4月29日金曜日。鹿児島中央から日豊線普通で隼人に到着。ここから肥薩線を経由して吉都線の乗り直しの旅を始める。どちらも既に乗り潰し済みで、肥薩線に関しては4回目の乗車となる。吉都線も4回目ながらも撮り潰しがまだなので、今回は吉都線の撮り潰しをメインに訪問することとなった。キハ40単行が隼人に到着。折り返し10時32分発の4224D都城行きとなる。吉松から吉都線に直通する系統の列車だ。肥薩線は吉松で系統分離されているので、車両運用上吉都線に直通する列車は多いようだ。肥薩線吉松~人吉間は以前は宮崎からの急行えびのなどが走り、古くは特急おおよどが走っていた優等列車運転区間だが、今や観光列車いざぶろう・しんぺいこそ走れど、1日の運転本数はわずか5往復に過ぎない。それに比べると隼人~吉松間は1~2時間置きに列車があり、運転頻度はローカル線としては比較的高い。おまけに九州新幹線の1期開業により特急はやとの風まで走り出し、かつてと形勢が逆転している。隣のホームに783系特急きりしまが到着。これの接続を受けて4224Dも出発。接続は受けても利用者は非常に少なく、単行で十分な乗り具合だ。肥薩線は何度も乗っているので席に座ってうつらうつらする。それにしても列車は非常に遅い。日当山を過ぎると山間部に入るので山越えにキハ40が喘ぐ形で進んでいく。鹿児島中央まで乗ってきた新幹線とは同じ乗りものかと思えるほどに遅い。とぼとぼと進んで嘉例川駅に到着したので、窓を開けて記念撮影。ここで駅弁を販売しているのを思い出してか、乗客の一人が駅長?さんに弁当が買える時間があるかどうか聞いて、ないとあっさり言われていた。弁当を買うも何も、弁当は確か予約販売だったような気がするが…。確かに隼人では駅構内に食料にありつけそうなところがなかったので、どこかで駅弁でもと言う人がいてもおかしくはない。まぁ各駅で駅弁を売るほども需要もないだろうから駅弁が買えないのも仕方ないところだ。国鉄時代ならそういうこともなかったのだろうが…今の時代にはかつての駅弁販売のようなシステムは見合わないだろう。
大隅横川では太平洋戦争で機銃掃射の弾を撃ち込まれた柱が残っている。特攻隊の基地があった知覧といい鹿児島県にも戦争の傷跡を知ることができる重要な教訓がたくさん残っている。これからも平和な世の中を願いたい。栗野でははやとの風1号と行き違うために7分程度停車。栗野はかつて山野線を分岐していたが、隣の駅本屋側のホームが同線の遺構なのだろうか。隼人方では明らかに分岐していたと思われる線路が残っており、かつての山野線を思い偲ぶことができる。終点の吉松では11分の大休止。隣のホームにはいざぶろう・しんぺいが停車中。先行した特急はやとの風を受けて停車中だが、4224Dの接続待ちも行っている。どこかで弁当でも売っていないかとホームをうろつくが、なんでかまんじゅうの立ち売りをしているおっちゃんがいるのみ。いざぶろう・しんぺいが発車して行った後、対向ホームの売店が開いていることに気付いたが、時すでに遅し。出発時間となってしまった。都城で何か探すしかない。都城にも売店がなかったように記憶しているので、若干不安は残るが…。
吉松からは吉都線の旅となる。かつて急行えびので2回ほど乗ったことがあり、その後も肥薩線の乗り潰しで1度乗っているが、撮り潰しがまだなので、今回は最後部からかぶりつきをしながらの道中となる。吉都線と言えば新燃岳の噴火が記憶に新しい。東北の大震災前はこの辺りと宮崎県の口蹄疫問題が深刻だったが、震災によりそちらの方が優先的になってしまった。火山の噴火は落ち着いているが、農作物などへの影響もあるし、何より口蹄疫や鳥インフルエンザなどの問題は今後もつきまとう。吉都線は先述したようにかつては宮崎から熊本へ至るルートにあるため、特急おおよどや急行えびのが走っていた。2000年に急行えびのが廃止になりそれ以来ローカル列車しか走らない路線になってしまった。かつては肥薩線の吉松~隼人間が似たような立場の路線だったが、あちらは新幹線開業により特急はやての風などを設定して観光に力を入れるようになった。日南線の海幸山幸や指宿枕崎線の指宿のたまて箱なども後に続いており、吉都線にもその手の列車が欲しいところだ。もっとも他線に比べて沿線の景色は案外平坦なところを走ることもあってか平凡である。雄大な景色といえば聞こえはいいが、肥薩線のような見所は少ない。しかし、吉松発車時点ではガラガラだった車内もえびのから謎の中国人が多数乗ってきたり、小林でも高校生を中心に乗り降りが多く、駅間の利用は案外活発なように思えた。もっとも地元での利用はそこそこあるもののやはり観光利用となると肥薩線などに比べると魅力に乏しいところもあり、見た感じそれらしき人も非常に少なかった。途中車窓に新燃岳らしき山を見たが、今も若干噴煙は上がっているように見えた。高原での下車が多く、終点の都城まで行く人は割合少なかった。

