今まで見た映画の中で五指に入るトロイ。ホメロスのイリアスにインスパイアされたこの作品の魅力は、アキレスとヘクトルという世界史上の最強の戦士の「生と死」に対する考え方の根本的な相違にあると思います。この作品は完全にフィクションであり、一つのギリシャの愛の歌として鑑賞すべきです。例えばトロイの王女カッサンドラは登場致しません。最も注目されるべきはトロイの木馬について。(史実にはカッサンドラが不吉な予言をし、木馬を焼き捨ててしまうように進言したと説があります)イリアスのような壮大な叙事詩を映画化するにあたって、視点はアキレスとヘクトルとの相克関係においた点が「TROY」の特徴として挙げられる。
「人の命を殺めること」の罪深さをアキレスもヘクトルも真摯に対峙し、苦しみ抜いて、倒れていく。アキレスは己自身を「獅子」と言い、人の命を殺めることの罪深さを誰よりも深く自覚し、殺人を決して肯定する立場ではない。「戦争」という大義名分の名において殺人は正当化されるのか?という問いは永遠の問いである。ヘクトルは「妻」と「国」の為、戦争を肯定する。一見温厚な彼は戦の為となれば、年端もいかない青年をも殺す恐ろしい男です。(パトロクロスの死)対してアキレスは現代風に言えば特殊部隊とも言うべき少数先鋭部隊を率いて、神官をも殺める、神をも恐れぬ行為をなし、ヘクトルの死体を戦車で引きずった。この行為は「神の掟」を犯す冒涜行為として裁かれるべきなのでしょうか?アキレスにとってヘクトルは親友を殺めた男です。
ギリシャ悲劇において常に横たわっている「神々の掟」と「人倫の掟」との相克関係を考えた際に(「アンティゴネー」)、アキレスの行為を如何に判断するべきか?アキレスの行為についてはアンティゴネーとクレオンとの対立とともに、G.W.F.ヘーゲルが「精神現象学」の「精神」の章において触れています。ヘーゲルはギリシャ悲劇を手掛かりに神々の掟と人倫の掟とを対立的に展開することで、絶対知への高貴なる論理的な上昇を説いています。ギリシャ悲劇の悲劇性とは「必然性(die Notwendigkeit)」に他ならない、「イリアス」における圧巻はトロイの王プリアモスが息子の亡骸を引き渡すよう、アキレスに嘆願する場面であります。ヘクトルの遺骸を引き回すことでアキレスはパトロクロスの無念を晴らし、プリアモスに引き渡したことで神々の掟を忠実に守ったと言えるのではないでしょうか?(イリアスには莫大な身代金と引き替えにとあります)
「トロイ」においては一切このような現実性を排斥することで、夜に輝ける神々の涙の雫をアキレスは拭った。ギリシャ悲劇においては死者に対する限りない畏敬の念が謳われていると思います。「イリアス」においてもヘクトルの遺骸に女神アプロディナは薔薇の香油を塗って彼の身を守ったとあります。その意味においては「トロイ」はギリシャ悲劇の悲劇性を芸術的に「止揚(Aufheben)」した、神々の掟と人倫の掟との激しい相克関係における解答を提示したと言っても過言ではない。その美しさは必然性のなかに存在し、今日世界各国で戦争の激化するなかで生きている私たちにとって重要ななにかを示唆する最高傑作であると思います。
「トロイ」においてアキレスは母に助言を求めます。母親は「トロイへ行けばあなたは二度と帰ってこない、けれどもあなたの名声は永遠に刻まれる。アキレスという名も」と勇気を与えます。幾千年語り継がれたアキレスの名は「個」としての存在を超え、アキレス→トロイ戦争を想起させる、普遍性を帯びている。永遠の概念とは時をも、空間をも超え、心の中にのみ存在することを教えてくれる、マルボラ海の愛の歌に心からの讃辞を送りたい。
「人の命を殺めること」の罪深さをアキレスもヘクトルも真摯に対峙し、苦しみ抜いて、倒れていく。アキレスは己自身を「獅子」と言い、人の命を殺めることの罪深さを誰よりも深く自覚し、殺人を決して肯定する立場ではない。「戦争」という大義名分の名において殺人は正当化されるのか?という問いは永遠の問いである。ヘクトルは「妻」と「国」の為、戦争を肯定する。一見温厚な彼は戦の為となれば、年端もいかない青年をも殺す恐ろしい男です。(パトロクロスの死)対してアキレスは現代風に言えば特殊部隊とも言うべき少数先鋭部隊を率いて、神官をも殺める、神をも恐れぬ行為をなし、ヘクトルの死体を戦車で引きずった。この行為は「神の掟」を犯す冒涜行為として裁かれるべきなのでしょうか?アキレスにとってヘクトルは親友を殺めた男です。
ギリシャ悲劇において常に横たわっている「神々の掟」と「人倫の掟」との相克関係を考えた際に(「アンティゴネー」)、アキレスの行為を如何に判断するべきか?アキレスの行為についてはアンティゴネーとクレオンとの対立とともに、G.W.F.ヘーゲルが「精神現象学」の「精神」の章において触れています。ヘーゲルはギリシャ悲劇を手掛かりに神々の掟と人倫の掟とを対立的に展開することで、絶対知への高貴なる論理的な上昇を説いています。ギリシャ悲劇の悲劇性とは「必然性(die Notwendigkeit)」に他ならない、「イリアス」における圧巻はトロイの王プリアモスが息子の亡骸を引き渡すよう、アキレスに嘆願する場面であります。ヘクトルの遺骸を引き回すことでアキレスはパトロクロスの無念を晴らし、プリアモスに引き渡したことで神々の掟を忠実に守ったと言えるのではないでしょうか?(イリアスには莫大な身代金と引き替えにとあります)
「トロイ」においては一切このような現実性を排斥することで、夜に輝ける神々の涙の雫をアキレスは拭った。ギリシャ悲劇においては死者に対する限りない畏敬の念が謳われていると思います。「イリアス」においてもヘクトルの遺骸に女神アプロディナは薔薇の香油を塗って彼の身を守ったとあります。その意味においては「トロイ」はギリシャ悲劇の悲劇性を芸術的に「止揚(Aufheben)」した、神々の掟と人倫の掟との激しい相克関係における解答を提示したと言っても過言ではない。その美しさは必然性のなかに存在し、今日世界各国で戦争の激化するなかで生きている私たちにとって重要ななにかを示唆する最高傑作であると思います。
「トロイ」においてアキレスは母に助言を求めます。母親は「トロイへ行けばあなたは二度と帰ってこない、けれどもあなたの名声は永遠に刻まれる。アキレスという名も」と勇気を与えます。幾千年語り継がれたアキレスの名は「個」としての存在を超え、アキレス→トロイ戦争を想起させる、普遍性を帯びている。永遠の概念とは時をも、空間をも超え、心の中にのみ存在することを教えてくれる、マルボラ海の愛の歌に心からの讃辞を送りたい。