逃した魚は大きい
まただ。
昨年末近くから、何年も連絡が途絶えていた人が、何食わぬ顔して突然連絡をよこしてくる。
今日また、これで6人目。
どういうつもりなんでしょう。
いまさら何の用?
いまさら、どの面下げて連絡してくるのか?
5年前、あの忌まわしい陰謀事件のために、会社は潰され、身分は汚され、心身ともに一生癒えることのない傷を負いました。
そのときに私は冷静に周辺を分析したのを覚えている。
どんなことがあっても私のもとを離れなかった人たち1割。
あっという間に去っていった人たち2~3割。
信用できない人だとわかりこちらから縁を切った人たち2割ほど。
残りの半分くらいの人たちは、距離をおいて沈黙を守っていた。
去るなら去るで一向に構いません、しょせんそういう人たちは、私の表面的なところしか見ておらず、利用価値がなくなったので去っていったのでしょうから。
そういう人たちと無理して繋がっていようとすると、また陰謀に嵌められ、こちらが心を病んでしまう。
態度をはっきり表明しただけ、マシというもの。
問題なのは、距離を置いて沈黙していた人たちです。
5年前に確かに私は、そういう人たちは、、いずれほとぼりが冷めた頃にすり寄ってくるんじゃないか、と予測していました。
まあ、私だったらそんな恥さらしな事はできないけど、世の中にはその時の風向きだけを見て根無し草のように力のある方へ浮遊する人がたくさん存在しているからね。
そして、やっぱり来た。
予想通りというか、まさかそんなにポリシーのない人たちばかりだったとは、呆れてしまいます。
何があったか知っていながら、5年間も沈黙を続けて、よく今さら連絡なんてして来れるもんだ。
私が一番苦しんでいたときに、関わるのが面倒だと距離を置いていたくせに。
私から決して離れなかった1割の人たちは、私が一番苦しんでいた時期に、すぐに手を差し伸べ、心に寄り添い、励まし続けてくれたのです。
私と連絡を取ることに躊躇のかけらもなく、本能的に私に寄り添ってくれた人たちです。
そんな、5年もたって、ノコノコと様子伺いみたいなメールや電話を送ってくるような卑怯者とは大違い。
今さら連絡をよこしてくるような人間たち、自分が可愛くて周囲の目が気になる臆病者に私は用はない。
このことを信頼できる友人に話していたら、「きっとみんな、なんだかんだ言って、あなたに会いたいんだよ、心配しているんだよ」と言われました。
そりゃそうでしょ。
私自身、5年前までの北陸における存在の大きさは、十分自覚していたからね。
だから、臆病者たちは、「ほとぼりも冷めた頃だろうし、また利用してやろう」と擦り寄ってくることぐらい、私だってお見通しです。
そして、こういう人たちは、また何か面倒なことが発生したら、一目散に逃げて沈黙を守るのです。
そうやって何かあったときには、口では「あんな人だと思わなかった」とかなんとか対象者を悪く言って自分を正当化させているのでしょうが、「そうだそうだ」と同意してくれるのはつまらない小物ばかり。
本当の大物は、そうやって風見鶏的に動く人間をいちばん信用していないため、いくらゴマをすろうがヨイショしようが、絶対に心を許すことはなく、逆にそういう小物を適当に利用して使い捨てするのです。
連絡してくる人たちは、惨めなアイツに連絡して「あげて」いる、と上から目線の態度なのでしょう。
アイツはオレが連絡すれば喜んで尻尾振って飛びついてくるに違いない、と。
バカみたい。
私を誰だと思っているんでしょうか?
そんな小物になびくとでも思っているの?
勘違いも甚だしい。
もはや今の私にはそんな小物に用はないのです。
それこそ、どうしても私と交流を再開させたいというなら、まず私に長年の無礼を詫びてからにしろ、と思ったが、詫びたから許してやるという問題でもないし、もうその人のことを信用できなくなってしまったので、いまさら詫びられても困るので、結局のところ、二度と連絡なんてしてくるな、ということです。
それからもうひとつ。
もう私は北陸には住んでいません。
私にふさわしい、大都会に住んでいます。
特にあんな排他的な金沢から脱出できて心の底から喜んでいます。
都会的な人間は田舎者とは永遠に理解し合う事はできないのでしょう。
常に田舎者から好奇の目で見られ、勝手に嫉妬され、足を引っ張られるのだから。
私ももっと早くに脱出すればこんな酷い目に遭わずに済んだのでしょう。
しかし、責任感からその場を去る事はできず、優しさから弱者を救済しなければいけないと活動し続けたことが、すべて自分にとってアダとなってしまったのです。
良かれと思ってやったことが全てアダとなり、あのムラ社会から退場させられ、そのムラに属する大半の人間たちは手を差し伸べることすらしなかった。
恩を仇で返されるとは、このこと。
そして今頃になってチラホラと連絡をしてくる。
でも私は応じない。
なぜなら、もう田舎には用はないので。
私を追い出したとき、田舎者は大事なことを失念していたのでしょう。
優秀な都会の人間は、いちど田舎を離れたら、二度と戻ってきてくれない、ということを。
ただでさえ優秀な人間が少ない田舎なのに、優秀な人を排除するとは、そして、ほとぼりが冷めればまた戻ってくると思っているあたり、やはり田舎者は愚かだった。
はっきり言っておきます。
レベル(知性・教養)の違う人間が出会った時、レベルの高い人が低い人に合わせてあげるしかない。
レベルの低い人は高い人にどうやったって合わせることができないのだから。
そして、田舎にはレベルの高い人間は非常に少ない。
そうすると、レベルの高い人間は誰とも交流しないわけにはいかないので、やむを得ず自分のレベルを数段階下げて、地元の人間と交流していたのです。
ところが、そういう優秀な人間が都会へ行けば、都会には優秀な人間が他にもたくさんいるので、わざわざレベルの低い人たちと交流する必要もなくなる。
つまり、自分を下げる必要がなくなるのです。
都会に行ってしまった優秀な人が、もはや自分の手が届かない存在になったように感じるのは当然です。
都会にいるその姿がその人の本当の姿であり、田舎にいた時の姿は、処世術による偽りの姿だったのですから。
特に女性に関しては顕著。
田舎者は優秀な女性が嫌いだから。
私もしんどかった、バカの振りをし続けるのが。
金沢にいて、賢さを見せると途端にひがまれて嫌われるので、いつもバカの振りをし続けていました。
そのように優秀な人間には決して本領を発揮させずに、バカの振りをさせ続ける田舎って、本当に愚かだと思いませんか?
優秀な女性を排除し続ける悪しき日本の習慣を地でやっているのが田舎です。
だから、さんざん嫌がらせして追い出した後に、「やっぱりあの人は偉大だった、惜しい人を失くした」と言ったところで、本人は絶対に戻ってきません。
それを「後の祭り」と言うのです。
都会はやっぱりいいですね。
バカの振りをしなくていい。
優秀な女性がたくさんいるので、女性だというだけで下に見られることがなく、伸び伸びと活動ができる。
都会は優秀な女性にとって最後の楽園であり、だから、優秀な女性がどんどん田舎から流出して都会に集まってくるのですよね。
なぜなら、本当に優秀な人間どうしは、決して相手の足を引っ張る事はしないし、むしろ一緒にお互いの能力を高めあうことで相乗効果を生み出そうとするからです。
そして、田舎の人間が心を改めて悪しき習慣を排除しない限り、この人材流出は止められない流れです。
昔から言いますよね、
「逃した魚は大きい」。
そんなこと初めからわかりきっていたのに、それを食い止めなかった。
そのことを、「後の祭り」と言います。
北陸で出会った人たちが、今の私の活動を知って、みな一様に驚いていることでしょう。
「こんなスケールの大きな人だなんて、知らなかった」・・・。
はい。
「後の祭り」です。