もし、自分が・・・不登校じゃない人生だったら。
今回は自分での整理も兼ねたメモのような感覚でかいています 故に途中で終わってます・・・
1:現実の流れ
中学時代:
・地元では進学校になる中学校へ入学。
・中学2年で不登校に。
・その後も改善せず、数時間登校をたまにする程度で精神的にも悪化していく
・高校をどうするか選択を迫られる。
・公立高校(工業高校)受験を決断。保健室で勉強の日々。
高校時代:
・高校受験で公立合格、でもまた行けなくなってしまう。精神状態は破滅的な悪化へ。
・通信制へ編入学 場所は実家から150Km離れた都市 高速バス通学
(勉強するのは苦ではないが、休み時間がとてもしんどかったのを覚えている。高速道路が大好きだったこともあり、「高速バス通学」というのが学校に行きたい唯一のモチベーションだった。(学校内で友達はもちろんできず。)
・高校卒業、関東へ進学
専門学校時代:
・でもまた、いけない 「悪夢の再来」
・専門学校は中退
~現在:
・福祉サービス利用で精神的自立に向け練習
・社会的自立へ向けて就労訓練
2:もしあの時不登校になっていなかったら。
1:学生時代の予想
・もし、私が中学生時代に不登校になっていなかったら・・・
おそらく普通に学生生活を送って、普通に大学受験して、普通に就活をしていたと思います。みんなと同じ道を同じように歩いていたのだと思います。私は不登校になった理由が今でもわかりません。実感として、これだ!という原因がわからないのです。いじめにあっていたわけでもないし、特段体調が悪かったわけでもないし、勉強は進学校だったから量も多いし成績もそんなによくなかったけど、それが学生生活に致命的なことにつながるほどの原因かと言われたらそうも思えないのです。少なくとも最初のきっかけ(不登校のきっかけ)は今でもはっきりとはわからないです。であるならば、もしあのまま普通に通えていたら、みんなと同じ普通の人生を歩めたのかもしれません。
2:社会人になって
・もし私が不登校になることなく社会人になっていたとしたら・・・
就職はできたと思います。ただ、その後うまく回っていくのかに関してはかなり疑問を感じます。おそらくは回っていないと思います。躓いていると思います。つまるところ、中学校での不登校の原因が何であるかに関係なく、どこかのタイミングで「発達障害自体は発生している」と思うからです。それが人間関係、そこから発生するストレスなどによるならば、社会人になった後だろうと高校生だろうと、発達障害によって抑うつ状態などになっている可能性は高いと思っています。 もし、社会人になった後に発症してしまっていたならば今よりも過酷な状況におかれていたと思います。それはまさに、私自身が私自身を信用できていないからです。
私を知るために必要な時間が圧倒的に不足してしまっていると思うからです。
知れたとしても表面上の、他人からの情報で作られた私だけで、潜在的なところにある私しか知らない私(感性やら感覚やら、ある種能力)やらまでは気に掛けることすらできなかったと思います。
さらに社会人になったあとであれば背負っているものもあったでしょうし、ある程度人生の指針も決まってきていたころだと思います。それが根こそぎ崩れ去る恐怖は本当に恐ろしいと思います。収入だって大きく変わりますし、なによりそのタイミングで私自身が私自身を嫌う・見捨ててしまうのは本当に怖いものだと思います。
3:この現実でよかったと思うこと(中学校で不登校の人生~)
1:自由な時間
先にも書いた通りですが、中学生で不登校になってしまったので自由な時間はたっぷりとありました。しかし当時は苦痛以外の何物でもなかったです。でも今思うとあの退屈な時間が今の自分の考え方や価値観に大きく影響してくるなあというのは感じます。その退屈な時間に色々なことを考えたり悩んだり文字に書いたりしていました。
2:悩むこと・苦悩・葛藤
悩む時間というのは辛いものです。当時の私に対して「悩むな!」などとは口が裂けてもいえません。でも家族含めまわりからはしょっちゅう言われていました。
「くだらないことで悩むな」「当たり前のことで悩むな」「考えるだけ無駄だ、はやくやれ」
というようにさんざん言われていました。ただ不登校になった当時の私の悩みを、少なくともまわりの人たちは経験していないはずです。おそらく心の痛みもわかっていないと思います。言い方を変えれば「人生を考える貴重な機会」だったと今は思います。普通に生きていたら、その年齢では悩まない「人生を選択させる無理難題」が次々と襲ってきました。それに対して中学生、高校生ながら真剣に必死に対峙し、考えていたことは私自身だからこそわかる強みだと思っています。あの経験は普通の学生はしないと思います。それを社会に出る前に経験できたのは強みだと信じます。
3:自分を知る機会 自己理解・自己肯定
中学生から専門中退までずっと自分のことは大嫌いでした。当時の日記を見ても自分をほめる内容はほとんどなく、ほぼすべてが「自己批判・自己嫌悪」でした。自分を侮蔑して罵る内容ばかりでした。
でもそれは仕方ないと思っています。学生である以上、学校に行くことこそが最大の善であり学生の大前提であるからです。そのため学校に行けないことはそのまま「最大の悪」に直結してしまうのでどんな良いことがあっても学校に行けなかったという現実があるだけでその日は悪い日になってしまうのです。
それ以外にも精神的なダメージや思春期特有のダメージもあった時期なので仕方ないかなと思います。 むしろ今の私からすれば「たくさん悩んで考えてくれてありがとう」って感じです。
学校という呪縛から解放された後は、趣味についやす時間が増え、友達の誘いで大回り乗車をするようになったり、カメラに興味をもって野鳥撮影をしてみたり、YouTubeへ動画投稿をやってみたりと自分から動くことが増えました。世界がぐぐっと広がった、そんな感じがしました。新しいことにチャレンジ、時にはそれがバカだったり、常識はずれなことだったりするわけですが、ネットの世界ではその方が面白いコンテンツだと評価されたりと新しい自分の姿、価値、価値観をつけていった時期だったと思います。
一例:・AM3:00の大宮駅に行ってみた~ https://youtu.be/8C9pAj3n3Uw
まわりからはなにしてるのとバカにされたりしていました。でも辛くはなかったです。このあたりから自分で自分をほめることが増えました。自分に一つの価値を見出せたのだと思います。
学校に行って勉強していたら、果たしてここまでぶっ飛んだ発想や行動ができていたかは疑問です。やっぱり、、よくもわるくも普通の学生になっていた気がします。
ーーー途中