今回は 曹洞宗の僧・道元が著した『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)
から時々引用される言葉を紹介します。
(僧・道元:1200~1253年 鎌倉時代初期の人)
上の言葉は 何度読んでも少し難しいと思います。
書かれた言葉自体 現代人には理解しにくい言葉であるだけでなく
言葉の意味がある程度分かったとしても その言わんとするところを
理解し納得するのはさらに一段と難しいでしょう。
現在30代の人なら半世紀ほど生きて後
60代の人なら10年か20年後
縁有ってこの言葉に再び出会うことがあれば
多分 今よりは合点し易いだろうと思いますの
で心有る人はどこかの片隅にこのファイルを保
存しておかれてはどうか? と。
私は この僧・道元という人の今に伝わる像を見るたびに思うことが
一つあります。
道元の像は幾つか伝わっているようですが 私たちが目にする像は
ほぼ全て 道元が一介の沙弥(修行僧)として墨染の衣を纏っている
ということです。
日本の仏教も そしてローマカトリックとか何とかいうキリスト教におい
ても やたらにそういう集団の中での階級を多く設け 階級の名前も
やたら大げさな 大仰な呼び方にして 一般の僧とはこれだけ違うんだ
というような誇示をしていますね。
仏教界でも 宗派によるでしょうが 「高僧」と呼ばれるようになると
高額で豪華な衣装を惜し気も無く 何の疑問も抱かずに誂え 意気揚々
とそれを身に付けたがる。
ローマカトリックというカトリック教の輩も 多くの階層を設けて 「法王」
などという大それた名称でさへ 神に対して畏れ多いことだと(私は)思う
のに それでも飽き足らず「教皇」などと 思い上がりも甚だしい肩書を
自分たちで勝手に付けて喜んでいる。
これでは 仏様も西洋の神様も 喜ぶはずは無いどころか 私の察する
ところ「怒り心頭」 ではないかと思うのですよ。
まぁ 今の日本の仏教界も キリスト教の連中も 今こそ宗教の原点に
帰って 多くが金儲けで腐ってしまっている坊主どもは一人の沙弥という
自覚を取り戻し ローマカトリックを頂点とする(?)カトリック教なども
法王だとか 神罰が当たりそうな教皇などと 真の信仰の無い部分を肩
書や衣装で誤魔化そうとするような偽装は止めて 特にカトリックの場合
は 参加のすべての組織・団体の内部浄化に務め 真に神から愛される
宗教者に宗教団体に変わらねば そう遠からず罰が下されるでしょう。
みんな 一人のモンク(monk)に 一人の修行僧に立ち還るのですよ。
)

