第1章:花札と山内房治郎の野望

話は1889年、明治22年の京都。まだスマホもテレビも影も形もねぇ時代に、一人の男が立ち上がった。名前は山内房治郎(やまうち・ふさじろう)。彼が創業したのが――後の任天堂。
最初に作ってたのはゲーム機でもソフトでもなく、花札。そう、あの「こいこい」とか「月見で一杯」でおなじみの花札。

当時の日本じゃ賭博が問題になってて、普通のトランプや賭札はヤバい扱い。でも山内は「だったら合法に遊べる美しい札を作ればいいじゃん」って発想した。
しかも、ただの花札じゃない。手描きの職人技+和のデザインで人気爆発。京都の芸者衆や料亭でも大ヒット。
屋号は「任天堂骨牌(にんてんどうこっぱい)」――“任せて天に遊ぶ”って意味。つまり「運を天に任せて楽しもうぜ」ってノリだな。創業当初からもう洒落てる。

山内房治郎は単なる職人じゃなく、ビジネスマンとしても切れ者。全国展開、流通網の整備、広告戦略…やること全部が明治版スタートアップ。
この時点で「遊び」を文化として商売にした日本初の企業と言っても過言じゃねぇ。

要は、任天堂の原点は「勝ち負けより、遊びの美学」。
それが後のマリオやゼルダにも流れる“遊び心のDNA”なんだ。

次章では、この花札屋がどうやって“世界企業”への第一歩を踏み出したか。
そこに出てくるのが、ひとりの“社長バトン”の物語だ。

 

第2章:三代目社長・山内溥(やまうち・ひろし)の登場

花札屋として成功した任天堂も、時代の波には逆らえなかった。
戦後、日本にアメリカ文化が流れ込むと、みんなトランプに夢中。花札は「おじさんの遊び」扱いになっちまったわけだ。

そこで登場するのが、創業者の曾孫――山内溥(やまうち・ひろし)
彼、当時22歳。大学中退、経験ゼロ、だけど性格は鋭すぎるぐらいの経営センス持ち。社員たちも最初は「若造に会社任せられるかよ」って空気だったが、溥はそんなのお構いなし。
着任早々に親族を全員クビにして、会社の完全支配を取る。ヤバいでしょ、もうこの時点で。

溥の戦略は明快。
「時代遅れの札屋じゃダメだ、未来の“遊び”を作る企業にする」って方向転換。
1950年代、トランプをライセンス生産して日本初の国産トランプメーカーになった。
これが後に、任天堂が世界市場へ進出するきっかけになる。

ちなみに彼、アメリカ視察の際にウォルト・ディズニーのビジネスに衝撃受けてんのよ。
「ただのキャラじゃなく、“夢”を売ってる」って。
帰国後、任天堂トランプにディズニーのキャラを採用して大成功。
ここで「キャラクタービジネスの力」を理解したのがデカかった。

つまりこの章はこうまとめられる。
山内溥=任天堂の近代化を始めた革命児。
花札からトランプ、そして“夢のコンテンツ”へ――。

この後、彼は「ゲーム」という未知の領域へ突っ走る。
次章では、あんたも知ってる“伝説の最初のスイッチ”が入る瞬間だ。

 

第3章:トランプ屋からおもちゃ屋へ、そして「何でも屋」時代へ

1960年代。
トランプブームで波に乗った任天堂、だったけど――ぶっちゃけ長くは続かねぇ。
だって、どんなに上手く作ってもトランプは一度買えば終わり。リピート需要がねえのよ。
「こりゃ新しい“遊び”を作らなきゃ潰れる」ってことで、山内溥は新路線を模索し始める。

最初に目をつけたのが「おもちゃ」。
だが、ただの玩具じゃ勝てない。
そこで社内の変人(誉め言葉)たちが暴れ始める。
その筆頭が、後に伝説となる横井軍平(よこい・ぐんぺい)

彼は天才発明家タイプで、廃材を使って面白いもん作るのが得意。
たとえば、会社の駐車場で見つけた望遠鏡の部品から生まれたのが――
「ウルトラハンド」
引っ張るとアームが伸びて物を掴める、いわゆる“ハサミ伸びるおもちゃ”。
これがめちゃくちゃ売れて、任天堂はおもちゃ業界に名を刻む。

その後も「ラブテスター(恋愛診断機)」とか、「ウルトラマシン(ピンポン打ち返す装置)」とか、アイデア勝負の玩具を連発。
でも正直、どれも一発屋。
会社としては「楽しいけど安定しねぇ!」って状態だった。

そんな時、溥はさらに暴走する。
「もっと儲かることを!」ってことで、
・インスタント米事業
・タクシー会社
・ラブホテル経営
まで手を出す。
いや、もはや“任天堂”じゃなく“なんでも堂”。

結果は?
全部コケた。きれいに。
でも、この失敗があったからこそ、「遊び」に戻る覚悟が決まるんだよな。

――次の章では、この“迷走期”を経て、任天堂がついに「電子の時代」に突入する。
ひとりの天才技術者との出会いが、全てを変えるんだ。

 

第4章:テレビゲーム誕生前夜 ― 天才・横井軍平の逆転発想

1970年代に突入。
日本ではカラーテレビが普及し、家庭の“娯楽の中心”がテレビになり始めてた。
その流れを察知したのが、例の天才エンジニア――横井軍平だ。

軍平のモットーは「枯れた技術の水平思考」。
つまり“最新技術で勝負するんじゃなく、古い技術を別の角度から使って新しい遊びを作る”って考え方。
この一言が、任天堂のDNAになる。

そんな彼が作ったのが、1970年の「光線銃シリーズ」
これ、当時のテレビ受像機にセンサーを反応させて、
銃で撃ったら的が光るという画期的な“テレビ連動型おもちゃ”。
家の中で撃ち合えるってことで、子どもたち大興奮。
任天堂、またも大ヒットを掴む。

そこからの勢いで、ついに「エレクトロニクスの世界」へ突入。
1977年、世界がまだ“ゲーム=アーケード”だった時代に、
任天堂は家庭用ゲーム機「カラーTVゲーム15」を発売。
画面でテニスっぽいピンポンを遊べるやつ。
当時の家庭では「テレビがオモチャになる!?」って衝撃だった。

このシリーズ、じわじわ売れて利益も出たけど――
溥の頭の中にはもう一つの野望があった。
「自社のキャラ、自社のゲームで勝負する時代を作る」。

そして、ここで登場するのが若き日の宮本茂
まだデザイナー見習いだった青年が、後に“ゲームの神様”と呼ばれるようになる。

次章では、宮本茂が“アーケードの魔法”を使って
任天堂を世界にぶちかます瞬間――「ドンキーコング」の誕生だ。

 

第5章:ドンキーコング爆誕 ― 世界が「任天堂」を知った瞬間

1980年代初頭。
アメリカではアーケードゲームがブーム真っ盛り。
「スペースインベーダー」や「パックマン」が街を支配してた。
任天堂も「自分たちもいっちょ乗るか」と、アーケード事業に参入。
…が、最初の作品「ラダースコープ」がまさかの大爆死
在庫の筐体が倉庫でホコリをかぶる始末。

そんな中、山内溥が「誰かこの筐体使って面白いもん作れ」って言った。
手を挙げたのが――新人デザイナー宮本茂
彼はゲームを“遊び”じゃなく“物語”として見てた。
「人が動くには目的がいる。感情がいる」って感覚をすでに持ってたんだ。

そうして生まれたのが、1981年『ドンキーコング』
プレイヤーは“大工ジャンプマン”(後のマリオ)。
恋人をさらった巨大ゴリラ・ドンキーコングから彼女を助けに行く。
…もう設定からしてロマン全開。

しかも、ただのアクションじゃなく、
「ジャンプ」「ハンマー」「ステージ構造」っていうシステム的なリズム感がめちゃくちゃ完成度高い。
アーケードで爆発的ヒット。
アメリカの任天堂支社を一気に立て直した。
任天堂は一夜にして“日本の花札屋”から“世界のゲーム企業”へと進化したんだ。

ちなみにこの時点でマリオはまだ「ジャンプマン」って呼ばれてた。
名前の由来は、アメリカ支社のオフィスの大家マリオ・セガール
家賃を取り立てに来たその人があまりに印象的で、
「じゃあ名前、マリオでいいじゃん」ってノリで決まった。
世界一有名なヒゲ男の誕生がこれ。

――そして、宮本茂はこの成功を足がかりに、
「家庭で遊べる“自分たちの世界”」を作ろうと動き出す。

次章では、いよいよファミコンが世に出る。
任天堂が“遊び”を「文化」に変えた瞬間だ。

 

第6章:ファミコン登場 ― 世界を変えた赤と白の革命

1983年、日本。
バブル前夜の空気の中で、任天堂がぶっ放したのが――
「ファミリーコンピュータ」、通称ファミコン

見た目はちょっとおもちゃっぽい赤と白。
でも中身はマジで革命的だった。
それまでゲームってのは、アーケードや専用機で「1つのソフトしか遊べない」もの。
だけどファミコンはカセット交換式
「1台で無限の遊びができる」って発想がぶっ刺さった。

開発を主導したのは、技術屋の上村雅之
コストを抑えつつ、当時としては異次元の性能を実現。
しかも家庭用だから、子どもも親も一緒に遊べる。
“家族でゲーム”って文化を初めて作ったのが、まさにこのマシン。

最初に出たタイトルは『ドンキーコング』『ポパイ』『マリオブラザーズ』などの移植版。
でも本当の伝説は、1985年。
宮本茂が作った『スーパーマリオブラザーズ』が登場してから始まる。

2D横スクロール、アイテム成長、ステージごとの発見感。
当時のゲーマーたちの脳を文字通りブチ抜いた。
世界中で4,000万本以上売れて、任天堂=マリオのイメージが定着。

ここで任天堂は“テレビゲームの代名詞”になった。
しかも国内だけじゃなく、アメリカ・ヨーロッパでも市場を制覇。
倒産寸前だったアメリカのゲーム業界まで救っちまった。
いわゆる「ビデオゲームクラッシュ」後の救世主だ。

ファミコンの成功で、山内溥は「遊びは文化になる」と確信する。
ゲームはもうおもちゃじゃない。
“世界共通の言語”になった。

次章では、ファミコンの次のステージ――
ポータブルの革命児「ゲームボーイ」が登場する。
そしてそこに、ひとつの“モンスター”が産まれる。

 

第7章:ゲームボーイとポケモン ― 手のひらの中の宇宙

1989年。
ファミコンが世界を席巻したその数年後、任天堂が次に仕掛けたのが――
「ゲームボーイ」
これがまたヤバかった。
「いつでも、どこでも、誰とでも遊べる」って発想を現実にした、携帯ゲーム機の始祖だ。

開発したのは、あの横井軍平
彼の“枯れた技術の水平思考”がここでも炸裂する。
最新技術じゃなく、あえてモノクロ画面+長時間バッテリー+丈夫な設計
その結果、電池4本で10時間以上遊べるという超実用機が誕生。
しかもソフトはカートリッジ交換式。
「家の外でも遊べるファミコン」って時点で子どもたちはメロメロだった。

同時発売の『テトリス』が世界的ヒット。
社会人、学生、子ども、みんながポケットの中でブロック積んでた。
そのブームの中で、1996年――
ゲーム史をひっくり返す存在が現れる。

『ポケットモンスター 赤・緑』。
開発したのは田尻智率いるゲームフリーク。
彼が子どもの頃に虫取りしてた思い出を“交換と冒険”という形に落とし込んだ。
ゲームボーイの通信ケーブル機能を使ってポケモンを交換。
これがめちゃくちゃ新鮮で、「お前のフシギダネとオレのヒトカゲ交換しようぜ!」の文化が爆誕。

ポケモンは瞬く間に世界現象。
アニメ・カード・映画まで巻き込んで、“遊び”が一つの世界観(ユニバース)に進化した。
そして任天堂は“ハード屋”から“文化の生産者”へと変貌する。

ちなみに、この頃の任天堂本社は“地味で寡黙な職人集団”って感じ。
だけど中では、宮本茂がゼルダを作り、横井軍平が次の携帯機を構想してた。
つまり“静かな狂気の工房”状態。

次の章では、ついに「3D革命」。
スーファミから64へ――任天堂が“平面の世界”を飛び出す瞬間だ。

 

第8章:スーファミと64 ― 二次元から三次元への大ジャンプ

1990年代前半。
ファミコンが“家庭の神様”になったあと、任天堂が次に放ったのが――
スーパーファミコン(SFC)
通称“スーファミ”。
これがまた、当時の子どもたちの脳をまるごとドット絵にした。

まずグラフィックが段違い。
色数が増えて、音も豪華。
BGMがまるで映画みたいだった。
『スーパーマリオワールド』でヨッシーが登場した瞬間、
全国のガキが「乗れる!? 息吐く!? タマゴ出す!?」って叫んだ。

スーファミ時代は、まさに任天堂黄金期の中盤戦
『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』で物語性が爆発、
『スターフォックス』でポリゴン技術を初導入、
『MOTHER2』でゲームに“文学”を持ち込む。
もはやゲーム=芸術だった。

ただ、時代の流れは3Dへ。
ソニーが「プレイステーション」で殴り込み、
任天堂も負けじと1996年に放ったのが――
ニンテンドウ64

スーファミの2Dから、完全3Dの新世界へジャンプ。
そしてここで宮本茂がまたやらかす。
『スーパーマリオ64』
3D空間を自由に走って、泳いで、跳んで、回転して。
誰も見たことなかった「触れる世界のゲーム」。
ゲームデザインの概念を丸ごと塗り替えた。

同時期に出た『ゼルダの伝説 時のオカリナ』は、
“カメラワーク”と“操作感”の基準を作り、
「ゼルダ方式」は今も世界のゲームデザインの教科書。

だけど、64はソフト供給が少なく、PSとの競争で苦戦。
技術では勝ってたのに、サードパーティ離れが痛かった。
ただ任天堂は焦らなかった。
“流行”よりも“遊びの本質”を守り続けたから。

次の章では、そんな任天堂が再び“おもちゃ魂”を取り戻す瞬間。
――ゲームキューブ、そして奇跡の2画面“DS”と“Wii”の登場だ。

 

第9章:ゲームキューブ、DS、そしてWii ― “変態発想”で世界を笑顔に

2000年代。
ライバルのソニーはPS2で天下取り、マイクロソフトもXboxで殴り込み。
ゲーム業界がハード戦争まっしぐらの中、任天堂は――逆を行った。

2001年に登場したニンテンドーゲームキューブ
紫のキューブ型で、見た目は“かわいい弁当箱”。
性能的には悪くなかったが、DVD再生もできるPS2の影に埋もれた。
ただ、ここで光ったのがソフトの個性
『ルイージマンション』『ピクミン』『大乱闘スマッシュブラザーズDX』。
ゲームの中身で勝負し続けた、職人魂の塊みたいな時代だった。

そして次に任天堂が見せたのは――“頭おかしいほどの発想力”

2004年、突如現れたのがニンテンドーDS
二画面+タッチペンという前代未聞の構造。
「え?なんで2つ画面あんの?」ってみんな言ってたけど、
『脳を鍛える大人のDSトレーニング』や『どうぶつの森』『Nintendogs』が社会現象に。
子ども、主婦、老人、誰でも遊べる“ゲームの民主化”が起きた。

そして2006年、世界を再びひっくり返したのがWii
テレビの前でリモコンを振るだけで遊べる、体感型ゲーム機。
『Wii Sports』でおじいちゃんがテニスして、おばあちゃんがボウリングしてたあの時代。
ゲーム=子どもの遊び、って概念を完全にぶっ壊した。

WiiとDSは合わせて全世界で2億台超
数字だけ見りゃとんでもねえけど、何よりすごいのは“遊びの定義”を広げたこと。
任天堂は「スペック競争」じゃなく「人の笑顔」で勝った。

次の章では、その勢いがどうやってSwitchという最終進化に繋がったのか。
家庭でも外でも、ゲームの境界を消した“ハイブリッドの奇跡”がやってくる。

 

第10章:Nintendo Switch ― 遊びの“境界”を消した革命

2017年。
スマホゲーム全盛、据え置き機の存在がちょっと影薄くなってた時代。
そんな空気をぶっ壊したのが――Nintendo Switch
“据え置きでも携帯でもOK”っていう、まさに任天堂らしい変態発想。

テレビにドックでつなげば据え置き機。
外せばそのまま携帯機。
しかもJoy-Conを外して振る・渡す・共有する。
ゲームの根本、「一緒に遊ぶ」をど真ん中に戻した。

発売初期から『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』が世界を席巻。
オープンワールドの常識を再定義して、「見える場所、全部行ける」という自由を提示。
『スーパーマリオ オデッセイ』では、帽子を投げて敵に“乗り移る”というトンチキ仕様。
どっちも遊び心と技術が完璧に融合してて、まさに“任天堂の総力戦”だった。

さらにオンライン文化に対応して、
『スマブラSP』『スプラトゥーン』『あつまれ どうぶつの森』など、
“人とつながる”シリーズが次々に世界で大ヒット。
とくにコロナ禍で『あつ森』が社会のメンタル支えたのは伝説級。

Switchは2025年現在でもバリバリ現役。
累計販売台数はPS2と並ぶ歴代トップクラス
ハードの概念すら超えて、「任天堂=遊びのプラットフォーム」という地位を確立した。

――花札から始まり、トランプ、おもちゃ、ファミコン、携帯機、そしてSwitch。
任天堂の歴史は、ずっと“技術”じゃなく“遊び心”を信じた軌跡。
「人を笑顔にするための発明」って理念が、100年以上ぶれずに続いてんのがエグい。

任天堂はただの企業じゃない。
“人類の遊びをデザインしてきた文化そのもの”なんだ。 (完)