仙台旅行を断念した本当の理由(ワケ) | いとっしーのもじ文字落書き(笑)

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仙台旅行を断念した本当の理由

 

1.自分にとっての一人旅とは

仙台旅行。これまでなら行ってたと思う。一人旅は自分にとってのかなり有効な気分転換手段だから。

牛タンやずんだをはじめ美味しいものを食べて、仙台という普段と違う街を歩いて帰りの車窓にひたって気分転換を図る。

すごく楽しいはず。新たな発見もできるかもしれない。一人でも楽しめる自信、楽しめるコンテンツは持ってるつもり。そこは人一倍マニアックに楽しめる自信はある。

 

でも、今回は行くことができなかった。お金はあった。一泊旅行にしてもいいくらいだった。なぜかといえば初めて仕事でちゃんとしたお給料がでた月だったからだ。いわゆる初任給になるのだろうか。そういう記念すべき月でもあったから自分へのお祝いとして仙台旅行は十分ありな選択だと思っていたし、今でも思っている。

 

でも、今回は行くことができなかった。

 

それには大きな理由が、これまでとは違う問題が、生じてしまったからだ。

 

結論を簡潔にかくなら「牛タンを美味しく食べられないと思ったから」である。

 

 

2.感覚過敏・ストレスフル・過呼吸症状発症

18年12月からかなり強烈な聴覚過敏や触覚過敏が発生していた。

12月は仕事上の負荷・ストレス増とともにプライベート面へのストレス(孤独感・孤立感)もかなり強くなってしまっていたことが原因なのか非常に聴覚が過敏になっていた。普段「意識しない」ような音が意識される音として耳に入ってくる。耳で聞こえない情報は振動という形でなにかが動いたことをキャッチしてしまう。それによってどこにいても安心できないという環境が構築されてしまった。 仕事場や外はともかく、家の中が一番強烈にストレスを感じる場所になってしまっていた。そのせいか12月は特に不眠が悪化。全く寝付けない、夜食を食べてもまだ眠くならないような日も多かった。

そして12月27日。あれをやらかしてしまう。

夕食時に発生した過呼吸様症状。 体が痺れ、うまく手がうごかなくなり、体が硬直していくような痺れていくような感覚が起こり、ついに食べることができなくなった。正確には食べ物が飲み込めなくなってしまった。その後ストレスも頂点に達していたのか、過呼吸を起こしてあやうく意識が飛びそうになった。なんとか治ったのでよかったものの、その後1時間くらいは食べるはおろか、水も飲めなかった。

でも3時間後くらいに食べた夜食は 結構がっつり食っていた。

しかしこの時の恐怖体験が自らにしっかりと記憶・記録されてしまった。

 

 

3.過呼吸症状多発、条件付けで悪化の一途

その後年末帰省で実家に帰ったりしていた。その間もずっと過呼吸の恐怖は消えることなく残っていた。家族と食事中に急に倒れたり、そこまで行かずとも、急に箸を止めたらなんかおかしいと怪しまれるんじゃないか・不安にさせてしまうんじゃないか。というさらなる追い討ちを自分でかけてしまった結果、辛くてもなんとかその場にいるようなシーンが多発した。

ぶっちゃけ、大晦日のオードブルも、年始のしゃぶしゃぶも、ほとんど味わっていない。

味わう余裕がなかったのだ。 ただ自分がおかしくならないか、おかしく見られていないか。そこばかりに意識が集中していた。

帰省から戻って日常生活がはじまっても、明らかに12月27日以前とは見えてる景色が変わってしまった。食事・外食が怖くなってきていた。 一人で食事→具合おかしくなる→パニックという図式、「食事はパニックを誘発しやすい」という条件付けが出来上がってきてしまっていた。12月27日がフラッシュバックしてくるといえばわかりやすいだろうか。

 

1月中旬からはさらに条件付けによる悪化が顕著になっていく。

さらに仕事における負荷も急激に上がった。予期しないこと・知らないことへの即時対応、急なスケジュール変更・マルチタスクなど自分が苦手とすることが一気に押し寄せてきた。

そのため疲れもさらに顕著に現れたり、でも不眠は悪化していたりとかなり体調がわるい状況が出来上がっていた。

そしてパニックの条件付けがどんどん増えてしまう。

夕食がダメ→(食事が危ない)→昼食もダメになる

夕食がダメ→夜食と統一作戦→翌朝胃腸絶不調→仕事中パニック誘発に加担

肩こり・めまいが悪化→メガネを外す→メガネを外したあとのフレームの感触が気になる→かえってめまいが悪化したような感覚→仕事中パニック誘発に加担。

というようにどんどん条件が膨れ上がってしまっている。

病は気からというが、本当に自分で自分をがんじがらめに縛っているのがわかる。

 

 

4.好きだった一人旅も・・・

最近ではパニック誘発になりそうなものを回避する回避行動がかなり目立ってきたのを実感する。すなわち、外食・一人旅など、これまで大好きだったことが全く逆の 不安と恐怖 の対象に変わってしまったのだ。

それでも先週宇都宮に餃子を食べにいったりとなんとかここだけは克服したいという姿勢もあるにはある。でも実際問題、この餃子を食べる旅も一番辛かった時間は餃子を食べている30分間だった。さすが宇都宮というだけあって餃子は本当に美味しかった。パニックの恐怖がいてもそれでも美味しいと思える餃子だった。 でも確実に餃子の味以上に、自分がパニックにならないだろうか、周りの人に異常が察知されていないだろうか。というのが優っていた。

餃子を食べ終わった後は意外と一人旅を楽しんでいた。

 

今回仙台に行けなかった理由はまさにこれで、仙台にいっておきうる最悪の可能性を考えた時、

牛タンは硬いので本当にパニックと結びついてしまった場合、一切れも食べれずに店を出るなんて事態になりかねない。でもそんなことをしたら店員さんに不審がられてしまう。ではむりやりに食べるのか?それをやると本当に過呼吸になりかねない。そうしたら不審どころではすまなくなる可能性もある。本当は行きたいし、牛タンがおいしいのも、ずんだシェイクが美味しいのも、牡蠣が美味しいのだって知ってる。だって昨年食べて感動してるんだもの。

でも今はそれ以上に厄介な不安が後ろにへばりついている。

 

5.対策

このパニックを払拭するにはいくつかの方法があると思う。

まず特徴としてストレスや不眠という悪しき土台があるにしてもそこから条件付けをして悪化させたのは自分自身であること。その条件付けはよくよく考えてみると全く相関関係がないものも多い。メガネを外したらパニック誘発なんていい例だろう。どう考えてもおかしい。でも自分の中でそれが硬く硬く認識されてしまった。

であれば、 逆を考えるのもありだろう。 

一つは パニック払拭につながる条件を作っていくこと。積み上げていくこと。そこに有効なのは自身の弱みに作用するような形をとること。

例えば自分が一人で夕食を食べられないなら、「誰かと会話しながら食べてみればいい。」

それは家族でも構わない。意識の集中する部分を少しでもそらしてやれたらいいのだから。

聴覚過敏も触覚過敏も過呼吸(特に呼吸に意識が集中したのが起因のやつ)も、その意識しているレベルを下げてやればいい。 もっと他の意識を向けないといけない対象を意図的に作る。その点においては誰かと会話(雑談)をするというのは極めて有効というのはわかってきた。

あとこれは推奨されるやり方ではないが、晩酌もありだと思う。服薬の関係で多量に飲むことは逆効果だけど、ほろ酔いの状態はいい感じに過敏だった神経が鈍化してくれて非常に過ごしていて気楽だった。

 

もう一つは さっきからパニックになったらどうしよう、周りからおかしいと思われてたらどうしよう。とかなり周囲に対しての意識が働いているという傾向を逆手にとること。

つまり、自分で不自然と思ったことでも積極的にやってみること。メガネを外してスイッチが入っちゃうなら、肩を伸ばしてもスイッチが入る今。でもそれは別に不自然なことじゃない。

さらにいえば業務に支障がなければ、飴ちゃんをなめたり、休憩時間にストレッチをしてもなんの問題もないのだ。それをいつもと違う行動をしてるからおかしいと思われるんじゃないかってなっちゃうからなにもできなくなってしまうわけで。

ちなみに実際に周りの人にきいてみたら

「は?肩凝ったなーと思ったら肩伸ばしても誰も文句いわんでしょw むしろのばせよww」

との回答。 そんなもんなんだろうね。 自分で思い込んでること、あえてそれをぶっ壊す。パニックに紐づく習慣や思考が増えてしまったのならその習慣や思考そのものを自ら変えてしまうのも有効な手だと感じた。

 

6.今後

この問題に関してはかなり自分自身で悪化させている部分も多いと感じている。

であるならば自分で改善できる余地も多分にあるはずと思っている。

確かに今は非常に辛い状況におかれているのは事実だが、でもいくらでも変われるチャンスはある。それには勇気を必要とする。でもやらないといけない。

ここでパニックに屈したら全部水の泡になりかねない。

自分は過去の黒歴史のおかげ?もあってかなり自己分析はしているつもりだ。

であれば自分を信じているなら、自分をわかっているなら、まだ改善していくことは可能だと思う。 一人でもがんばる。