コースターに、ヒロミが丸を四つ描いた。
考えていること
/言っていること
/やっていること
/感じていること。
「この四つの輪が重なったところが、現実を動かす力になるの」と言って、カウンター越しに微笑む。
ペン先が止まるたび、氷がグラスの中で小さく鳴った。
1|巧の学生時代
――四つの輪が揃った夜
高三の文化祭。
体育館の特設ステージで、巧は照明班のリーダーだった。
顧問の先生は「均一な明るさ」を指示した。
——考えは「客席の安全第一」。
巧は違和感を持った。
通路の段差がきつく、均一にすると足元の影が消えてかえって見えにくい。
——彼の感じは「危ない」。
けれど会議で彼が言ったのは「わかりました、均一で」。
その夜、ひとりで残った巧は、体育館の端でやってしまった。
通路の角にだけ、ごく弱い“光の縁”を仕込んだのだ。
均一という指示に逆らう、考え×言う×やる×感じがバラバラの判断。
翌日、リハーサル。
客席を歩く父兄の足が、その“縁”に触れるたび迷いが一拍、短くなるのが見えた。
——感じとやるは合っている。
だが、言ったことと先生の考えからはズレている。
胸の中で、輪が擦れる音がした。
昼休み、巧は顧問に頭を下げた。
「先生、均一だと足元の段差が見えません。
“安全を高めるための不均一”に変えていいですか」
考え(安全)
/感じ(危ない)
/言う(理由を言語化)
/やる(微調整)を揃えて並べた。
顧問はステージ袖で数分黙って歩き、やがて頷いた。
「同点なら、歩幅が楽になる方だな。
やってみろ」
本番。
拍手の海のなか、通路の“縁”が静かに人を導いた。
事故はひとつもなく、終了後のアンケートには「迷わなかった」の文字が並んだ。
その夜、巧はノートに書いた。
〈四輪点検〉
考える
/言う
/やる
/感じるを揃える。
揃わないなら、言い直すか、やり直す。
——この感覚が、のちの彼の
“レスポンスは品質”
“目標に真っすぐ”
“変化こそ不変”
の根っこになった。
2|ヒロミの過去
――小平→都心→今の店
小平。
玉川上水の緑道沿い、実家は小さな文房具店だった。
子どものヒロミは、朝いちばんにガラスを拭くのが好きだった。
曇りが一拭きで透明になり、外の光が店に入る。
——感じるが先に立つ子だった。
二十代、都心のホテルバーへ。
“人の為、人の為”で、休憩を削り、後輩の穴を埋め、笑顔を絶やさない。
けれどある夜、声が出なくなった。
笑っているのに、胸の内側で何かが「偽」と鳴った。
考え(みんなを助けたい)と
やっていること(自分を空にして走る)が離れ、
言葉(大丈夫)が
感じ(苦しい)を裏切る。
四つの輪が各々勝手に回り始め、心が軋んだ。
休職中、小平に戻ると、雨が降った。
店先のたらいに溜まった水を、老舗の蕎麦屋の女将が向こう側へ押しやるのを見た。
「押した水は、返ってくるのよ。
自分のコップが満ちていれば、ね」
ヒロミはそこで“順番”を学んだ。
満たして、溢れさせて、押す。
さらに、子どもの頃からの好きだった“拭う”動作にも意味が重なる。
曇りを拭えば、光は勝手に入ってくる。
三十代、今の店を開いた。
開店前、必ずやることは三つ。
1) 照明を一段だけ落として店の呼吸を整える(感じ)
2) 今日の合図(天気・風)を読む(考え)
3) 最初の客の声を、語尾まで黙って聞く(やる)
そして、言うのは短く、比喩で腹に落ちるひと言だけ。
——四輪が同じ向きで回るように、仕込みをするおかみになった。
ある雨の夜。
新人ホステスがワインをこぼし、真っ青になった。
ヒロミは彼女の手から布巾をそっと取り、自分のグラスをひと拭いして見せた。
「曇りは、拭けばいい。
先に自分のグラスね。
満ちていれば、人にも拭い方を渡せる」
その夜、彼女ははじめて「人の為」の偽を脱いだ。
——“順番”を整えた“為”は、偽にならない。
3|輪を合わせる会話
現在、スナック「ヒロミ」。
巧は学生時代の文化祭の話をし、ヒロミは都心で声を失った夜の話をした。
ヒロミはコースターに描いた四つの輪を、指先でそっと重ねる。
「違和感ってね、輪がずれてる音なの。
“やる”だけ走って、
“感じ”を置き去りにしてない?
“言う”がカッコよくて、
“考え”を誤魔化してない?
揃えたとき、現実は動く」
巧は深呼吸して言った。
「ぼく、最近“やる”が先に走って、
“感じ”が乾いてました。
まず満たして、揃えてから走ります」
「いいね。
車の四輪アライメントみたいなもんだよ」
ヒロミは笑って、ペンで輪の重なりの中心に小さく“今ここ”と書いた。
「今ここで揃える。
未来はその延長線。
塞翁が馬、だからこれで良し」
胸の奥で、あの音がした。
カチッ。
巧はノートを開き、学生時代から続く自分の四輪点検を更新した。
考える:同点なら“誰の歩幅が楽か”
言う:短く、理由を添える(レスポンスは品質)
やる:小刻みに真っすぐ(微調整を止めない)
感じる:朝と夜に水位を測る(満たして溢れさせる)
四つの輪が重なる中心に、小さく丸を足す。
その丸は、ステージの“縁の光”のように、静かに人を導く印になっていた。