり、
文明社会から見物客が押し寄せてくる。
ドローンが飛び交い、
人々はカメラを向けて笑う。
「見て!“野蛮人”がムチ打ってる!」
「マジで痛そう、でも最高のコンテンツだ!」
ジョンは怒りに震える。
「帰れ!ここは見世物じゃない!」
だが誰も聞かない。
見物客たちは、彼の苦行を“エンタメ”としてSNSに流し、
“神の野蛮人チャレンジ”というタグまで生まれた。
夜、ジョンは自分の頬を叩きながら泣いた。
「結局、どこに逃げても“文明”は追ってくるのか……」
だがその中でも、
彼の心の奥には小さな希望が残っていた。
「痛みは偽物じゃない。
少なくとも、この鞭の跡は“現実”だ。」
彼は再び祈り、
自分の体を打ち、血を流しながら叫ぶ。
「神よ、僕に“魂”をください!」
この第8章は、“孤独と贖罪の章”。
ジョンは人間らしさを取り戻そうと、
痛みと祈りの中で自己を再構築しようとする。
だがその姿さえ、
“幸福社会”の人々にとってはただのショーでしかなかった。
彼の苦しみは、
この世界が“人間の本質を理解できなくなった”ことを
最も痛烈に示していた。
第9章 群衆の狂気と「救済」の名のもとに
灯台でのジョンの生活は、
いつの間にか娯楽として消費される日常になっていた。
彼が祈る姿、血を流す姿、
そのすべてが撮影され、ネットに流れ、
“生の野蛮人ショー”として人々に笑われていた。
ある朝、ジョンは夢を見た。
母・リンダの声が聞こえる。
「ソーマを飲めば、もう痛まないわよ……」
彼は目を覚まし、激しく頭を振る。
「僕はもう逃げない!
この痛みが、僕の“人間としての証”なんだ!」
だが、その叫びを聴く者はいなかった。
その日、
バーナードとヘルムホルツの消息を報じたニュースが流れる。
二人は遠い島へ流刑され、
「理想主義的反乱者」として処理されたという。
ジョンは静かに手を合わせ、
「彼らは……まだ自由の中にいる」と呟く。
だが皮肉にも、その夜――
彼の灯台の前には数百人の群衆が押し寄せていた。
ドローンライト、音楽、笑い声。
まるで祭りのような喧騒。
「おーい、“野蛮人”!鞭打ってよ!」
「今夜はパフォーマンスだー!」
ジョンは恐怖と怒りで震える。
「やめろ……帰れ!」
群衆の中で、ひときわ鮮やかな服を着た女が現れた。
――レーニナ。
彼女は微笑みながら歩み寄り、
「あなたを心配して来たの。
ねぇ、もう苦しまなくていいのよ。
ほら、ソーマを一粒飲んで――」
ジョンの目に映ったのは、
かつて愛した女ではなく、
文明の象徴そのもの。
彼は絶叫した。
「出ていけ!
お前たちは“幸福”という毒で世界を殺したんだ!!」
怒りと混乱の中で、
ジョンは鞭を取り、自分の体を叩いた。
群衆は歓声を上げる。
「すげぇ!もっとやれ!」
「血が出てる!本物だ!」
やがて興奮は頂点に達し、
レーニナが止めようと近づいた瞬間、
ジョンの鞭が彼女の肩を打った。
沈黙。
そして次の瞬間、群衆が沸騰した。
「野蛮人が美女を殴った!」
「最高だ!もっと見せろ!」
音楽、笑い、ソーマの霧。
誰もが狂ったように踊り出し、
その渦の中でジョンは混乱し、
ついに、我を失って踊り始めた。
朝――。
静寂。
太陽が灯台を照らす中、
人々はいなくなっていた。
地面には、ソーマの錠剤と足跡だけが残っていた。
ジョンは崩れ落ち、
空を見上げて呟く。
「神よ……僕は、もう人間じゃない。」
この第9章は、“群衆による現代の磔刑”の章。
ジョンは救済を求めたが、
人々はその痛みを娯楽として貪り食った。
そして彼自身も、
文明と野蛮の境界で狂気に飲まれていく。
第10章 静寂の終わりと“幸福な世界”の完成
夜が明けた。
灯台の上に朝日が差し込み、
鳥たちの鳴き声が戻ってくる。
ジョンの姿は――ロープの先に揺れていた。
首に縄をかけ、
足元に転がるのはソーマの瓶と、
血のついた鞭。
前夜の狂乱のあと、
彼は罪と絶望の中で、
自らを罰するようにこの世界を去ったのだ。
翌日、見物に来た人々は沈黙した。
ドローンが無表情にその遺体を映し出し、
ニュースはこう報じた。
「“野蛮人ジョン”、幸福を拒絶して自殺。
だが社会は依然として安定している。」
数秒の報道のあと、
画面には広告が流れる。
――「今夜もソーマで楽しい夢を!」
街では笑い声が戻り、
誰も彼の死を思い出そうとしなかった。
バーナードもヘルムホルツも島で消息を絶ち、
ムスタファ・モンドは相変わらず穏やかに世界を統治していた。
ソーマは配られ、
性愛は奨励され、
不安は薬で消される。
世界は完全に幸福だった。
しかし、その“幸福”の下には、
一人の男の叫びが永遠にこだましている。
「痛みなくして、人間は生きていない!」
誰もその言葉を思い出せない。
なぜなら、この世界に“記憶”という不安要素は存在しないからだ。
夕暮れ。
街のスピーカーから、フォード讃歌が流れる。
ソーマの霧が街を包み、
子どもたちは笑いながら口ずさむ。
「幸福であることが正しい。
不幸は病気。悲しみは罪。」
そして太陽が沈むころ、
画面の向こうに巨大な標語が映し出される。
「COMMUNITY, IDENTITY, STABILITY(共同性・個性・安定)」
それが、この“すばらしい新世界”の全てだった。
この第10章は、“人間の終焉と完璧な幸福の完成”の章。
ジョンが求めた痛みも、祈りも、自由も、
すべては“秩序”の中で無意味と化した。
そして、世界は今日も静かに微笑む。
――誰も苦しまない代わりに、誰も生きていない世界。