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パインのブログ

パインが心に思いついたことを思いつくままに書いているブログ

 

 

夕暮れの川沿い

風が紙と紙のあいだの空気を入れ替えるみたいに、胸の音量を一段下げる。

 

ベンチに座って、スマホのメモを開く。

 

今日の三行

 

通す 

→ 小さく当てる

 → 一度で決める

 

やってみなければ、分からない。

分からなければ、何も変わらない。

だから、まずは動く。

戻せる小ささで、三分間だけ。

たとえば、一度だけ。

通ったら、もう一歩先へ。

 

白鳥巧は、丸い頬にそっと指を当てる。

 

えくぼの窪みは、子どものころから変わらない。

かわいいと言われる顔の下で、静かに動き続ける小さな実験の手つき。

 

それがいつか、誰かの歩幅を少しだけ楽にする

 

――“まずはやってみる”という考えを

いつか誰かに見つけてもらえたらと、うっすら願っていた

そんな過去のエピソード。

 

 

 

「小学生時代」

 

給食の時間が近づくと、四年二組の空気は甘くなる。

牛乳とアルミトレー、そして揚げパンの砂糖

――混ざり合った匂いが教室の温度を一度だけ上げ

配膳台の前に斜めの列を作る。

ふたの“プシュッ”が重なる瞬間、何かがこぼれる音がした。

 

白鳥巧は、ランドセルのポケットから

小さなタイマーを取り出し、そっと止めた。

 

針は三分のところを指している。

 

三分目で騒がしくなる

――ここ数日、彼が続けていた観察の、ひとつの答えだ。

 

教卓の陰、誰も使わない黒板の隅に、白いチョークで三行だけ書く。

 

牛乳ふた

→一人ずつ

 

配膳

→奥から

 

おかわり

→手

 

「字、ちっちゃ。かわいい」

 

斎藤美羽が笑って、彼のえくぼを指す。

 

「女子のメモかよ」

 

及川翔太が、照れ隠しのように鼻で笑った。

 

 

「白鳥、これ何?」

 

担任の三浦佳代が、なだめるような声で問う。

 

「三行なら、みんな読めるので」

 

 

それだけ言って、巧は席に戻る。

 

配膳が始まる。

列はまっすぐに伸び、牛乳の音は点々と小さくなった。

 

こぼれない。

 

いつもより早く片づく。

 

三浦が時計を見て、目を丸くする。

 

 

「どうして、今日は早いんだろう」

 

「三分目に“いっせい”をやめました。

奥から配ると、前が空きます」

 

巧は淡々と言った。

 

「理屈まで、かわいい」

 

美羽がからかう。

 

「かわいいに理屈足すなよ」

 

翔太が肩をすくめる。

 

からかいも、賞賛も、彼には平和だ。

 

食後、少しだけ時間が残った。

 

巧は水道場で、金魚鉢の砂利をすくい、そっとすすぐ。

 

濁りが外へ出て、水が澄む。

 

「それ、当番?」

 

高橋凛がのぞき込む。

 

「違います。水が澄むと静かなので」

 

「白鳥って、静かなの好きだよね」

 

「こぼれないので」

 

静けさは、彼にとってごほうびに近かった。

 

静かな場では、誰かの声が正しく届く。

 

こぼれない。

 

翌日。黒板の三行は、すこしだけ大きくなっていた。

 

「字が大きいね」

 

三浦が微笑む。

 

「昨日、通ったので。

見やすくしてみました。

実験は、戻せるくらいの変更から」

 

「小学生で“実験”は言わないの」

 

翔太が笑う。

 

「小学生でも、実験はできます。

三行・三分・一手」

 

廊下では、低学年の田中旬が黒板を指差して

上級生の真似をして列に並んでいた。

 

三浦が小さくつぶやく。

 

「白鳥、伝わってるよ」

 

「三行は、うつります」

 

巧は深いえくぼで答えた。

 

 

翌週。黒板の三行は、語尾だけひらがなに変わっていた。

 

 

牛乳ふた→ひとりずつ

配膳→おくから

おかわり→て

 

「やさしい字になったね」

 

三浦が目を細める。

 

「低学年でも読めるように。

通ったので、対象を広げました」

 

翔太が笑う。

 

「“対象”って言うなよ、小学生だぞ」

 

「小学生でも、対象はあります」

 

廊下では、田中旬が、三行を指差して友だちに説明していた。

 

真似は連鎖する。

 

「白鳥、伝わってるよ」

 

三浦が言う。

 

「三行は、うつります」

 

巧はまた、えくぼを深く見せた。

 

 

「高校生時代」

 

 

文化祭の前夜、体育館は電気の匂いがした。

 

照明リハーサル、曲の山に差しかかるたび、ボーカルの顔が暗く沈む。

 

「ここ、顔が死ぬ。無理だ」

 

軽音部長の千葉陽が、ステージ袖で眉を寄せた。

 

「機材、古いからさ」

 

舞台照明の先輩・早坂真吾が、肩をすくめる。

 

白鳥巧は、手を挙げた。

 

かわいい顔の、遠慮がちな手。

 

「一度だけ、角度を上げてもいいですか。

――一度、つまり、ほんの一度(1°)」

 

「一度で変わるなら、苦労しないって」

 

早坂が苦笑する。

 

「まあ、三分だけやらせてみる?」

 

PA担当の菊地悠人が、どこか楽しげに言う。

 

三分という言葉は、巧の味方だ。

 

脚立にのぼる前に

巧は白い紙テープを“暗くなる点”に貼った。

 

見えないものを見える場所へ引き出す。

 

サイドのパーライトを、ほんの一度だけ上に振る。

アンプ背面に黒い画用紙を一枚。

ステージ端に、養生テープを細く裂いた“細い縁”を、足の幅に合わせて置く。

 

「今の三つ、何をしたの?」

 

千葉が問う。

 

「光の逃げ道をふさぎました。

反射のノイズは黒で消して、足元は“迷い三秒”のための道です」

 

説明は短く、正確に。

 

再リハ。

 

歌の山、千葉の顔が浮く。

 

会場の空気が、すこしだけ前に出る。

 

「それ! 今の!」

 

千葉が振り返る。

 

早坂が目を細める。

 

「ほんとに一度で変わったのか?」

 

「変わらなかったら戻せるから、一度です。

実験は、戻れる単位から」

 

受付の長町すみれが、ペットボトルを差し出した。

 

「白鳥くん、かわいいのに、やってることがプロ」

 

巧はえくぼを浮かべる。

 

「ありがとうございます。

同点なら、歩幅が楽なほうで決めました」

 

「照明で“歩幅”って言う?」

 

早坂が笑う。

 

「歌う人の歩幅が楽だと、他が決まります。

通るのを先にして、演出はあとで」

 

別の曲の間奏で、暗転の穴が戻った。

 

巧はためらわない。

 

「もし可能にするなら

――サスを一度だけ下げて、黒をもう一枚。

細縁は五センチ延長します」

 

「やってみ」

 

早坂がうなずく。

 

三分もいらなかった。

穴は消えた。

派手ではない。

けれど、外さない。

 

本番は、成功した。

 

終演後、長町がポラロイドをくれる。

 

裏には小さく「かわいい係」。

 

「光栄です。『かわいい係』は

――『見える係』の別名ですね」

 

言い直しは、彼のささやかな抵抗であり、仕事だった。

 

照明卓の奥では

顧問の佐藤貴史が安全点検のチェック表を閉じて

満足げにうなずいている。

 

紙の端にメモ

――“可逆の調整、良”。

誰に見せるでもない推薦状の下書き。

 

撤収。

 

テープを剥がす巧に、早坂が声をかけた。

 

「白鳥、“一度の人”、これからも頼む」

 

「三分で当てて、一度で決めます」

 

千葉が茶化す。

 

「名刺かよ」

 

菊地が笑う。

 

「でも、そういう肩書、欲しいわ」

 

 

余白という実験ノート

 

夜、机に向かって、古い自由帳をめくる。

セロハンテープの黄ばみごと残った紙片に、幼い字が並ぶ。

 

小学生・観察:三分目がうるさい

小学生・実験:三行にする

高校生・観察:顔が沈む点

高校生・実験:一度/黒/細縁

 

 

「案ずるより動け」。

戻せる小ささから動く。

通ったら、大きくすればいい。

言葉は、あとから追いつく。

 

三行の育て方、一度の外側

 

 

文化祭の撤収後。

 

照明卓の前で、早坂が尋ねる。

 

「どうして まずは“仮当て”からやるの?」

 

「失敗の記録を残せるからです。

大きく動かすと、原因が混ざります。

小さく動けば、どこが効いたかが分かる」

 

菊地が身を乗り出す。

 

「床や段差の“端っこ”に入れる細いラインって、何のため?」

 

「目の迷い三秒を消す、足元の道。

歩幅が楽になります」

 

「言葉が短いの、助かるな」

 

早坂が息を抜く。

 

「長いと、通らないので」

 

巧は淡々と答えた。

 

短くするのは謙遜ではない。

届かせるための作法だ。

 

 

 

白鳥巧は、丸い顔をしている。

はっきりした二重と、笑うときにだけ現れる深いえくぼ。

初対面の誰もが「かっこいい」より先に「かわいい」と言う。

本人はそれを否定しない。

ただ、その言葉の下に隠れている小さな癖

“まずはやってみる”

 

――やってみなければ、未来は変わらない。

 

それが

今の仕事に繋がるなんて。