祝!日本オープンゴルフ選手権優勝!!


※晋呉さんの強さの秘訣についての記事は>>こちら
もちろん、ボクも最終日には駆けつけて各ホール先回りして大声援でサポート

晋呉さんの優勝スコアが-1、最終日2アンダーで回った2位の石川遼くんが+3、最終日5オーバーと崩れた上井さんが+8で5位という今回の難コースは、福岡県にある古賀ゴルフクラブ。九州で日本オープンが開催されたのは73開催中たったの2開催。そのいずれもがここ古賀ゴルフクラブでの開催。
古賀ゴルフクラブといえば、1991年の日本オープンで中島常幸さんが須貝昇さんをプレーオフで制し、オーバーパーの優勝スコアだった難コース下関ゴルフクラブも設計した「剛の上田」と称される上田治氏の作品。
古賀ゴルフクラブの難しさは、下関ゴルフクラブ同様1万5千本の黒松林で各ホールがセパレートされていて、枝が低い位置に張り出している(黒松特有)ため、フェアウェイの幅よりも空中の方が狭いところがあって、まさに枝が空中ハザードとなっているのと、グリーンが砲台で小さい上、傾斜がきつく、これがまた硬くて速い。またバンカーはもちろんアリソンバンカーで深くてあごが張り出して、しかも絶妙な位置に配置されているなど、息が抜けるホールがまったく無い。
また歴史的な背景にもドラマがあり、大正15年に「福岡ゴルフ倶楽部大保コース」としてオープンするも第2次世界大戦中に陸軍に接収され敗戦と同時に一旦は消滅。その後、福岡、博多の財界人が中心になって、多くの試練を乗り越えながら、ついに占領軍の許可を得て、昭和28年に9ホールで古賀ゴルフクラブと名称を変更して誕生。このあとすぐに上田治氏の手によって北九州の熱い想いを18ホールの造形の妙に作り上げられ、昭和32年に本格的なゴルフ場として完成している。

1907年、大阪府茨木市生まれ。
京大農学部卒業後、廣野ゴルフクラブのグリーンキーパーを経て支配人に。廣野ゴルフクラブの支配人を勤める傍ら、チャールズ・H・アリソンの影響を受け、広い人脈の後押しを得てコース設計家となる。

日本のゴルフ史に君臨する“中部銀次郎”の父で、当時の大洋漁業の副社長 中部利三郎氏が、息子銀次郎のためにつくったといわれるゴルフコース。
銀次郎が10代(今の石川遼くんぐらいの歳)の頃、門司GCに「子供にはプレーさせることはできない」。と断られ、それなら!と、門司GCのとなりに、門司GCを設計した上田治に設計依頼して、日本一の名門難コースが完成した。
素晴らしいデザインは、熱い想いを持ったクライアントとその熱い想いをカタチにするデザイナー(設計者)と、つくり上げてゆく人たちとのコラボレーションにより生まれ、末長く愛され続けるのですね。

話しが少しそれてしまいましたが、「晋呉さん、第73回日本オープン優勝&永久シード権獲得おめでとうございます!!」またとてつもない感動をいただきありがとうございました。
一サングラスデザイナーのボクにいつも仲良くしてくださる晋呉さん、金魚さんに感謝です。

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