土曜の朝、レンタカーの窓を下げると、湿り気のない風が頬を撫でた。
田貫湖。
水面は糸のように静かで、富士は湖の底からもう一つ立ち上がっていた。
逆さ富士。
葦がふっと息を潜めるたび、鏡の絵が一瞬だけ揺れ、また凪ぐ。
巧は胸のどこかへ、その静けさをゆっくり注いだ。
まず自分を満たす
——塔のいちばん上に、澄んだ一杯。
夜は休暇村富士。
食堂の窓一面に暮れていく山影、鼻先には潮の香り。
前菜の駿河湾・アジのなめろうは、脂が舌の上でやわらかくほどけ、味噌と生姜が背筋を正す。
続いて桜えびのかき揚げ。
衣が軽く、噛むと甘みがふわりと立つ。
金目鯛の煮付けは骨の際までしっとり、照りの奥に柑橘が一滴。
椀物をすすると、仕事のざわめきが一枚、肩から剥がれ落ちた。
——満ちると、溢れる。
明日、誰かの歩幅にそっと注げるだけの余力が戻ってくる。
日曜の朝、カーテンを開けると、富士の頂に丸い雲がのっていた。
笠みたいに愛嬌があり、合図みたいに確か。
やがて風が変わり、北口本宮冨士浅間神社に着く頃には、細かな雨が杉の香りを濃くした。
砂利は雨で落ち着き、足音が吸い込まれていく。
手水舎の水は冷たく、掌に乗せると指先の忙しさが流れ落ちた。
鈴、柏手、吐く息。
濡れるよりも、潤うという言葉がしっくりきた。
翌週の夜、スナック「ヒロミ」。
旅の話をすると、ママは目尻に皺を寄せて笑った。
「神社はね、雨の方が歓迎されるの。
清めてくれるから。
それより、巧くんは雨が嫌なの?」
巧は少し考え、「嫌いじゃないです。
でも、現場だと“面倒”を先に思ってしまう」と正直に言った。
ママはグラスを磨きながら、指でカウンターをとん、と叩いた。
「晴れの日も、雨の日も、雪の日もあるのが当たり前。
“晴れだけが良くて、雨は嫌い”ってのはね、
“あの人は良くて、あの人は嫌い”って言ってるのと似てるのよ。
雨が降れば、ただ傘をさせば良いだけ。」
「……はい」
「それとね——三流は本から学び、二流は人から学び、」
ママはウイスキーをひとしずく落として、にこりとした。
「一流は自然から学ぶの」
巧は背筋が伸びるのを感じた。
ママは続ける。
「自然の出来事で何か引っかかるとしたら、それは心の癖(心癖)。
改まるところがあるって、合図なの。
雨にイラッとするなら、“濡れる”のが嫌なんじゃなくて、段取りが崩れる不安に反応してるだけかもしれない。
だったら、“傘をさす”“拭う”“映りを読む”って新しい段取りを入れればいい。
本や人も大事よ。
でも一流は、空や風、光から“今日の答え”を受け取るの」
氷がグラスの中で小さく鳴った。
胸の奥で、カチッと音がした気がした。
——自然から学ぶ。
引っかかりは、心癖の居場所。
そこに新しい考えを入れ続ければ、父に教わった甕の水のように、濁りは澄んでいく。
「ママ、僕……雨が嫌いなんじゃない。
雨の“読み方”を持ってなかったんですね」
「そう。それがわかれば、もう半分は解けてるわ」
翌朝。
巧はノートに新しい欄を足した。
〈今日の自然の先生〉
合図:雨/サイン:ガラスの映り、路面の反射、人の歩幅
対応:傘=守る、拭う=整える、映りを読む=活かす
通勤路、雨粒が傘に刻む一定のリズム。
歩道の水たまりに、街灯の逆さの街が浮かぶ。
彼はふと足を止め、スマホの画面を消して、映り込みだけを見た。
——晴れの日は遠くまで届く線で真っすぐを描く。
——雨の日は近くの反射で、やわらかな導きを置く。
——雪の日は音が消えるから、光の“呼吸”を少し深くする。
自然は毎日、無言の仕様書を出している。
仕事場に着く頃、胸のざわめきは静かだった。
“晴れだけ”を良しとする癖に気づいた。
人にも天気にも、選り好みの癖を持ち込まないと決めた。
雨が不意に降ったら?
傘をさす。
それで十分。
その上で、読む・整える・活かす。
夜、ヒロミのカウンターでママの言葉を思い出す。
——三流は本、二流は人、一流は自然。
——引っかかりは心癖、改まるサイン。
巧はノートの最後に二行を記す。
〈感謝〉笠雲と雨の授業、ヒロミのママ
〈やめる〉天気と人を“善し悪し”で裁く言い方
窓の外、雨は細くなっていた。
塞翁が馬、だからこれで良し。
胸のスイッチに指を当てる。
カチッ。
——明日はどんな先生が来るだろう。